39 / 61
39 【残響と思惑】
しおりを挟む翌朝、僕は黒い絹のベッドの上で目を覚ました。
体は、鉛のように重かった。
ダスト・スプライトとの長時間同調、結界突破、そしてガイゼルの魔力補助。それらの負荷は、一晩寝ただけでは到底回復しきれない。筋肉痛とは違う、神経がすり減ったような、嫌な疲労感だ。
だが、それ以上に僕の心を重くしていたのは、昨夜、第七実験室で見た光景と、ガイゼルのあの反応だった。
檻の中の少年。
虚ろな瞳。
『助けて』という、声にならない思考。
そして、それを報告した時の、ガイゼルの凍てつくような冷たさと、「処分する」という不穏な言葉。
(……僕には、関係ない)
僕は、自分に言い聞かせた。
(……合理的じゃない。非効率だ。あんなものに心を砕くのは、僕の怠惰な信条に反する)
僕は情報屋だ。情報を集め、売る。それだけだ。
他人の不幸に、首を突っ込む義理はない。
ましてや、僕自身が囚われの身なのだから。
僕は、重い体を起こした。
テーブルの上には、いつも通り、湯気の立つ朝食と紅茶が置かれていた。
誰が、いつ、運んでくるのか。僕はいまだに知らない。
僕は、それを無言で口に運んだ。
美味い。
だが、昨日のシチューのように、ただ空腹を満たす喜びはなかった。
味が、よく分からない。
食事が終わると、僕は自分のガラクタの山に向かった。
昨夜ガイゼルが寄越した『闇夜のインク』と『月光の羊皮紙』。
そして、『古代エルフの精神感応術式・基礎編』の巻物。
これらに没頭すれば、あの少年のことなど忘れられるはずだ。
それが、一番「楽」で「合理的」なはずだ。
僕は、新しい羊皮紙を広げ、インク壺の蓋を開けた。
巻物を読み解き、精神感応の術式を書き写していく。
集中しろ。
僕の思考を、僕の怠惰な未来だけに向けろ。
だが、羽根ペンを持つ指が、わずかに震えた。
脳裏に、あの少年の「枷」がちらつく。
ガイゼルの、あの「闇」を湛えた瞳が。
(……『処理する』)
(……どうやって?)
まさか、殺すのか?
研究所ごと、証拠隠滅するつもりか?
あるいは、あの少年を、別の場所に「移す」だけか?
だが、あの男の冷徹さを考えれば……。
コンコン。
控えめなノックの音。
ガルドだ。
地獄の日課の時間。
僕は、舌打ちし、ペンを置いた。
今は、何も考えられない。
どうせ、あの訓練場で、肉体が限界を迎えれば、こんな「非合理」な感傷も消え失せるだろう。
その日の訓練は、いつも以上に過酷に感じられた。
歩行百往復。
素振り二千回。
受け身。
精神力強化。
僕は、ただ、機械のようにメニューをこなした。
ガルドは、ガイゼルに言われた通り、受け身で僕を気絶させることはなかったが、手加減されているという実感は全くなかった。
「……今日の記録、六分三十秒。昨日より十二秒延長。……どうした、ノア。集中できていないぞ」
精神力同調の訓練後、ガルドが訝しげに僕を見た。
「……うるさい」
僕は、吐き捨て、床に突っ伏した。
(……当たり前だ。あんなものを見た後で、集中できるわけがない)
ガルドは、僕を担ぎ上げると、いつも通り部屋まで運び、風呂と着替えを指示して去っていった。
僕は、湯船に浸かりながら、天井を見上げた。
(……僕が、ガイゼルに報告しなければ)
(……あの少年は、見つからなかったかもしれない)
(……僕が、彼を『死』に追いやったのか?)
そんな思考が、頭から離れない。
(……馬鹿げてる)
僕は、湯の中に顔を沈めた。
(……感傷だ。非合理な感情だ。僕らしくない)
僕は、情報屋ノアだ。
冷徹で、怠惰で、自分の利益のためだけに動く。
それでいいはずだ。
風呂から上がり、寝間着に着替えてクッションの山に沈み込む。
疲労はピークのはずなのに、眠気は全く訪れなかった。
ただ、あの少年の瞳と、ガイゼルの冷たい声が、頭の中で繰り返される。
カチャリ。
鍵の音。
ガイゼルが来た。
僕は、身を起こさなかった。
クッションに顔を埋めたまま、彼の足音を聞いていた。
彼は、まっすぐ僕の元へ来ると、僕の隣に、腰を下ろした。
「……ガルドから聞いた」
低い声。
「……今日の訓練、集中を欠いていたそうだな」
「……」
僕は、答えない。
「……まだ、昨夜の『残響』に囚われているか」
ガイゼルは、僕の「動揺」の理由を、正確に見抜いていた。
僕は、体を起こし、彼を睨みつけた。
「……あの子供は、どうなった」
僕は、単刀直入に尋ねた。
ガイゼルの青い瞳が、僕を静かに見返す。
そこには、昨夜のような「闇」はなかった。
いつもの、冷徹な「支配者」の目に、戻っていた。
「……言ったはずだ。『お前には、関係ない』と」
「……関係なくない!」
僕は、思わず声を荒らげた。
「……僕が、見つけたんだ! 僕が、報告したんだ!
もし、あの子が『処分』されたなら、それは、僕の……!」
「……黙れ」
ガイゼルの声が、低く、鋭くなった。
空気が、一瞬で凍りつく。
彼の「手」が伸びてきて、僕の「口」を、乱暴に塞いだ。
(……!)
「……余計なことを、考えるな。ノア」
ガイゼルは、僕の口を塞いだまま、僕の顔を覗き込んだ。
その青い瞳は、冷たく、僕の「感情」を拒絶していた。
「……お前は『道具』だ。俺の命令通りに動き、俺に『結果』だけを報告すればいい。
それ以外の『思考』は、『ノイズ』だ。
『非効率』だ」
彼は、僕の口から手を離すと、代わりに、僕の「首筋」に、その冷たい「指先」を、這わせた。
(……!)
ゾクリ、と悪寒が走る。
それは、昨日までの「スキンシップ」とは全く違う。
明確な「警告」。
僕の「命」が、彼の指先一つで、簡単に奪われるのだという、無言の「脅迫」。
「……分かったか」
「……っ」
僕は、頷くしかなかった。
逆らえない。
この男には、絶対に。
ガイゼルは、僕の「服従」を確認すると、満足したように指を離した。
そして、新しい「羊皮紙の束」を、僕の前に置いた。
「……次の『仕事』だ」
それは、昨夜僕が持ち帰った『王立研究所の研究データ』だった。
「……これを、お前が『解析』しろ」
「……は?」
「……俺の部下の魔術師たちにも読ませたが、理論が高度すぎて、誰も完全に理解できん。
だが、お前なら、分かるはずだ。
……この『空間転移効率化』の理論を、お前自身の『研究』に取り込み、
『実用化』させろ。
それが、お前の『当面の仕事』だ」
(……僕に、これを?)
それは、僕が最も望んでいた「研究」そのものだった。
だが、なぜ、今?
(……僕を、この『研究』に没頭させて、
『余計なことあの少年のこと』を、考えさせないようにする、つもりか)
僕は、ガイゼルの「思惑」を理解した。
彼は、僕の「好奇心」と「研究欲」という「餌」で、僕の「良心という名の非合理なノイズ」を、上書きしようとしている。
「……やれ」
ガイゼルは、命令した。
「……これが『完成』すれば、お前の『究極の怠惰』とやらも、実現するんだろう?」
(……くそっ)
僕は、自分の「欲望」を、人質に取られているようなものだった。
断れない。
断りたくない。
「……分かったよ」
僕は、羊皮紙の束を手に取った。
「……やる。やってやる。……だが、忘れるな。
これが終わったら、『第五巻』だ。
『禁書庫ごと』、もらうからな」
「……フン。せいぜい、期待に応えることだな」
ガイゼルは、立ち上がった。
彼は、部屋を出ていく前に、僕の「ガラクタの山」の隅に置かれた、『時詠石』に、一瞥をくれた。
「……あの『石』も、お前の『研究』に使え。
あるいは、お前の『部屋』の『飾り』にでもしておけ。……もう、俺には不要だ」
(……は?)
(……僕が盗んだ、あれを、僕に、くれる、と?)
僕は、彼の「言葉」の意味が、すぐには理解できなかった。
ガイゼルは、僕の「混乱」した顔を、楽しむかのように、一瞬だけ、口の端を吊り上げると、そのまま、部屋を出て行った。
カチャリ。
非情な、鍵の音。
僕は、一人、豪華な檻の中で、手の中の「研究データ」と、部屋の隅で紫に光る『時詠石』を、見つめていた。
(……分からない)
(……あの男が、何を考えているのか、全く、分からない)
冷徹な支配者。
歪んだ執着心。
そして、時折見せる、不可解な「甘さ」と「寛容さ」。
僕の「飼い主」は、僕が思っていた以上に、遥かに「複雑」で、そして、遥かに「危険」な存在なのかもしれない。
僕は、言いようのない「不安」と、認めたくない「好奇心」に、囚われながら、目の前の「研究データ」に、意識を沈めていくしかなかった。
10
あなたにおすすめの小説
【完結】ルガルの星―冷徹な社長は、僕の運命を知っていた―
綾波絢斗
BL
この世界には、二つの特別な称号を持つ者たちが存在する。
一つは、絶対的な権力を持つ王の称号――ルガル(lugal)。
もう一つは、ルガルと対をなし、その力を補う「番」――ムル(mul)。
ルガルは生まれながらに選ばれし存在。
国家からエリート教育と地位を与えられ、能力に応じて厳格なランク分けが行われる。
最上位のルガルは、政治さえも動かす絶対者だ。
一方で、ムルは生まれた瞬間にはその正体がわからない。
遺伝子検査や学力テストを経て候補が絞られるが、
最終的に「真のムル」かどうかを見極められるのは――ルガルだけ。
ムルが覚醒したとき、同じ場所に「紋章」が現れ、その瞬間から、ルガルとムルの力は共鳴し始める。
ムルの能力はルガルの力を最大限に引き出す。
ゆえにルガルたちは、自らのムルを求め、時には他人のムル候補を奪い合う。
そして、すべての出生データと遺伝情報を管理するのは、
巨大企業イルジオン――国家をも超える存在。
その頂点に立つ社長、一条レイ。
冷徹なルガルの頂点に君臨する彼が「自分のムル」と出会った。
悪役令息の僕とツレない従者の、愛しい世界の歩き方
ばつ森⚡️8/22新刊
BL
【だって、だって、ずぎだっだんだよおおおおおお】
公爵令息のエマニュエルは、異世界から現れた『神子』であるマシロと恋仲になった第一王子・アルフレッドから『婚約破棄』を言い渡されてしまった。冷酷に伝えられた沙汰は、まさかの『身ぐるみはがれて国外追放』!?「今の今まで貴族だった僕が、一人で生きて行かれるわけがない!」だけど、エマニュエルには、頼りになる従者・ケイトがいて、二人の国外追放生活がはじまる。二人の旅は楽しく、おだやかで、順調に見えたけど、背後には、再び、神子たちの手がせまっていた。
「してみてもいいですか、――『恋人の好き』」
世界を旅する二人の恋。そして驚愕の結末へ!!!
【謎多き従者×憎めない悪役】
4/16 続編『リスティアーナ女王国編』完結しました。
原題:転んだ悪役令息の僕と、走る従者の冒険のはなし
同僚の吸血鬼は今日も憂う
ユーリ
BL
しまった、血液パックを切らしたーー吸血鬼であることを隠して仕事をするが貧血で倒れてしまったところを同僚に助けられるも、思わずそのたくましい首元に噛みついてしまいーー
「今の俺が幸せなのがその証拠だ」溺愛系攻×さみしい吸血鬼受「僕は恋人は作りたくない」…誰にも迷惑をかけたくないからひっそり生きてるはずなのに…なんでキミはいつも隣にいるの?
僕の部下がかわいくて仕方ない
まつも☆きらら
BL
ある日悠太は上司のPCに自分の画像が大量に保存されているのを見つける。上司の田代は悪びれることなく悠太のことが好きだと告白。突然のことに戸惑う悠太だったが、田代以外にも悠太に想いを寄せる男たちが現れ始め、さらに悠太を戸惑わせることに。悠太が選ぶのは果たして誰なのか?
身代わりにされた少年は、冷徹騎士に溺愛される
秋津むぎ
BL
第13回BL大賞奨励賞頂きました!
最終17位でした!応援ありがとうございます!
あらすじ
魔力がなく、義母達に疎まれながらも必死に生きる少年アシェ。
ある日、義兄が騎士団長ヴァルドの徽章を盗んだ罪をアシェに押し付け、身代わりにされてしまう。
死を覚悟した彼の姿を見て、冷徹な騎士ヴァルドは――?
傷ついた少年と騎士の、温かい溺愛物語。
【完結】ネクラ実況者、人気配信者に狙われる
ちょんす
BL
自分の居場所がほしくて始めたゲーム実況。けれど、現実は甘くない。再生数は伸びず、コメントもほとんどつかない。いつしか実況は、夢を叶える手段ではなく、自分の無価値さを突きつける“鏡”のようになっていた。
そんなある日、届いた一通のDM。送信者の名前は、俺が心から尊敬している大人気実況者「桐山キリト」。まさかと思いながらも、なりすましだと決めつけて無視しようとした。……でも、その相手は、本物だった。
「一緒にコラボ配信、しない?」
顔も知らない。会ったこともない。でも、画面の向こうから届いた言葉が、少しずつ、俺の心を変えていく。
これは、ネクラ実況者と人気配信者の、すれ違いとまっすぐな好意が交差する、ネット発ラブストーリー。
※プロットや構成をAIに相談しながら制作しています。執筆・仕上げはすべて自分で行っています。
血のつながらない弟に誘惑されてしまいました。【完結】
まつも☆きらら
BL
突然できたかわいい弟。素直でおとなしくてすぐに仲良くなったけれど、むじゃきなその弟には実は人には言えない秘密があった。ある夜、俺のベッドに潜り込んできた弟は信じられない告白をする。
【BL】死んだ俺と、吸血鬼の嫌い!
ばつ森⚡️8/22新刊
BL
天涯孤独のソーマ・オルディスは自分にしか見えない【オカシナモノ】に怯える毎日を送っていた。
ある日、シェラント女帝国警察・特殊警務課(通称サーカス)で働く、華やかな青年、ネル・ハミルトンに声をかけられ、【オカシナモノ】が、吸血鬼に噛まれた人間の慣れ果て【悪霊(ベスィ)】であると教えられる。
意地悪なことばかり言ってくるネルのことを嫌いながらも、ネルの体液が、その能力で、自分の原因不明の頭痛を癒せることを知り、行動を共にするうちに、ネルの優しさに気づいたソーマの気持ちは変化してきて…?
吸血鬼とは?ネルの能力の謎、それらが次第に明らかになっていく中、国を巻き込んだ、永きに渡るネルとソーマの因縁の関係が浮かび上がる。二人の運命の恋の結末はいかに?!
【チャラ(見た目)警務官攻×ツンデレ受】 ケンカップル★バディ
※かっこいいネルとかわいいソーマのイラストは、マグさん(https://twitter.com/honnokansoaka)に頂きました!
※いつもと毛色が違うので、どうかな…と思うのですが、試させて下さい。よろしくお願いします!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる