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拒絶
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その日から、文穎は人が変わったように人付き合いが良くなった。以前にも増して仕事に熱中し、そうでないときは交友関係を広げる為に動いた。そして、空いた時間で仲孝の元を訪ねたり、武術の稽古をしたりと忙しく過ごす。
そんな日々が一年、二年と続き、仲孝に位が与えられる。若い彼にはそぐわないその官位はやはり彼の家によるものであり、反感を買うものでもあった。誰も否定できないほどの実力を持ち、人望も厚い文穎が進んで彼に頭を下げることで、仲孝を凡愚と呼ばせないようにしているだけである。
三年、四年、五年、月日は流れていく。気付けば仲孝も兄の歳を越え、伯明がいなくなってから八年が過ぎていた。二十八となった文穎は念願の枢密院に配属されることとなった。文穎の思いを知っていた仲孝は、祝いの為にと彼を久しぶりに郭家の屋敷に招待した。彼が通ったこの建物は、今は仲孝の妻子が暮らしている。
「誰もいないのですか」
月明かりだけが二人を照らす。妙な静けさに文穎は訝しげに問う。
「はい。完全に人払いを済ませてあります」
祝いにしては暗く沈んだ声で仲孝は返す。彼が文穎を押し込んだのは、そこだけが、時間が止まったように散らかった部屋だった。
「どういうつもりですか」
牀に並んで座る。文穎の言葉は仲孝に向けられていたけれど、文穎の目は仲孝を映してはいなかった。
「本当に、兄上を探しに行かれるおつもりなのですか」
文穎の問いには答えず、仲孝は問いで返す。垂れ下がった文穎の手を仲孝は握ろうとするが、軽く振り払われてしまう。
「意味がないと分かっていても、行かなければならぬのです。私は、あいつに一生を捧げました」
俯いて文穎は苦しそうに吐き出す。彼が感情を見せるのは、かなり久しぶりのことだった。これまで考えないようにしていた、溜め込んでいた涙が、今にも溢れ出しそうで、彼は掌に爪を食い込ませる。恐る恐る仲孝がその手に手を重ねれば、今度はちらと見るだけでそのままにした。
唇を噛んで震える文穎の痛々しさに、仲孝はどんな言葉を掛けることも躊躇われた。胸の中で膨らんでいく痛みに、彼もまた拳に力が入った。
「痛い」
小さく呟いた文穎の言葉に、仲孝は慌てて手を離す。
「あ、ごめんなさい」
子供のような仲孝の謝罪があり、誰もいない屋敷は痛いほどの静かさに包まれた。
「なぜ、このようなところに連れて来たのです」
顔を向けることもなく文穎は訊ねる。仲孝は何かを言おうとして、口を開けては声を出せずに動かして、溺れる一歩手前にあった。
「私は、鍾先生には、行かないで欲しい」
やっとの思いで紡がれた仲孝の声は、酷く震えていた。
「文官であるあなたが、戦場に向かうことはない。そう思って、安心しておりました。けれどあなたを見たら、私の思い込みが間違っていることを知りました」
言葉一つ一つが刃として刺さっているように、仲孝は呻きながらも必死に訴えようとする。
「軍を直接率いるのは、私の仕事ではありません。我々は、国の危機にあっても、剣を取ることはなく、何を、守ることもなく」
「鍾先生は、陛下や国の為に、いつも尽くしていらっしゃいます。剣を取るばかりが守ることではありません。何が、何がそんなに気に入らぬのですか」
言葉にならない言葉を投げて、仲孝は冷たい夜を裂く。両手で顔を覆って激しい呼吸をしていたが、やがて意を決した仲孝はまっすぐな目で文穎を見る。
「私では、兄上の代わりにはなれませぬか?」
彼から飛び出した言葉に驚きで仲孝の方を向けば、目が合って離せなくなる。
「あなたは、私とあいつの関係を知っているでしょう」
見つめ合ったまま微笑んだ文穎は、闇の中にも儚く揺れた。
「だから、代わりになりたいと言っているのです」
泣きそうな声で告げて仲孝は顔を近付ける。しかし、二人の影が重なる前に、文穎がその白い左手で口元を隠してしまう。
「伯明の代わり、ね。溜まっているなら、手伝ってあげることはできますよ。あなたは伯明に似ていますから」
想定していた拒絶よりも残酷で冷たい文穎の返事に、仲孝は自ら傷付け続けた胸を抉られた心地であった。
「そんな言い方ないでしょう」
力なく文穎を責める仲孝の声には、隠し切れないほどに嗚咽が混ざっている。思い惑ってその選択が仲孝に何を与えるかと随分悩んだものだが、泣き声を隠すこともなくなっていく仲孝を前に、文穎は彼を抱き締め背中を摩った。幼児をあやすような優しい手に、仲孝は一層涙が止まらなくなる。
「取り繕ってはいますけど、私が常識知らずで短気な田舎者であること、あなたはご存知でしょう。何か、勘違いしているのです。一度出したら目も覚めますよ」
そう言って文穎は体を離し、背中を摩っていたその優しい手で仲孝の下半身を撫でる。
「勘違いなんかじゃ」
「勘違いです。あなた、粗野な私のこと苦手だったでしょう。だからといって、今の八方美人だって好きじゃないでしょ」
自嘲する文穎に反論できず、仲孝は心の痛みと快感への期待とに揺れる。
「兄上が取られて、嫉妬もしていたのは認めます。しかし、苦手だったというのは誤解です。茶目なあなたが好きだったから、ずっと協力していたんです」
肩を掴まれて正面から愛を伝えられた文穎は、目を見開いて仲孝を見ていたけれど、やがて満面に笑みを浮かべる。
「そうですか。それは、嬉しいです」
飾りのない喜びを伝えたそのときには確かに彼は笑っていたが、段々と彼の視線は落ちていく。
「申し訳ございません。仲孝殿のお気持ちに応えることはできません。でも、仲孝殿の前では、ちょっと力抜いても良いですか?」
八年間側にいて見ることができなかった、上目遣いの悪戯な笑みを向けられて、仲孝は歯を食い縛った。彼には、どちらを選ぶことも難しかった。
「今後、私の想いに応えてくれる、見込みはありますか?」
「考えてもいなかったのでなんとも言えませんけど、仲孝殿でしたら、期待してくれても構いませんよ」
文穎の答えは、あまりに卑怯だった。そんな彼の笑顔に逆らうことができない仲孝は、一つ思い付いたと笑う。
「兄上に似ているからですか?」
小さな仕返しのつもりで仲孝は問う。
「いえ、違いますよ。仲孝殿が特別だからです」
しかし仲孝の思惑には気付きもせずに、平然と文穎は言い切る。一矢報いるつもりが簡単に返り討ちにされて、仲孝は口を閉ざして俯いた。
「同衾はできませんが、私は人として仲孝殿のことが好きです。伯明への想いとは全然物が違いますから、代わりにはなりません。でもね仲孝殿、私の隣には、もう誰もいないの、ね、だから泣かないで」
文穎の言葉を聞いて、仲孝は大きく声を上げて泣いた。これで文穎も一緒に傷付いてくれると分かったから、止めどなく流れる涙を堪えようともせず、声を出して泣き続けた。
「それにしても、なぜもっと早く言ってくれなかったんですか。鬱陶しがられているんじゃないかと不安だったんですよ」
泣き噦る仲孝に語り掛けながら、文穎は立ち上がり、彼の前に跪く。
「あ、あんまり煩いんで幻滅したとかなら、それも早いところ伝えてくださいね」
仲孝の頬を撫で涙を拭い文穎は話し続ける。彼の手が浮いた隙を突いて、再び仲孝が文穎の肩を掴み、顔を近付ければ笑顔のまま躱されてしまう。
「止めてください」
はっきりとした拒絶を告げて、文穎は仲孝の手を軽々と解く。
「これ以上何かするつもりなら帰りますよ」
「嫌だ。行かないで」
捨てられてしまった手を文穎に伸ばし子供のように零した仲孝を、置いていける文穎ではなかった。宙を彷徨う彼の手を握って、繋いで、指を絡める。
「では、触ろうとして来ないでください。あなたとは接吻しません」
両手の自由を奪ったまま文穎は息が掛かるほどに顔を近付け、楽しそうに笑った。
そんな日々が一年、二年と続き、仲孝に位が与えられる。若い彼にはそぐわないその官位はやはり彼の家によるものであり、反感を買うものでもあった。誰も否定できないほどの実力を持ち、人望も厚い文穎が進んで彼に頭を下げることで、仲孝を凡愚と呼ばせないようにしているだけである。
三年、四年、五年、月日は流れていく。気付けば仲孝も兄の歳を越え、伯明がいなくなってから八年が過ぎていた。二十八となった文穎は念願の枢密院に配属されることとなった。文穎の思いを知っていた仲孝は、祝いの為にと彼を久しぶりに郭家の屋敷に招待した。彼が通ったこの建物は、今は仲孝の妻子が暮らしている。
「誰もいないのですか」
月明かりだけが二人を照らす。妙な静けさに文穎は訝しげに問う。
「はい。完全に人払いを済ませてあります」
祝いにしては暗く沈んだ声で仲孝は返す。彼が文穎を押し込んだのは、そこだけが、時間が止まったように散らかった部屋だった。
「どういうつもりですか」
牀に並んで座る。文穎の言葉は仲孝に向けられていたけれど、文穎の目は仲孝を映してはいなかった。
「本当に、兄上を探しに行かれるおつもりなのですか」
文穎の問いには答えず、仲孝は問いで返す。垂れ下がった文穎の手を仲孝は握ろうとするが、軽く振り払われてしまう。
「意味がないと分かっていても、行かなければならぬのです。私は、あいつに一生を捧げました」
俯いて文穎は苦しそうに吐き出す。彼が感情を見せるのは、かなり久しぶりのことだった。これまで考えないようにしていた、溜め込んでいた涙が、今にも溢れ出しそうで、彼は掌に爪を食い込ませる。恐る恐る仲孝がその手に手を重ねれば、今度はちらと見るだけでそのままにした。
唇を噛んで震える文穎の痛々しさに、仲孝はどんな言葉を掛けることも躊躇われた。胸の中で膨らんでいく痛みに、彼もまた拳に力が入った。
「痛い」
小さく呟いた文穎の言葉に、仲孝は慌てて手を離す。
「あ、ごめんなさい」
子供のような仲孝の謝罪があり、誰もいない屋敷は痛いほどの静かさに包まれた。
「なぜ、このようなところに連れて来たのです」
顔を向けることもなく文穎は訊ねる。仲孝は何かを言おうとして、口を開けては声を出せずに動かして、溺れる一歩手前にあった。
「私は、鍾先生には、行かないで欲しい」
やっとの思いで紡がれた仲孝の声は、酷く震えていた。
「文官であるあなたが、戦場に向かうことはない。そう思って、安心しておりました。けれどあなたを見たら、私の思い込みが間違っていることを知りました」
言葉一つ一つが刃として刺さっているように、仲孝は呻きながらも必死に訴えようとする。
「軍を直接率いるのは、私の仕事ではありません。我々は、国の危機にあっても、剣を取ることはなく、何を、守ることもなく」
「鍾先生は、陛下や国の為に、いつも尽くしていらっしゃいます。剣を取るばかりが守ることではありません。何が、何がそんなに気に入らぬのですか」
言葉にならない言葉を投げて、仲孝は冷たい夜を裂く。両手で顔を覆って激しい呼吸をしていたが、やがて意を決した仲孝はまっすぐな目で文穎を見る。
「私では、兄上の代わりにはなれませぬか?」
彼から飛び出した言葉に驚きで仲孝の方を向けば、目が合って離せなくなる。
「あなたは、私とあいつの関係を知っているでしょう」
見つめ合ったまま微笑んだ文穎は、闇の中にも儚く揺れた。
「だから、代わりになりたいと言っているのです」
泣きそうな声で告げて仲孝は顔を近付ける。しかし、二人の影が重なる前に、文穎がその白い左手で口元を隠してしまう。
「伯明の代わり、ね。溜まっているなら、手伝ってあげることはできますよ。あなたは伯明に似ていますから」
想定していた拒絶よりも残酷で冷たい文穎の返事に、仲孝は自ら傷付け続けた胸を抉られた心地であった。
「そんな言い方ないでしょう」
力なく文穎を責める仲孝の声には、隠し切れないほどに嗚咽が混ざっている。思い惑ってその選択が仲孝に何を与えるかと随分悩んだものだが、泣き声を隠すこともなくなっていく仲孝を前に、文穎は彼を抱き締め背中を摩った。幼児をあやすような優しい手に、仲孝は一層涙が止まらなくなる。
「取り繕ってはいますけど、私が常識知らずで短気な田舎者であること、あなたはご存知でしょう。何か、勘違いしているのです。一度出したら目も覚めますよ」
そう言って文穎は体を離し、背中を摩っていたその優しい手で仲孝の下半身を撫でる。
「勘違いなんかじゃ」
「勘違いです。あなた、粗野な私のこと苦手だったでしょう。だからといって、今の八方美人だって好きじゃないでしょ」
自嘲する文穎に反論できず、仲孝は心の痛みと快感への期待とに揺れる。
「兄上が取られて、嫉妬もしていたのは認めます。しかし、苦手だったというのは誤解です。茶目なあなたが好きだったから、ずっと協力していたんです」
肩を掴まれて正面から愛を伝えられた文穎は、目を見開いて仲孝を見ていたけれど、やがて満面に笑みを浮かべる。
「そうですか。それは、嬉しいです」
飾りのない喜びを伝えたそのときには確かに彼は笑っていたが、段々と彼の視線は落ちていく。
「申し訳ございません。仲孝殿のお気持ちに応えることはできません。でも、仲孝殿の前では、ちょっと力抜いても良いですか?」
八年間側にいて見ることができなかった、上目遣いの悪戯な笑みを向けられて、仲孝は歯を食い縛った。彼には、どちらを選ぶことも難しかった。
「今後、私の想いに応えてくれる、見込みはありますか?」
「考えてもいなかったのでなんとも言えませんけど、仲孝殿でしたら、期待してくれても構いませんよ」
文穎の答えは、あまりに卑怯だった。そんな彼の笑顔に逆らうことができない仲孝は、一つ思い付いたと笑う。
「兄上に似ているからですか?」
小さな仕返しのつもりで仲孝は問う。
「いえ、違いますよ。仲孝殿が特別だからです」
しかし仲孝の思惑には気付きもせずに、平然と文穎は言い切る。一矢報いるつもりが簡単に返り討ちにされて、仲孝は口を閉ざして俯いた。
「同衾はできませんが、私は人として仲孝殿のことが好きです。伯明への想いとは全然物が違いますから、代わりにはなりません。でもね仲孝殿、私の隣には、もう誰もいないの、ね、だから泣かないで」
文穎の言葉を聞いて、仲孝は大きく声を上げて泣いた。これで文穎も一緒に傷付いてくれると分かったから、止めどなく流れる涙を堪えようともせず、声を出して泣き続けた。
「それにしても、なぜもっと早く言ってくれなかったんですか。鬱陶しがられているんじゃないかと不安だったんですよ」
泣き噦る仲孝に語り掛けながら、文穎は立ち上がり、彼の前に跪く。
「あ、あんまり煩いんで幻滅したとかなら、それも早いところ伝えてくださいね」
仲孝の頬を撫で涙を拭い文穎は話し続ける。彼の手が浮いた隙を突いて、再び仲孝が文穎の肩を掴み、顔を近付ければ笑顔のまま躱されてしまう。
「止めてください」
はっきりとした拒絶を告げて、文穎は仲孝の手を軽々と解く。
「これ以上何かするつもりなら帰りますよ」
「嫌だ。行かないで」
捨てられてしまった手を文穎に伸ばし子供のように零した仲孝を、置いていける文穎ではなかった。宙を彷徨う彼の手を握って、繋いで、指を絡める。
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