神の契りは解けない

碧碧

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 朱峯の説明はこうだった。

 神が具現化するには莫大な力が必要であり、霧生は元の狼の姿ではなく、人の形をとっているため、相当な力を消耗している。さらに、大和に加護を与え続けている。つまり、霧生の力のほとんどは「大和を守るために使われている」のだという。

「お前が怪我をしないのも、病気をしないのも、全て霧生の加護のおかげさ」
「……は?」
「つまり、もともと力が弱まっていた霧生にとって、常に人の姿を保ちながらお前を守るのは無謀だったってことだよ」

 大和は息が詰まる感覚を覚えた。

 俺のせいで、霧生が——。

 事故に遭いかけて怪我をしたのは、霧生の力が弱まって加護の力も弱まっていたから。最近霧生の体調が少し回復したのは、「大和がアパートにいる時間が増え、加護の負担が軽減されたから」。そして今日、外出した途端、霧生は力を使い果たして倒れた。

(……俺の運が良かったんじゃない。霧生が、ずっと俺を守ってくれてたんだ。)

 大和は唇を噛みしめた。

「頑なに人の姿を保とうとするのは、お前を怖がらせないようにするためだろうね。ほら、意識のない今でも、狼に戻ろうとしない」
「霧生……」

 ――そこまでして、俺の側にいたかったのか?人として、家族になりたかったのか?

 耳元で、「狼に戻ってくれ」と声をかけたが、霧生は何の反応も返さなかった。声が届かないことが、これほど切なく、虚しいものだとは思わなかった。



「そこで、人間」

 朱峯は一拍おいて、ゆっくりと口を開いた。

「お前はどうしたい」
「……?」
「霧生を人間にするには儀式をする必要がある。儀式をすれば、当然、神の力は失われ、お前を守るものはなくなってしまう。そして、霧生は人間として生まれ変わる。が、神のように生き続けることはできない。お前と同じように、老い、病み、やがて死ぬ。それでも、お前はそちらを選ぶかい?」

 朱峯の言葉は、淡々としていた。ただ事実を告げているだけのようでいて、その実、試すような響きを帯びている。

「それとも、霧生をこのまま神として存続させるか。さっきも言ったとおり、お前が生涯をかけて霧生の神社を再建し、人々に崇めさせることができれば、霧生は神の力を失わずにすむかもしれない。そうすれば霧生を皆が尊敬し、信仰し、忘れ去られない存在になる」
「……でも、それには時間がかかる」
「そう。信仰を取り戻すまで、霧生は今のままの状態だろうね。お前はそれを受け入れるかい?それとも、今ここで人間にしてしまうかい?」

 大和の喉が、微かに鳴った。

「……どっちを選んでも、簡単じゃねぇな」
「当然だよ。神に関わるというのは、そういうことだから」

 朱峯は飄々とした笑みを浮かべている。

「さあ、人間。選べ。お前は、霧生を神のまま救うか。それとも人間にして救うか」

 霧生の運命を決める、たった一つの選択。

 大和は唇を噛み、腕の中の霧生を見下ろした。

 生きてほしい。それは揺るがない。
 けれど——どの道を選べばいいのか。

「……俺は——」

 神として生きるか、人として生きるか。

 霧生を人間にすれば、こいつは普通の生き物と同じように、死ぬ。それがどれほど恐ろしいことか、大和は痛いほど知っていた。家族を失うことが、どれほどの喪失か、嫌というほど知っている。

 けれど、このまま神として存続させる方を選んだとして、ずっとずっと先、目覚めたときに何を思うのだろうか。

 大和の拳が、ぎゅっと強く握られる。

 どちらを選んだとしても、もう後戻りはできない。どちらを選んだとしても、それが霧生にとって正しいのかはわからない。そして何より——。

(霧生の命の在り方を、俺が決めていいのか。)

 本当に、霧生の人生を、勝手に選んでいいのか?

 喉の奥が、きゅっと詰まるような感覚がする。

(俺は自分の生き方を誰にも指図されたくない。だから俺も、霧生に、そんなことしたくねぇ。)

 大和は、ゆっくりと顔を上げた。

「俺は……選ばねぇ」

 朱峯の細い眉が、少しだけ動く。

「ほう?」
「どっちも選ばねぇ……霧生自身が、決めるべきだ」
「逃げるのかい」
「これが逃げだと思うんなら、勝手に思ってろ」

 大和はまっすぐに朱峯を見つめた。

「霧生がどっちを選ぼうとも、俺がずっと霧生の側にいるのは変わんねぇ。そりゃあ、すぐにでも人間になってほしいって思うけど。そっちの方が確実だし、早いし」
「ふふ、それはまた、正直だね」
「でも……もし霧生がそれを望まねぇなら、無理矢理、俺の選んだ生き方を押しつけることになる。そんなの、俺はまっぴらごめんだ」

 大和の手が、霧生の冷たい頬をそっと撫でる。

「こいつの命は、こいつ自身のもんだろ?」

 静寂が落ちた。
 朱峯はしばらく大和を見つめた後、ゆっくりと口元を綻ばせる。

「……お前、やっぱり面白いねぇ」
「勝手に楽しむな」

 大和は霧生を抱きしめ、そっと額を合わせた。

(今まではこいつがずっと俺を守ってくれてた。だから今度は、俺がお前を守る番だ。)

 小さく息を吸い込み、目を閉じる。

「だから……まずは、一瞬でもいいからこいつを起こす」

 目を閉じ、霧生の名前を小さく呼ぶ。

「霧生、絶対に起きろよ。お前に聞きたいことがあるんだ」

 そのまま朱峯をもう一度見遣る。

「こいつが祀られてた神社の場所を教えてください」
「……なぜ?」
「少しでも神社を綺麗にする。んで、お供えとお参りする。完全に復活させるのには時間がかかっても、選ばせる一瞬だけなら、数日で何とかなるかもしれない」
「あはははははは。いいだろう、霧生の神社は―」






 ——白霧神社しらぎりじんじゃ

 かつてこの地の人々が霧生を祀った社。
 その名のとおり、深い霧に包まれた場所にあり、晴れた日でさえも白く霞んで見えたという。
 だが、時が経つにつれ、人々は霧とともに神の存在も忘れてしまった。



「……ここ、来たことある気がする」

 その鳥居をくぐった瞬間、大和は足を止めた。本殿へと続く緩い石段を見上げる。手入れがされていないのだろう。背の高い雑草が多く、石段も所々崩れていた。昔はもっと綺麗だったのだろうか。朱峯の言うとおり、ここは人の気配が途絶え、静かに朽ちていく神社なのだ。

(なんか、懐かしい感じがする。)

 木々のざわめき、きりっとした気温、陽だまりの匂い。ひとつひとつが心の奥の記憶に触れる。しかし、思い出そうとしても、霧がかかったようにぼやけてしまう。

「ここはお前の故郷だろう。当然に来たことがあるんじゃないかい」
「どうだろう……」

 後ろからついてくる朱峯に大和がぼんやりと答える。

 どこへ向かえばいいのか、考えているわけじゃない。けれど、大和の身体は知っていた。どこを踏みしめれば石段が鳴るか、どこを曲がれば本殿へと続く道が見えるか。記憶にないはずなのに、迷いなく進む足が、かつて何度もここへ通ったことを証明していた。

 境内に足を踏み入れた瞬間、風がふわりと吹き抜けた。

(……あ。)

 その感触に、胸の奥がざわりとした。静かで、風が気持ちよくて。どこか、優しい空気が流れている。

「……なんだっけ、ここ」

 指先が微かに震える。何かを思い出しそうで思い出せない。でも、間違いなく、この場所を知っている。

(俺は、ここに……いたんだ。)

 喉の奥が詰まりそうになる。
 何かが心の奥底で、ひっそりと目を覚まそうとしていた。



 大和の腕の中で眠る銀色の小さな狼が大きく息を吐いた。霧生だ。さすがに人の形をした霧生をそのまま連れてくるのは難しいと朱峯に相談したところ、「笑わせてもらったお返し」だと、狼の姿にしてくれた。これで力の消耗も抑えられる。

 神社に足を踏み入れた途端、霧生の心音がわずかに強くなった気がした。境内の空気に包まれた瞬間、何かが彼を呼び覚ましているような――そんな気がする。

「霧生、俺はここに来てたんだな」

 大和の声は静かな境内にぽつんと落ちた。



 考えても仕方がない。今できることをするしかない。そう思い、大和は背負った大きなリュックから掃除道具を取り出し、一礼してからこじんまりとした本殿へと足を踏み入れた。

 本殿の扉を開けると、ひんやりとした空気が流れ込んだ。
 大和は思わず鼻を鳴らす。埃っぽいのを覚悟していたが、思ったほど空気は汚れていなかった。

(……思ったより荒れてねぇな。)

 人の手が入っていない神社なら、長年放置された埃や枯葉が積もっていてもおかしくない。けれど、ここは妙に整然としている。

「……どういうことだ?」

 大和はそっと霧生を下ろし、本殿内を見渡した。

 この場所が廃れて久しいことは、鳥居や石段の荒れ具合からも明らかだった。それなのに、本殿の中だけは、まるで誰かが定期的に手を入れているかのように保たれている。

(誰かが……掃除してるのか?)

 そう考えるのが自然だが、こんな人の気配がない場所に、わざわざ手を入れる人間がいるだろうか。

 大和はゆっくりと奥へ進む。

 古びた木の扉を押し開けると、その先には自然のままの大きな石が祀られていた。おそらくこれが、この神社のご神体なのだろう。

 手を加えられていない、ただの石——。
 しかし、その表面は不思議なほどに滑らかで、まるで最近磨かれたばかりのように澄んでいる。埃一つない。苔もついていない。

「なるほどね」

 後ろから朱峯の声がした。

「どうやら、霧生はまだ完全に見捨てられたわけじゃないらしい」

 大和は振り返る。

「どういう意味だ?」
「誰かが定期的にここを清めているってことだよ」
「なんで……一体誰が……」

 思わず、ご神体を見つめる。
 長い間、忘れ去られていたはずの神社。それなのに、誰かがここに通い続けている。

「誰がどんな想いでここを守っているのか、私にはわからない。ただ……信仰が完全に途絶えた神社なら、ご神体はもっと荒れ果てて、霧生も存在していられないだろうから」

 胸の奥に、妙な感覚が広がる。まるで、遠い記憶の断片に触れたような、懐かしいような、それでいて落ち着かない違和感。

 ——その時。

「おや、あんたら……」

 低く穏やかな声がした。
 大和と朱峯が振り返ると、そこには、一人の老人が立っていた。

 年の頃は七十代後半といったところだろうか。
 小柄で、細身の体つき。それでも姿勢はしゃんとしていて、手には掃除道具を抱えている。その老人は驚いたように目を細め、大和たちを見つめた。

「久しぶりに、人が来たねぇ」

 静かな本殿に、柔らかな声が響く。

 その老人は、しばらくの間、大和をじっと見つめた。目を細め、まるで遠い記憶を探るように。

「君は……どこかで見たことがあるな」

 確信は持てないが、どこか引っかかる、そんな感覚がその声に滲んでいた。

 大和もまた、目の前の老人を見つめる。どこか懐かしい気がする。けれど、それが誰なのか、はっきりとは思い出せない。

(……誰だ、このじいさん。)

 それでも、不思議と安心感がある。初対面のはずなのに、どこか懐かしい——そんな感覚に、大和は戸惑いながら口を開いた。

「……えっと……じい、ちゃん……?」

 思い出せない歯がゆさと気まずさに、小さくぽつりと呼びかけた瞬間、老人の目がぱっと見開かれた。

「ほぉ、わしを『じいちゃん』と呼ぶとは、こりゃあ懐かしい……ああ、お前さん、昔ようここに来とった子じゃろ?確か、ええと、山……なんとか君、じゃったか……?」

 大和は一瞬息を止め、それからゆっくり答えた。

「藤崎大和です」

 その名前を聞いた瞬間、老人の顔にぱっと懐かしそうな笑みが広がる。

「ああ!思い出した!藤崎さんとこの大和くんじゃ!毎日のように顔を合わせて……ああ、でも覚えていないのは無理もないわな。随分と昔のことじゃから。まさか、またここに来てくれるとは……」
「……はい」
「そうかそうか。あんなに小さかったのに、立派になったもんじゃ」

 守屋——どうやらこの老人の名前らしい——は、目尻の皺を深くしてしみじみと笑った。
 大和はじっと守屋を見つめる。そして、自分が小さい頃、ここに通っていた記憶が、ゆっくりと蘇ってくるのを感じた。

「大和くん、あの頃は毎日毎日、本殿の端でべそをかいとったのになぁ」
「え、そうなのかい?」
「うわっ」

 今まで気配を消していた朱峯が急に話に入ってくる。

「幼い頃のこやつ、どんなやつだったんだい」
「そりゃもう、ずうっと一人で泣いとった。わしが声をかけても、理由は話してくれんかったが、ここによく来ていた大きな野良犬がおってな。そいつ相手に、学校に行きたくないー、家にも帰りたくないー言うてな」
「大きな野良犬?」

 大和の胸が、微かにざわつく。

「おお、そうじゃ。白っぽい毛の、そこそこでっかい犬じゃよ。覚えとらんか?お前さんにだけやけに懐いとったのに。まあ、懐いていたというより、お前さんが来るのを待っていた、という方が正しいかもしれんが」
「待って……た?」
「うむ。わしが餌を置いてやっても、決して食べんくらい警戒心が強くてな。それどころか、わしが姿を見せると、さあっと森の奥に消えてしまう。けれど、お前さんが神社に来ると、まるでそれを見計らっていたかのように現れた」
「…………」
「それで、お前さんが帰ると、またいつの間にか姿を消す。まるで、お前さんのためにだけそこにいるような、不思議な犬じゃったよ」

 大和の指が、無意識に冷たくなる。それなのに、身体の芯はじんじんと熱くなった。

「そりゃもう、あの犬はお前さんのことが大好きだったよ」

 守屋は懐かしそうに目を細める。

「お前さんが泣きながらそいつの毛に顔を埋めると、じっと動かずにおった。まるで、お前さんが泣き止むのを待つみたいに。そうしてるうちに、お前さんはいつの間にか眠っとったなあ」
「…………」

 大和は、霧生の方を見た。端で寝かされている銀色の狼。守屋もつられるようにそちらに目を向けると、その姿を見て、ふと微笑んだ。

「おやおや、この子、まるで大口様みたいじゃなぁ」

 ——ぞくり。
 背筋がひやりと冷える感覚。
 霧生は、ここにいたのか。いや、それだけじゃない。あの頃から——ずっと。

「…………」

 大和はゆっくりと、丸まって眠る霧生を見下ろした。その毛並みを、無意識に指が撫でる。ふわふわとした豊かな毛。ここに顔を埋めたら、どんな匂いがするのか、大和はもう知っている。

 思い出さなくてもわかる。大和はここで狼の霧生に会っていたのだ。学校も家にも居場所がなかった大和の、居場所になってくれていた。

(なんで、思い出せないんだよ……っ!)

 忘れていたはずの何かが、胸の奥を締め付けるように疼いた。

「お前、昔から俺のこと……」と、思わず言いかけた瞬間。

「さて、大和くん」

 守屋の声が、ふっと間を割った。

「話は後にして、まずは掃除を手伝ってくれるかい?お前さんもそのために来てくれたんじゃろ?」
「あ……うん」

 そうだ。今は、考えても仕方ない。とにかく、できることをしなければ。大和はそっと霧生を撫でてから、手にしたほうきを握り直した。

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