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48 【解けない方程式】
しおりを挟む数日間、僕はベッドの上での「絶対安静」を再び言い渡された。
あの空間転移の実験失敗による精神的なダメージは、予想以上に深刻だったらしい。銀の腕輪を通して僕のバイタルを監視しているガイゼルが、珍しく「ドクターストップ」をかけたのだ。
地獄の日課はもちろん中止。研究すらも禁止された。
僕は、ただひたすら眠り、運ばれてくる食事を摂り、時折ガイゼルが持ってくる「毒にも薬にもならない」ような文献古代詩集や歴史書を眺めて過ごした。
退屈だ。
死ぬほど退屈だった。
だが、体がそれを求めているのも事実だった。無理をすれば、またあの男の腕の中で意識を失うことになる。それは、もう二度とごめんだった。
黒猫は、僕が一日中ベッドにいることを喜び、常に僕の腹の上か隣で眠っていた。こいつの存在だけが、この退屈な日々の中で唯一の癒やしだった。
そして、ガイゼル。
彼は、毎日必ず、一度ならず二度、三度と、僕の檻を訪れた。
以前のような「仕事の報告」や「研究の指導」のためではない。
ただ、僕の様子を見るためだけに。
彼は、部屋に入ってくると、まず僕の顔色を検分し、監視用の水晶を確認する。そして、僕が何かを欲しがっていないか僕から尋ねる前に確認し、水差しが空になっていれば黙って水を注ぎ、僕が読み終えた本があれば、どこからか新しい本を持ってきて交換していく。
まるで、病人の世話をする「看病役」のようだった。
もちろん、その態度は尊大で、口調は冷徹なままだったが。
「……顔色は戻ったな」
ある日の午後、彼はベッド脇の椅子に腰掛け、僕の頬にまた素手で触れながら言った。
僕は、もうその接触に驚きもしなかった。ただ、されるがままになっていた。
「……当たり前だ。寝て、食って、それ以外何もすることがないんだから」
「それがお前の仕事だ」
「最悪の仕事だ」
僕たちは、そんな、もはや日常と化した会話を交わす。
彼の指が、僕の頬から、 耳朶《じた》へと滑った。
(……!)
僕は、ビクリと体を震わせた。
それは、今までの「検分」や「確認」とは明らかに違う、もっと、個人的で、所有欲を示すような、ねっとりとした「愛撫」に近い感触だった。
「……っ、やめろ」
僕は、彼の腕を叩いた。
ガイゼルは、何も言わずに手を離したが、その青い瞳の奥には、僕の反応を楽しんでいるかのような、暗い光が宿っていた。
(……こいつ)
(……僕が弱っているのをいいことに、距離感を、さらに、バグらせてきやがった)
僕は、警戒心を強めた。
だが、同時に、彼の指が触れた耳朶が、妙に熱を持っていることに気づき、内心で激しく動揺した。
さらに数日が経ち、僕の体調は完全に回復した。
もう目眩も吐き気もない。精神的な疲労感も消え、むしろ、十分すぎる休息によって魔力が満ち溢れているのを感じる。
「……いいだろう。研究を再開する」
その夜、僕の状態を確認したガイゼルが、ついに許可を出した。
同時に、忌々しい銀の輪も、わずかに緩められた監視は続いているが、以前のような締め付け感はなくなった。
僕は、待ってましたとばかりに、ガラクタの山から研究資料、失敗した術式のデータと、ガイゼルが書き加えた理論を引っ張り出した。
「……あの失敗の原因、僕なりに分析した」
僕は、ガイゼルの顔も見ずに、早口でまくし立てた。
「……問題は、位相変換の際のエネルギー放出量の予測値と、実際の放出量の誤差だ。僕の精神力だけでは、その誤差をリアルタイムで補正しきれなかった」
「……原因はそれだけか?」
ガイゼルは、僕の隣に腰を下ろし、僕が広げた羊皮紙を覗き込んだ。
近い。相変わらず。
「……いや。それと、空間座標の指定。確かに『点』で指定したが、転移『中』に座標が微妙にブレる。そのブレが、エネルギーの逆流を引き起こすトリガーになった可能性も…」
「……違うな」
ガイゼルは、僕の分析を、あっさりと否定した。
「……座標のブレは、結果だ。原因ではない」
彼は、僕が失敗した術式の、特定のルーン配列を指さした。
「……問題は、ここだ。お前が『空間』に負荷を分散させる術式。理論は完璧だが、お前の『実行精度』が、まだ追いついていない」
「……!」
「……お前は、負荷を『均等』に分散させようとした。だが、空間には『歪み』がある。均等に分散させたつもりが、特定の『歪み』にエネルギーが集中し、反発を引き起こした。……それが、あの暴走の正体だ」
僕は、彼の指摘に、息を呑んだ。
(……空間の、歪み)
(……そこまで、考慮していなかった)
彼は、僕よりも遥かに深く、この術式の「本質」を理解している。
「……じゃあ、どうすれば」
「……『歪み』を、読め」
ガイゼルは、当然のように言った。
「……転移する『瞬間』の、空間の状態を『読み取り』、それに合わせて、負荷の分散パターンを『最適化』しろ」
「……馬鹿を言うな!」
僕は、叫んだ。
「……そんな芸当、人間業じゃない! 空間の状態なんて、常に変動してるんだぞ!」
「……だから、『お前』を使うんだろう」
ガイゼルは、僕の肩に、再び、あの重い手を置いた。
「……お前の『ダスト・スプライト同調』。あれは、ただ『見る』『記録する』だけじゃないはずだ。
もっと深く同調すれば、お前は、『空気』だけでなく、『空間』そのものの『流れ』や『歪み』すら、『感じる』ことができるはずだ」
(……空間を、感じる?)
(……僕が?)
それは、僕のスキルの、全く新しい「可能性」を示唆していた。
「……やれ。ノア」
ガイゼルの声が、僕の耳元で響く。
「……お前なら、できる。
俺が、そう判断した」
その「言葉」には、いつもの「命令」とは違う、僕の「才能」への、絶対的な「信頼」のようなものが、
歪んでいるが確かに、込められていた。
僕は、彼の「手」と、彼の「言葉」に、再び、心が揺さぶられるのを感じた。
「……分かったよ」
僕は、ため息をついた。
「……やってみる。
だが、また暴走したら、今度こそお前が死ぬかもしれないぞ」
「……フン。案ずるな」
ガイゼルは、僕の肩から手を離すと、代わりに、僕の「手」を、あの時と同じように、だが、今度はもっと自然に握った。
(……!)
彼の、硬く、大きな手のひらが、僕の手を完全に包み込む。
「……俺がお前を、『制御』する」
彼は、僕の目を真っ直ぐに見据えて、言った。
「……お前がどれだけ暴走しようと、俺がお前を、現実に『繋ぎ止める』。
だから、何も恐れるな。
ただ、お前の『限界』を超えろ」
その「言葉」と、握られた「手」の「熱」に、僕は、完全に、思考が停止した。
(……なんだ、これ)
(……支配、じゃない)
(……これは、まるで)
(……『契約』?)
(……いや、もっと……)
僕は、彼の手を振りほどくことも、彼から目を逸らすことも、できなかった。
ただ、彼の「青い瞳」の奥にある、僕ですら理解できない、深い、深い「執着」の「色」に、囚われたまま、動けなくなっていた。
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