神の契りは解けない

碧碧

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 日曜日が明け、月曜日からはまた学校とバイトの生活が始まる。朝起きて、支度をして、霧生に簡単な食事を用意し、学校へ向かう。その日からも霧生の体調は相変わらず一進一退だった。心配はしているが、良くないことに、霧生の看病も大和の日常の一つになってしまっていた。霧生の体調が悪いことが、もはや当たり前になってしまっていたのだ。

 だから、大和は、何ひとつ気づけなかった。

「じゃあ行ってくる」
「今日は、行かないでほしい」
「何言ってんだ。今日は学校終わってからバイト。0時回るから先に寝てろよ」
「大和……」
「終わったらすぐ帰ってくるから。じゃあな」
「……いって、らっしゃい……気を付けて」

 思い返せば、その日、霧生の体調はいつもより一段と悪そうだった。朝、大和の腕を掴んだ手は震えていて、何度言っても離そうとしなかった。しかし大和は普段通りに食事を用意し、振り切るようにしてアパートを出た。きっと、また少し寝れば回復する。……そう思って、部屋を出たのだ。

 授業を受け、バイト先へ向かう。時々、苦しそうな霧生の顔が頭に浮かんだ。

(今朝はいつもよりしんどそうだったな……明日はバイトもないし、側にいてやるか。)

 そんなことを思いながら、バイトを終えて大和は帰路に就いた。

 部屋には明かりが着いていた。こんなに遅くまで起きて待っていたのかと急いで玄関のドアを開ける。

「ただいま」
「大和……おかえ、り……」

 いつもの調子で声をかけると、霧生の声が小さく返ってくる。思いのほかその声がはっきりしている気がして、もしかすれば朝より少し回復しているのではないかと、大和は淡い期待を抱いた。

「ちゃんと大人しくしてたか?」

 気軽に話しかけながら視線を向けた、その瞬間——。

 違和感が、あった。

 ベッドから立ち上がろうとしていた霧生がよろめく。膝がわずかに折れ、肩が揺れる。まるで足元の感覚がないみたいに。

「霧生?」

 呼びかけた途端、霧生の身体が、糸の切れた人形のように、ゆっくり前へと崩れ落ちた。

「おい、霧生!!」

 咄嗟に駆け寄り、抱きとめる。

 ——冷たい。

 驚愕するほど、肌が異様に冷えていた。

「なっ……お前、何でこんなに……!」

 霧生の肌は血が通っていないのではないかと思うほど青白くなっていた。指先は氷のように冷たく、触れた瞬間、嫌な悪寒が走る。

「しっかりしろ、霧生!!」

 返事はない。大和は必死に霧生の肩を揺さぶる。しかし、霧生の身体からは力が抜け、完全に大和へもたれかかる形になった。

 不安に押しつぶされそうになりながら、口元に耳を寄せる。小さく、かすかな呼吸音。微弱な心音。どちらも今にも途切れそうに頼りなかった。

「くそっ……救急車っ」

 焦る手でポケットのスマートフォンを取り出し、震える指で画面を操作しようとする。しかし、焦りで指が滑る。

 ――ガツン。

 硬い床にぶつかった音が、やけに大きく響いた。

「くそっ、くそ……っ!!」

 拾わなければ。急がなければ。
 そう思うのに、指が動かない。足が竦んで、一歩も踏み出せない。視界がぐにゃりと揺れる。鼓膜の奥で、血の気が逆流するような感覚。

 その瞬間――。

 空気が変わった。否、『ねじれた』。
 まるで世界の輪郭が一瞬歪んだかのように、耳鳴りがする。温度のない風が頬を撫でた。

 そして、そこに、何かがいた。
 艶やかな金髪、長く流れる髪。
 女ものの着物を気だるげに着崩し、匂い立つほどの色気を纏った男。

 確かに、人の形をしている。けれど、それは明らかに違った。

 大和は息を呑む。
 ぞくり。背筋に、冷たいものが這い上がる。

「おやおや、霧生、気高き狼神がこんな姿になって……」

 凛と澄んだ声が響いた。

「お前、誰だ……!!」

 大和が睨みつけると、その男はくすりと微笑んだ。微笑んでいるはずなのに、どこか冷え冷えとした感情の読めない目。

「ふふ……そんな怖い顔しないでよ。私は朱峯あかみね。ま、君たちのことは、前から見てたんだけど」

 男の名前が聞こえた瞬間、腕の中の霧生が微かに動いた。

「朱峯……?」

 霧生の声には、驚きと警戒が含まれていた。

「やれやれ、こんなになるまで消耗してしまったのかい」

 朱峯はゆっくりと歩み寄ると、大和の腕の中の霧生を覗き込んだ。

「こりゃ、本当にギリギリだねぇ……せめて人型を解除した方がいいよ」
「やま、と……」
「こんな人間気にしている場合かい」

 そう言って、朱峯は長い指を霧生の額にそっと添えた。すると、霧生の身体がわずかに光を帯びる。

「……!?」

 大和の腕の中の霧生が、一度だけ深く息を吐いた。

「さて――」

 朱峯が口の端を上げる。

「霧生、お前は、どうしたい?」

 このまま、消えたい?
 ……それともまだ、生きたい?

 朱峯の声は、ひどく静かだった。
 まるで、霧生の返答を試すように。
 あるいは、初めから答えを知っている者のように。
 大和の心臓が、ひとつ、大きく跳ねる。

「霧生が、消える……?」

 頭が真っ白になった。それはつまり――こいつを失うってことか?

 ふざけるな。

「ふざけんな!こいつは死なせねぇ!!」

 朱峯に向かって、大和は声を張り上げる。本当は怖い。この得体のしれない存在が。自分など、話すどころか、見ることすら赦されていないと感じる。それでも、どれだけ足が震えていても、声が掠れても、これだけは立ち向かわねばならないと本能が言っていた。霧生を守らなければならない。いや、守りたいと。

 朱峯は、大和を見て微かに目を細めた。その視線はまるで矮小なものを嫌悪するようでもあり、眩しいものを見るようでもあった。
 しばしの沈黙。
 そして、彼は何かを確信したかのように、ゆっくりと笑った。

「ふふ、お前は本当に面白くて、そして、呆れるほど莫迦だねぇ」

 霧生の目が、ゆっくりと開かれた。



 ————————————————————



 どこまでも白い世界だった。

 足元すら曖昧で、遠くも近くもない。ただ、どこまでも広がる白。

 ——大和。

 呼んでも、声は霧散して消えていく。

 ——大和、どこにいる。

 走る。必死に探す。なのに、大和の気配がどこにもない。いくら探しても、見えない。匂いも感じない。

 そんなはずはない。いるはずだ。だって俺は、大和の側にいるはずなのに。

 胸の奥に、鈍く冷たい痛みが広がる。

 ——俺は、お前の家族になりにきたのに。

 ——俺が、ずっとお前の側にいると誓ったのに。

 ここはどこだ。どうして、大和がいない。

 白い世界は静かすぎた。何の音も聞こえない。永遠に続くかのような沈黙。

 違う、こんなところは、俺の居場所じゃない。



 その時、ふと。
 耳の奥で、何かが聞こえた。

「……霧生が、消える……?」

 微かに震えた声。ずっと聞きたかった。自分を呼ぶ、大和の声。

 大丈夫だ。俺は、消えたりしない。

「ふざけんな!こいつは死なせねぇ!!」

 叫びが、白い世界を引き裂いた。
 視界が揺らぐ。世界が歪む。
 何かが俺を引き戻そうとしている。

 その声を、追わなければ。

 その手を、掴まなければ。

 俺が、お前の——。



「……居場所になる」

 大和。

「俺はお前の家族なんだから」



 その瞬間、視界が弾けた。

 ——瞼が、ゆっくりと開く。

 目の前には、たった一人の愛しい家族の顔。
 彼の二つの潤んだ瞳が、霧生を覗き込んでいた。

 酷く辛そうに、泣いている。

(大和が、泣いている……?)

 どうした。誰に泣かされた。

 俺が、守ってやる。
 大和を苦しめる全てのものから、今度こそ、守ってやる。

「……大和……」

 掠れた声で呼ぶと、大和の顔がくしゃりと歪んだ。

「どう……し、た……誰に、いじめ、られた……」
「お前、バカか……っ」

 震える指が、そっと霧生の頬に触れる。瞼を開けているのが辛くて、目を閉じそうになる。すると大和が焦ったように強く抱きしめてきた。

 抱きしめ返したいのに、腕が動かない。身体が鉛のように重い。

「お前が……消えるとか……ありえねぇ、だろ……っ」

 まだ、言葉もうまく出てこない。

 しかし、大和の涙が頬に落ちてきた瞬間、霧生の口が自然と動いた。

「……俺は……ずっと、大和の、側にいる」

 そうだ。
 大和と、離れたくない。

 家族だからじゃない。大和だから、だ。

 もう一度、息をする。大和の匂いがする。
 大和が、ここにいる。

 俺は——まだ、生きていたい。
 大和と共に、生きていきたい。

 ふ、とどこかで狐の微笑む気配がした。それは、祝福だったのか。それとも、嘲笑だったのか。



 ————————————————————



 霧生は「ずっと大和の側にいる」と言い残し、再び意識を失った。大和は彼の冷たくなった手を握りしめ、必死にその顔を覗き込む。しかし、霧生の呼吸は浅く、脈も微弱だ。焦燥感が胸を締め付ける中、大和はゆっくりと朱峯の方へ顔を向けた。

「……どうすれば、霧生を助けられる?」

 大和の声は震えていた。しかし、その眼差しには決意が宿っていた。朱峯はそんな大和を何の感情もない瞳で見下ろしている。

「お前は霧生に消えたいか生きたいか聞いたな?つまり、生き続ける方法を知ってるってことだ」
「おや、莫迦なだけだと思っていたけれど」

 朱峯は口元に薄い笑みを浮かべた。

「それに気づいたなら、私が霧生を助けられるとは思わなかったのかな。自分で神を救おうなんて、随分と烏滸がましい」
「神頼みで霧生が助かるなら、いくらでも拝んでやる!だけど、お前はそれで聞き入れるほど性格が良いとは思えない!」

 朱峯の言葉には嘲笑が含まれていた。しかし、それに怯むどころか啖呵を切ってくる大和に、片方の眉を上げた。

「ふふ、面白い。確かに、私はそんなに親切じゃないよ。ましてや人間なぞに肩入れする義理もないからね」
「……俺にできることがあるなら、したい。霧生が消えそうな時に様子を見に来るくらい、あんたにとっても霧生は大事な存在なんだろ?頼む。教えてくれれば、あとは自分で何とかするから」
「……」
「こいつは、俺の家族になるって言ってくれたんだ。ずっと側にいるって。俺の家族を、もう、死なせてたまるかよ……!」

 朱峯はそれを聞くと、軽く肩をすくめ、口を開いた。

「霧生はね、かつて力ある狼として群れを率いていた。それはもう立派で美しい狼だったよ。そして、ある村を暴徒から守ったことがあって、それ以来、人から『大口真神おおくちのまがみ』、つまり、大いなる口を持つ神として崇められるようになったんだ」

 大和は初めて聞く霧生の過去に、黙って耳を傾ける。

「だが、人間というのは移り気なものでね。最初は感謝して神社を建てて祀るけど、時が経つと信仰は薄れ、神社も荒廃していく。霧生を祀っていた神社も例外じゃない。信仰が神の力の源なのに、今や彼の存在すらも忘れ去られている」

 朱峯の声には、どこか哀れみが感じられた。

「……じゃあ、どうすればいい?」

 大和の問いに、朱峯は微笑を浮かべたまま答える。

「聡いお前ならもうわかっているだろう。簡単さ。霧生が神として生き続けるには、神社を再興し、彼への信仰を取り戻せばいい。人々がまた彼を再び崇めるようになれば、霧生は力を取り戻すだろう」

 その言葉に、大和は拳を握りしめた。

(そんなこと、俺にできるのか……?)

 迷いが胸を締めつける。信仰を取り戻す?神社を再興する?そんな大それたことを、自分一人の力でできるのだろうか。

 朱峯は俯いて自分の拳をじっと見つめる大和に、肩をすくめて軽く言う。

「まあ、お前が死ぬ頃には、霧生も話せるくらいに回復しているかもね」
「そんなの……」

 そんなのは、遅すぎる。それではだめだ。

「生きてさえいてくれればいい」と思っていたはずだった。なのに――今は違う。

(俺は……今すぐにでも、霧生と話したい。霧生と一緒に部屋に帰って、飯を食って、くだらない話をしたい。霧生と一緒に、生きていきたい。だから……)

 救える方法があるなら、やるしかない。たった一人でも。時間がかかっても。
 大和が決意を固めたその時、朱峯の言葉の一つが頭に引っかかった。

「あんた、『霧生が神として生き続けるには』って言ったな?じゃあ、さっきの方法以外で生き続ける方法もあんのか」

 そう尋ねると、朱峯は初めて表情を崩した。大きく目を見開いた後、突然腹を抱えて笑い出す。

「はははははは!!……あーあー、ほんに可愛くないな、お前は」
「……霧生には可愛いって言われたけど」

 何がそんなに可笑しいのかわからない。しかし朱峯は涙を浮かべるほど笑い転げている。

「まぁ、霧生に消えてほしくないのは私も同じだからね。ただ、この方法はできるだけ避けたいと思っていたんだよ」
「早く教えろ……いや、教えてください」
「ふふふふ。そうだな、神としてではなく、『人として生きる』方法ならあるよ」
「……人、として?」

 大和はポカンと口を開けて固まった。その顔を見て、朱峯は再び笑い転げる。

「間抜けが一層の間抜け面になった!ふふふふふ!」

 こんな局面なのに、なんだか毒気を抜かれてしまう。大和は肩をすくめ、深く息を吐いた。

「……教えてください。早く」
「間抜けなうえにせっかちとは」
「いいから早く!」
「そう苛々するでない。怖い面がさらに怖くなっているぞ」

 一通り大和を揶揄った朱峯は、霧生の額に手を当ててゆっくりと微笑んだ。
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