神の契りは解けない

碧碧

文字の大きさ
7 / 21

しおりを挟む
 目覚ましのアラームが鳴る。結局昨日はそのままずっと寝てしまったらしい。道路に打ちつけた痛みに顔を顰めながら起きた大和は、隣に目をやった。

「霧生、起きろ」

 いつも通り、適当に声をかけながら肩を揺らす。だが、霧生は微かに眉を寄せただけで、目を開けようとしない。

「おい、霧生?」

 もう少し強めに揺さぶると、ようやく霧生が薄く目を開けた。だが、普段の涼しげな眼差しではなく、どこか焦点の合わないぼんやりとした瞳だった。

「……ん」

 掠れた声とともに、霧生が小さく息を吐く。そのまま瞼がまた閉じかけるのを見て、大和は思わず眉をひそめた。

「お前、まだしんどいのか?」

 そう聞くと、霧生はゆっくりと瞬きをし、大和をじっと見つめる。

「寝てれば治る」

 その一言を最後に、霧生はまた目を閉じた。

(いや、寝たのに治ってねぇんだろ。)

 昨日からずっと横になったままだし、食事もろくにとっていない。いつもなら起こされれば素直に起き上がるはずの霧生が、ここまでぐったりしているのは初めてだった。

「お前、本当に大丈夫かよ」

 もう一度肩を揺さぶるが、霧生の返事はない。ただ、握っていたはずの布団の端を、無意識にぎゅっと掴んだのが見えた。

(やっぱり医者に連れてくか……。)

 大和が霧生の額に手を当てると、ほんのりと熱を感じる。

「熱あるな」

 小さく舌打ちしながら、大和は立ち上がった。水と冷たいタオル、あとは体温計が必要か。

 霧生はその気配を感じたのか、弱々しく大和の腕を掴んだ。

「どこへ行く」
「水を持ってくるだけだ。今日はついててやるから、ちょっと待ってろ」

 そう言って髪を軽くくしゃりと掴んでから、大和はリビングへと向かった。





 部屋の静寂を破るのは、微かに揺れるカーテンの音と、霧生の浅い息づかいだけだった。

 大和は、学校に今日は休むと連絡を入れる。昨日の事故のことはすでに伝えていたため、あっさりと「無理せず休むように」と言われた。自分はピンピンしているため、少しだけ罪悪感がある。

 小鍋の中でゆっくりと炊かれた米が、ふつふつと柔らかくなっていく。自分よりよっぽどしんどそうな霧生の様子に、なぜか胸がヒリヒリと痛んだ。自分は何を不安に思っているのだろうか。そんなぐちゃぐちゃの感情が粥と一緒に煮込まれていく。

 出来上がったお粥を椀によそう。初めて作ったにしては悪くない仕上がりだ。ちらりと布団の上の霧生を見やる。いつもならどんなに眠くても朝食の頃には起きてくるのに、今日はまだ目を閉じたまま、微かに眉を寄せている。

「粥作ったけど、食えるか?」

 椀を差し出すと、霧生はゆっくりと目を開け、しばらく瞬きをした後、軽く首を振った。

「……食べる気がしない」
「多少無理してでも食えよ。まずは体力つけねぇと」

 こんなのは自分のガラじゃないとは思いつつ、匙に一口分をよそってふぅふぅと息を吹きかけて冷ます。

「いいから、ほら、一口だけでも食え」
「……」

 冷ましたそれを霧生の口元に持っていくと、霧生は迷うように視線を彷徨わせ、それでもおとなしく口を開けた。大和が見守る中、ゆっくりと粥を飲み込む。

「大丈夫か?」
「ああ。少しずつなら、食べられそうだ」
 その言葉に、大和はようやく安堵の息を吐く。少しだけ緊張がほどけた気がした。

「ほら、もう一口」

 もう一匙差し出すと、霧生はゆっくりと受け入れる。相変わらず進んで食べようとはしないが、食べないよりはいい。

「無理はしなくていいけど、できるだけ食えよ」

 そう言いながら、大和は霧生の前髪を指でそっと払う。昨日からずっと寝っぱなしだからか、額に薄く汗がにじんでいた。

「……大和」

 不意に霧生がぽつりと呟いた。

「ん?」
「……少し、触れていてほしい」

 掠れた声でそう言うと、霧生は大和の袖口をきゅっと摘まむ。大和は小さく息を吐いた。

「しょうがねぇな。少し休んだら、もう少し食えよ」
「ん……」

 霧生の手を軽く握ると、霧生は微かに目を細めた。握った手に、ほんのわずかに力がこもる。

「とりあえず、もうちょい寝とけ」

 霧生が静かに頷くのを見届けると、大和は軽く息を吐いた。

(ま、数日休めば元に戻るだろ。)

 霧生が寝入ったのを確認して手を離すと、大和は冷めかけたお粥の椀を持って立ち上がった。





 結局その翌日も学校を休み、霧生の看病に明け暮れた。昨日よりは少しマシなようだが、霧生は相変わらず食事の量が減り、昼間なのにやたらと眠たがるようになっていた。見ていると、体調不良というより、まるでスタミナ切れを起こしているように見える。

「まだしんどいか」
「大和が、側にいれば大丈夫だ」
「なんだそれ。そろそろ学校行かないとだめだっつーのに」

 冗談めかして言ってみるが、霧生はまるで聞こえなかったかのように、ただじっとこちらを見つめている。体調を崩した時に人恋しくなる気持ちはわかるが、それにしても過剰な気がする。

「明日は病院行ってバイク取ってくるから。あと買い物と」
「どこにも行くな」

 霧生の声は小さく震えていた。切羽詰まった響きが、事故のあの日を思い出させる。病院に裸足で駆けつけてきた霧生の姿が脳裏に浮かんだ。

「大丈夫。すぐ帰ってくっから」

 軽く笑いながら言ってみるが、霧生は納得できないようだった。

「俺も行く」
「バカ、ダメに決まってんだろ。医者に突き出すぞ」

 大和は布団を引き上げて言う。霧生は不満げに唇を噛んだが、何も言わなかった。

「ほら、もう寝ろよ」

 そう言いながら、大和は霧生の髪をそっと撫でる。霧生がこうして弱っている姿は、まるで子どもみたいだ。本当は、事故のことでまだ不安なのかもしれない。

「あんま心配すんな、大丈夫だから」

 まるで子守をするように、優しく胸をポンポンと叩く。
 霧生はゆっくりと瞼を閉じ、大和の手を軽く握ったまま、やがて静かな寝息を立て始めた。





 朝の光がカーテン越しに滲み、部屋をじんわりと温めていた。
 霧生の顔色は昨日までより幾分良くなっているように見える。大和はベッドの脇に座り、そっと霧生の額に手を当てた。熱はほとんど引いているようだ。

「ん……」

 霧生が微かに目を開けた。青灰色の瞳がまだ夢の中にいるようにぼんやりと揺れ、大和の姿を映す。

「具合どうだ?」
「ん、悪くない」

 元気だった頃とそう変わらない声色だ。

「そっか。なら、今日はちょっと出るわ」

 大和が立ち上がり、簡単に朝食の準備を始めると、霧生が布団の中からじっと見つめてきた。

「……病院か」
「そう。あと買い物と」

 霧生の声は少し沈んでいて、眉もわずかに寄っている。

「またンな顔して。お前もだいぶ回復したみたいだし、もう一人で寝てられるだろ?」

 立ち上がった霧生の足取りがまだふらついているのは心配だが、ずっと家にこもっているわけにもいかない。

「すぐ帰ってくるから、そこに置いた朝飯食って、大人しく寝てろ」

 霧生は何も言わず、玄関までついてきた。大和が靴を履き、ドアを開けるまでの間、霧生はじっとそこに立ったままだった。見送りというより、見送ることしかできないような、不安げな表情で。

「んじゃ、行ってくる」

 大和が軽く手を上げて出て行くと、ドアが閉まる直前、霧生が小さく「気をつけろよ」と呟くのが聞こえた。





 病院に着き、受付でバイクの預かりについて確認すると、看護師が気さくに対応してくれた。

「事故の時は大変でしたね。お怪我の方はもう大丈夫ですか?」
「はい、おかげさまで。バイクも無事そうでよかったっす」

 駐輪場の隅に目を向けると、カバーをかけられた愛車がひっそりと佇んでいた。
 大和は一歩近づき、カバーを外しながら車体を撫でる。タンクのひんやりとした感触、金属の硬さ。
 ライトやミラーの角度を確認し、傷や凹みがないか丁寧に確かめた。

(本当に、こいつも無事でよかった。)

 キーを差し込み、エンジンをかける。聞き慣れた音が心臓に響くと、胸の奥にあったざわつきや不安が少しだけ和らいだ。

 このバイクは大和の宝物の一つだ。女々しく、ただ泣くことしかできなかった自分を変えてくれた、迅先輩にもらったバイク。こいつに跨った時だけは、自分も少しはマシな人間になったと思える。

「さて、と」

 シートに腰を落ち着け、ハンドルを握る。しっくりと馴染む感覚が心地よい。アクセルを軽く回すと、エンジンが応えるように唸った。肌を切る風の感触が懐かしく、自然と口元が緩む。

(あー、やっぱ最高だな。)

 事故に遭ったことなど忘れたかのように、機嫌よく鼻歌を口ずさみながら、大和は病院を後にする。さっさと買い物を済ませて帰ろう。





 バイクを駐輪場に停め、スーパーの袋を片手に部屋の扉を開ける。

「ただいまー」
「……おかえり、大和」

 玄関を開けると、霧生は布団の中から顔を上げていた。声は小さいが、目はしっかりとこちらを見ている。

「ほらな?ちゃんとすぐ帰ってきただろ」

 冗談めかして言いながら買い物袋をキッチンに置きベッドに近づくと、霧生がすぐに手を握ってくる。

「まだ甘えん坊かよ」

 軽く笑ったが、その手の冷たさに思わず指先がピクリと震えた。

(朝より、冷たくなってる……。)

 脇に腰を下ろし、改めて霧生の顔を覗き込む。朝見た時より、視線がぼんやりとしているのが気になった。ただ寝ぼけているだけか、それとも——。


「具合、どうだ?」
「……問題ない」

 霧生はそう言ったが、いつもの淡々とした響きはなく、少し間があった。

「……本当か?」

 念のため額に手を当てる。思った通り、熱は朝より上がっていた。

「おい、また熱上がってんじゃねぇか」
「……少し、怠いだけだ」

 大和の指摘に、霧生は目を伏せる。今朝はしっかりしていたはずなのに、またぶり返したのか。

「お前、朝飯は食った?」
「一応……」

 その答えに、ほっと一息吐く。

「もうすぐ昼だけど、なんか食えそう?」
「いや……」
「まあずっと寝てたら腹も減らねぇか」

 軽くため息をつきながら、せめて水分補給をさせようと立ち上がる。——が、その瞬間。

「どこへ行く」

 袖口を掴まれた。

「水とタオル取ってくる」
「……行くな」

 途端に、袖を握る手に力がこもる。大和はその切羽詰まった声に、思わず足を止めた。顔を見ると、霧生はまるで不安に駆られた子どものような目をしている。

「ばーか。身体拭いてやるから、な?」

 ゆっくりと言い聞かせるように言うと、霧生は少しの間じっと大和を見つめ、それから小さく頷いた。

「すぐ戻るから、大人しく待ってろ」

 霧生の手をそっと外し、大和はキッチンへと向かった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ブラコンすぎて面倒な男を演じていた平凡兄、やめたら押し倒されました

あと
BL
「お兄ちゃん!人肌脱ぎます!」 完璧公爵跡取り息子許嫁攻め×ブラコン兄鈍感受け 可愛い弟と攻めの幸せのために、平凡なのに面倒な男を演じることにした受け。毎日の告白、束縛発言などを繰り広げ、上手くいきそうになったため、やめたら、なんと…? 攻め:ヴィクター・ローレンツ 受け:リアム・グレイソン 弟:リチャード・グレイソン  pixivにも投稿しています。 ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。

批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。

鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる

結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。 冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。 憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。 誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。 鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。

〈完結〉【書籍化・取り下げ予定】「他に愛するひとがいる」と言った旦那様が溺愛してくるのですが、そういうのは不要です

ごろごろみかん。
恋愛
「私には、他に愛するひとがいます」 「では、契約結婚といたしましょう」 そうして今の夫と結婚したシドローネ。 夫は、シドローネより四つも年下の若き騎士だ。 彼には愛するひとがいる。 それを理解した上で政略結婚を結んだはずだったのだが、だんだん夫の様子が変わり始めて……?

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

魔王の息子を育てることになった俺の話

お鮫
BL
俺が18歳の時森で少年を拾った。その子が将来魔王になることを知りながら俺は今日も息子としてこの子を育てる。そう決意してはや数年。 「今なんつった?よっぽど死にたいんだね。そんなに俺と離れたい?」 現在俺はかわいい息子に殺害予告を受けている。あれ、魔王は?旅に出なくていいの?とりあえず放してくれません? 魔王になる予定の男と育て親のヤンデレBL BLは初めて書きます。見ずらい点多々あるかと思いますが、もしありましたら指摘くださるとありがたいです。 BL大賞エントリー中です。

アプリで都合のいい男になろうとした結果、彼氏がバグりました

あと
BL
「目指せ!都合のいい男!」 穏やか完璧モテ男(理性で執着を押さえつけてる)×親しみやすい人たらし可愛い系イケメン 攻めの両親からの別れろと圧力をかけられた受け。関係は秘密なので、友達に相談もできない。悩んでいる中、どうしても別れたくないため、愛人として、「都合のいい男」になることを決意。人生相談アプリを手に入れ、努力することにする。しかし、攻めに約束を破ったと言われ……?   攻め:深海霧矢 受け:清水奏 前にアンケート取ったら、すれ違い・勘違いものが1位だったのでそれ系です。 ハピエンです。 ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。 自己判断で消しますので、悪しからず。

【完結】国に売られた僕は変態皇帝に育てられ寵妃になった

cyan
BL
陛下が町娘に手を出して生まれたのが僕。後宮で虐げられて生活していた僕は、とうとう他国に売られることになった。 一途なシオンと、皇帝のお話。 ※どんどん変態度が増すので苦手な方はお気を付けください。

処理中です...