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38 【支配者の手】
しおりを挟む(……嘘だろ)
僕の意識は、第七実験室の隅にある、小さな檻に釘付けになった。
そこには、僕が予想していたような、希少な魔獣や実験動物はいなかった。
檻の中にいたのは、一人の「少年」だった。
歳は、僕の見た目と同じくらいか、もう少し幼いかもしれない。
汚れたボロ布を纏い、檻の隅で膝を抱えて、虚ろな目で床の一点を見つめている。
そして、そこには――
僕と同じ、エルフの血を示す、尖った耳がわずかに覗いていた。
だが、それだけではなかった。
少年の手首と足首には、痛々しい魔術的な「枷」が嵌められ、そこから伸びる鎖が壁に繋がれている。
そして、彼の周囲の空間が、微かに「歪んで」いるのが見えた。
まるで、彼自身が、不安定な「空間転移」のエネルギーを、常に放出し続けているかのように。
(……実験体)
僕は、瞬時に理解した。
この研究所は、『空間転移効率化』の研究のために、この「ハーフエルフ」であろう少年を、「生きた触媒」として、あるいは「被験体」として、利用しているのだ。
僕は、壁一面に書かれた数式と、中央のテーブルに置かれた研究データを、改めて「見た」。
そこに記されていたのは、冷徹で、非人道的な「理論」だった。
『時詠石』や『星の涙』のような高価な触媒を使わず、特定の「素質」を持つ生物の生命エネルギーを直接「燃料」として空間転移を行う、禁忌とされるべき魔術。
(……だから、僕のネズミでは探知できなかったのか)
この部屋全体が、おそらく、この少年の「歪んだ空間」によって、外部からの物理的・魔術的な干渉を、ある程度「弾いて」いたのだ。
僕が「ダスト・スプライト」で、ガイゼルの「補助」付きでなければ、決して侵入できなかった理由。
僕は、少年の顔を見た。
光のない、諦めきった瞳。
僕が地下遺跡で「怠惰」に過ごしていた、何百年もの間。
この少年は、ここで、どれほどの「苦痛」を味わってきたのだろうか。
(……面倒くさい)
僕は、反射的に思考を断ち切った。
(……僕には、関係ない)
僕の「仕事」は、データを盗むこと。それは、完了した。
この少年を助ける? 馬鹿げている。
それは「非効率」で、「非合理的」で、何より「危険」すぎる。
ガイゼルも、こんな「寄り道」は、絶対に許さないだろう。
僕は、檻から意識を逸らし、部屋の「出口」である結界の亀裂へと向かった。
(……帰ろう)
(……僕の『怠惰』のためだけに、この『力』を使うんだ)
だが。
僕の「意識」が、檻のそばを通り過ぎようとした、その瞬間。
虚ろだったはずの「少年」の瞳が、わずかに動き、僕の「気配」おそらく、僕が通り過ぎた空気の微かな揺らぎを、捉えた。
そして、その唇が、か細く、動いた。
『……だれ……?』
声には、なっていなかった。
ただ、彼の「思考」が、僕の「同調」している意識に、直接、流れ込んできた。
(……!)
僕は、動きを止めた。
(……精神感応?)
(……僕と同じ、あるいは、もっと別の種類の……?)
『……助けて……』
少年の「思考」が、まるで、溺れる者が掴む藁のように、僕の「意識」に、絡みついてくる。
(……断る)
僕は、心の中で、冷たく言い放った。
(……僕は、お前を助けられない)
(……僕自身が、囚われの身なんだ)
僕は、その「思考」を振り切り、結界の「亀裂」へと、意識を集中させた。
ガイゼルからの「魔力補助」は、もう感じられない。
結界は、すでに「修復」され始めている。
早く、ここから出なければ。
僕は、残った精神力の全てを使い、結界の「外」へと、意識を滑り込ませた。
――成功した。
僕は、再び、研究所の「廊下」にいた。
背後で、第七実験室の結界が、完全に閉じる気配がした。
(……帰る)
僕は、もう、何も考えなかった。
ただ、最短距離で、あの「豪華な檻」へ。
ガイゼルの待つ、僕の「新しい巣穴」へ。
王都の夜空を、不可視の存在として駆け抜け、ガイゼルの城の換気口から滑り込む。
黒曜石の廊下を抜け、僕の「部屋」の扉をすり抜ける。
――視界が、戻る。
僕は、クッションの山の上で、あぐらをかいたまま、激しい疲労感と共に、現実へと帰還した。
「――はあっ……! はあっ……!」
全身から、汗が噴き出す。
脳が、まだ痺れている。
ダスト・スプライトとの長時間同調と、結界突破の負荷は、想像以上だった。
「……ノア!」
低い声。
目の前に、ガイゼルが立っていた。
彼は、僕が戻ってくるのを、腕を組んで、壁に寄りかかりながら、待っていたのだ。
その青い瞳には、わずかな安堵と、それ以上に強い「期待」の色が浮かんでいた。
「……どうだった」
「……はあっ……データは……取った」
僕は、かろうじて、そう答えた。
「……完璧に……複写した……」
「……見せろ」
ガイゼルは、命令した。
僕は、頷き、最後の力を振り絞った。
僕の意識の中に「記録」された、あの膨大な研究データを、ガイゼルが差し出した、空白の「羊皮紙」の上に、僕の「魔力」を使って、「転写」していく。
サラサラサラ……
羽根ペンも、インクも使わずに、羊皮紙の上に、目に見えない「ダスト・スプライト」たちが、僕の記憶通りに、「文字」と「図形」を、高速で「刻み込んで」いく。
これは、僕があのレポートで提案し、ガイゼルと「共同研究」した、『記録媒体化』の、応用スキルだ。
数分後。
羊皮紙の束は、王立研究所の「最高機密」で、埋め尽くされていた。
「……見事だ」
ガイゼルは、その羊皮紙の束を手に取り、
素早く目を通すと、満足そうに、頷いた。
その「青い瞳」は、純粋な「研究者」のそれに戻っていた。
「……この『理論』……やはり、革新的だ。
これを使えば、お前の『空間転移』の効率は……」
彼は、興奮気味に、僕の研究について語り始めた。
だが、僕の意識は、別の場所にあった。
(……あの、少年)
(……檻の中の、ハーフエルフ)
(……助けて、と)
「……おい、ガイゼル」
僕は、彼の言葉を遮った。
「……第七実験室に、妙なものがいた」
「……妙なもの?」
ガイゼルは、羊皮紙から顔を上げた。
「……檻に入れられた、子供がいた。
……ハーフエルフの、多分、僕と同じくらいの……。
手足に枷を嵌められて、まるで『実験体』みたいに……」
僕は、見たままを報告した。
それが、僕の「仕事」だと思ったからだ。
だが、ガイゼルの反応は、僕の予想とは、違った。
「…………」
彼は、何も言わなかった。
ただ、僕の言葉を聞いた瞬間、彼の「青い瞳」から、全ての「光」が、消えた。
興奮も、満足も、支配欲すらも。
そこにあったのは、底なしの「闇」と、氷のような「冷徹」さだけだった。
「……そうか」
彼は、短く、感情のこもらない声で、それだけを、言った。
そして、僕の「頭」に、彼の手が、置かれた。
それは、
僕の髪を撫でる手つきではなかった。
僕の額に触れる手つきでもなかった。
僕の頬に触れる手つきでもなかった。
ただ、重く、僕の「思考」を、「読み取る」かのように、あるいは、僕の「見たもの」を、「消し去る」かのように、僕の「頭蓋骨」そのものを、掴むような、「手」だった。
「……よくやった、ノア」
彼の声は、静かだったが、有無を言わせぬ「圧力」があった。
「……今夜の『仕事』は、それで終わりだ。
……もう、休め」
「……だが、あの子供は……!」
「……お前には、関係ない」
ガイゼルは、僕の言葉を、冷たく、断ち切った。
「……それは、俺が『処理』する」
彼は、僕の頭から手を離すと、僕が「複写」した「研究データ」の羊皮紙の束を手に、
部屋を出て行こうとした。
「……待て!」
僕は、思わず、叫んだ。
「……『処理』って、どういう……!」
ガイゼルは、扉の前で、足を止め、ゆっくりと、振り返った。
その「青い瞳」は、僕が初めて見るほど、恐ろしい「闇」を、湛えていた。
「……知る必要はない」
彼は、それだけを言うと、今度こそ、部屋を出て行った。
カチャリ。
非情な、鍵の音。
僕は、一人、豪華な檻の中で、自分の「手」を見つめていた。
あの「少年」の、『助けて』という「思考」が、まだ、僕の「意識」に、こびりついて、離れなかった。
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