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目覚ましのアラームが鳴る。結局昨日はそのままずっと寝てしまったらしい。道路に打ちつけた痛みに顔を顰めながら起きた大和は、隣に目をやった。
「霧生、起きろ」
いつも通り、適当に声をかけながら肩を揺らす。だが、霧生は微かに眉を寄せただけで、目を開けようとしない。
「おい、霧生?」
もう少し強めに揺さぶると、ようやく霧生が薄く目を開けた。だが、普段の涼しげな眼差しではなく、どこか焦点の合わないぼんやりとした瞳だった。
「……ん」
掠れた声とともに、霧生が小さく息を吐く。そのまま瞼がまた閉じかけるのを見て、大和は思わず眉をひそめた。
「お前、まだしんどいのか?」
そう聞くと、霧生はゆっくりと瞬きをし、大和をじっと見つめる。
「寝てれば治る」
その一言を最後に、霧生はまた目を閉じた。
(いや、寝たのに治ってねぇんだろ。)
昨日からずっと横になったままだし、食事もろくにとっていない。いつもなら起こされれば素直に起き上がるはずの霧生が、ここまでぐったりしているのは初めてだった。
「お前、本当に大丈夫かよ」
もう一度肩を揺さぶるが、霧生の返事はない。ただ、握っていたはずの布団の端を、無意識にぎゅっと掴んだのが見えた。
(やっぱり医者に連れてくか……。)
大和が霧生の額に手を当てると、ほんのりと熱を感じる。
「熱あるな」
小さく舌打ちしながら、大和は立ち上がった。水と冷たいタオル、あとは体温計が必要か。
霧生はその気配を感じたのか、弱々しく大和の腕を掴んだ。
「どこへ行く」
「水を持ってくるだけだ。今日はついててやるから、ちょっと待ってろ」
そう言って髪を軽くくしゃりと掴んでから、大和はリビングへと向かった。
部屋の静寂を破るのは、微かに揺れるカーテンの音と、霧生の浅い息づかいだけだった。
大和は、学校に今日は休むと連絡を入れる。昨日の事故のことはすでに伝えていたため、あっさりと「無理せず休むように」と言われた。自分はピンピンしているため、少しだけ罪悪感がある。
小鍋の中でゆっくりと炊かれた米が、ふつふつと柔らかくなっていく。自分よりよっぽどしんどそうな霧生の様子に、なぜか胸がヒリヒリと痛んだ。自分は何を不安に思っているのだろうか。そんなぐちゃぐちゃの感情が粥と一緒に煮込まれていく。
出来上がったお粥を椀によそう。初めて作ったにしては悪くない仕上がりだ。ちらりと布団の上の霧生を見やる。いつもならどんなに眠くても朝食の頃には起きてくるのに、今日はまだ目を閉じたまま、微かに眉を寄せている。
「粥作ったけど、食えるか?」
椀を差し出すと、霧生はゆっくりと目を開け、しばらく瞬きをした後、軽く首を振った。
「……食べる気がしない」
「多少無理してでも食えよ。まずは体力つけねぇと」
こんなのは自分のガラじゃないとは思いつつ、匙に一口分をよそってふぅふぅと息を吹きかけて冷ます。
「いいから、ほら、一口だけでも食え」
「……」
冷ましたそれを霧生の口元に持っていくと、霧生は迷うように視線を彷徨わせ、それでもおとなしく口を開けた。大和が見守る中、ゆっくりと粥を飲み込む。
「大丈夫か?」
「ああ。少しずつなら、食べられそうだ」
その言葉に、大和はようやく安堵の息を吐く。少しだけ緊張がほどけた気がした。
「ほら、もう一口」
もう一匙差し出すと、霧生はゆっくりと受け入れる。相変わらず進んで食べようとはしないが、食べないよりはいい。
「無理はしなくていいけど、できるだけ食えよ」
そう言いながら、大和は霧生の前髪を指でそっと払う。昨日からずっと寝っぱなしだからか、額に薄く汗がにじんでいた。
「……大和」
不意に霧生がぽつりと呟いた。
「ん?」
「……少し、触れていてほしい」
掠れた声でそう言うと、霧生は大和の袖口をきゅっと摘まむ。大和は小さく息を吐いた。
「しょうがねぇな。少し休んだら、もう少し食えよ」
「ん……」
霧生の手を軽く握ると、霧生は微かに目を細めた。握った手に、ほんのわずかに力がこもる。
「とりあえず、もうちょい寝とけ」
霧生が静かに頷くのを見届けると、大和は軽く息を吐いた。
(ま、数日休めば元に戻るだろ。)
霧生が寝入ったのを確認して手を離すと、大和は冷めかけたお粥の椀を持って立ち上がった。
結局その翌日も学校を休み、霧生の看病に明け暮れた。昨日よりは少しマシなようだが、霧生は相変わらず食事の量が減り、昼間なのにやたらと眠たがるようになっていた。見ていると、体調不良というより、まるでスタミナ切れを起こしているように見える。
「まだしんどいか」
「大和が、側にいれば大丈夫だ」
「なんだそれ。そろそろ学校行かないとだめだっつーのに」
冗談めかして言ってみるが、霧生はまるで聞こえなかったかのように、ただじっとこちらを見つめている。体調を崩した時に人恋しくなる気持ちはわかるが、それにしても過剰な気がする。
「明日は病院行ってバイク取ってくるから。あと買い物と」
「どこにも行くな」
霧生の声は小さく震えていた。切羽詰まった響きが、事故のあの日を思い出させる。病院に裸足で駆けつけてきた霧生の姿が脳裏に浮かんだ。
「大丈夫。すぐ帰ってくっから」
軽く笑いながら言ってみるが、霧生は納得できないようだった。
「俺も行く」
「バカ、ダメに決まってんだろ。医者に突き出すぞ」
大和は布団を引き上げて言う。霧生は不満げに唇を噛んだが、何も言わなかった。
「ほら、もう寝ろよ」
そう言いながら、大和は霧生の髪をそっと撫でる。霧生がこうして弱っている姿は、まるで子どもみたいだ。本当は、事故のことでまだ不安なのかもしれない。
「あんま心配すんな、大丈夫だから」
まるで子守をするように、優しく胸をポンポンと叩く。
霧生はゆっくりと瞼を閉じ、大和の手を軽く握ったまま、やがて静かな寝息を立て始めた。
朝の光がカーテン越しに滲み、部屋をじんわりと温めていた。
霧生の顔色は昨日までより幾分良くなっているように見える。大和はベッドの脇に座り、そっと霧生の額に手を当てた。熱はほとんど引いているようだ。
「ん……」
霧生が微かに目を開けた。青灰色の瞳がまだ夢の中にいるようにぼんやりと揺れ、大和の姿を映す。
「具合どうだ?」
「ん、悪くない」
元気だった頃とそう変わらない声色だ。
「そっか。なら、今日はちょっと出るわ」
大和が立ち上がり、簡単に朝食の準備を始めると、霧生が布団の中からじっと見つめてきた。
「……病院か」
「そう。あと買い物と」
霧生の声は少し沈んでいて、眉もわずかに寄っている。
「またンな顔して。お前もだいぶ回復したみたいだし、もう一人で寝てられるだろ?」
立ち上がった霧生の足取りがまだふらついているのは心配だが、ずっと家にこもっているわけにもいかない。
「すぐ帰ってくるから、そこに置いた朝飯食って、大人しく寝てろ」
霧生は何も言わず、玄関までついてきた。大和が靴を履き、ドアを開けるまでの間、霧生はじっとそこに立ったままだった。見送りというより、見送ることしかできないような、不安げな表情で。
「んじゃ、行ってくる」
大和が軽く手を上げて出て行くと、ドアが閉まる直前、霧生が小さく「気をつけろよ」と呟くのが聞こえた。
病院に着き、受付でバイクの預かりについて確認すると、看護師が気さくに対応してくれた。
「事故の時は大変でしたね。お怪我の方はもう大丈夫ですか?」
「はい、おかげさまで。バイクも無事そうでよかったっす」
駐輪場の隅に目を向けると、カバーをかけられた愛車がひっそりと佇んでいた。
大和は一歩近づき、カバーを外しながら車体を撫でる。タンクのひんやりとした感触、金属の硬さ。
ライトやミラーの角度を確認し、傷や凹みがないか丁寧に確かめた。
(本当に、こいつも無事でよかった。)
キーを差し込み、エンジンをかける。聞き慣れた音が心臓に響くと、胸の奥にあったざわつきや不安が少しだけ和らいだ。
このバイクは大和の宝物の一つだ。女々しく、ただ泣くことしかできなかった自分を変えてくれた、迅先輩にもらったバイク。こいつに跨った時だけは、自分も少しはマシな人間になったと思える。
「さて、と」
シートに腰を落ち着け、ハンドルを握る。しっくりと馴染む感覚が心地よい。アクセルを軽く回すと、エンジンが応えるように唸った。肌を切る風の感触が懐かしく、自然と口元が緩む。
(あー、やっぱ最高だな。)
事故に遭ったことなど忘れたかのように、機嫌よく鼻歌を口ずさみながら、大和は病院を後にする。さっさと買い物を済ませて帰ろう。
バイクを駐輪場に停め、スーパーの袋を片手に部屋の扉を開ける。
「ただいまー」
「……おかえり、大和」
玄関を開けると、霧生は布団の中から顔を上げていた。声は小さいが、目はしっかりとこちらを見ている。
「ほらな?ちゃんとすぐ帰ってきただろ」
冗談めかして言いながら買い物袋をキッチンに置きベッドに近づくと、霧生がすぐに手を握ってくる。
「まだ甘えん坊かよ」
軽く笑ったが、その手の冷たさに思わず指先がピクリと震えた。
(朝より、冷たくなってる……。)
脇に腰を下ろし、改めて霧生の顔を覗き込む。朝見た時より、視線がぼんやりとしているのが気になった。ただ寝ぼけているだけか、それとも——。
「具合、どうだ?」
「……問題ない」
霧生はそう言ったが、いつもの淡々とした響きはなく、少し間があった。
「……本当か?」
念のため額に手を当てる。思った通り、熱は朝より上がっていた。
「おい、また熱上がってんじゃねぇか」
「……少し、怠いだけだ」
大和の指摘に、霧生は目を伏せる。今朝はしっかりしていたはずなのに、またぶり返したのか。
「お前、朝飯は食った?」
「一応……」
その答えに、ほっと一息吐く。
「もうすぐ昼だけど、なんか食えそう?」
「いや……」
「まあずっと寝てたら腹も減らねぇか」
軽くため息をつきながら、せめて水分補給をさせようと立ち上がる。——が、その瞬間。
「どこへ行く」
袖口を掴まれた。
「水とタオル取ってくる」
「……行くな」
途端に、袖を握る手に力がこもる。大和はその切羽詰まった声に、思わず足を止めた。顔を見ると、霧生はまるで不安に駆られた子どものような目をしている。
「ばーか。身体拭いてやるから、な?」
ゆっくりと言い聞かせるように言うと、霧生は少しの間じっと大和を見つめ、それから小さく頷いた。
「すぐ戻るから、大人しく待ってろ」
霧生の手をそっと外し、大和はキッチンへと向かった。
「霧生、起きろ」
いつも通り、適当に声をかけながら肩を揺らす。だが、霧生は微かに眉を寄せただけで、目を開けようとしない。
「おい、霧生?」
もう少し強めに揺さぶると、ようやく霧生が薄く目を開けた。だが、普段の涼しげな眼差しではなく、どこか焦点の合わないぼんやりとした瞳だった。
「……ん」
掠れた声とともに、霧生が小さく息を吐く。そのまま瞼がまた閉じかけるのを見て、大和は思わず眉をひそめた。
「お前、まだしんどいのか?」
そう聞くと、霧生はゆっくりと瞬きをし、大和をじっと見つめる。
「寝てれば治る」
その一言を最後に、霧生はまた目を閉じた。
(いや、寝たのに治ってねぇんだろ。)
昨日からずっと横になったままだし、食事もろくにとっていない。いつもなら起こされれば素直に起き上がるはずの霧生が、ここまでぐったりしているのは初めてだった。
「お前、本当に大丈夫かよ」
もう一度肩を揺さぶるが、霧生の返事はない。ただ、握っていたはずの布団の端を、無意識にぎゅっと掴んだのが見えた。
(やっぱり医者に連れてくか……。)
大和が霧生の額に手を当てると、ほんのりと熱を感じる。
「熱あるな」
小さく舌打ちしながら、大和は立ち上がった。水と冷たいタオル、あとは体温計が必要か。
霧生はその気配を感じたのか、弱々しく大和の腕を掴んだ。
「どこへ行く」
「水を持ってくるだけだ。今日はついててやるから、ちょっと待ってろ」
そう言って髪を軽くくしゃりと掴んでから、大和はリビングへと向かった。
部屋の静寂を破るのは、微かに揺れるカーテンの音と、霧生の浅い息づかいだけだった。
大和は、学校に今日は休むと連絡を入れる。昨日の事故のことはすでに伝えていたため、あっさりと「無理せず休むように」と言われた。自分はピンピンしているため、少しだけ罪悪感がある。
小鍋の中でゆっくりと炊かれた米が、ふつふつと柔らかくなっていく。自分よりよっぽどしんどそうな霧生の様子に、なぜか胸がヒリヒリと痛んだ。自分は何を不安に思っているのだろうか。そんなぐちゃぐちゃの感情が粥と一緒に煮込まれていく。
出来上がったお粥を椀によそう。初めて作ったにしては悪くない仕上がりだ。ちらりと布団の上の霧生を見やる。いつもならどんなに眠くても朝食の頃には起きてくるのに、今日はまだ目を閉じたまま、微かに眉を寄せている。
「粥作ったけど、食えるか?」
椀を差し出すと、霧生はゆっくりと目を開け、しばらく瞬きをした後、軽く首を振った。
「……食べる気がしない」
「多少無理してでも食えよ。まずは体力つけねぇと」
こんなのは自分のガラじゃないとは思いつつ、匙に一口分をよそってふぅふぅと息を吹きかけて冷ます。
「いいから、ほら、一口だけでも食え」
「……」
冷ましたそれを霧生の口元に持っていくと、霧生は迷うように視線を彷徨わせ、それでもおとなしく口を開けた。大和が見守る中、ゆっくりと粥を飲み込む。
「大丈夫か?」
「ああ。少しずつなら、食べられそうだ」
その言葉に、大和はようやく安堵の息を吐く。少しだけ緊張がほどけた気がした。
「ほら、もう一口」
もう一匙差し出すと、霧生はゆっくりと受け入れる。相変わらず進んで食べようとはしないが、食べないよりはいい。
「無理はしなくていいけど、できるだけ食えよ」
そう言いながら、大和は霧生の前髪を指でそっと払う。昨日からずっと寝っぱなしだからか、額に薄く汗がにじんでいた。
「……大和」
不意に霧生がぽつりと呟いた。
「ん?」
「……少し、触れていてほしい」
掠れた声でそう言うと、霧生は大和の袖口をきゅっと摘まむ。大和は小さく息を吐いた。
「しょうがねぇな。少し休んだら、もう少し食えよ」
「ん……」
霧生の手を軽く握ると、霧生は微かに目を細めた。握った手に、ほんのわずかに力がこもる。
「とりあえず、もうちょい寝とけ」
霧生が静かに頷くのを見届けると、大和は軽く息を吐いた。
(ま、数日休めば元に戻るだろ。)
霧生が寝入ったのを確認して手を離すと、大和は冷めかけたお粥の椀を持って立ち上がった。
結局その翌日も学校を休み、霧生の看病に明け暮れた。昨日よりは少しマシなようだが、霧生は相変わらず食事の量が減り、昼間なのにやたらと眠たがるようになっていた。見ていると、体調不良というより、まるでスタミナ切れを起こしているように見える。
「まだしんどいか」
「大和が、側にいれば大丈夫だ」
「なんだそれ。そろそろ学校行かないとだめだっつーのに」
冗談めかして言ってみるが、霧生はまるで聞こえなかったかのように、ただじっとこちらを見つめている。体調を崩した時に人恋しくなる気持ちはわかるが、それにしても過剰な気がする。
「明日は病院行ってバイク取ってくるから。あと買い物と」
「どこにも行くな」
霧生の声は小さく震えていた。切羽詰まった響きが、事故のあの日を思い出させる。病院に裸足で駆けつけてきた霧生の姿が脳裏に浮かんだ。
「大丈夫。すぐ帰ってくっから」
軽く笑いながら言ってみるが、霧生は納得できないようだった。
「俺も行く」
「バカ、ダメに決まってんだろ。医者に突き出すぞ」
大和は布団を引き上げて言う。霧生は不満げに唇を噛んだが、何も言わなかった。
「ほら、もう寝ろよ」
そう言いながら、大和は霧生の髪をそっと撫でる。霧生がこうして弱っている姿は、まるで子どもみたいだ。本当は、事故のことでまだ不安なのかもしれない。
「あんま心配すんな、大丈夫だから」
まるで子守をするように、優しく胸をポンポンと叩く。
霧生はゆっくりと瞼を閉じ、大和の手を軽く握ったまま、やがて静かな寝息を立て始めた。
朝の光がカーテン越しに滲み、部屋をじんわりと温めていた。
霧生の顔色は昨日までより幾分良くなっているように見える。大和はベッドの脇に座り、そっと霧生の額に手を当てた。熱はほとんど引いているようだ。
「ん……」
霧生が微かに目を開けた。青灰色の瞳がまだ夢の中にいるようにぼんやりと揺れ、大和の姿を映す。
「具合どうだ?」
「ん、悪くない」
元気だった頃とそう変わらない声色だ。
「そっか。なら、今日はちょっと出るわ」
大和が立ち上がり、簡単に朝食の準備を始めると、霧生が布団の中からじっと見つめてきた。
「……病院か」
「そう。あと買い物と」
霧生の声は少し沈んでいて、眉もわずかに寄っている。
「またンな顔して。お前もだいぶ回復したみたいだし、もう一人で寝てられるだろ?」
立ち上がった霧生の足取りがまだふらついているのは心配だが、ずっと家にこもっているわけにもいかない。
「すぐ帰ってくるから、そこに置いた朝飯食って、大人しく寝てろ」
霧生は何も言わず、玄関までついてきた。大和が靴を履き、ドアを開けるまでの間、霧生はじっとそこに立ったままだった。見送りというより、見送ることしかできないような、不安げな表情で。
「んじゃ、行ってくる」
大和が軽く手を上げて出て行くと、ドアが閉まる直前、霧生が小さく「気をつけろよ」と呟くのが聞こえた。
病院に着き、受付でバイクの預かりについて確認すると、看護師が気さくに対応してくれた。
「事故の時は大変でしたね。お怪我の方はもう大丈夫ですか?」
「はい、おかげさまで。バイクも無事そうでよかったっす」
駐輪場の隅に目を向けると、カバーをかけられた愛車がひっそりと佇んでいた。
大和は一歩近づき、カバーを外しながら車体を撫でる。タンクのひんやりとした感触、金属の硬さ。
ライトやミラーの角度を確認し、傷や凹みがないか丁寧に確かめた。
(本当に、こいつも無事でよかった。)
キーを差し込み、エンジンをかける。聞き慣れた音が心臓に響くと、胸の奥にあったざわつきや不安が少しだけ和らいだ。
このバイクは大和の宝物の一つだ。女々しく、ただ泣くことしかできなかった自分を変えてくれた、迅先輩にもらったバイク。こいつに跨った時だけは、自分も少しはマシな人間になったと思える。
「さて、と」
シートに腰を落ち着け、ハンドルを握る。しっくりと馴染む感覚が心地よい。アクセルを軽く回すと、エンジンが応えるように唸った。肌を切る風の感触が懐かしく、自然と口元が緩む。
(あー、やっぱ最高だな。)
事故に遭ったことなど忘れたかのように、機嫌よく鼻歌を口ずさみながら、大和は病院を後にする。さっさと買い物を済ませて帰ろう。
バイクを駐輪場に停め、スーパーの袋を片手に部屋の扉を開ける。
「ただいまー」
「……おかえり、大和」
玄関を開けると、霧生は布団の中から顔を上げていた。声は小さいが、目はしっかりとこちらを見ている。
「ほらな?ちゃんとすぐ帰ってきただろ」
冗談めかして言いながら買い物袋をキッチンに置きベッドに近づくと、霧生がすぐに手を握ってくる。
「まだ甘えん坊かよ」
軽く笑ったが、その手の冷たさに思わず指先がピクリと震えた。
(朝より、冷たくなってる……。)
脇に腰を下ろし、改めて霧生の顔を覗き込む。朝見た時より、視線がぼんやりとしているのが気になった。ただ寝ぼけているだけか、それとも——。
「具合、どうだ?」
「……問題ない」
霧生はそう言ったが、いつもの淡々とした響きはなく、少し間があった。
「……本当か?」
念のため額に手を当てる。思った通り、熱は朝より上がっていた。
「おい、また熱上がってんじゃねぇか」
「……少し、怠いだけだ」
大和の指摘に、霧生は目を伏せる。今朝はしっかりしていたはずなのに、またぶり返したのか。
「お前、朝飯は食った?」
「一応……」
その答えに、ほっと一息吐く。
「もうすぐ昼だけど、なんか食えそう?」
「いや……」
「まあずっと寝てたら腹も減らねぇか」
軽くため息をつきながら、せめて水分補給をさせようと立ち上がる。——が、その瞬間。
「どこへ行く」
袖口を掴まれた。
「水とタオル取ってくる」
「……行くな」
途端に、袖を握る手に力がこもる。大和はその切羽詰まった声に、思わず足を止めた。顔を見ると、霧生はまるで不安に駆られた子どものような目をしている。
「ばーか。身体拭いてやるから、な?」
ゆっくりと言い聞かせるように言うと、霧生は少しの間じっと大和を見つめ、それから小さく頷いた。
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