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十八章
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幸い、その時は想像以上に早く訪れた。小声で話し合っていた久保田と石塚が、緊急事態に気づいてくれたのである。
「議長、いいかな?」
挙手した久保田にただならぬ気配を感じた僕は、
「はい、どうぞ」
それが皆に伝わる声を意図的に作った。苦楽を共にしてきた実行委員達が、ピンと張りつめた気配を一瞬で纏う。会議室の空気がいきなり変わった事にとまどう非実行委員五名を守るように、久保田はさりげなく話し始めた。
「千家先輩に予め伝えていた塗装の講義の出席者は、たしか十人だったよね。教育AIも、この時期なら定員十二の実習室の確保は簡単ですって、言っていただけだったと思う。でも講義の出席者が今日急に増えて、第一回目の日時も今日の五限に急遽決まった。僕らはその準備を、まだ全然していないんじゃないかな?」
久保田と石塚を除く全員が一斉にハッとし、いち早く我に返った香取さんが十指を走らせ、目を見開いた。
「書記として報告します。久保田君の指摘どおり教育AIは、定員十二の実習室の確保は『この時期なら簡単』と言っただけでした。つまり、今日の五限に十六人が実習室を使えるかは、まだ未確定という事です!」
文化祭が開かれる十月になると、実技棟で文化祭の準備をする生徒が激増し、実習室確保が困難になる。他組の生徒に見られない場所でクラス展示の備品を作った方が、文化祭当日のインパクトを増やせるからだ。これは僕も去年の喫茶店で経験しており、女の子たちのメイド服とツートップイケメンのギャルソン服が他組の生徒にバレぬよう、元クラスメイト達は多大な努力をしていた。特に真山と北斗の衣装に関する情報戦は苛烈を極め、体調を崩したファンクラブの子もいたほどだったのだ。そんな強烈すぎる去年の体験が裏目に出て、
――九月の自習室確保はチョロい
なんて油断を、今日のパワーランチメンバーにもたらしていたのである。皆の視線を一身に集めた僕は顔を斜め上に挙げ、あらんかぎりの早口で尋ねた。
「アイ、十六人が使える実習室を、今日の五限に確保できますか!」
教育AIは、大きな溜息を会議室に響かせてから言った。
「文化祭は将来のための実戦授業ですから、確認の不備について私はあえて指摘しませんでした。議長の質問に答えましょう。二十人用の自習室が一つ、指定時刻に空いていますね」
「ならそこを、確保してください!」
「受理しました。使用を許可します」
「「「はあぁぁぁ~~~~」」」
誇張ではなく、さっきの教育AIを十倍する溜息が会議室を満たした。けど僕は、この安堵の溜息が千家さんへの好印象の現れとは、今度ばかりは考えられなかった。僕は顔を引き締め背筋を伸ばす。その意を察して背筋を伸ばしてくれた皆へ、僕は元気よく語り掛けた。
「千家先生に恥じぬ生徒であるよう、さあ、パワーランチを始めよう!」
「「「オオォォ――ッッ!!」」」
普段は出席していない髪飾り制作者の五人も、承諾の声を一糸乱れず揃えてくれた。それが、研究学校最大の謎への宣戦布告として胸に響いた僕は、一人秘かに闘志を燃え上がらせてゆく。とは言え僕が最初に着手したのは、
「那須さん、暫く議長を代行してもらえるかな」
那須さんへの議長権移譲だったんだけどね。
千家さんの3D映像が、唐突なほど急に消えたことを僕は誤解していた。暗示化粧を半分にした恥ずかしさが唐突さを生んだのだと、考えてしまっていたのだ。でも、今なら解る。六年生の千家さんは、実習室を確保していない僕らの見落としを最初から把握していた。しかし自分がこのまま会議室にいたら僕らの浮かれっぷりは益々加速し、下手したら最後まで実習室の未確保に気づけないかもしれない。したがってそれを避けるべく千家さんは急に消えたのだと、僕はやっと理解できたのである。その謝罪もあったし、実習室の部屋番号を伝える等々の仕事もあったため、こう頼んだのだ。
「那須さん、暫く議長を代行してもらえるかな」
那須さんは僕の意図を十全に酌み、会議室の皆に聞こえるようハキハキ答えた。
「猫将軍君は、実習室の部屋番号を千家さんに伝えて、講義の打ち合わせをするのよね。会議の進行は、私に任せて」
返答の中に必要な情報を自然に織り込み、皆との共有を図った那須さんの力量に、敬意をもって頭を下げる。ふと鼻腔に初めての香りを感じ、そして脳裏に、白い花を咲かせている山の木々が映し出された。花の白と蕾の赤と葉の緑が、山の清浄な風にそよいでいる光景に、胸が締め付けられてゆく。けど、
「うん、お願いします」
上体を起こすまでに、いつもの声と表情をどうにかこうにか作り終える事ができた。「今回は及第点ってことで許してあげようか、みっちゃん」「ありがとう、さっちゃん」 そんな会話が耳をかすめた気がして、僕は叩かれなかった頭を掻かずにいられなかった。
講義を開く実習室の部屋番号を明記したメールを、千家さんに送る。一分と経たず返信が届いたのは予想どおりだったが、そこに記された千家さんの人間性の深さは、到底予想しえないものだった。
『この時期に実習室の確保を失念しても、二年生ならまだ仕方ないから大目に見てあげてねって、パワーランチの場を離れてすぐ教育AIに頼んでおいたわ。アイは了承してくれたけど、もしその件でお小言をもらっていたなら、それは必要な教育をアイが施してくれたという事。猫将軍君、生徒達の気質を知っておくためにも、実習室の情報通知が遅れた経緯とアイの処置と、そしてそれへの皆の反応を、教えてくれる?』
僕は記憶を慎重かつ客観的に再生して文を綴り、千家さんへ送った。今度の返信は、文字量は少ないのに時間は若干かかるはずとの僕の予想は、量はともかく時間については外れた。なんと、予想を三倍する時間がかかったのである。まあでも、
『なぜ私は、そうも好印象を抱いてもらえたのかな?』
との返信を読むや、待ち時間中に書いておいたメールを送れたのだから、外れて良かったのである。
『昨夜も話しましたが、新忍道部員と集合写真を撮ったとき、千家さんの美しさにみんな大はしゃぎしていましたよね。一年生の三人は特に嬉しかったらしく、昨日の部活中も隙を見つけては千家さんの話をしていました。素の千家さんを素直に受け入れるのは年下なのだと、僕は確信しています』
その後、チャット申請が送られてきたので根掘り葉掘り聞きだしたところ、一昨日の土曜に神社を訪れたさい暗示化粧をしなかったのは、荒海さんの助言だったらしい。荒海さんも、素の千家さんを素直に受け入れるのは年下と前々から考えていたので、暗示化粧をせず神社に来るよう千家さんに勧めた。それは見事的中し、写真撮影時の後輩達の喜びようを目の当たりにした荒海さんは、「眠留がいるから塗装の講義も半分の化粧で大丈夫だ」と言った。それに千家さんが素直に従ったというのが、今日の真相だったそうなのである。その事も嬉しかったがそれより何より、千家さんが荒海さんを、
――仁くん
と呼んでいるのが僕は嬉しくて堪らなかった。苗字より名前の方が上だなんて思わないけど、あの真田さんさえ、荒海さんを苗字で呼んでいた。よって千家さんとのチャットに「仁くん」という言葉が現れるたび、ふにゃふにゃになりたがる顔を平常に保つべく、僕は大変な苦労をしなければならなかったのである。これでも一応、議長だからね。
もちろんそれは表情に限ったことであり、チャットでの突っ込みは忘れなかった。というか、千家さんがチャットを通じてノロケ話をしたがっているのは確実だったので、
「いやはや熱々ですね」「そんなんじゃない!」「いよっ、さすがは婚約済!」「そ、それはそうだけど・・・」「初めて名前で呼んだときの荒海さん、どんな様子でしたか?」「うん聞いて聞いて、仁くんったらね!」
みたいな感じに二人でメチャクチャ盛り上がってしまった。議長を代行してくれている那須さんが、ジットリ湿った視線を皆にバレぬよう一度だけ向けて来たから、後で謝っておかなきゃな・・・
「議長、いいかな?」
挙手した久保田にただならぬ気配を感じた僕は、
「はい、どうぞ」
それが皆に伝わる声を意図的に作った。苦楽を共にしてきた実行委員達が、ピンと張りつめた気配を一瞬で纏う。会議室の空気がいきなり変わった事にとまどう非実行委員五名を守るように、久保田はさりげなく話し始めた。
「千家先輩に予め伝えていた塗装の講義の出席者は、たしか十人だったよね。教育AIも、この時期なら定員十二の実習室の確保は簡単ですって、言っていただけだったと思う。でも講義の出席者が今日急に増えて、第一回目の日時も今日の五限に急遽決まった。僕らはその準備を、まだ全然していないんじゃないかな?」
久保田と石塚を除く全員が一斉にハッとし、いち早く我に返った香取さんが十指を走らせ、目を見開いた。
「書記として報告します。久保田君の指摘どおり教育AIは、定員十二の実習室の確保は『この時期なら簡単』と言っただけでした。つまり、今日の五限に十六人が実習室を使えるかは、まだ未確定という事です!」
文化祭が開かれる十月になると、実技棟で文化祭の準備をする生徒が激増し、実習室確保が困難になる。他組の生徒に見られない場所でクラス展示の備品を作った方が、文化祭当日のインパクトを増やせるからだ。これは僕も去年の喫茶店で経験しており、女の子たちのメイド服とツートップイケメンのギャルソン服が他組の生徒にバレぬよう、元クラスメイト達は多大な努力をしていた。特に真山と北斗の衣装に関する情報戦は苛烈を極め、体調を崩したファンクラブの子もいたほどだったのだ。そんな強烈すぎる去年の体験が裏目に出て、
――九月の自習室確保はチョロい
なんて油断を、今日のパワーランチメンバーにもたらしていたのである。皆の視線を一身に集めた僕は顔を斜め上に挙げ、あらんかぎりの早口で尋ねた。
「アイ、十六人が使える実習室を、今日の五限に確保できますか!」
教育AIは、大きな溜息を会議室に響かせてから言った。
「文化祭は将来のための実戦授業ですから、確認の不備について私はあえて指摘しませんでした。議長の質問に答えましょう。二十人用の自習室が一つ、指定時刻に空いていますね」
「ならそこを、確保してください!」
「受理しました。使用を許可します」
「「「はあぁぁぁ~~~~」」」
誇張ではなく、さっきの教育AIを十倍する溜息が会議室を満たした。けど僕は、この安堵の溜息が千家さんへの好印象の現れとは、今度ばかりは考えられなかった。僕は顔を引き締め背筋を伸ばす。その意を察して背筋を伸ばしてくれた皆へ、僕は元気よく語り掛けた。
「千家先生に恥じぬ生徒であるよう、さあ、パワーランチを始めよう!」
「「「オオォォ――ッッ!!」」」
普段は出席していない髪飾り制作者の五人も、承諾の声を一糸乱れず揃えてくれた。それが、研究学校最大の謎への宣戦布告として胸に響いた僕は、一人秘かに闘志を燃え上がらせてゆく。とは言え僕が最初に着手したのは、
「那須さん、暫く議長を代行してもらえるかな」
那須さんへの議長権移譲だったんだけどね。
千家さんの3D映像が、唐突なほど急に消えたことを僕は誤解していた。暗示化粧を半分にした恥ずかしさが唐突さを生んだのだと、考えてしまっていたのだ。でも、今なら解る。六年生の千家さんは、実習室を確保していない僕らの見落としを最初から把握していた。しかし自分がこのまま会議室にいたら僕らの浮かれっぷりは益々加速し、下手したら最後まで実習室の未確保に気づけないかもしれない。したがってそれを避けるべく千家さんは急に消えたのだと、僕はやっと理解できたのである。その謝罪もあったし、実習室の部屋番号を伝える等々の仕事もあったため、こう頼んだのだ。
「那須さん、暫く議長を代行してもらえるかな」
那須さんは僕の意図を十全に酌み、会議室の皆に聞こえるようハキハキ答えた。
「猫将軍君は、実習室の部屋番号を千家さんに伝えて、講義の打ち合わせをするのよね。会議の進行は、私に任せて」
返答の中に必要な情報を自然に織り込み、皆との共有を図った那須さんの力量に、敬意をもって頭を下げる。ふと鼻腔に初めての香りを感じ、そして脳裏に、白い花を咲かせている山の木々が映し出された。花の白と蕾の赤と葉の緑が、山の清浄な風にそよいでいる光景に、胸が締め付けられてゆく。けど、
「うん、お願いします」
上体を起こすまでに、いつもの声と表情をどうにかこうにか作り終える事ができた。「今回は及第点ってことで許してあげようか、みっちゃん」「ありがとう、さっちゃん」 そんな会話が耳をかすめた気がして、僕は叩かれなかった頭を掻かずにいられなかった。
講義を開く実習室の部屋番号を明記したメールを、千家さんに送る。一分と経たず返信が届いたのは予想どおりだったが、そこに記された千家さんの人間性の深さは、到底予想しえないものだった。
『この時期に実習室の確保を失念しても、二年生ならまだ仕方ないから大目に見てあげてねって、パワーランチの場を離れてすぐ教育AIに頼んでおいたわ。アイは了承してくれたけど、もしその件でお小言をもらっていたなら、それは必要な教育をアイが施してくれたという事。猫将軍君、生徒達の気質を知っておくためにも、実習室の情報通知が遅れた経緯とアイの処置と、そしてそれへの皆の反応を、教えてくれる?』
僕は記憶を慎重かつ客観的に再生して文を綴り、千家さんへ送った。今度の返信は、文字量は少ないのに時間は若干かかるはずとの僕の予想は、量はともかく時間については外れた。なんと、予想を三倍する時間がかかったのである。まあでも、
『なぜ私は、そうも好印象を抱いてもらえたのかな?』
との返信を読むや、待ち時間中に書いておいたメールを送れたのだから、外れて良かったのである。
『昨夜も話しましたが、新忍道部員と集合写真を撮ったとき、千家さんの美しさにみんな大はしゃぎしていましたよね。一年生の三人は特に嬉しかったらしく、昨日の部活中も隙を見つけては千家さんの話をしていました。素の千家さんを素直に受け入れるのは年下なのだと、僕は確信しています』
その後、チャット申請が送られてきたので根掘り葉掘り聞きだしたところ、一昨日の土曜に神社を訪れたさい暗示化粧をしなかったのは、荒海さんの助言だったらしい。荒海さんも、素の千家さんを素直に受け入れるのは年下と前々から考えていたので、暗示化粧をせず神社に来るよう千家さんに勧めた。それは見事的中し、写真撮影時の後輩達の喜びようを目の当たりにした荒海さんは、「眠留がいるから塗装の講義も半分の化粧で大丈夫だ」と言った。それに千家さんが素直に従ったというのが、今日の真相だったそうなのである。その事も嬉しかったがそれより何より、千家さんが荒海さんを、
――仁くん
と呼んでいるのが僕は嬉しくて堪らなかった。苗字より名前の方が上だなんて思わないけど、あの真田さんさえ、荒海さんを苗字で呼んでいた。よって千家さんとのチャットに「仁くん」という言葉が現れるたび、ふにゃふにゃになりたがる顔を平常に保つべく、僕は大変な苦労をしなければならなかったのである。これでも一応、議長だからね。
もちろんそれは表情に限ったことであり、チャットでの突っ込みは忘れなかった。というか、千家さんがチャットを通じてノロケ話をしたがっているのは確実だったので、
「いやはや熱々ですね」「そんなんじゃない!」「いよっ、さすがは婚約済!」「そ、それはそうだけど・・・」「初めて名前で呼んだときの荒海さん、どんな様子でしたか?」「うん聞いて聞いて、仁くんったらね!」
みたいな感じに二人でメチャクチャ盛り上がってしまった。議長を代行してくれている那須さんが、ジットリ湿った視線を皆にバレぬよう一度だけ向けて来たから、後で謝っておかなきゃな・・・
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