支配者は深淵の扉をこじ開ける

舞米

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49 【繋がる精神】

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研究は再開された。
だが、その様相は以前とは異なっていた。

僕は、もはや一人で羊皮紙に向かうことはなかった。
僕の隣には、常にガイゼルがいた。
それは物理的な距離だけの話ではない。

「……集中しろ」
低い声が、すぐ耳元で響く。
僕はクッションの山の上であぐらをかき、目を閉じていた。意識は、部屋の空気に溶け込もうとしている。

ガイゼルは僕の後ろに座り、その存在自体が僕の精神的な「錨」となっているかのようだった。彼の安定した、強大な魔力が、僕の意識が拡散しすぎるのを抑えている。

僕が挑んでいるのは、ガイゼルが提示した、空間転移術式の核心部分。『空間の歪みを読み取り、負荷を最適化する』という、常識外れの理論の実践だ。

そのために、僕はダスト・スプライトとの同調を、以前とは比較にならないレベルまで深める必要があった。空気の流れを読むだけではない。空間そのものの「揺らぎ」を、感じ取るのだ。

「……無理だ。何も見えない……感じない」
僕は焦燥感に駆られ、呟いた。
肉体的な疲労はない。だが、未知の領域に踏み込もうとする精神的なプレッシャーが重くのしかかる。

「『見る』のではない。『聞け』」
ガイゼルの声。
彼の手が、僕の両方のこめかみに、そっと添えられた。

(……素手だ)
ひんやりとした、だが力強い感触。
彼の魔力が、僕の脳へと直接流れ込んでくる。
それは、以前の強引な「補助」とは違った。
僕の精神の「調律」を助けるような、繊細で、精密な流れ。

「……空間にも『音』がある。僅かな『振動』、エネルギーの『残響』。それを捉えろ。お前のスキルなら可能なはずだ」

彼の声に導かれるように、僕は意識をさらに研ぎ澄ませた。
視覚ではない。聴覚でもない。
第六感、あるいは、僕のスキルが持つ未知の感覚器。
それを、開く。 

(……!)
感じた。
微かだが、確かに。
部屋の空気の中に、まるで水面の波紋のように広がる、空間の「揺らぎ」。

それは一定ではない。複雑に変化し、干渉し合っている。
これが、ガイゼルの言う「歪み」。

「……掴め。その『パターン』を読め」
ガイゼルの声。

彼の魔力が、僕の精神がその「歪み」のパターンに同調するのを助けている。
僕の意識は、ガイゼルの意識と、まるで一つの回路のように繋がり始めている感覚があった。
彼の思考が、僕の思考に流れ込んでくる。

冷徹で、合理的で、どこまでも深く、そして――
僕という存在への、揺るぎない「確信」が。

(……読める)
(……パターンが、読める)
僕は、驚愕した。
僕一人では、決して到達できなかったであろう領域。

ガイゼルの「導き」と「補助」によって、僕は、空間の「楽譜」を読み解き始めていた。

「……そうだ。そのまま、維持しろ」
ガイゼルの声が、すぐ近くで聞こえる。

僕は、目を開けた。
いつの間にか、彼は僕の正面に移動し、僕と同じようにあぐらをかき、僕のこめかみに手を添えたまま、僕の顔を覗き込んでいた。

ゼロ距離。
彼の青い瞳が、僕の紫の瞳を、真っ直ぐに見つめている。

その瞳には、研究者の興奮と、支配者の冷徹さと、そして、僕という存在への、形容しがたい「熱」が、混ざり合って揺らめいていた。

僕たちの精神は、繋がったままだった。
言葉を交わさなくても、互いの思考が、感情が、流れ込んでくる。

彼の、僕への圧倒的な「所有欲」。
僕の、彼への「反発心」と、抗いがたい「依存心」。
それらが、魔力の奔流の中で、混ざり合っていく。

「……ノア」
彼が、僕の名前を呼んだ。
それは、命令でも、確認でもなかった。
ただ、呼んだ。
その響きが、僕の心の奥底を、震わせた。

僕は、何かを言おうとした。
だが、言葉にならなかった。
ただ、彼の青い瞳を見つめ返すことしかできなかった。

僕たちの間に流れる、濃密な魔力と、張り詰めた空気。
それは、もはや「共同研究」という言葉では、到底言い表せないものへと変質していた。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。
先に沈黙を破ったのは、ガイゼルだった。
彼は、ゆっくりと、僕のこめかみから手を離した。

魔力の繋がりが断たれ、僕は現実へと引き戻される。
だが、精神的な疲労感は、以前ほどではなかった。彼の魔力が、僕の消耗を最小限に抑えてくれていたのだ。

「……今日の『訓練』は、ここまでだ」
彼は、立ち上がった。 

その表情は、いつもの冷徹な支配者のそれに、戻っていた。
だが、僕には分かった。

彼の内側で、何かが激しく揺れ動いているのを。
僕たちの精神が繋がった瞬間に感じた、あの剥き出しの「感情」の残響が、まだ彼の瞳の奥に燻っているのを。

「……休め」
彼は、それだけ言うと、僕に背を向けた。
その背中は、いつもより、ほんの少しだけ「硬直」しているように見えた。

「……おい」
僕は、呼び止めた。

「……なんだ」
彼は、振り返らずに答えた。

「……お前、さっき……」
僕は、何を言おうとしたのだろうか。

『何を考えていた?』
『なぜ、あんな顔をしていた?』
聞きたいことは、山ほどあった。
だが、言葉にならなかった。

「……忘れるな」
ガイゼルは、僕の問いを待たずに、言った。

「……お前は、俺のものだ」
それは、いつもの「確認」のはずなのに、
今日の彼の口から発せられると、まるで、彼自身に言い聞かせているかのような、奇妙な響きを持っていた。

彼は、そのまま部屋を出て行った。


カチャリ。
鍵の音は、いつもと同じはずなのに、今日の僕には、まるで「楔」が打ち込まれる音のように、重く、響いた。


僕は、一人、クッションの山の上で、自分の「こめかみ」に、そっと触れた。

まだ、彼の指の感触と、彼の魔力の「熱」が、残っている気がした。

(……繋がった)
僕と、あの男の「精神」が。
それは、僕の研究にとって、大きな「進歩」だった。

だが、僕たちの「関係」にとって、それは、後戻りのできない「一線」を、超えてしまったことを、意味しているのかもしれない。

僕は、言いようのない「予感」に、身震いしながら、ただ、閉ざされた扉を、見つめることしかできなかった。






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