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第三話
―感情の芽生え。仕事か、それとも——?―
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「ありがとうございました、今日の時間、とても大切でした」
ホテルの一室を出る前、リクは最後まで穏やかだった。
扉の前で小さく頭を下げ、駅までの帰り道、私の歩幅にさりげなく合わせてくれた。
けれど、彼からプライベートな話を聞くことは一度もなかった。
名前も、歳も、休日の過ごし方も。
知っているのは、“リク”というセラピストとしての彼だけ。
それが“サービス”であり、私が買った時間の一部なのだとわかっている。
……それでも、あの手の温もりを思い出すたびに、胸の奥がざわつく。
自宅の玄関を開けると、いつもの空気が冷たく迎えた。
玄関の隅に並ぶ夫の革靴、洗面所にかけられたタオルの湿気、食卓の上に置きっぱなしの新聞。
すべてが、色を持たないモノクロの風景のようだった。
ついさっきまで、私はあの部屋で、裸になり、触れられ、名前を呼ばれていたというのに——。
スマホを充電器につなげ、ためらいがちに画面を開く。
ふと、通知のひとつに目が止まった。
リク:
本日はありがとうございました。
少しでもリラックスできていたら嬉しいです。
ゆっくりお休みくださいね。
たった三行のメッセージ。
仕事のあいさつとしては、完璧すぎるほど完璧だった。
……でも、その“ちょうどよさ”が、かえって胸にしみる。
——「ゆっくりお休みくださいね。」
まるで、恋人に言われたような錯覚を覚える。
けれど、次の瞬間には現実に引き戻される。
私は、彼にとってただの“お客さま”でしかない。
返信を打つ指が、スマホの上で止まった。
「今日はありがとうございました。とても心地よい時間でした」
……その言葉を送るかどうか、しばらく迷って——
結局、送った。
既読になったのは、数分後。
でもそれ以上、彼からの返信はなかった。
夜、夫が帰宅し、私たちはいつものように他愛ない会話を交わした。
リビングのソファに座って、テレビのバラエティを見ながら笑っている夫の横顔を見て、
どこか遠くにいるような感覚に陥った。
この人は、もう何年も、私の身体に触れていない。
そして私もまた、そのことを責めることすら、諦めていた。
スマホが震えた。
リク:
……今日の雰囲気、とても印象的でした。
次にお会いできるのを、楽しみにしています。
たった一文。
でもそれは、あの“完璧な定型文”とは、どこか違っていた。
「印象的でした」
それが、社交辞令なのか、彼の“個人”の感情なのかは、わからない。
でも私は、スマホを胸元にそっと押し当てて、目を閉じた。
——会いたい。
もう、次の予約のことを考えてしまっている自分に気づいた。
これは仕事?
それとも——何かが、ほんの少し、動き出しているのだろうか。
ホテルの一室を出る前、リクは最後まで穏やかだった。
扉の前で小さく頭を下げ、駅までの帰り道、私の歩幅にさりげなく合わせてくれた。
けれど、彼からプライベートな話を聞くことは一度もなかった。
名前も、歳も、休日の過ごし方も。
知っているのは、“リク”というセラピストとしての彼だけ。
それが“サービス”であり、私が買った時間の一部なのだとわかっている。
……それでも、あの手の温もりを思い出すたびに、胸の奥がざわつく。
自宅の玄関を開けると、いつもの空気が冷たく迎えた。
玄関の隅に並ぶ夫の革靴、洗面所にかけられたタオルの湿気、食卓の上に置きっぱなしの新聞。
すべてが、色を持たないモノクロの風景のようだった。
ついさっきまで、私はあの部屋で、裸になり、触れられ、名前を呼ばれていたというのに——。
スマホを充電器につなげ、ためらいがちに画面を開く。
ふと、通知のひとつに目が止まった。
リク:
本日はありがとうございました。
少しでもリラックスできていたら嬉しいです。
ゆっくりお休みくださいね。
たった三行のメッセージ。
仕事のあいさつとしては、完璧すぎるほど完璧だった。
……でも、その“ちょうどよさ”が、かえって胸にしみる。
——「ゆっくりお休みくださいね。」
まるで、恋人に言われたような錯覚を覚える。
けれど、次の瞬間には現実に引き戻される。
私は、彼にとってただの“お客さま”でしかない。
返信を打つ指が、スマホの上で止まった。
「今日はありがとうございました。とても心地よい時間でした」
……その言葉を送るかどうか、しばらく迷って——
結局、送った。
既読になったのは、数分後。
でもそれ以上、彼からの返信はなかった。
夜、夫が帰宅し、私たちはいつものように他愛ない会話を交わした。
リビングのソファに座って、テレビのバラエティを見ながら笑っている夫の横顔を見て、
どこか遠くにいるような感覚に陥った。
この人は、もう何年も、私の身体に触れていない。
そして私もまた、そのことを責めることすら、諦めていた。
スマホが震えた。
リク:
……今日の雰囲気、とても印象的でした。
次にお会いできるのを、楽しみにしています。
たった一文。
でもそれは、あの“完璧な定型文”とは、どこか違っていた。
「印象的でした」
それが、社交辞令なのか、彼の“個人”の感情なのかは、わからない。
でも私は、スマホを胸元にそっと押し当てて、目を閉じた。
——会いたい。
もう、次の予約のことを考えてしまっている自分に気づいた。
これは仕事?
それとも——何かが、ほんの少し、動き出しているのだろうか。
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