僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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六章

北斗という漢、1

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 プレハブの中に嵐丸はいなかった。北斗がそう頼んだのかエイミィがそう判断したのか、もしくは教育AIの配慮なのかは判らないが、その方がありがたいのは事実。急いでいる素振りはまるで見せずとも、僕ら二人は今、とても急いでいるからだ。ロッカーの前に立った北斗に、僕は背を向け口を閉ざす。必要な沈黙を急いで消化し、僕らは話し合いを始めた。
「眠留が知ったように、俺は昴にふられた」
「うん」
「昴が大人びた雰囲気を纏うようになった頃から覚悟はしていたが、実際にふられると、想像以上にこたえた」
「うん」
「紫柳子さんのお店のガレージで泣いたのは、そのせいだな」
 体拭きシートの消臭防菌剤の匂いがプレハブに満ちる。その匂いの強さから、いつもより多くのシートを使っていることが窺えた。急いでいるのか、焦っているのか、それともその必要があったのか。僕には、その必要があったように感じられた。
「体育祭の日の夜、昴が会って話したいと電話してきた。用件は分かっているからこのままでいいと言うと、せめて3D電話にしたいと頼まれ、そう変えた。昴の映像を見た瞬間、俺は言ったよ。この件を眠留に伏せたいと昴が願うなら、俺はそれに協力しようと」
 僕は全身で息を吐き、そして全身で息を吸った。予想していたとはいえ、本人の口からそれを直接伝えられたことが、無意識領域で僕にそれを強制したのである。精神的な窒息状態から解放された僕は、想いのままを告げた。
「そうだろうと思ったよ。一年生どころか上級生をも巻き込む計画を立て、それを実現し、昴の望みを百日以上叶えることができる人は、この世に北斗しかいないからね」
「自分で言うのもなんだが、多くはいないだろうな」「日本の国防を担当する、この国唯一のSSランク量子コンピューターでも無理だと思うよ」「流体力学に基づく噂の制御だけならお手の物だろうが、昴の3D映像を見るなりあの提案をするのは、コンピューターには無理かもな」「噂の制御には、前期委員一年長の経験が活きたんだろ」「バレたか」
 精神的窒息状態から解放されたのは、北斗も同じだったのだろう。僕らはそれ以降、滑らかに会話を進めていき、北斗は真相を次々明かしていった。
 二人が別れたかもしれないという噂を、どの方法で誰に流せば効果的なのかを、生徒達の気質と影響力を加味して北斗は決めて行った。昴が休部届けを出す際、僕の家で修行し直すつもりと部長に言うよう勧めたのも北斗だし、その様子を速報として一年生校舎に流したのも北斗だし、学内ネットに書き込む文面とタイミングを考えたのも北斗だった。昴が抱いている僕への想いを明かすか明かさないかを昴にすべて任せることで昴の本心を引き出し、それにより三角関係の噂を自然発生させ、そのエネルギーを協力体制の維持力として使ったのも北斗だった。その維持力が無ければ協力体制は夏休み中に瓦解すると予想したから北斗はそれを行い、そしてそれが的中したからこそ、僕は最高の夏休みを過ごすことができた。百日以上に渡るこの計画を、昴の3D映像を見るなり閃くことが出来るのは、まさにこの世でただ一人、北斗しかいない。それを知っていたのに、どうすれば丸く収められるかなどと姑息なことを考えていたから、僕は自分への不信を募らせ、自分を信じることも北斗を信じることもできなくなっていた。それを僕は、ようやく悟ったのである。
 ならば、この質問をする資格が、今の僕にはある。その確信のもと、僕は問うた。
「ならなぜ、昴はそれを望んだのかな」と。

 北斗に続きプレハブを出る。振り返りドアを閉める際、プレハブの床の中央に立ち、僕らに尾を振る嵐丸が目に映った。僕と北斗は笑顔で嵐丸に手を振り、静かにドアを閉めた。
 寮生が通学路として使っているグラウンド沿いの道が見える場所まで歩いて来たところで、北斗は立ち止まる。そしてハイ子を取り出し、教育AIに尋ねた。
「アイ、遅刻ギリギリまで待てば、俺達の会話が聞かれないほど人はまばらになるか?」
「遅刻ギリギリで急いでいても、一年生はあなた達の会話に耳を澄ませるでしょうね」
「なら俺は校則を破り、グラウンド経由で登校することを宣言する」
 躊躇なくそう宣言した北斗へ、アイは盛大なため息を付いた。
「まったくもう。校則破りを宣言した方が罰則は重くなることを承知している人に、言うことは何もありませんからね」
 慌てて二人の会話に飛び込み、僕も宣言した。
「アイ、僕も破るよ。うんと厳しいのを待ってるね」
「あなたたち二人だけならまだしも、その罰則に男子三人と女子三人が率先して付き合うことを考えたら、私は頭痛がしてきました。この頭痛を加えた罰則を、ただちに施行します。二人とも、プレハブのドアの前に駆け足で来なさい!」
 初めて聞くその厳格な声に、僕らは全力疾走した。そして指定されたドアの前で二人同時に踵を打ち鳴らし、直立不動になる。するとアイがサークルの3D映写機を操作したのか、3メートル四方の蜃気楼壁が周囲に展開した。駆け足の汗に加え冷汗を流し始めた僕らの眼前に光の粒子が集まり、次第に人の型を取ってゆく。そしてアイはあろうことか、いつもの校章ではない、人の姿をした自身の3D映像をそこに映し出した。
 それは、僕が想像していたよりうんと若い、お姫様だった。平安絵巻から抜け出て来たとしか思えない十二単に身を包む、うりざね顔のお姫様だった。言語を絶する可憐の極みたるその姿に文字通り絶句する僕らへ、お姫様は煌めく桜色の唇を開いた。
「あなた達が望むなら二台のハイ子を介し、あなた達を相殺音壁と増幅音壁で二重に包みます。あなた達が小声を心がけ周囲の人達から2メートル以上距離を保っている限り、あなた達は夏休みの当り障りない会話をしているよう皆には聞こえます。ただしそれは電気を大量消費するため、それが可能なのはグラウンド東側道路の南端までです。また、その後ハイ子を使うには、教室で有料充電をせねばなりません。あなた達は、それを望みますか」
 僕らは声を揃えた。
「「はい、望みます!」」
「よろしい。では二人とも、ハイ子をシャツの胸ポケットに入れなさい」
 いそいそと二人で言われたとおりにした。
「あなた達の友人知人がいないタイミングを私が測りますから、指示に従いここを離れなさい。そして二台のハイ子を介する二重音壁の形成は世にそれが公表されるまで、また私の姿は湖校を卒業するまで、一切口外しないことを不埒ふらちなあなた達への罰則とします。二人とも、それを守れますか」
 僕らは完璧なタイミングで再び踵を鳴らし、最敬礼して宣言した。
「「はい、守ります!」」
 良いでしょう、とにっこり微笑み、教育AIは光の粒となって消えて行った。
 十八秒後、カウントゼロで移動を開始するまで、僕と北斗はただの一言も言葉を交わせなかったのだった。
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