僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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二十二章

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 退官後、颯太は実家を継いでいた兄の下を訪ね、社長の実弟なことと陸軍大佐だったことを秘し、下っ端社員として働き始めた。内部調査を行ったとかでは更々なく、颯太はただ単に、下っ端でいたかったらしい。日露戦争の英雄と祭り上げられ、陸軍大学で数多の若手将校にかしずかれ、業者や軍属が利益にあずかろうと揉み手で近づいて来る生活と、颯太は縁を断ちたかったのだ。その新しい生活は、颯太にまこと合った。会社の同僚も最初こそ颯太を敬遠していたがそれは数日で薄まり、翌週には消え、そしてひと月が過ぎた頃には、仲間として完全に受け入れられていた。下っ端でいたいという颯太の望みはたった一カ月でついえたが、それでも颯太は、対等な仲間を得られた新しい人生を心から楽しんでいた。そして十年後、六十歳になった颯太はようやくあることに気づいた。それは、師匠の授けてくれた最高の教えは、
 ―― この生活だった
 との気づきだったのである。
 師匠の型をなぞる修業も、剣士としての颯太に途方もなく役立った。颯太の同世代や下の世代の、かつて剣道日本一に輝いた剣士達と試合をしても颯太は一度も負けたことがなく、それは骨髄に染みた師匠の型のお陰であることは間違いなかった。軍人としての颯太にも、師匠の型は役立っていた。型をなぞるにつれ颯太からにじみ出る古武士の風格は強まり、武士の世を知る明治の元勲達がそれを称賛したため、颯太は清廉な軍人であり続けることができたのだ。このように師匠の型は、剣士としても軍人としても颯太に多大な恩恵をもたらしたが、師を亡くして十年経ちようやく颯太は、師が授けてくれた最高の教えを知った。それは『剣の技を磨くだけでは剣を極められず、剣の道を介する正しい日常を生きてこそ、剣は極められる』との教えだった。それに気づいた颯太の心にその刹那、声が轟いた。空気の振動を音として人が捉えるように、心の振動を声として捉えた颯太は、聴覚ではなく心でその声を聞いた。それは、
 ―― 六十年でそれに至ったなら上出来
 という、お褒めの言葉だったのである。就寝前のまどろみにいた颯太は起き上がり、布団の上に正座し、その声の贈り主と亡き師匠へ、一時間近く頭を垂れ続けたと言う。
 颯太によると、それ以降の過去世の記憶は曖昧らしい。自分でもその理由がわからず、いやおそらく極々朧気にわかっているだけなので言語化できないその理由へ、北斗が推測を述べた。
「その声を聴いた以降、颯太の心の波長は急激に高まった。よって今の颯太では、その高き波長に心をまだ合わせられないのではないか?」
 そのとたん颯太は去年長野で出会った豆々しい豆柴になり、尻尾を千切れんばかりに振って「絶対それです!」と答えた。台所に朗らかな笑いが満ちる。夕飯を共にしていた全員が、いつしか颯太の話に耳を傾けていたんだね。
 北斗の推測に確証を得たからか、颯太は声を聴いた以降の人生と、生まれ変わったその次の人生について、少し詳しく思い出せたらしい。だがそれは北斗の「心の波長論」に準拠し、特に声以降の人生にはそれが顕著に現れ、低い波長である苦悩がその大半を占めていた。
 声を聴いた1940年は日中戦争の三年目、第二次世界大戦の二年目だった。その頃は日本の快進撃が続いた時期であり、翌年の真珠湾攻撃成功でそれは絶頂を迎えるも、颯太は深い憂いにただただ沈んでいた。話は前後するが、声を聴いた四年前の1936年、颯太の教え子である陸軍の青年将校達が二二六事件を起こしていた。清廉な軍人の代表格だった颯太は軍に在籍中、その将校達から非常に慕われていた。軍を去る折、颯太は断腸の想いで青年達との親交を断ち、また偽名を使い名古屋の支社で働いていた事もあって、二二六事件時も青年達から連絡が来ることはなかった。ただ颯太は二二六事件の前日、東京の本社にいる兄の社長から「お前のかつての教え子たちがお前に会いたがっているようだぞ」との電話を受けていた。そのとき颯太は胸に名状しがたい痛みを覚え、名古屋支社から東京本社へ社員を派遣する機会があったら社長権限でそれを自分にして欲しいと兄に訴えた。半世紀ぶりにお前のわがままを聞いたとお兄さんは面白がりそれを承認するも、それが実行される事はなかった。言うまでもなく、二二六事件が起きたからである。颯太も憲兵に出頭を命じられたが、係わりが一切なかったとすぐ証明され自宅に返された。ただ、事件に関わったかつての教え子たちの全員が叛乱罪で死刑になったことは颯太を苦しめ、そしてそれは、真珠湾攻撃成功に沸く世情を見るにつれ強まっていった。あの教え子たちは確かに性急すぎたが、増長し腐りきった軍隊を正そうとする志は、正しかったとしか思えない。クーデターが別の形で行われていたら、日中戦争や真珠湾攻撃も別の形になっていたように感じる。そして自分は、その手助けができたのではないか? 自分は国家の進む道を、誤らせてしまったのではないか? 颯太は事件から五年経っても、心の奥深くで苦悩していたのである。
 颯太の予想どおり日本は負けに負け、GHQの支配下に置かれた。戦前の日本の悪い面だけでなく、良い面も次々変えてゆくGHQに、颯太は颯太なりに抵抗した。抵抗の詳細は思い出せないそうだが、経済界には颯太と志を等しくする者が大勢いて、颯太はGHQに対抗するとある秘密結社の中枢にいたと言う。北斗が瞳を輝かせていたから、事によるとその秘密結社に心当たりがあるのかもしれない。
 秘密結社の中枢のみならず、颯太は経済界でも中心的立場にいたらしい。申し分なく大物だった前世を持つこの後輩がそれに反し、「多分なのですが」と気弱な声で語ったところによると、次の人生も経済に身を投じることを、
 ―― 亡くなってから誕生までの間
 に颯太は決めたとの事だった。大量の過去世の話を堂々としつつも、颯太はこの「亡くなってから誕生まで」の箇所に限ってはなぜか多大な恥ずかしさを覚えるのか、顔を赤くして身をすぼめていた。それがとても僕に似ており、僕自身がそう思う程なのだから皆にとってはもっとそうだったらしく、皆は笑いを必死に堪えながら「お前と瓜二つなんだからお前が何とかしろ」系の視線を僕に向けていた。ただ三人娘を始めとする女性陣は異なり、母犬が子犬に注ぐ眼差しで颯太を見つめていて、そしてどういう合意が成されたのか一瞬の目配せののち、
「颯太君の感覚は正しいと思うよ」
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