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●本編●

93.【使用人とランコーントル[初]】Le cas.1:総料理長〜料理に懸ける飽く無き情熱は際限知らずの天井知らず?!〜 ②

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 あれは遡ること7年前、王都でも近年稀に見る、記録的な大雪となった真冬の夜半前の出来事。
ある一人の従者によって唐突にもたらされた招待により、ある男のその後の人生が一変した、不思議な夜の出来事だった。

王都において1等地と目される区画の1つ、第6区シジエム・アロンディスマンを南北に分断するエクアトゥール大通りブルヴァールを挟んで南側、伯爵家のタウンハウスが並び建つ表通りからは少し距離があるが、それでも好立地と云える場所に店を構える、ここ数年で知名度を急上昇させ最高峰へと名を連ねるにまで至った、一軒のレストランがある。

連日予約客で混み合う店内は、本来であればまだまだ書き入れ時の時間帯であるはずが、この日ばかりは店内の様子は全く常のようにはいかなかった。

疎らに来店していた予約客も、みるみると降り積もる雪を目にして、料理への舌鼓もそこそこに足早に帰路についてしまった。
客足が途絶え、ガランとした店内には、総料理長シェフ・ド・キュイジーヌの苛立たしげな舌打ちと、鳴り止まない貧乏ゆすりの音が響くのみとなってしまった。

こんな天候ではこれ以上の集客は望めない、そう判断したのは、不機嫌絶頂で半ば自棄っぱちとなった総料理長だった。
虫の居所が悪い上司の鶴の一声で、急遽店を閉めることとなり、あれよあれよと口を差し挟む間も与えられず、着替えもままならないまま、店外へほっぽり出されてしまった従業員たち。
不平不満を口にする従業員の中には、このレストランの副料理長スー・シェフを任されているはずの男も紛れており、彼もまた例に洩れず身支度を十分に出来ないままでほっぽり出されてしまった一人であった。

調理場に居るときとは雲泥の差で、存在感を無に寄せている現在の彼に、仕事仲間であるはずの従業員たちは、彼が自分たちの店の看板料理人キュイジニエと同一人物である事実に、誰一人気づいていない。

店の裏手にある従業員出入口付近に、ほっぽり出された時のまま、放心してぼけらぁ~っと突っ立っているくたびれた30前後と思しき成人男性を、親切にも気に掛けてやれる心にゆとりのある人物は、残念ながら今居る従業員の群れの中には存在しなかった。

障害物の如く無言で避けて通るか、舌打ちして大回りに避けて通るか、憂さ晴らしの為かわざとぶつかって心の籠らない謝罪の言葉を口遊み通り過ぎていくか、大きく分けて、このどれかの反応しかなかった。

そんな塩対応をされた、ある意味被害者となった当の本人はといえば、絶賛己の内なる声と答えの出ない問答を繰り広げている真っ最中だった。

 ――う~~っとぉ、店から出たのは………、何時ぶりだったかなぁ? おかしいなぁ…、思い出せないなんて……、でも待てよぉ~?? おやおやおんやぁ~、これまたおかしいなぁ~~、自宅に帰るのも………ホントにいつぶりだったっけぇ~~~???――

周囲に人が居なくなった段階で、ようやっと1歩、2歩と足を動かすが、その動きはとんでもなく不格好でぎこちなく、おまけに角ばったもので、大通りへ向けて歩き出すのも一苦労な体だった。

膝が思うように曲がってくれない、まるでバネが弾け飛んで何処かに行ってしまったかのように、足の筋肉までもが言うことを聞いてくれない。

一気に気が抜けたせいで、どっと押し寄せた疲れが集中的に膝を攻めた結果、フラフラとなってしまった覚束ない足取りと、脳内麻薬の分泌が途切れた弊害が直ぐ様表れた頭は、重く伸し掛かり疼くような頭痛に急襲された。

集中力が乱された頭で、それでも懸命に家路につくのはいつぶりかと記憶を掘り下げてみたはいいが、痛みでぼんやりとした頭では全く答えに辿り着けない、という悲しい現実に早くも直面してしまった。

悲観ばかりしていても埒が明かないので、いつぶりか不明なままではあるが、取り敢えず厨房ラキュイジーヌ以外の景色を堪能しよう、と前向きに考えて周囲に目を向ける。

久々に目にする街道は、見渡す限りどこまでも、荒らされた形跡の少ない分厚い雪の絨毯で真っ白に覆い尽くされていた。
短時間で一気に降り積もった雪は、早くも膝の高さまでうず高く積もっている。

そんな中を、ボスッボスッ、と大袈裟なくらい大股に踏み出して一歩一歩確実に、キシキシと雪を踏み均して懸命に歩こうと試みる。

齢30を視野に捉えはじめて数年しかたたない、ピッチピチ寄りの青年であるとは思えない、カラカラに枯れ果てる2、3歩手前、中年も終盤に差し掛かるか、という風体にしか見えない。
老けて見える原因は大きく分けて2つ、疲れが色濃く滲む血色の悪い顔と、濃い隈が目立つ両目の目元。
中年男の姿は、本人が感じている惨めさ以上に、衆目の目にはとんでもなく哀れを誘う光景に映った。

体の芯から凍えそうな寒さが追い打ちとなり鈍く霞みだした意識の中で、それでも必死に考えて自宅へと至る帰路の道程を思い出そうとして、欠片も思い出せない自分に、絶望するよりも早く呆れが感情を占有して、乾いた失笑しか漏れ出て来なかった。

 ――自分の家がわからないとか、もう笑うしかない…。 それだけじゃない、家族と顔を合わせたのはいつが最後かも覚えてないし、ホントに、僕は何のために…、働いてきたのだっけ?――

唯一つ、いつでもどんな状況に置かれてもはっきりと断言できるのは、決して総料理長シェフ・ド・キュイジーヌの為などではない、という事だった。

料理がしたい、ただそれだけ。
それ以外の理由なんて他にない、必要なかった。

だから独立すると云う兄弟子に、彼の出す店の副料理長スー・シェフにならないかと誘われた時、一も二も無く承諾した。
それは確約された役職に目がくらんで、と職場の同僚が時々面白おかしそうに噂しているような理由では無く、成り行き任せと云う他に理由がなかった。

そもそも、自分が彼の誘いを受けたのだって、偶々であるとしか答えようがない。
彼が偶々、自分と同じ師に師事する兄弟子だったというだけで、他に特別な接点はなく、何かしらの恩があると云うこともなく、何らかの弱みを握られていると云うことさえない。

ぶっちゃけ、名前と料理の腕に関すること以外、彼の素性を全く知らないし、今後も全く知りたいと思わない。

あの頃も今も、自分の欲求は変わらない。
料理がしたい、料理ができる環境さえ整っていれば、どんな僻地でだって良いし、無名の料理屋だって構わない、寧ろ料理屋である必要もない。
何にわずらわされること無く、料理に関する事柄にさえ従事させてくれれば、それだけで良い。

 ――料理さえできればどこが職場だろうと関係がなかったから、料理以外何もしなくていいって言われて、飛びつくように了承したのが……、確か、20歳の頃だったよなぁ? うわぁ、今から8年も前の出来事なのか、今更気づいたけど、僕ってホント、料理馬鹿だなぁ…。――

料理に関することなら逐一鮮明に、何年前の何月何日の出来事だったかまで事細かに覚えていたれるのに、それ以外の事が全く疎かになってしまうのは、昔からの悪い癖だ。

 ――…また、レティに怒られちゃうなぁ。 『料理以外にも目を向けなさいよねっ、この料理馬鹿!!』って、いつも言われてたっけ、懐かしいなぁ~。 早く帰って、彼女の声で聞きたいなぁ~~。 ………帰れれば、の話だけど。 僕、このまま、遭難しちゃったらどうしよう…、洒落じゃなくって、凍死しちゃうよな、このままいったら。――

「アハハ、ハハハハ…。」

先程発したよりも力ない失笑を、引き攣った口元から零して、己の行く末を悲観的に予測して曇天を仰ぐ。

誰の目から見ても怪しさしか無い今の自分に、恐れる様子もなく意気込んで声をかける勇者が、突如脇道から目の前へと躍り出て来たのは、立ち往生を開始して15分程経過した頃だっただろうか。

「失礼、貴方がジャン=ジャック・ロベール様で、お間違い無いでしょうか? このような道端で突然お声掛けしてしまい申し訳ありません。」

一見しただけでも仕立が良いとわかる外套に身を包み、姿勢良く佇むその堂に入ったさまは、何処からどう見ても良家に仕える従僕のそれだった。
胸元に手を添えて、軽く頭を下げられる。
その所作さえも一分の隙無く洗練されており、何でこんなに丁寧に接されているのか、と気後れしてしまいながら、何とか肯定の返事を返す。

「へ……ぇい? えっと、はい、そうです、わたしがそのジャン=ジャック、ですが…、どちら様でございましょうか?!」

返答を返し終えてからも考える。

 ――おかしぃっ!! 自分はしがない平民の、しがないいち料理人キュイジーヌでしかない、そのはずなのに、こんなに丁寧に声をかけられてしまっているとは…、これ如何に?!――

畏まられる理由にまった思い至らず、必要以上にドギマギしてしまった。

「申し遅れまして失礼を、私はフォコンペレーラ公爵家当主に仕える従者ヴァレ・ド・ピエ、テオドールと申します。 因みに、これだけははっきりと明言させて頂きますが、貴方様を害する目的でお声掛けしたのではない、という事実だけは間違いなく、しっかりとご理解くださいね?」

相変わらず姿勢良く背筋を伸ばした状態のまま、目の前に佇んでいた少年のような青年は、先程よりも少し角度を深くした礼をした後に、とんでもない家名を口遊んだ。
そのことに仰天し過ぎて放心気味となり、これ以降は何を問われても、打てば響くようには何の反応も返せそうになくなってしまった。 

「今回、こうして突然お声掛けしたのは他でもなく、我が主の命によるものでございます。 我が主は予てより、貴方様を当家にお招きする機会を窺っておりました。 本日ようやっとその好機が訪れ、是が非でもお連れするように、と厳命され、参った次第でございます。」

 ――えっと、それは問答無用で拉致するっていう、アレですか? 貴族的な言い回しの宣告かなにかですかね??――

サァ―――ッと目に見えて顔色を青白く塗り替えた自分の心境を見抜いてか、今までとは打って変わった茶目っ気を多分に含んだ微笑を浮かべると、安心させるように次なる補足の言葉を紡ぎはじめた。

「ですが勿論、貴方様の意向を尊重するように、とも申しつかっております。 なので、力尽くでどうこう、との考えは持ち合わせてございませんので、どうぞご安心ください。 本日此の後ご都合が良いようなら、当方と致しましては是非同行願いたく思う所存なのですが…、如何でございましょうか?」

未だに理解が追いつかず、はくはくと口を蠢かすことしかできないでいる自分の情けない反応を、年下にしか見えない此の青年はどう捉えただろうか。
別段変わらぬ調子で語りかけてくる青年は、終始穏やかな好青年を演じようと、かなり気を張っていたのかもしれない。

「実はお声掛けする少し前から、貴方様の様子を窺い見ておりました。 何かお困りでいらしたように見受けられましたが、もし差し支えなければ、主人と合われた後、ご自宅までのお帰りになる際は当家の馬車にてお送りさせていただきたく存じまずびゃっ?!」

往々にして、化けの皮は一瞬で剥がれ落ちてしまうものである。
本人の意志に関わらず、得てして絶対に起こってほしくないタイミングで起こってしまうのもまた、世の常だった。

「!? だ…大丈夫、ですか…? その、テオドール、さん?!」

「………だいりょーぶ、れふ。 おきふかい、むようれふのりぇ………。」

口元を手で覆い隠し、表情だけはなんとか笑顔のまま、此の場を取り繕おうとしたようだったが、全く取り繕えていなかったのは、主に滑舌が原因であると云って間違いなかった。
どうやら舌を噛んでしまい、呂律が円滑に稼働しなくなってしまったようだった。

自分でも大失敗した要因をしっかり理解しているようで、やせ我慢して顔面に貼り付けていた笑顔の仮面は脆く崩れ去り、眉をハの字にしたかと思うと、次いで潤み始めた目にはみるみるうちに涙が湧き出て膜を張り、その表面張力が限界を迎えるのは、思いの外早かった。

「ゔぅっ、……ゔえぅっっ、………っゔぅぇえーーーーっっっ!! びゃぁ~~~ぅうっ、失敗じぢゃっだぁっ!! ごれじゃっ、ぐぉれじゃぁ~っ、旦那様だんなざまにごろざれるぅ~~~~っっっ!!!」

見かけは立派な(?)青年、中身は幼児(以下かもしれない)、な公爵家の従者ヴァレ・ド・ピエであると表明していた使用人は、恥も外聞もない様子で物騒なセリフを口にしながら、びーびーと大声で泣き喚き始めてしまった。

シンシンと雪が降り続ける街道には、今現在この2人以外の人影は見当たらない。
けれど、住宅地の中である事実は変わらず、このまま放置しておいては、タウンハウスに滞在している貴族の誰かから訴えられる事態に発展しかねない。

えぐえぐと嗚咽を漏らし、溢れる感情のまま泣きじゃくる青年をどーにかこーにか宥め、薄いコートのポケットに入っていた、いつ購入したとも知れない飴玉を、背に腹は代えられないと腹を決め、青年に寄越して落ち着かせようと試みる。

結果から言えば、この飴玉はテキメンの効力を発揮し、青年を泣き止ませる最良の手段となった。
しかし、飴玉1つで泣き止むとは、驚きである。
自分の子供たちと同じ、美味しくてたまらないと顔に書いた歓喜を見せる青年に、辛抱が効かず忍び笑いが漏れてしまった。

舌を噛む前までに提案された内容は、断る理由もない、身に余る栄誉しかない内容であったため、笑顔のまま青年に諾と答え、少し行った先に待たせてあるという馬車へと向かうこととなった。

それからは再び、驚きの連続な展開が待ち受けていたのは云うまでもないことで。

豪華な馬車に揺られて辿り着いたのは、王城のお膝元となる第2区ドゥジエム・アロンディスマン、その中でも飛び抜けて広大な敷地に聳え立つ豪邸過ぎるタウンハウス、そこで待ち構えていたのは他でもない、様々な曰く付きの悪い噂に事欠かない、フォコンペレーラ公爵家当主、コーネリアスその人だった。

自分と3歳ばかしか違わない年の頃とは信じ難い、言葉では言い表せない、自然と膝をついて頭を下げずにはいられなくなる、威厳も貫禄も備えた、公爵家当主に成る可くして成ったのだと、素直に納得できる人物だった。

彼の口から語られたのは、自分には分不相応過ぎる提案で、恐れ多すぎて最初のうちは全力でお断りしていたが、勧誘の言葉を畳み掛けられ、気がついた時には明日には公爵家のカントリーハウスへと引っ越して、明後日から就業を開始することで話が纏まってしまっていた。

約束した通り、帰りは馬車で問題なく自宅へと送り届けられ、明日またうかがいますと云う御者の言葉に、辛うじて頷き返した、はずで。

久方ぶりの我が家の、小さな玄関の扉を開き、突然の帰宅に驚きながらも、嬉しそうに迎えてくれた妻に、事の経緯を説明し、『あんたなに寝惚けたこと言ってんだい?! 夢は横になって寝てから見なっ!!!』と、渾身のビンタを何往復か食らう羽目になったのは、今では思い出深い笑い話だった。



「――と、掻い摘んだ割に長々とお伝えすることとなってしまった、このような経緯がありまして、しがない平民のわたくしジャン=ジャック・ロベールは公爵家こちらでご厄介になれる、大変栄誉な機会を賜れた次第でございます。 ここまでご静聴くださり、誠にありがとうございます、ライリエルお嬢様。」

再び厨房ラキュイジーヌの床にべったりと膝をついて座り込んだ姿勢で、話を終えた血色の良い中年男性は、その姿勢のままでぺこりと頭を下げて、話の終わりを宣言した。

「……いぇ、聞けてよかったわ、丁寧に説明してくれて、どうもありがとう。」

 ――………うん、何ていうか、ツッコミどころが満載すぎて何処から突っ込めばよいのか非常に悩ましいっ! しかも回想話の中に、これまた面白そうな濃ゆい人物が登場していたことも、むっちゃくちゃ気になり過ぎたんですけどぉっ!!――

いつの間にやら始まっていた、総料理長シェフ・ド・キュイジーヌこと、ジャン=ジャック・ロベール氏の昔語りは、端折った箇所がかなり気になりすぎるまま、(わたくしにだけ)惜しまれつつも終了を迎えてしまった。

 ――それにしても、従者ヴァレ・ド・ピエって、確か当主と嫡男に、それぞれ1人ずつしか付かない職位の使用人よね? …テオドール、だったかしら?? そんな名前の使用人、見かけた覚えがないのだけど……、どーゆーこと???――

家令や執事と違って、書いて字の如く、付き従う者な従者ヴァレ・ド・ピエは主人の外出に付き従う、と云うことは知ってるけど、外出時以外は何処に居て何をしているのか、皆目見当もつかない。
しかし、当主に近しいため上級使用人と見てまず間違いなし、なわりに、今まで一度も屋敷内でその姿を見かけたことがない、というのは、考えてみればおかしな話だった。

 ――う~ん…、コレってアレな感じ? 将来、私の外出時にだけ付き従う、付添人シャペロンのようなものなのかしら? 屋敷で過ごす分にはオズワルドがいるし、四六時中一緒にいる必要はないってこと??――

私だって屋敷では侍女シャンブリエールのメリッサがいてくれるから、他の使用人にお世話してもらいたいとか、その必要性すら全く感じていない。
寧ろ、気心の知れない人間がわらわら侍ってる状態なんて、前世庶民なボッチ人生を謳歌した私としては、今は考えただけでゾッとしてしまう。

 ――高位貴族家の令嬢にあるまじき人見知りっぷりよね…、ダメだとはわかっていても、もうどうしたって拒否反応しか示せない!! 私、多対一、無理!! も、ぜぇーーーーっとぅわいにぃっ、無・理!!!――

と、考えたところで、先程からずっと正座したままでいる御仁の姿が目に映り、慌てて立つように促す。
それと追加して、先程のような姿勢で謝らないで欲しい、という私の要望も申し渡しておく。

 ――だって、お許しください~、なんて可愛い意味合いの所作ではないのだもの。 今後絶対誰にも披露しないよう、念押して言っておかないと、会う度に心配になってヒヤッっヒヤしてしまうだろうし、必要不可欠な注意喚起だわ!!――


 フォスラプスィ王国において、法的に取り決められている貴族が行う正式な謝罪の所作、それは片膝を付き、上半身を40~45°におさまる角度となるよう前傾し、利き手を下にして両手を自身の心臓に上に添え置く、というのもだった。

ここで特に注意しなければならないのは、手の添え具合だった。
特に女性は最も神経をとがらせて、細心の注意を払わないとならず、かくいう『悪い夢』でのライリエルも、此の所作の修練には余念がなかった。

胸部に近づけ過ぎても色香で誘惑していると見做されかねず、遠ざけ過ぎても心許ない胸部を強調し哀れみを誘ったと見做され、不敬とされてしまうのだそう。

こんなところで男尊女卑な慣習を発見するとは、思いもよらなかった。
女性を馬鹿にするにも程がある、穿ちすぎた見方だとしか思えない、言いがかりも甚だしい理由に、前世の記憶に傾倒した今の私では憤りを禁じえない。

然しながら、マイノリティはマイノリティでしかないのは前世同様で、一個人が憤りを表明してみせたところで、深く根付いてしまった価値観を覆すことなど土台無理な話だ。
結局は泣き寝入り、長いものには巻かれろ、の言葉通り、型に嵌まった行動を取る他に道がないのが悲しい現実だった。

付かず離れずな距離を算出し、自身の胸部の出っ張り具合と相談して、手を添えるのに最適な位置を把握して、刷り込むように入念に体に覚え込ませないとならないのが、貴族子女の最大の試練的、絶対に習得しておかねばならない必須のマナーだった。

そして此の所作には、決して忘れてはならない、とんでもなく重っ苦しい意味合いも含まれている、ヤバすぎる所作だったのだ。

「『我が身の潔白を証明する為に必要であるならば、貴方に我が命を捧げます』と云う意味も含まれている所作だから、安易にとってはダメな所作なのですよ? 本当の本当に、命を懸けてでも身の潔白を主張しなければならない、ここぞという時でないと、使ってはダメなのですからね?! できれば金輪際、誰に対しても披露していただきたくはありません。 もし今後、私に対して何か謝罪をされる場合には、決して今の所作を披露なさらないでくださいね!!」

お説教のようになってしまいながらも、そこまで言っいきった時、再び西側の扉が勢いよく開かれて、思わず“女将さん”と呼びたくなってしまう、恰幅の良い中年女性が鼻息荒く乱入してきた。

「あんたぁーーっ!! いつまでも長々とぉ、どれだけ食材と戯れてれば気がすむんだいっ?! いい加減昼ごはんを食べとくれって、ヤニスが呼びに来ただろうにぃ!! まぁ~~~った変な状態になってんだろうけどねぇ、今日という今日は力づくで、首に縄くくりつけてでも引っ張ってっからねぇーーーっっっ!!!」

彼女の視線は厨房ラキュイジーヌに乱入する前から、今現在私達が居る場所から大きく逸れた方向に向けられていて、そこは先程まで、今はここで座り込んでいるジャン=ジャックが作業をしていた場所だった。

「ーーーって、居ない?! あの人何処に行って…!?  って、床に座り込んで、何やってんだいあんたたち?? それに此の身形の良い、お人形さんみたいな女の子は、一体何処のお嬢様なんだい?」

目的の人物の姿がないことに気づき、慌てて厨房内を見渡そうとして、直ぐにこちらに気が付き、此の状況では聞かずにいられない質問を、困惑でいっぱいな表情のまま、問いかけてきた。


 彼女の言動からある程度推察していた通り、彼女はジャン=ジャックの妻、レティシア・ロベールなる人物で、厨房付仕入れ係アシュトゥールド・キュイジーヌとして、彼女自身も公爵家に奉公している使用人の一人でもあった。

丁度よい機会なので、ジャン=ジャックやヤニスにもまだ説明していなかった、私が厨房へと足を運ぼうと思い立った経緯から説明する。

その説明の中に、肝心要な事の発端、昼食の際に行われた私と家族(お母様は今回も不在)の会話を掻い摘んで忘れずに取り入れた。
その部分はお父様の発言が主で、その言葉を信じ、なんの疑いも抱かずにそのまま鵜呑みにして、先触れなく訪れてしまったのがそもそもの間違いであったと心から反省し、ペコリと頭を下げて私の失態を詫びる。

そのことに慌てて、間髪入れずに頭を下げ返してきたのはロベール夫妻(自主的)+長男(強制的)の方だった。

何度か同じような謝罪合戦を繰り広げていくうちに、どちらからともなく可笑しさが抑えられなくなり、吹き出して笑い、笑い始めたら収まりがつかなくなって、つられた結果、みんなで笑い合うこととなった。
そのことで一気に打ち解けて、お互いが良い感じに肩から余計な力が抜け、結果オーライだったように思う。

余談だが、付き合わされた感が半端ないヤニス君は、一人だけとっても不機嫌になってしまった。

「忙しい最中に、作業を中断させてしまって本当にごめんなさい。 今度お礼を言いたくなったら、きちんと先触れを出してからうかがうようにするわね!」

「いえいえいえっ!! 滅相もないっ、わたし如きに謝罪なんてっ、恐れ多いでございますぅっ?!」

「あんたねぇ!? いい歳こいたおっさんが、しどろもどろに慌てふためくんじゃないよみっともない!! 見苦しいったら無いよ、全く!!!」

バシィッ!!

「いぃーーーっ!? 痛いっ、凄く痛いよぉ~、レティ~~!! せめてもう少し、もう…ほんの一摘み程度ででも良いから、手加減しておくれよぉ~~?!」

「そんな温い仕置してたんじゃ、超のつく鈍助なあんたにゃ響かないだろーーっての!!」

「…因みにそれは、何をするところだったのか、聞いてもいいかしら?」

「あ、お見苦しいところを…、度々お見せしてしまってスミマセン! これで一通り、今日使う分の食材の下拵えが終わったので、調理に移ろうとしていたところなんですよぉ!! いや、何を隠そう、わたしは火を使う工程が1等好きな工程でしてねぇ~、1番熱が入ってしまうところでもあるんですよぉ~~!!」

自分で言うのは気が引けるのか、恥ずかしそうにしながらも、食材に語りかけていた時と同じくらいウキウキと跳ねた声音で教えてくれた。

 ――こんなにウキウキドッキドキな調子で教えられたら、一目だけでもいいから、是非とも拝見してみたくなるじゃ、あ~~りませんか?!――

「あのぉ~、もし良かったら、調理するところを見てみたいのだけど、ダメかしら?」

「「 えぇっ?! ダメ(です/だよ)!! 」」

 ――秒で断られた!? しかも本人からでなく、配偶者と被扶養者からの見事なハモリヴォイスで!!――

「!! 勿論、構いませんともぉっ!! どーぞどーぞ!! 遠慮なくご見学下さいなぁ~~っ♪」

言うが早いか、言葉の途中から今日一の俊敏さを見せ、厨房ラキュイジーヌを“走る”に定義される一歩手前な速度を絶妙な匙加減で一定に保ち、摺足のようにサカサカサカッと足を蠢かせて移動していった。
その姿はまるで、Gと呼ばわれる黒い流星の如く、見ている者にゾワゾワっとした悪寒を走らせる動作であったと言えよう。
私はもれなくゾワゾワした、寒イボがブワッと一気に肌という肌に現れるくらい、ゾワゾワした!!

障害物(厨房の調理台)を正確無比に最短距離で避けて躱し、目的地である竈へ一目散に到着するその様は、目にも止まらぬ早業過ぎた。

「あ、こらっ、待ちなってのぉっ!! 何でこんな時だけ、最大級な機敏さを発揮すなるんだいっ、あんたって人は!! ジャン=ジャック・ロベール、大人しく止まりな!!!」

「うっへえぇっ…、おふくろぉー、無理だってぇ~~! 止めるだけムダだよ、あーなったら、もぉ間に合わねぇーから、ぜってぇにさぁ~~っ!!」

少年の発言は正しかった。
妻からの静止はまったく耳に届かず、彼の頭の中にはもう既に、調理する、鍋を火にかけてどのように材料を炒めるかという算段のみで埋め尽くされて、驚異的な集中力を発揮して、飽く無き思考に没入を見せていた。

コック帽を被り、捲くっていた袖を戻して腕を覆い隠してから、使い込まれたフライパンを手に取り、魔石を軽く撫でて火を熾す。
その瞬間から、誰が鍋を振っているのか、一瞬でわからなくなってしまった。

烽火火火っ破フヒヒヒ ハぁーーーーっ!! 燃えろ燃えろ燃えろぉーーーー!!! もっとだぁっ、もっと熱くぅっ、もぉーーーーっと赤々とぅぉーーーーっ!!! オラオラオラオラァーーーーーっ!!! その調子でぇ、燃やし続けやがれぇーーーーっ!!! 烽火ゃーーー火ゃっ火ゃっ火ゃぁ~~~っ!!!」

それまで浮かべていたふにゃふにゃ~っとした柔和な表情が一変して、狂気に取り憑かれオラ付く、というヤバさしかない、人格からして様変わりしたジャン=ジャック・ロベール(仮)がそこには居た。

 ――………何だか、見てはいけない一面を見てしまった気分…、だわ。 食材にメロメロ~からの、鍋振ってオラオラーーっ!!ですか。 うん、もう凄く、破茶滅茶に、天井知らずに面白いっ!!!――

ユニーク過ぎるマニアック振りに、もう『マニフィック!! ヴラヴォーーー!!』と言ってスタンディングオベーションしたくなってしまったのだけれど、侍女からのお小言が破茶滅茶に怖いので、私の心の内でのみそっと執り行うことに決めた。

「あーあぁーー、まぁ~~たはじまっちゃったよぉ…。 こーなると食材全部炒めきるまで止まんないんだよなぁ~~…。 ったく、昼めしいつになったら食う気だよ、せっかくおれが作ったってのに、冷めちまうじゃねぇーーかよっ!!」

ぶーたれながらブツブツと文句を宣いながらも、父親の狂気に塗れたトランス状態からは目を離そとしない。
その目は逸らすこと無く真っ直ぐと、鍋を振るう父親に釘付けられていて、その瞳には強い憧れが映り込んだ揺らめく火の光を纏ってキラキラと煌めいていた。

彼が自分の父親を真剣に見遣るのと同じで、私はと云えば、憧憬の眼差しを送る少年の横顔を良いだけ観察しまくっていた。

私の視線に含まれる異様な気配に気づいたのか、ビクッとしてからこちらを振り返った少年は、頭を掻いたり、身動いだり、と落ち着き無く蠢いてから、観念したように長いため息を吐いて、モゴモゴと口の中で籠らせた声で話し始めた。

「あ~~…、何だ、そのぉ~、悪かったよ。 あんなこと言って。 よく知りもしないのに、ウワサの内容しんじちまって、悪口みたいなの言っちまってさぁ! あのウワサがウソっぱちだって、もぉわかったからな!! あんなんデタラメだって、他のやつにも言っとっからよぉ、安心して良いぜ!!!」

最初はバツが悪そうに話していた少年は、話していくうちに元気な調子を取り戻し、最後には、ニカッと大きく笑って、自信たっぷりに胸を張って『おれに任せろ』宣言をしてきた。

「お前ならいつ厨房に来ても良いよ、もうおれらの仲間だからさぁっ! 今度来たらそん時はちゃんとカンゲーしてやるって、約束な!! おれが忘れちまわないように、ぜってぇー近いうちにまた来いよなぁ~!!!」

尊大なセリフを吐いた直後に、彼の隣に居た母親から遠慮のない威力の、華麗なビンタが彼の後頭部へとすぐさま御見舞された。

「~~~ってぇーーーーーっ!!! っにすんだよぉっ!! これで今以上に馬鹿になったら、どーーーしてくれんだよぉっっ!!?」

「これ以上馬鹿になれるわけ無いだろぉに、この大馬鹿息子っ!! あんた何を偉そーーに、誰に向かって年上風吹かせた物言いしてんだいっ!! 立場を弁えなってんだよ全くぅっ!! 申し訳ございませんっ、ウチの馬鹿息子が、重ね重ねとんだご無礼をぉっ!!! あたしから後でみっっっちり、礼儀ってもんを叩き込んでおきますんで、この場はどうかお目溢し頂けましたら幸いで!!!」

「全然!! 本当に全然気にしておりませんので!! どうぞご子息を解放…いえ、楽な姿勢に戻して差し上げてください!!」

 ――それにしても、一方的な要求を思いの外細かく指示さらてしわったわ! 良いのだけど、嫌ではないのだけど、ちょっと距離の詰め方のテンポが速くないかしら? これが世間一般の“仲間”の距離感なの…?? ちょっと、ムズムズする、慣れなくって、面映ゆくなってしまうけれど、仲間に入れてもらうって、こんな感じなのね……!!――

ドキドキ、と高鳴りだした心臓を押さえて、自分の胸中に沸き起こった、はじめてな種類の温かな気持ちを反芻して存分に噛みしめる。

「えぇ、わかったわ! また近いうちに必ず顔を出すわ、約束ね!!」

前世では目にするのみで、自分ではやった試しのないもの。
ここで断られるはずはないと信じたいが、自信が持ちきれないままに差し出した右手の小指。
それは通算の人生で初めてとなる、自発的な“指切り”を誘う仕草だった。

「あ? ………それって、何をやって欲しくて、小指だけ立ててんの??」

ズイッと差し出された手、そこで目を引くピンと立った小指と、私の顔を交互に何往復か見遣った後、腕組して小首を傾げ、ちんぷんかんだと顔に書いて超直球で訪ねてきた。

 ――!? うっそぉっ?! 伝わってないって、ホントにぃ~?? 万国共通なジェスチャーだと信じて疑ってなかった私は、とんでもなく井の中の蛙大海を知らず、な状態だったわね…、これってある意味すんごく、滑っちゃった感じに激似よね、メッチャ恥ずくって泣きそうなのだけどぉ~~(泣)―― 

口にしてから意図の伝わらない現実にドッと後悔が溢れ押し寄せる中、冷や汗を流しつつ、それでも何とか平静を装って笑顔を保ちつつ、言葉を重ねて提案した。

「えっと、取り敢えず深くは聞かず、今は私と同じように、手を差し出してくれませんか? あ、手はそちらでなく、同じ右手で! そうです、こう……、小指をピンと伸ばして……、できたら私の指とこうやって絡めて……っと、できた!」

幼女の小さな手には、勿論小さな指しか付属していないわけで、それはつまり、とっても指を絡めにくいという現実に直結していた。
左手で絡めるのを手伝って、私よりも幾分もシュッとして長い少年の小指に引っ掛けるようにして準備を完了する。

「コホン! では、僭越ながら私が、歌わせて頂きますね?」

「? ん~、良いけどよぉ~~、おれはこのままで良いのか??」

「はい、このままで大丈夫です! では歌いますね? 指切りげんまん、嘘ついたら針千本の~~~ますっ、指切った!!」

「はぁっ?! 指!? は、え、えぇっ?!? 切ったって、ホントに切ったのか??? おれの指、これもう魔法かなんかで、切れちまう呪いでもかかってんのぁ~~~っ!?!」

 ――あ~成る程ねぇ! 魔法がある世界だから、こーゆー反応も返ってくることがある、っと!! めっちゃめちゃ想定外なんですけど、此の反応!? どうしようっ、呪われたって吹聴されたら、ホント、どぉ~~すれば良いのぉ~~~っ?!――

パニックに陥ってしまったヤニス少年の反応は、後から考えれば子供らしくって可愛らしい勘違いであったと笑い話に出来るほっこりエピソードに他ならなかったけれど、現在進行形である今現在は、そんな悠長にほっこりしていられなかった。

噂のような悪どい公爵令嬢ではない、と誤解が解けてホッとしたのも束の間、今度は呪術を操る公爵令嬢との新たな噂が出回ってしまう危機的状況に、焦りに焦ってしまう。

どうやって落ち着かせるべきか、焦って考える程に答えが行方不明となり、こちらまで泣きたい気分になってきていた。

軽い恐慌状態に陥ってしまった少年はそののち、彼の母親から寄越された、愛情たっぷりのビンタで正気を取り戻すことに成功したが、今度は激しくヒリつく頬の痛みに涙することとなる。

抗議するも虚しく、母親にはまったく口では敵わず、涙をのんでの泣き寝入りをすることでしか、此の場ではなす術がなかったヤニス少年をとても不憫に思った。
けれど、藪蛇になりたくはなかったので(酷い)庇うこともしなかった私は、まったくチキンな薄情者のレッテルを貼られても仕方がない、とんでもなくダメダメな公爵令嬢として、少年の中の認識を塗り替えてしまう結果となってしまったのは、誠に遺憾な出来事だった。
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