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●本編●

100.双頭の蛇が蒔いた種、アゴニゼの花は咲かず。

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 弾丸旅程で押し進めたはいいが、その道中にて大小様々なトラブルが少なからず発生していた。
そんな思わぬハプニングに見舞われながら、7、8割こなせれば上々、総てこなすのは不可能であろうと想定して組んだ行程は、蓋を開けてみれば見事完遂。

帰り着いたフォコンペレーラ公爵家の門の内側に入った瞬間、どっと蓄積されていた疲労が一気に押し寄せてきたのはここだけの話。

最年長者たる騎士達の長はこういった場での仕切り仕事では一切頼りにならないため、仕方無しに領地家令アンタンダンたるサミュエルが騎士達に号令を出さなければならず、その腹いせではないにしても口をついて出る言葉が自然とキツく、苛めるようなニュアンスを含んでいってしまうのはこの場では致し方ない、極々自然な流れとしか言えなかった。

サミュエルの言動を見かねたヴァルバトスが仲裁に入り、預かり知らない理由からその言動に振り回されていた部下たちを解放することに成功し、再びその矛先が向かぬうちにと急いで逃した。

そこから当主に報告するため、家令と騎士団長は連れ立って歩く屋敷に向かう道すがら、雑談の体で鬱憤を吐き出さることにした。

そこで看過できない異変に気がつく。
不穏な気配が屋敷の中と、屋敷の裏手、裏庭の方に複数感じられたのだった。

領分の違いから裏庭は一先ず放置して、屋敷の中の不穏分子を排除するために動き出す。

珍しくも乗り気なヴァルバトスがこの突発的な仕事の褒美を先んじて別途要求してきた。
それだけで屋敷に潜む相手が手練れであることが察せられ、やる気を出させるために騎士団長の言動に乗っかってとっておきの発破をかけてやる領地家令。
その言葉にやる気を爆発させた騎士団長が意気揚々と捕物に向かった、数分後。

結果、見事侵入者を捕らえた騎士団長は気分を酷く害し、ぶすくれて、不満たらたらな渋面となっている。
その理由は至極単純だった。

「おやまぁ…、これまた何とも、あっさりと捕まったものですねぇ~~?」

「ホントだよこいつよぉ~~、全っっっ然、抵抗らしい抵抗しやがらねーーでやんの!! てんでつまんねーー!! もちっと根性見せたらどぉーーなんだよ、暗殺者さんよぉ~~~?!?」

睨み下ろしてくる男2人。
その正面の少し離れた位置で、縛り上げられた状態で磨き抜かれたエントランスホールの床に座らされた男が1人、双方から向けられる温度差のある視線を受け止めながら、心底ダルそうにぼやく。

「クッソダリぃ~~…、んでオレがそんな無駄な抵抗しなきゃなんねーーんだよ? どーーせ殺されるってのに、無駄に痛い思いなんざしたかねーーのよ。 甚振らて喜ぶ趣味なんざねぇーーからなぁ~。」

「ふむ…、何とも清々しくも見下げた根性ですねぇ。 まぁ、良いでしょう。 時間を無駄にせず済んだと思うことにして、早速お伺いしましょうか。 貴方の雇い主は?」

惜しいパ・ロワン! そいつは言えねぇー事になってんのよ。 お次どぉ~ぞぉ~~?」

「…貴方の共犯者、若しくは手引した者は?」

残念だなぁセ・ドゥマージュ~、それも言えねーやつだわ! 次ぃ。」

このままでは埒が明かない。
この短いやり取りだけで十分に、この後も不毛な問答が続くと判断して、短く溜息を吐いてから低めた声で答える気があるのかどうかを問いかける。

「…巫山戯ていらっしゃるんでしょうかねぇ~? ご自分のおかれた立場、きちんとご理解いただいてますぅ~~??」

しばしの間。
ぱちくりと少し瞠られた目が2、3回瞬いたあと、ふてぶてしくも堂々と、個人的事情を背景にした勝手な言い分をさもあらんと嘯いた。

「まぁ……多分? んでも残念なことに、今の質問には答えらんねぇ~~の、オ・レ♡」

その言動と今までの態度とを併せて鑑みて、ある可能性に気が付いた騎士団長が吠える。

「っかぁ~~~っ、面倒くせぇ!! こいつアレだ、隷属魔法使われてんだわきっと!! だから無理に喋ろーーとすりゃ、最悪死ぬかもってやつだわ!! にしてもおめぇーーさん、喋るに喋れねぇーーからってよぉ、その態度はどぉーーなのよ??」

同情のようなうな、憐憫のような、何とも云えない感情を宿して、しげしげと侵入者の男を見遣る。
それに返す男の言動は、これまた自分の立場を弁えないものだった。

「っはっはぁ! んだよ、説教するつもりかよ? 意味ねぇーーからやめとけってそーゆーーの。 どんな態度とってたって結局ムカつかれんだからよぉ?! こっちからおちょくってやったほーーが、気が楽んなんだろ、オレの(笑)」

「……っはぁ、物は言いようですねぇ。 なら、何についてなら答えをいただけるんです?」

痛むこめかみを親指の腹で解しながら、疲れたように溜息と共に問いかける。

「んあーー…、っだなぁ、何してきたかなら……ギリ答えられそーーだけど?」

「おいおいぃっ!? てめぇっ、涼しい顔しやがって、もーーなんか為出かしてきた後だったんかよぉ?! …っかし、にしては…、屋敷ん中は静かなもんだったぞ?!?」

気怠そうにしながらとつとつと語られた事実に、憤懣の声を上げた騎士団長は、この男を捕縛した屋敷の様子を振り返って思い起こし、首をひねって独り言のように頭に浮かんだ疑問を口にする。

「お忘れですかぁ? 今日は大晦日なんですよ、屋敷の使用人は全員、午前中で仕事を終えております! レヴェイヨンの準備が整い次第、厨房ラキュイジーヌからも人っ子一人居なくなりますからね。」

その疑問には直ぐに、少し姿勢を崩して立つ領地家令から答えが返ってくる。
その言葉を受けて、場違いにも言葉を発したのは侵入者たる刺客の男だった。

「っはっは、らしぃーーな。 この仕着せ奪うのに何人か従僕つけ回してた時にその話聞いてよぉ、今日に決ぃ~~めたってな? 景気が良さそーーで、羨ましい限りだぜ、っはっはぁ!!」

ドカッ!

硬い靴底で容赦なく、負傷していると見受けられる左肩を捻るように踏み抜かれる。
堪らず息をつまらせて痛みを訴えた後、どの立場からの物言いなのか、堂々と文句を垂れる。

「?! っっってぇーーーーっ!!! くそっ、不意打ちは卑怯だろーーがよぉっ!?」

「おや、ドブネズミスュルミュロの分際で、文句が言える立場だとでもお思いで? 一端の人間気取りはお止めになったほうが賢明かと。 あんまり愉快になりすぎて、うっかり必要以上に痛めつけてしまいたくなりますからねぇ~??」

分不相応な文句を口にする男を黙らせるべく、底冷えするような凍てつく眼差しと、同じだけの冷たさで発せられた言葉を駆使して脅し、こちらの問いかけ以外に対する不必要な言動を封じる。

「それで…? 一体何を為出かしたと言うのです?」

汚物を見る目で寄越される蔑みきった視線を、ぼんやりとしながらも真っ直ぐ受け止めて、数拍遅れで呵い出す。

「…ッグッグ、グハッハッハ!! あぁ~~~、わりぃ~わりぃ~~! 色々思い出したら愉しくなってきちまった!! 今頃野ネズミちゃんは……、どぉ~~なってるかって、想像したらよぉ?? グハハッ、あーーー愉しぃ~~なぁ~~~っ!! 全く愉快だぜ!! うぎぃっ……!?」

肩に押し当てたままだった足を左右に踏み躙り、“黙れ”と眇めた視線で警告し、話の先を促す。

「御託はもう結構。 早く答えて頂けませんかねぇ? 私もそんなに、辛抱強い無頼ではございません…。 ああ、手足のどれか一本でも切り落とせば、早く言う気になられましょうかね~? ものは試し、ちょっとお願いしても宜しいでしょうかねぇ、騎士団長殿?」

「ぁあ?! んだよ、気色わりぃ~…、変な呼び方すんなよなぁ、ビビンだろ!? んで、どれ斬れってぇーーんだよ??」

突然職位で呼びかけられ、一瞬誰のことを呼ばっているのか本気で見失いながら、気を取り直して聞き返す。

「待った待った! は~いはい、降参でぇ~~す! 言いますよ~言やぁいーーんでしょ~~? 何も切る必要ねぇっつーーの! 言うからまっとけってぇーーのによぉーーっ、はぁ~~~~…ダリぃ。」

ドゴォッ!!

それまでは座位を維持できるだけの、抑えられた威力で蹴りつけられていたのだと、この時に理解する。
今刺客の男が目にしているものは、何処までも遠く高く見える豪奢なシャンデリアと、同じだけ目を引く極彩色で描かれた美麗な天井画に装飾された、この公爵家自慢の一品の1つたる吹き抜けの天井だった。

仰向けに倒れた際、まともに受け身の取れないまま打ち付けた後頭部と背中が滅法痛い。

「いっ………てぇーーーーっ!! はぁーーもぉーーーっ、面倒くせぇ~なぁ~~…。 短気な連中相手にすんのぁ…、マジでダリぃし、白けるぜ……。」

そこで一旦言葉を区切り、何事かを脳裏に思い描いた後、ぐにゃりと口元を歪めて醜悪な笑みを浮かべて人が変わったように声高に喚き出した。

「…っは、とっときの贈り物ル・カドーを届けに来てやったのよ。 あんたらの大事なお嬢様が泣いて喜ぶよぉーな、最っ高のやつをよぉ?! ギャーーーーッハッハッハッハッハァ!! いやぁ~~、見ものだったぜぇ、悲鳴は聞きそびれちまったがなぁ!! 怯えきって震えてるくせによぉ~、涙堪えて睨みつけてきやがった!! っはっはぁ、根性見せたんじゃねぇーーのぉ?! 貴族のご令嬢なんかにしとくにゃ…勿体なかったぜぇ~!? あの野ネズミが変わり果てた姿じゃなしにぃ、ちゃぁ~~んと生きてると良いなぁ~~?! …っっっっ?!?」

再び笑いだそうとした暗殺者は、この場ではそれ以上嗤うことは出来なかった。

「がぁっ………っは!!?」

それは鳩尾に正確に食らわされた一撃により、唾を撒き散らして短く呻き、昏倒した為だった。

「…ヴァルバトス君、貴方何為出かしてくださってるんですぅ? 気絶させてしまったら意味ないでしょうに。」

「あぁん?? あーーー…、悪ぃわりぃ~~!! ついなぁ、こ~~…、頭にカァーーーッときちまったみてぇ~でよぉ~~?! 無意識の反射で、手が出ちまったってかぁっ!!? がぁーーーっはっはっはっは、オレ様もまだまだ、修行がたんねーーなぁ?!」

注意されてから遅れること数秒、自分が取った行動に遅れて気がついて、曖昧に笑ってごまかす。
頭で考えるより早く、身体が沸き起こった怒りの感情に操られてしまったらしい。
恐ろしい反射もあったものだ。

ヴァルバトスの下手な誤魔化しに嘆息して、気絶したと思われる男に用心しながら近づいていく。
床に転がって昏倒しているように見える男が、本当に気を失っているかどうか、靴の先で突いたり動かしてみたりして確認する。

「…っふぅーー…。 やれやれ、殆ど何も聞き出せないまま時間を無駄にしてしまいましたねぇ。 さて、ここに転がしておくのも気分が悪い。 ヴァルバトス君はこの男を………、これは?!」

男をヴァルバトスに引き渡そうとして、その手首に彫られた刺青を目にして固まる。

「唯のドブネズミスュルミュロではなく、毒牙を持ったヴァイペールだったとは……! 迂闊でした、お嬢様に為出かしたことがほんの悪戯程度ではないのでしょうね!」

俄に焦りを顕にした領地家令アンタンダンの常ではありえない慌てように、手首の刺青を確認した騎士団長スヴランも得心がいったように頷いて独り言ちる。

「なんでぇ、奴さん双頭の蛇アンフィスバエナの一味だったんかよ…。 しっかし何でまたこんな裏稼業の印、お前さんが知ってたなぁ~意外だぜ、裏の世界じゃ有名な一味だけどもよぉ~~?! …の割に、随分と陽気なやつだったよなぁ~~?! 捨て駒の下っ端って感じはしねぇーし、風変わりな野郎だぜ!!」

文句なのか賛辞なのか、言いたいことを混在させてまだ言葉を言い足りないらしい騎士団長を手の動きで制してから、言葉でも念押して、今後の指示をできるだけ淡々と聞こえるように言葉を紡ぐ。

「それくらいで、これ以上この男に構ってる意味もない。 その男を地下牢にブチ込んで、吐かせる準備を整えておいてください。 それと…」

「あ~あぁ~~!! 皆まで言うなって、わぁーーってるよ!! 取り急ぎ、騎士団から何人連れてこりゃ良ぃんでぇーー??」

ピクリとも動かない刺客を小脇に抱えて立ち上がり、くるりと方向転換をして玄関扉へと歩き出しながら、背を向けたままで問いかける。

「屋敷と裏庭に割ける人員総て、動員願います。 旦那様には私から、事態に目処が立ち次第適宜報告致しますので、お早くどうぞ。」

「ああ、そゃあ良いっ!! 気が楽になるってもんよぉ~~!! 『死神』のブチ切れに立ち会わないですむんなら、こんぐれぇーーのこたぁお安い御用だぜ!! んじゃ…後の気掛かりは嬢ちゃんの安否ぐれぇーだなぁ…!!」

「ええそうですね、そちらはこれから早急に確認致しますのでご心配なく! 貴方は騎士達がまともな状態でいる内に、抜かり無く配備されるようきちんと指揮してからお戻りくださいね!」

後ろ手にひらひらと手をひらめかせ、大股で歩き去る騎士団長の広い背中を2歩進む間のみ見送る。
今自分が取るべき行動を然るべく取れるよう、頭を切り替えて歩みだず。

まずは今回奇しくも標的として白羽の矢を立てられてしまった哀れな少女の所在を確認することが先決だ。
迷いなく足を向ける先は、固く閉ざされた図書室ビブリオテックの扉のその奥。
上級使用人のみがその所在を知らされている、秘されたこの屋敷の全見取り図、その在処だった。


 そして、所変わった屋敷の廊下の一角。
床に敷かれた、所々赤く染まった白衣の上でぐったりと横になる幼い少女の姿を目にすることとなる。
じ…と視線を逸らすこと無く、領地家令アンタンダンは感情を殺した静かな声で昏倒しかかっている少女の意識を現実に留めるべく語りかけた。

「ライリエルお嬢様、サミュエルでございます。 このような時に恐縮ではございますが、少々私めの質問にお答えいただけませんでしょうか?」

「!? おい、ちょっと旦那ぁ!! 何もこんな、今でなくても良いでしょうに?!」

「サミュエル!! 見てわからないお前じゃないだろう、後にしないか!!」

「ぅ…、ぁ……、…っ! ……?」

言葉はどうやっても出てこないらしく、言葉で伝えることは諦めたのか、力なく首を1回揺らし、自分を咎めた医師と兄を静止しようと試みている。
それからゆっくりと視線をこちらへ動かして、何を問いたいのか、と時折霞む瞳で問いかけてきた。

うつらうつらと無意識に力が抜けそうになる目蓋が、半分まで瑠璃色の瞳を隠そうとする。
その度に抗って、懸命に開いてから向けられた弱々しい視線をしっかりと受け止めて、早急に確認すべき事柄を舌にのせた。

「端的にお伺いします。 お嬢様を襲った犯人の特徴は覚えておいででしょうか? 細身で身長は180そこそこの30代未満の男、髪は栗色、瞳は桃色、従僕に扮しており手首には双頭の蛇アンフィスバエナの入れ墨がある。 偶然ではありますが、これら全てに該当する男の身柄を既に拘束しております。 なのでもし、この男以外に襲われたのであればお伺いしておきたいのです、如何でしょうか?」

コク…コクッコクッ。

自分を襲ったのはその男で間違いない、言葉のかわりに頷くことでそれを必死に伝えてくる少女。
今できる精一杯、出せる限り渾身の力を使って頭を上下に振ってみせていた。

「…はぁ…っ!」

はくはくと動く口からは相変わらず声は出ず、興奮して少し荒くなった呼気しか出てこない。
力を込めて寄越された視線が告げている、『伝えることがまだ他にもある』と。

「? 何でしょうか、お嬢様? お待ちを…失礼いたしますね、他に何か聞いておくべき事柄がございましたか?」

うまく言葉が発せない少女にこちらが近づき、荒い呼吸を繰り返すその口元に耳を寄せる。
どんなに小さな声でも、この距離であれば決して聞き逃さないと確信できる距離まで、無礼は承知で近づけた。

「…か…ぁ、……わか……の、だ………、気を………!」

「あぁ…、はい、大丈夫ですよ。 共犯者の有無はお気になさらず。 事後承諾とはなりますが、私の権限で騎士団を屋敷内及び裏庭周辺にも配備するよう既に手配しております。 鼠一匹取り逃すことがないよう、万全を喫しておりますから共犯者が居ればじきに見つかりましょう。 その間に捕らえた男を尋問して、じっっくりと仔細を聞き出しますので、ご心配なく。」

短く発せられた聞き取れた音と、その音と音の間隔から欠落した音を推察して少女が危惧している事柄にズバリと答えてみせた。

どうやらこの推察は正しかったらしく、少女は安心したように詰めていた息を長々と吐き出した後、どこか驚きを隠せていない目で、こちらを心底不思議そうに見遣ってきた。

「ご自分以外に被害者が出ないか、それが気がかりでいらしたんですねぇ…。 必ずやお嬢様の憂いの原因を根こそぎ排除せしめますので。 今はどうぞ御心安く、御自愛なさってください。」

自分でも驚く程自然に、にこりと優しく微笑んでしまえた。
こんな優しい表情は自分に似つかわしくない。
嘘偽りのない、慈愛に満ちた表情など、この世で唯1人、彼の女性以外に浮かべられるはずもないと長年の経験から思い込んでいたというのに。
困惑と驚愕が入り交じる複雑な胸中と裏腹に、表に晒している表情は未だに優しい微笑みのまま。

こちらが浮かべる穏やかな表情に、力及ばすながらも一瞬だけ微笑みのかたちに口元を動かしてみせた少女。
しかし、それまでこちらに向けられていた視線の焦点はこの後急速に安定を欠いていき、先程までの抵抗が嘘のようにあっけなく、少女は意識を手放してしまった。


 不思議な輝きを纏うラピスラズリの瞳を薄い目蓋で覆い隠し、耳を澄まさないと聞き取れないほどか細い寝息をたてて深い眠りの底へと落ちて行ってしまった少女。

その安らかな寝顔を見つめながら、少し離れた位置で先程から話し始めた筆頭医師メドゥサン・シェフ看護師長アンフィルミエル・アン・シェフ会話の内容に耳を傾ける。

「っだぁーーーーくそっ!! 油断してた!! そーーだよ、俺の誤算だよっ!! あん時ちゃんと麻酔も持ってきてればこんな後悔せずに済んだってのに?! くっそぉーーーー、殴りてぇ…!! あん時の自分をぶん殴ってやりてぇちっくしょぉ~~~~~っ、し!! 反省終わり!! …んで、何の話してましたっけ、ローレンス看護師長?」

「反省して自己完結できたとこ悪いんだけどねぇ、ユーゴ君?! 麻酔無しで切開して種を摘出したってねぇ、何を考えてんだい一体っ?! 大の大人でも問題外だってのに、こんな小さな女の子に、なんて真似を、何でこんな横着なことしちまったんだい!? 何で後もう少し、あたしが来るのを待っちゃくれなかったんですっ!?」

どうやらその雲行きはかなり怪しくなりつつあるようで、年若い筆頭医師が何が理由であるのかは不明だが、一方的に糾弾され始めたようだった。

「お怒りはご尤も、諸々のご指摘も大方は甘んじて受け入れますけどね? 今回の横着の理由を言わせてもらえんだったら、理由はたった1つっすよ! あのまま麻酔が届くのを待ってたら手遅れだった!! お疑いならどーーぞ!! コレ見て判断してくださいよ、俺の取った行動が本当にタダの横着だったかってね!!!」

眠る少女の横に置かれたままだったガラスの瓶をガシッと掴んで、怒りも顕な看護師長に向かってその瓶の中身がきちんと見えるよう、捧げ持ち直してから腕を突き出す。

そこには、発芽して根も長く伸びすぎている、この国では栽培から所持までの一切を禁じられた、危険極まりない魔法植物の種子が収まっていた。

瓶の中に収められた種子をまじまじと見てから、固まる。

「コレ…って、嘘だろう? だって、待っとくれよ、お嬢様が種を使われて、1時間も経ってないって…話だっただろう?! なのに、なんでこんなに成長しきっちまってんだい?!?」

『自分の目が信じられなくなりそうだ』と顔に書いて、答えを求めるように筆頭医師の顔を見返すローレンス看護師長は、軽い恐慌に陥っていた。

「っかんねーーっすよ、そんなん!! 俺だって誰かに説明してほしいくらいっすから!! …ギリギリ10cm未満、後ちょっとでも躊躇ってたらどーーなってたか、ローレンス看護師長なら説明しなくてもおわかりでしょう? これでも俺が間違ってたって、判断を誤ったって思います?」

がしがしがしがしっ!!

今まで鳴りを潜めていた癖が、満を持して再発した。
後ろ頭を気の済むまで強く掻き毟る。
それをしたことで少しだけ落ち着きを取り戻して、感情を抑制した声で静かに尋ね返してみた。

「ユーゴ君……、はぁ、間違ってたよ、でもそれはあたしの判断の方さね。 申し訳ありませんでした、シェフ。 年甲斐もなく早合点して慌てちまった、思い込みが抜けなくって、これだから年寄はいけないねぇ…。」

「や、全然良いっすよ、んな真剣に謝らんで下さい! 今回が普通じゃなかったんすから、仕方ないっつーー話ですから!! …ホント、こんな早く成長してる方がおかしい。 改良されたモノだったのか、それともお嬢様との相性の問題か。」

頭を下げて謝罪の言葉を口にする看護師長に、ビクッとして狼狽え慌てふためく。
自分よりも年上の相手から敬われたり頭を下げられる行為は、何度経験しても一向に慣れられる気がしない。

話題を逸らそうと口にした自分の言葉に引っかかり、不可解な現象の原因を探るべく、アクの強い研究馬鹿たちを頼る決断を下す。

「わっかんねーーけど、一応薬剤師あいつらに調べさせてみますわ。 専門外っつって、突っぱねられる可能性は皆無でしょーーし。 なんせあいつらは筋金入りの研究馬鹿っすからね?」

「あぁ~~、確かにねぇ…。 はっは、あの子達なら、喜んで調べそうだもんねぇ~!」

にかっと歯を見せて笑う筆頭医師の、わざとらしくも何処か憎めない笑顔につられた。
くすっと笑って、自分も素直にその意見に同意を示す。

一先ず今回行った処置に関しての誤解は解けたと見て大丈夫そうだった。
けれど、それだけでは溜飲が下がらない、やりきれない思いが胸中を占領したままであることも、この場での変えられない現実だった。

「にしたって、あぁーーーっ、くっそぉーーーっ!! 胸クソ悪りぃっ、思い出しただけでも反吐が出る!! 人の足元見やがって!! 年端もいかねぇ子供相手にこんなもん使うなんざ、頭イカれ過ぎだろこの雇い主!!」

苛立った思いに任せて、広く長い廊下に響き渡る大声で憤懣やるかたない思いをぶちまける。
因みにこの時、ライリエルお嬢様の横たわる方向には響かないようきちんと配慮してはいた。

それと云うのも、ここに御わす領地家令アンタンダン殿はいつの間にやらライリエルお嬢様とかなり懇意にしているらしく、今も物言いたげな鋭い視線を突き刺されている気がして、とてもじゃないが生きた心地がしなくなりつつある。
医師としても一介の使用人としても、長いものには巻かれなければ生きていかれない。

意図的にサミュエルからの視線を避けようとして、今のところ尽く辛酸を嘗める結果となっていた。

「お~おぉ~~、どこの誰がえらく騒いでやがるんだと思って来てみたがぁ~、珍しいじゃねぇ~~の?! いつになく熱り立ってんなぁ、筆頭医師さんよぉ?! んな熱くなっちまって、いってぇなぁ~~にが原因だってんだよ??」

これは早々に退散すべきか?!と思い、逃げ道を探し始めた時、近頃やっと聞き慣れてきた男の声に馴れた調子で問われ、渋々振り返る。

「…どーもすんませんね、らしくない行動とってて。 こっちの個人的な事情なんで、どーぞお構いなく。 俺のことなんてスッパリ存在から無視して下さいや、騎士団長スヴラン殿。」

『あんたが俺の何をご存知で?』と言葉にしていない文句が聞こえてきそうな不機嫌さもあらわな、トゲトゲしさを隠そうともしない低めた声で自分にはこれ以上構ってくれるなと突っぱねた。

「おいおい兄ちゃんよぉ~、んなわかりやすく邪険にすんなよなぁ~?! んぁ~?? なんでぇ、よりによってアゴニゼ使ってきやがったのか奴さん!! っかし、えれぇーー成長しきっちまってんじゃねーーの?! こいつぁーー、後ちょっとでも取り除くのが遅れてたら、腕ちょん切らんとならんかったなぁ!? ぃやぁ~~、こりゃ今日の嬢ちゃんは運が良かったなぁ~~!! 腕のいい医者先生がちゃんと処置してくれてよぉっ!! っかし、若ぇってのによぉーーく知ってやがったなぁ~~?? 勉強熱心なこってぇ、やるじゃねぇーーの!!」

邪険にされる覚えがあり過ぎるのか、いつもより控えめに絡む途中で、筆頭医師がその手に持つ瓶の中身に目敏くも気が付き、感心したようにユーゴの腕を褒め称えた。

けれどそんな事はどうでも良く、その前に聞こえた内容に、少女の兄である少年は聞き返さずにはいられなかった。

「腕を…切断…? 今の話は本当なのか…?!」

「おうともよぉ、あれだな、戦場での常識っつーーやつだぜこりゃ!! 一つ賢くなったなぁ、坊っちゃん!! がぁーーーっはっはっはっは!!」

「まったく理由の説明になっていないぞ、ヴァルバトス卿! 何故腕を切り落とすことになるんだ? たかが植物の種が寄生したくらいで、何故いきなりそんな極論になるんだ?!」

「んまぁ~、あれだぜぇ~~?! その理由はよぉ、アゴニゼってやつが究極に厄介な種子だからっつーーあれだわ!!」

こちらが真剣に聞いているというのに、巫山戯ているのか?と視線を鋭くして答えを迫る。
けれど、どうやら尋ねた相手が間違っていたらしい。
事情を知っているからと言って、それをきちんと説明できるとは限らない、そう痛感して納得せざるをえない問答となった。

2人の遣り取りに紛れて逃走しようかとも考えたが、止める。
あまりにあれな騎士団長の返答に、公爵家の嫡男がいっそ可哀想に思えてしまったからかもしれない。

「や、全然説明になってねーーんですけど? アゴニゼのこと知ってんなら、もちっとちゃんと説明してやってくだせーーよっ?! ったく、しゃーねーなぁ…。 アゴニゼってのは、この魔法植物の名前なんすけど、その名の通り“瀕死”って状態にしちまうんすよ。 発芽した段階からその宿主の体中のマナを吸収しだす、人間でも動物でも、魔物だっておんなじようにね。 んで、最終的に開花する頃には宿主は死んじまってんすわ。」

未だ手に持っているガラスの瓶に納められた種子を示して説明を始める。
のっけから物騒な単語が飛び出し、さらに身を固くして聞く姿勢を取る公爵家嫡男に向かって、この男がいらぬ茶々で場を乱しにかかる。

「戦場だとなぁ~、良く耳にしたもんだぜぇ?! “アゴニゼの花が咲く”ってなぁ…!! つまりは死んじまったっつーー意味なんだけどな、がぁっはっはっは!!」

「説明する気がねーーんなら変な茶々入れてこっちの話の腰折らんでくれませんかね?! ってか飲み始めんなよこんな所で!?」

この場では愉快な笑い話にはならない内容をぶっ込んできた男を横目に見ながら文句を言って、その男が懐から取り出した何処からどう見ても酒瓶としか見受けられない瓶を開け始めたのを見てしまい、堪らずに突っ込んでしまった。

調子を崩されて疲れも顕に項垂れながら、気を取り直して説明を続ける。

「はぁーー…、どこまで話したっけか…? あーそーそぉーー、この種っすわ、問題なのが。 これこそが厄介の塊で、さっきも言った通りマナを養分にして成長しちまうってとこが1番やべーーんすよ。 発芽の条件ってのが決まってんすけどね? コレが体内に入った状態で何らかの魔法を使うと発芽しちまうんです。」

コツン…。

手に持った瓶を指先で突っついて中身の種子を示し、眉間にぐぐっとしわを寄せて、続ける。

「しかも一度発芽しちまったらもう成長は止まらなくって、宿主だけじゃなく周囲のマナも吸収してどんどん根を伸ばしてっちまうんですよねぇ~…。 開花するために成長し続けて、心臓か脳にたどり着くとそこから一気に皮膚を突き破って開花する。 鮮血みたいに濡れ光る真っ赤な花弁の大輪の花をね…。 俺も、戦場で何度か手遅れな状態目にしてきましたけど、ホント最悪デギュラース。 黒い根っこが体中に張り巡らされてるみたいな光景は…何度見たって気分のいいもんじゃねーーっすわホント!!」

「あん?? 貴族のお坊ちゃん先生が従軍医なんてやったんかよぉ?? そらまた酔狂なこったなぁ~、家族は止めなかったんかぁ?!」

「何で俺が貴族だって知ってんすかぁ? まぁーいーーっすけど。 勿論、全力で阻止されそうだったんで、言わずに申請して参加しましたよ。 んで、帰ってきてしこたま説教されたっすわ。 っとに、成人した息子相手にいっっちいち過保護が過ぎんだよなぁ~~親父も兄貴も!!」

がしがしっと頭を強く掻き毟って、戦場で見た惨状や家族とのあれこれといったむしゃくしゃしてしまう思い出を振り切ってから、脱線してしまった話を元に戻す。

「10cm、これ以上成長したらもっと細かい根毛が伸び出して、1番近くにある血管やら神経やらに侵入して癒着し始めちまう。 んで、それと同時に管に侵入した根毛は脳か心臓目指して一気に急成長し始めるんすよ。 そーやって細かく枝分かれしてって、胴体の方まで根が到達しちまったら手遅れ、取れる手立ては無くなる。 んで、手遅れになる前、胴の方まで伸び切る前なら、取れる処置はたった1つ。 根に侵された部位を丸ごと全部、身体から切り離す事だけ。」

スッと手刀の形にした手で腕を斬りつける仕草を取る。
それから、床の上で昏昏と眠る少女に視線を向けて、静かな声を意識して出し、言葉を続けた。

「今回のお嬢様の場合で云えば、命と片腕1本、天秤にかけた内どっちを選ぶかなんてわかりきってるだろ? 腕を切り捨てて、命が助かる方を選ぶってなぁ…!!」

だからこそ、先程は柄にもなく熱り立って『足元を見られた』と憤慨していたのだった。
こちらの取れる対処法の少なさを知っていて、敢えてこの違法な魔法植物を持ち出してきた。
今回の首謀者を想像して宙空に描き、睨み据えながら語気も荒く続ける。

「お嬢様を手当したのが俺じゃなくても、アゴニゼこれの危険性を知ってるまともな医者なら迷わずに同じ判断を下す! 命あっての物種だ!! そのせーで貴族の令嬢としての未来を潰えさすことになっても、命を救うことを優先する!! それが医者としての使命だからなぁ!!!」

ペツォッタイトの瞳が決意の強さを示すように一際強く煌めいた。
けれどそれは長く続かず、直ぐにいつもの明るさに戻り宝石のような輝きは鳴りを潜めた。

がしがしがしがし。

くっしゃくしゃに掻き混ぜられて、前髪を留めていたピンが外れてバラバラと疎らに落ちてきた長い髪に顔が隠されていく。
それは奇しくも、暗い感情に翳っていく今の心情を表しているようでもあった。

「だからってよぉ…、後味悪りぃーぜこんなん…、誰が好き好んで、年端もいかねぇーガキの無麻酔手術なんてしたいと思うかよ……っ!! 戦場でもねぇーってのに、二度とゴメンだっつーーーの!!!」

「ユーゴ君は良くやってくれたよ、本当にどうもありがとうねぇ! ライリエルお嬢様はあたしにとっても孫みたいな存在だからねぇ~、五体満足でいてくれて、この上なく嬉しいさね!! コニー坊っちゃん…、じゃあ、もぉ~無かったねぇ!! 旦那様もお喜びになるこったろうよぉ!!」

励ます言葉の終わりに、耳慣れない言葉が紛れ込んでいて聞き流せずに尋ねてしまった。

「はは…、ホントだったんすね、ローレンス看護師長が旦那様の幼少期からここにお勤めだ~~って話…? あの旦那様が…“坊っちゃん”……? 怖っ、うっわ、なんか無性に怖くなってきたぁっ?!」

ゾワゾワっと肌が粟立つ感覚に併せて、ガクブルっと身を震わせて怯え上がった筆頭医師。
その歯に衣着せぬ無礼な物言いに、看過できずに嗜めの言葉を口にしたのは、今回使用された魔法植物への対処法を頭の中で模索していた公爵家嫡男だった。

「ユーゴ、流石に不敬だぞ。 …しかし、耳慣れないという意味では、確かに。 居た堪れない、何とも形容し難い心地になるものだな…?」

自分の父親の愛称など初めて耳にした。
そんな気安く呼びかけられる間柄の親族など存在していないため仕方のないことではあったが、言葉にし難いムズムズとした違和感が拭えない。

微妙な空気が流れ始めてしまった。
この場の妙な雰囲気を払拭するように、それまで沈黙を貫いていた領地家令アンタンダンが口を開いた。

「……さて、話は済みましたかねユーゴ君? そろそろお嬢様にご移動願ってもいい頃合いでしょう、これ以上硬い床の上でなど…、休まるものも休まりませんからね。 と云うわけで、君1人でもライリエルお嬢様を部屋まで問題なくお連れできますよねぇ?」

ニッコリ、と普段からよく目にする胡散臭い笑顔を顔に貼り付けて、ユーゴにピッタリと照準を合わせてから、お願いする体でありながら絶対に断わらせるつもりのない命令を下す。

「あえっ、俺ぇっ?! いや、はい、出来ます、ね? いやいやっ!! できるっす、やりまーーーすっ!!  了解ですアヴゾルドル!! 今すぐにでもっ、運ばさせていただきまぁーーーーっす!!!」

向けられる笑顔に込められ命令文を正しく解読して、処世術に重きを置く事なかれ主義な筆頭医師は跳び上がってから敬礼し、そそくさっと行動を開始した。

「ああ、勿論、分かっているとは思いますが、乱雑に扱ってはなりませんよぉ~? 旦那様がお叱りになるその前に、まず私が容赦致しませんから、そのおつもりで。 いつも以上に、慎重かつ丁寧に、お運び下さいねぇ?」

「り、りょーーーーーかいで、ありまぁ~~~っすぅ!!!」

笑顔なのに目がまったく笑っていない。
これもよく目にする、この領地家令が得意とする表情の1つだった。

声をウルウルに潤ませて答え、抱え上げた少女を絶対に取り落とさないよう肝に銘じて覚悟を決める。
少女の私室のある2階へ上がるため、慎重な足取りでエントランスホールへと歩き出した。
それに付き従うつもりのローレンス看護師長は、この場に残る面々に対し、軽く会釈してから往診鞄を拾い上げてユーゴの背を追いかけて歩き去った。

何本目になるのか飲んだ本人にも記憶のない、新たな酒瓶の中身を呷りながら、その背を見送るサミュエルの表情の険しさをニヤつく声で揶揄う。

「そぉーー怖ぇ顔して、脅してやんなよなぁ!! おめぇが本気で睨んでやりてぇーのは、あの医者先生じゃねぇーーだろーーがよぉ!? そーゆーー物騒な表情は尋問にとっとけってぇ~~の!!」

「失礼な、睨んでなんておりませんが? 元々こういう顔のつくりなのですから、仕方ございませんでしょう? ともかく、我々も移動致しましょうか。 この場にこれ以上留まる意味も、ありませんからねぇ。 そろそろ旦那様にもご報告差し上げないと、ですしねぇ~。 はぁーーーっ、憂鬱ですよまったく!」

ツン、と澄まして言い放ち、移動を提案する。
その後に定める最終目標たる公爵家当主への報告、それをせねばならぬ責任ある己の職位の高さが此時ばかりはなんとも恨めしい。

「がっはっはっは!! どんだけ怒り心頭になるか見ものだなぁ~?! んまぁ、俺様はその状態の奴さんを戦場で見慣れてっけどよぉ、それ以外の場所で怒り狂うのなんざ、滅多にお目にかかれねぇーーだろぉーーなぁ!!」

酒焼けし始めた嗄声で愉快そうに宣う騎士団長を横目で睨み、意趣返しとなる言葉を容赦なく浴びせかけた。

「他人事だと思って、全く…。 愉快絶頂なところ恐縮ですがぁ、その空の酒瓶。 貴方が責任を持って全部片付けてくださいね? 明日の正午近くまで屋敷の使用人は出仕しませんので、この場に放置など論外。 貴方の勝手で屋敷の1階に酒気が蔓延する事態など、笑えませんからね??」

「お……おぅ…ともよぉ!! 言われねぇーーでも、ち、ちゃぁ~~~んとっやるつもりだったっつーーあれだよ!! あったりめぇ~~じゃねぇ~~のぉ!! がぁ~~~っはっはっはぁ!!」

いつもと同じく豪快に呵う。
けれど、その声は何処か力なく尻窄んで、聴く者の耳に届けられた。


 結局、わたくしの記憶は曖昧なまま。
うつらうつらとしながら何度か起きたように思うのだけど、記憶がはっきりとしない。
明るかったり、仄暗かったり、全くの暗闇だったり、色々な明暗に照らし出された天蓋の内側を眺めたような気もしたのに、やっぱりその記憶に自信が持てない。

サミュエルに注意喚起を促したあと、急に暗転して黒一色となった視界の中をどこまでも落ちていく感覚に絡め取られた後の記憶は、恐らく夢の中で見たのだろう闇色に溶けて思い出せなくなってしまった。

そこから次に意識がはっきりと定まり、安定して目を開けていられるまでに回復したのは、とっぷりと年が明けきった雨月プリュヴィオーズの元日の夕方を過ぎた時分だった。

同じセリフを今までに何度か言ったのかもしれない。
「おはよう…メリッサ。」と短く目覚めの挨拶をした私の顔を見るメリッサが、『聞き飽きましたが?』と顔に書いて見返してきたあの何とも形容し難い表情が、しばらくどうしても忘れられそうにない程、起き抜けの記憶にビタっとこびりついてしまった。

メリッサが(毎度の如く)いつの間にか連絡したらしく、しばらくもしない内に渋面(恐らく)をその顔に貼り付けた筆頭医師メドゥサン・シェフがやって来て、私の傷の具合等々を診察し始めた。

傷はそれまでにもちょくちょく確認していたらしく、そこまでじっくりと時間を割いて診る事はせず、サッと視線を縫合痕の上を滑らせて終え、後の時間は全て問診へと重きを置かれ費やされた。

特に何度か言葉を変えて尋ねられたのは、怖いことは無いか、と云う抽象的な事柄だったと思う。
今回の件で精神的側面で禍根が残されてしまっていないか、慎重に言葉を選んで尋ねられてしまった。

その都度、『特に何も』とか『思い当たりません』等と答えるけれど、その言葉に返されるのはひん曲がった口元が何事かを訴えるのを堪えた納得がいっていない不満顔だった。

私が本心をありのままに曝け出していないと感じ取っているようだ。
筆頭医師が感じ取ったそれは、当たりでもあり外れでもある。

自分でも整理がついていない感情を、上手く言葉で表現できないもどかしさと、今の定まり切っていない精神状態で安易に口にしてしまいたくない、という非常にデリケートな心の機微が理由として考えられた。

困り眉になってどう説明したものかと曖昧に微笑む私も顔をじっと見て、筆頭医師はペコリと頭を下げた。

『あの時自分がきちんと麻酔薬を持ってきていればお嬢様にあんな苦行を強いることなんてなかったのに。』的な内容をぽつぽつと後悔混じりに語り聞かされ、それに返せる私らしい言葉は次の通り。

『ではその謝罪を受けるにあたり、私が要求することはたったの1つ。 昨日食べ損ねてしまったレヴェイヨンの御馳走が心残りでならず、空腹を訴える腹部が切なくってなりません…! なので病理食には絶っっっっ対に、戻そうなどとご提案なさらないでくださいね!?』

要約すると『悪いと思ってるならガッツリと食べられるようきちんと取り計らってね♡』と云った具合の、何とも食い意地の突っ張った意味に集約される。

これを耳にした筆頭医師は、これぞ正にぽか~~ん顔、と云う絶妙な表情でたっぷり3分間は呆けた後、いつだったかと同じように、堪らず噴き出して笑い転げ出してしまわれた。

私が身を起こして座る寝台を中心に、それまで辺りに立ち込めていた真面目くさった重苦しい雰囲気は良い感じに適度に緩んで、ふにゃへにゃっと撓んでから霧散していった。

『それだけ食欲に忠実な胃袋してんなら、元気で間違いないっすね! 寧ろ健康的過ぎて、食べ過ぎないか不安になるくらいっすわ!!』

一頻り笑い終わった後、ひーひー言いながらもたらされた筆頭医師からの太鼓判に、綻ぶ顔が止められなかった。

問診も終わり、これなら他の面子との面会も大丈夫そうだと前置いた後。

『騎士団長殿から面会依頼がありましてね? お嬢様の問診次第で返答する事になってたんすけど、これなら大丈夫そーーなんで“面会可”って伝えときますね。 んじゃお大事に、夜また診に来ますんで、そん時まで勝手に彷徨いたりしてぶっ倒れたりしないで下さいね?』

とかなんとか、とんでもない爆弾発言を残してそそくさと退室していった。
出ていくときは本当に早い。

 ――そんなにお父様が怖いのかしら…? でもその気持、わからないでもない!――

お母様と私が事に絡むと、最近のお父様は途端本当に面倒くさいクレーマーに変貌してしまわれる。

 ――お母様に対してはそのままでも問題なしっ!
でもできれば私に関する事柄にはもうちょーーっと、寛容になっていただいて、その上で監視の目を緩めてくださっても問題ないと思うのだけど、これってば叶わぬ願いなのかしら?――

とか何とか考えている間に、騎士団長様は早くもご到着されてしまったらしい。

コンコン。

誰がノックしたのかわからないけれど、あの騎士団長ヴァルバトス殿であるはずがない。
そう考えた私の予想は裏切られ、今優しく・・・ノックしたのがあのヴァルバトス卿であったと云う事実は衝撃以外の何物でもなかった。

だからちょっと、気付くのが遅れてしまった。

ヴァルバトス卿の立派な体躯がこれまた予想外に足音も静かにこの部屋に滑り込んできた衝撃によって、その後を追うように、この時もう1人の人物が足を踏み入れたという事実に。

「おう、嬢ちゃん!! 一昨日ぶりだなぁ~、思ってたより元気そーーで何よりだぜっ!! んでよ、こいつぁー…あれだよ、あれ!! まぁ、細けーー事は後にして、自己紹介だけでも先にさせてくれや!!」

言葉の後にも先にも、いつものように景気よく呵わなかったのは、私に対する幾許かの配慮によるものだったのだろうか。
頭を過ぎった微かな疑問が途端に吹き飛ぶ。
そんな威力が発揮されたのは、この部屋に於いては私に対してだけだろうと確かな確信が持てる。
静謐な水面を連想させる、誠実で真摯な響きの声がこの部屋の空気を震わせた。

「お初にお目にかかります、ライリエルお嬢様。 アルノー・モーリアックと申します。 仔細は後ほど、団長から説明があるかと存じますが、明日の案内役を拝命いたしました為、本日先んじてご挨拶にうかがわせていただきました。 以後お見知り置きください。」

口を開く少し前から頭を下げていた為、声にばかり気を取られてしまっていた。
ゆっくりと身を起こした後、アルノー卿から向けらた真っ直ぐな視線を受けとめて、息を呑んで固まる。

スティブナイトの瞳が鋭く光を放つ。
その光は声と同じ、真摯であり誠実であり、強い信念を宿した者特有の輝きだった。
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