10 / 21
10
しおりを挟む
朱峯の説明はこうだった。
神が具現化するには莫大な力が必要であり、霧生は元の狼の姿ではなく、人の形をとっているため、相当な力を消耗している。さらに、大和に加護を与え続けている。つまり、霧生の力のほとんどは「大和を守るために使われている」のだという。
「お前が怪我をしないのも、病気をしないのも、全て霧生の加護のおかげさ」
「……は?」
「つまり、もともと力が弱まっていた霧生にとって、常に人の姿を保ちながらお前を守るのは無謀だったってことだよ」
大和は息が詰まる感覚を覚えた。
俺のせいで、霧生が——。
事故に遭いかけて怪我をしたのは、霧生の力が弱まって加護の力も弱まっていたから。最近霧生の体調が少し回復したのは、「大和がアパートにいる時間が増え、加護の負担が軽減されたから」。そして今日、外出した途端、霧生は力を使い果たして倒れた。
(……俺の運が良かったんじゃない。霧生が、ずっと俺を守ってくれてたんだ。)
大和は唇を噛みしめた。
「頑なに人の姿を保とうとするのは、お前を怖がらせないようにするためだろうね。ほら、意識のない今でも、狼に戻ろうとしない」
「霧生……」
――そこまでして、俺の側にいたかったのか?人として、家族になりたかったのか?
耳元で、「狼に戻ってくれ」と声をかけたが、霧生は何の反応も返さなかった。声が届かないことが、これほど切なく、虚しいものだとは思わなかった。
「そこで、人間」
朱峯は一拍おいて、ゆっくりと口を開いた。
「お前はどうしたい」
「……?」
「霧生を人間にするには儀式をする必要がある。儀式をすれば、当然、神の力は失われ、お前を守るものはなくなってしまう。そして、霧生は人間として生まれ変わる。が、神のように生き続けることはできない。お前と同じように、老い、病み、やがて死ぬ。それでも、お前はそちらを選ぶかい?」
朱峯の言葉は、淡々としていた。ただ事実を告げているだけのようでいて、その実、試すような響きを帯びている。
「それとも、霧生をこのまま神として存続させるか。さっきも言ったとおり、お前が生涯をかけて霧生の神社を再建し、人々に崇めさせることができれば、霧生は神の力を失わずにすむかもしれない。そうすれば霧生を皆が尊敬し、信仰し、忘れ去られない存在になる」
「……でも、それには時間がかかる」
「そう。信仰を取り戻すまで、霧生は今のままの状態だろうね。お前はそれを受け入れるかい?それとも、今ここで人間にしてしまうかい?」
大和の喉が、微かに鳴った。
「……どっちを選んでも、簡単じゃねぇな」
「当然だよ。神に関わるというのは、そういうことだから」
朱峯は飄々とした笑みを浮かべている。
「さあ、人間。選べ。お前は、霧生を神のまま救うか。それとも人間にして救うか」
霧生の運命を決める、たった一つの選択。
大和は唇を噛み、腕の中の霧生を見下ろした。
生きてほしい。それは揺るがない。
けれど——どの道を選べばいいのか。
「……俺は——」
神として生きるか、人として生きるか。
霧生を人間にすれば、こいつは普通の生き物と同じように、死ぬ。それがどれほど恐ろしいことか、大和は痛いほど知っていた。家族を失うことが、どれほどの喪失か、嫌というほど知っている。
けれど、このまま神として存続させる方を選んだとして、ずっとずっと先、目覚めたときに何を思うのだろうか。
大和の拳が、ぎゅっと強く握られる。
どちらを選んだとしても、もう後戻りはできない。どちらを選んだとしても、それが霧生にとって正しいのかはわからない。そして何より——。
(霧生の命の在り方を、俺が決めていいのか。)
本当に、霧生の人生を、勝手に選んでいいのか?
喉の奥が、きゅっと詰まるような感覚がする。
(俺は自分の生き方を誰にも指図されたくない。だから俺も、霧生に、そんなことしたくねぇ。)
大和は、ゆっくりと顔を上げた。
「俺は……選ばねぇ」
朱峯の細い眉が、少しだけ動く。
「ほう?」
「どっちも選ばねぇ……霧生自身が、決めるべきだ」
「逃げるのかい」
「これが逃げだと思うんなら、勝手に思ってろ」
大和はまっすぐに朱峯を見つめた。
「霧生がどっちを選ぼうとも、俺がずっと霧生の側にいるのは変わんねぇ。そりゃあ、すぐにでも人間になってほしいって思うけど。そっちの方が確実だし、早いし」
「ふふ、それはまた、正直だね」
「でも……もし霧生がそれを望まねぇなら、無理矢理、俺の選んだ生き方を押しつけることになる。そんなの、俺はまっぴらごめんだ」
大和の手が、霧生の冷たい頬をそっと撫でる。
「こいつの命は、こいつ自身のもんだろ?」
静寂が落ちた。
朱峯はしばらく大和を見つめた後、ゆっくりと口元を綻ばせる。
「……お前、やっぱり面白いねぇ」
「勝手に楽しむな」
大和は霧生を抱きしめ、そっと額を合わせた。
(今まではこいつがずっと俺を守ってくれてた。だから今度は、俺がお前を守る番だ。)
小さく息を吸い込み、目を閉じる。
「だから……まずは、一瞬でもいいからこいつを起こす」
目を閉じ、霧生の名前を小さく呼ぶ。
「霧生、絶対に起きろよ。お前に聞きたいことがあるんだ」
そのまま朱峯をもう一度見遣る。
「こいつが祀られてた神社の場所を教えてください」
「……なぜ?」
「少しでも神社を綺麗にする。んで、お供えとお参りする。完全に復活させるのには時間がかかっても、選ばせる一瞬だけなら、数日で何とかなるかもしれない」
「あはははははは。いいだろう、霧生の神社は―」
——白霧神社。
かつてこの地の人々が霧生を祀った社。
その名のとおり、深い霧に包まれた場所にあり、晴れた日でさえも白く霞んで見えたという。
だが、時が経つにつれ、人々は霧とともに神の存在も忘れてしまった。
「……ここ、来たことある気がする」
その鳥居をくぐった瞬間、大和は足を止めた。本殿へと続く緩い石段を見上げる。手入れがされていないのだろう。背の高い雑草が多く、石段も所々崩れていた。昔はもっと綺麗だったのだろうか。朱峯の言うとおり、ここは人の気配が途絶え、静かに朽ちていく神社なのだ。
(なんか、懐かしい感じがする。)
木々のざわめき、きりっとした気温、陽だまりの匂い。ひとつひとつが心の奥の記憶に触れる。しかし、思い出そうとしても、霧がかかったようにぼやけてしまう。
「ここはお前の故郷だろう。当然に来たことがあるんじゃないかい」
「どうだろう……」
後ろからついてくる朱峯に大和がぼんやりと答える。
どこへ向かえばいいのか、考えているわけじゃない。けれど、大和の身体は知っていた。どこを踏みしめれば石段が鳴るか、どこを曲がれば本殿へと続く道が見えるか。記憶にないはずなのに、迷いなく進む足が、かつて何度もここへ通ったことを証明していた。
境内に足を踏み入れた瞬間、風がふわりと吹き抜けた。
(……あ。)
その感触に、胸の奥がざわりとした。静かで、風が気持ちよくて。どこか、優しい空気が流れている。
「……なんだっけ、ここ」
指先が微かに震える。何かを思い出しそうで思い出せない。でも、間違いなく、この場所を知っている。
(俺は、ここに……いたんだ。)
喉の奥が詰まりそうになる。
何かが心の奥底で、ひっそりと目を覚まそうとしていた。
大和の腕の中で眠る銀色の小さな狼が大きく息を吐いた。霧生だ。さすがに人の形をした霧生をそのまま連れてくるのは難しいと朱峯に相談したところ、「笑わせてもらったお返し」だと、狼の姿にしてくれた。これで力の消耗も抑えられる。
神社に足を踏み入れた途端、霧生の心音がわずかに強くなった気がした。境内の空気に包まれた瞬間、何かが彼を呼び覚ましているような――そんな気がする。
「霧生、俺はここに来てたんだな」
大和の声は静かな境内にぽつんと落ちた。
考えても仕方がない。今できることをするしかない。そう思い、大和は背負った大きなリュックから掃除道具を取り出し、一礼してからこじんまりとした本殿へと足を踏み入れた。
本殿の扉を開けると、ひんやりとした空気が流れ込んだ。
大和は思わず鼻を鳴らす。埃っぽいのを覚悟していたが、思ったほど空気は汚れていなかった。
(……思ったより荒れてねぇな。)
人の手が入っていない神社なら、長年放置された埃や枯葉が積もっていてもおかしくない。けれど、ここは妙に整然としている。
「……どういうことだ?」
大和はそっと霧生を下ろし、本殿内を見渡した。
この場所が廃れて久しいことは、鳥居や石段の荒れ具合からも明らかだった。それなのに、本殿の中だけは、まるで誰かが定期的に手を入れているかのように保たれている。
(誰かが……掃除してるのか?)
そう考えるのが自然だが、こんな人の気配がない場所に、わざわざ手を入れる人間がいるだろうか。
大和はゆっくりと奥へ進む。
古びた木の扉を押し開けると、その先には自然のままの大きな石が祀られていた。おそらくこれが、この神社のご神体なのだろう。
手を加えられていない、ただの石——。
しかし、その表面は不思議なほどに滑らかで、まるで最近磨かれたばかりのように澄んでいる。埃一つない。苔もついていない。
「なるほどね」
後ろから朱峯の声がした。
「どうやら、霧生はまだ完全に見捨てられたわけじゃないらしい」
大和は振り返る。
「どういう意味だ?」
「誰かが定期的にここを清めているってことだよ」
「なんで……一体誰が……」
思わず、ご神体を見つめる。
長い間、忘れ去られていたはずの神社。それなのに、誰かがここに通い続けている。
「誰がどんな想いでここを守っているのか、私にはわからない。ただ……信仰が完全に途絶えた神社なら、ご神体はもっと荒れ果てて、霧生も存在していられないだろうから」
胸の奥に、妙な感覚が広がる。まるで、遠い記憶の断片に触れたような、懐かしいような、それでいて落ち着かない違和感。
——その時。
「おや、あんたら……」
低く穏やかな声がした。
大和と朱峯が振り返ると、そこには、一人の老人が立っていた。
年の頃は七十代後半といったところだろうか。
小柄で、細身の体つき。それでも姿勢はしゃんとしていて、手には掃除道具を抱えている。その老人は驚いたように目を細め、大和たちを見つめた。
「久しぶりに、人が来たねぇ」
静かな本殿に、柔らかな声が響く。
その老人は、しばらくの間、大和をじっと見つめた。目を細め、まるで遠い記憶を探るように。
「君は……どこかで見たことがあるな」
確信は持てないが、どこか引っかかる、そんな感覚がその声に滲んでいた。
大和もまた、目の前の老人を見つめる。どこか懐かしい気がする。けれど、それが誰なのか、はっきりとは思い出せない。
(……誰だ、このじいさん。)
それでも、不思議と安心感がある。初対面のはずなのに、どこか懐かしい——そんな感覚に、大和は戸惑いながら口を開いた。
「……えっと……じい、ちゃん……?」
思い出せない歯がゆさと気まずさに、小さくぽつりと呼びかけた瞬間、老人の目がぱっと見開かれた。
「ほぉ、わしを『じいちゃん』と呼ぶとは、こりゃあ懐かしい……ああ、お前さん、昔ようここに来とった子じゃろ?確か、ええと、山……なんとか君、じゃったか……?」
大和は一瞬息を止め、それからゆっくり答えた。
「藤崎大和です」
その名前を聞いた瞬間、老人の顔にぱっと懐かしそうな笑みが広がる。
「ああ!思い出した!藤崎さんとこの大和くんじゃ!毎日のように顔を合わせて……ああ、でも覚えていないのは無理もないわな。随分と昔のことじゃから。まさか、またここに来てくれるとは……」
「……はい」
「そうかそうか。あんなに小さかったのに、立派になったもんじゃ」
守屋——どうやらこの老人の名前らしい——は、目尻の皺を深くしてしみじみと笑った。
大和はじっと守屋を見つめる。そして、自分が小さい頃、ここに通っていた記憶が、ゆっくりと蘇ってくるのを感じた。
「大和くん、あの頃は毎日毎日、本殿の端でべそをかいとったのになぁ」
「え、そうなのかい?」
「うわっ」
今まで気配を消していた朱峯が急に話に入ってくる。
「幼い頃のこやつ、どんなやつだったんだい」
「そりゃもう、ずうっと一人で泣いとった。わしが声をかけても、理由は話してくれんかったが、ここによく来ていた大きな野良犬がおってな。そいつ相手に、学校に行きたくないー、家にも帰りたくないー言うてな」
「大きな野良犬?」
大和の胸が、微かにざわつく。
「おお、そうじゃ。白っぽい毛の、そこそこでっかい犬じゃよ。覚えとらんか?お前さんにだけやけに懐いとったのに。まあ、懐いていたというより、お前さんが来るのを待っていた、という方が正しいかもしれんが」
「待って……た?」
「うむ。わしが餌を置いてやっても、決して食べんくらい警戒心が強くてな。それどころか、わしが姿を見せると、さあっと森の奥に消えてしまう。けれど、お前さんが神社に来ると、まるでそれを見計らっていたかのように現れた」
「…………」
「それで、お前さんが帰ると、またいつの間にか姿を消す。まるで、お前さんのためにだけそこにいるような、不思議な犬じゃったよ」
大和の指が、無意識に冷たくなる。それなのに、身体の芯はじんじんと熱くなった。
「そりゃもう、あの犬はお前さんのことが大好きだったよ」
守屋は懐かしそうに目を細める。
「お前さんが泣きながらそいつの毛に顔を埋めると、じっと動かずにおった。まるで、お前さんが泣き止むのを待つみたいに。そうしてるうちに、お前さんはいつの間にか眠っとったなあ」
「…………」
大和は、霧生の方を見た。端で寝かされている銀色の狼。守屋もつられるようにそちらに目を向けると、その姿を見て、ふと微笑んだ。
「おやおや、この子、まるで大口様みたいじゃなぁ」
——ぞくり。
背筋がひやりと冷える感覚。
霧生は、ここにいたのか。いや、それだけじゃない。あの頃から——ずっと。
「…………」
大和はゆっくりと、丸まって眠る霧生を見下ろした。その毛並みを、無意識に指が撫でる。ふわふわとした豊かな毛。ここに顔を埋めたら、どんな匂いがするのか、大和はもう知っている。
思い出さなくてもわかる。大和はここで狼の霧生に会っていたのだ。学校も家にも居場所がなかった大和の、居場所になってくれていた。
(なんで、思い出せないんだよ……っ!)
忘れていたはずの何かが、胸の奥を締め付けるように疼いた。
「お前、昔から俺のこと……」と、思わず言いかけた瞬間。
「さて、大和くん」
守屋の声が、ふっと間を割った。
「話は後にして、まずは掃除を手伝ってくれるかい?お前さんもそのために来てくれたんじゃろ?」
「あ……うん」
そうだ。今は、考えても仕方ない。とにかく、できることをしなければ。大和はそっと霧生を撫でてから、手にしたほうきを握り直した。
神が具現化するには莫大な力が必要であり、霧生は元の狼の姿ではなく、人の形をとっているため、相当な力を消耗している。さらに、大和に加護を与え続けている。つまり、霧生の力のほとんどは「大和を守るために使われている」のだという。
「お前が怪我をしないのも、病気をしないのも、全て霧生の加護のおかげさ」
「……は?」
「つまり、もともと力が弱まっていた霧生にとって、常に人の姿を保ちながらお前を守るのは無謀だったってことだよ」
大和は息が詰まる感覚を覚えた。
俺のせいで、霧生が——。
事故に遭いかけて怪我をしたのは、霧生の力が弱まって加護の力も弱まっていたから。最近霧生の体調が少し回復したのは、「大和がアパートにいる時間が増え、加護の負担が軽減されたから」。そして今日、外出した途端、霧生は力を使い果たして倒れた。
(……俺の運が良かったんじゃない。霧生が、ずっと俺を守ってくれてたんだ。)
大和は唇を噛みしめた。
「頑なに人の姿を保とうとするのは、お前を怖がらせないようにするためだろうね。ほら、意識のない今でも、狼に戻ろうとしない」
「霧生……」
――そこまでして、俺の側にいたかったのか?人として、家族になりたかったのか?
耳元で、「狼に戻ってくれ」と声をかけたが、霧生は何の反応も返さなかった。声が届かないことが、これほど切なく、虚しいものだとは思わなかった。
「そこで、人間」
朱峯は一拍おいて、ゆっくりと口を開いた。
「お前はどうしたい」
「……?」
「霧生を人間にするには儀式をする必要がある。儀式をすれば、当然、神の力は失われ、お前を守るものはなくなってしまう。そして、霧生は人間として生まれ変わる。が、神のように生き続けることはできない。お前と同じように、老い、病み、やがて死ぬ。それでも、お前はそちらを選ぶかい?」
朱峯の言葉は、淡々としていた。ただ事実を告げているだけのようでいて、その実、試すような響きを帯びている。
「それとも、霧生をこのまま神として存続させるか。さっきも言ったとおり、お前が生涯をかけて霧生の神社を再建し、人々に崇めさせることができれば、霧生は神の力を失わずにすむかもしれない。そうすれば霧生を皆が尊敬し、信仰し、忘れ去られない存在になる」
「……でも、それには時間がかかる」
「そう。信仰を取り戻すまで、霧生は今のままの状態だろうね。お前はそれを受け入れるかい?それとも、今ここで人間にしてしまうかい?」
大和の喉が、微かに鳴った。
「……どっちを選んでも、簡単じゃねぇな」
「当然だよ。神に関わるというのは、そういうことだから」
朱峯は飄々とした笑みを浮かべている。
「さあ、人間。選べ。お前は、霧生を神のまま救うか。それとも人間にして救うか」
霧生の運命を決める、たった一つの選択。
大和は唇を噛み、腕の中の霧生を見下ろした。
生きてほしい。それは揺るがない。
けれど——どの道を選べばいいのか。
「……俺は——」
神として生きるか、人として生きるか。
霧生を人間にすれば、こいつは普通の生き物と同じように、死ぬ。それがどれほど恐ろしいことか、大和は痛いほど知っていた。家族を失うことが、どれほどの喪失か、嫌というほど知っている。
けれど、このまま神として存続させる方を選んだとして、ずっとずっと先、目覚めたときに何を思うのだろうか。
大和の拳が、ぎゅっと強く握られる。
どちらを選んだとしても、もう後戻りはできない。どちらを選んだとしても、それが霧生にとって正しいのかはわからない。そして何より——。
(霧生の命の在り方を、俺が決めていいのか。)
本当に、霧生の人生を、勝手に選んでいいのか?
喉の奥が、きゅっと詰まるような感覚がする。
(俺は自分の生き方を誰にも指図されたくない。だから俺も、霧生に、そんなことしたくねぇ。)
大和は、ゆっくりと顔を上げた。
「俺は……選ばねぇ」
朱峯の細い眉が、少しだけ動く。
「ほう?」
「どっちも選ばねぇ……霧生自身が、決めるべきだ」
「逃げるのかい」
「これが逃げだと思うんなら、勝手に思ってろ」
大和はまっすぐに朱峯を見つめた。
「霧生がどっちを選ぼうとも、俺がずっと霧生の側にいるのは変わんねぇ。そりゃあ、すぐにでも人間になってほしいって思うけど。そっちの方が確実だし、早いし」
「ふふ、それはまた、正直だね」
「でも……もし霧生がそれを望まねぇなら、無理矢理、俺の選んだ生き方を押しつけることになる。そんなの、俺はまっぴらごめんだ」
大和の手が、霧生の冷たい頬をそっと撫でる。
「こいつの命は、こいつ自身のもんだろ?」
静寂が落ちた。
朱峯はしばらく大和を見つめた後、ゆっくりと口元を綻ばせる。
「……お前、やっぱり面白いねぇ」
「勝手に楽しむな」
大和は霧生を抱きしめ、そっと額を合わせた。
(今まではこいつがずっと俺を守ってくれてた。だから今度は、俺がお前を守る番だ。)
小さく息を吸い込み、目を閉じる。
「だから……まずは、一瞬でもいいからこいつを起こす」
目を閉じ、霧生の名前を小さく呼ぶ。
「霧生、絶対に起きろよ。お前に聞きたいことがあるんだ」
そのまま朱峯をもう一度見遣る。
「こいつが祀られてた神社の場所を教えてください」
「……なぜ?」
「少しでも神社を綺麗にする。んで、お供えとお参りする。完全に復活させるのには時間がかかっても、選ばせる一瞬だけなら、数日で何とかなるかもしれない」
「あはははははは。いいだろう、霧生の神社は―」
——白霧神社。
かつてこの地の人々が霧生を祀った社。
その名のとおり、深い霧に包まれた場所にあり、晴れた日でさえも白く霞んで見えたという。
だが、時が経つにつれ、人々は霧とともに神の存在も忘れてしまった。
「……ここ、来たことある気がする」
その鳥居をくぐった瞬間、大和は足を止めた。本殿へと続く緩い石段を見上げる。手入れがされていないのだろう。背の高い雑草が多く、石段も所々崩れていた。昔はもっと綺麗だったのだろうか。朱峯の言うとおり、ここは人の気配が途絶え、静かに朽ちていく神社なのだ。
(なんか、懐かしい感じがする。)
木々のざわめき、きりっとした気温、陽だまりの匂い。ひとつひとつが心の奥の記憶に触れる。しかし、思い出そうとしても、霧がかかったようにぼやけてしまう。
「ここはお前の故郷だろう。当然に来たことがあるんじゃないかい」
「どうだろう……」
後ろからついてくる朱峯に大和がぼんやりと答える。
どこへ向かえばいいのか、考えているわけじゃない。けれど、大和の身体は知っていた。どこを踏みしめれば石段が鳴るか、どこを曲がれば本殿へと続く道が見えるか。記憶にないはずなのに、迷いなく進む足が、かつて何度もここへ通ったことを証明していた。
境内に足を踏み入れた瞬間、風がふわりと吹き抜けた。
(……あ。)
その感触に、胸の奥がざわりとした。静かで、風が気持ちよくて。どこか、優しい空気が流れている。
「……なんだっけ、ここ」
指先が微かに震える。何かを思い出しそうで思い出せない。でも、間違いなく、この場所を知っている。
(俺は、ここに……いたんだ。)
喉の奥が詰まりそうになる。
何かが心の奥底で、ひっそりと目を覚まそうとしていた。
大和の腕の中で眠る銀色の小さな狼が大きく息を吐いた。霧生だ。さすがに人の形をした霧生をそのまま連れてくるのは難しいと朱峯に相談したところ、「笑わせてもらったお返し」だと、狼の姿にしてくれた。これで力の消耗も抑えられる。
神社に足を踏み入れた途端、霧生の心音がわずかに強くなった気がした。境内の空気に包まれた瞬間、何かが彼を呼び覚ましているような――そんな気がする。
「霧生、俺はここに来てたんだな」
大和の声は静かな境内にぽつんと落ちた。
考えても仕方がない。今できることをするしかない。そう思い、大和は背負った大きなリュックから掃除道具を取り出し、一礼してからこじんまりとした本殿へと足を踏み入れた。
本殿の扉を開けると、ひんやりとした空気が流れ込んだ。
大和は思わず鼻を鳴らす。埃っぽいのを覚悟していたが、思ったほど空気は汚れていなかった。
(……思ったより荒れてねぇな。)
人の手が入っていない神社なら、長年放置された埃や枯葉が積もっていてもおかしくない。けれど、ここは妙に整然としている。
「……どういうことだ?」
大和はそっと霧生を下ろし、本殿内を見渡した。
この場所が廃れて久しいことは、鳥居や石段の荒れ具合からも明らかだった。それなのに、本殿の中だけは、まるで誰かが定期的に手を入れているかのように保たれている。
(誰かが……掃除してるのか?)
そう考えるのが自然だが、こんな人の気配がない場所に、わざわざ手を入れる人間がいるだろうか。
大和はゆっくりと奥へ進む。
古びた木の扉を押し開けると、その先には自然のままの大きな石が祀られていた。おそらくこれが、この神社のご神体なのだろう。
手を加えられていない、ただの石——。
しかし、その表面は不思議なほどに滑らかで、まるで最近磨かれたばかりのように澄んでいる。埃一つない。苔もついていない。
「なるほどね」
後ろから朱峯の声がした。
「どうやら、霧生はまだ完全に見捨てられたわけじゃないらしい」
大和は振り返る。
「どういう意味だ?」
「誰かが定期的にここを清めているってことだよ」
「なんで……一体誰が……」
思わず、ご神体を見つめる。
長い間、忘れ去られていたはずの神社。それなのに、誰かがここに通い続けている。
「誰がどんな想いでここを守っているのか、私にはわからない。ただ……信仰が完全に途絶えた神社なら、ご神体はもっと荒れ果てて、霧生も存在していられないだろうから」
胸の奥に、妙な感覚が広がる。まるで、遠い記憶の断片に触れたような、懐かしいような、それでいて落ち着かない違和感。
——その時。
「おや、あんたら……」
低く穏やかな声がした。
大和と朱峯が振り返ると、そこには、一人の老人が立っていた。
年の頃は七十代後半といったところだろうか。
小柄で、細身の体つき。それでも姿勢はしゃんとしていて、手には掃除道具を抱えている。その老人は驚いたように目を細め、大和たちを見つめた。
「久しぶりに、人が来たねぇ」
静かな本殿に、柔らかな声が響く。
その老人は、しばらくの間、大和をじっと見つめた。目を細め、まるで遠い記憶を探るように。
「君は……どこかで見たことがあるな」
確信は持てないが、どこか引っかかる、そんな感覚がその声に滲んでいた。
大和もまた、目の前の老人を見つめる。どこか懐かしい気がする。けれど、それが誰なのか、はっきりとは思い出せない。
(……誰だ、このじいさん。)
それでも、不思議と安心感がある。初対面のはずなのに、どこか懐かしい——そんな感覚に、大和は戸惑いながら口を開いた。
「……えっと……じい、ちゃん……?」
思い出せない歯がゆさと気まずさに、小さくぽつりと呼びかけた瞬間、老人の目がぱっと見開かれた。
「ほぉ、わしを『じいちゃん』と呼ぶとは、こりゃあ懐かしい……ああ、お前さん、昔ようここに来とった子じゃろ?確か、ええと、山……なんとか君、じゃったか……?」
大和は一瞬息を止め、それからゆっくり答えた。
「藤崎大和です」
その名前を聞いた瞬間、老人の顔にぱっと懐かしそうな笑みが広がる。
「ああ!思い出した!藤崎さんとこの大和くんじゃ!毎日のように顔を合わせて……ああ、でも覚えていないのは無理もないわな。随分と昔のことじゃから。まさか、またここに来てくれるとは……」
「……はい」
「そうかそうか。あんなに小さかったのに、立派になったもんじゃ」
守屋——どうやらこの老人の名前らしい——は、目尻の皺を深くしてしみじみと笑った。
大和はじっと守屋を見つめる。そして、自分が小さい頃、ここに通っていた記憶が、ゆっくりと蘇ってくるのを感じた。
「大和くん、あの頃は毎日毎日、本殿の端でべそをかいとったのになぁ」
「え、そうなのかい?」
「うわっ」
今まで気配を消していた朱峯が急に話に入ってくる。
「幼い頃のこやつ、どんなやつだったんだい」
「そりゃもう、ずうっと一人で泣いとった。わしが声をかけても、理由は話してくれんかったが、ここによく来ていた大きな野良犬がおってな。そいつ相手に、学校に行きたくないー、家にも帰りたくないー言うてな」
「大きな野良犬?」
大和の胸が、微かにざわつく。
「おお、そうじゃ。白っぽい毛の、そこそこでっかい犬じゃよ。覚えとらんか?お前さんにだけやけに懐いとったのに。まあ、懐いていたというより、お前さんが来るのを待っていた、という方が正しいかもしれんが」
「待って……た?」
「うむ。わしが餌を置いてやっても、決して食べんくらい警戒心が強くてな。それどころか、わしが姿を見せると、さあっと森の奥に消えてしまう。けれど、お前さんが神社に来ると、まるでそれを見計らっていたかのように現れた」
「…………」
「それで、お前さんが帰ると、またいつの間にか姿を消す。まるで、お前さんのためにだけそこにいるような、不思議な犬じゃったよ」
大和の指が、無意識に冷たくなる。それなのに、身体の芯はじんじんと熱くなった。
「そりゃもう、あの犬はお前さんのことが大好きだったよ」
守屋は懐かしそうに目を細める。
「お前さんが泣きながらそいつの毛に顔を埋めると、じっと動かずにおった。まるで、お前さんが泣き止むのを待つみたいに。そうしてるうちに、お前さんはいつの間にか眠っとったなあ」
「…………」
大和は、霧生の方を見た。端で寝かされている銀色の狼。守屋もつられるようにそちらに目を向けると、その姿を見て、ふと微笑んだ。
「おやおや、この子、まるで大口様みたいじゃなぁ」
——ぞくり。
背筋がひやりと冷える感覚。
霧生は、ここにいたのか。いや、それだけじゃない。あの頃から——ずっと。
「…………」
大和はゆっくりと、丸まって眠る霧生を見下ろした。その毛並みを、無意識に指が撫でる。ふわふわとした豊かな毛。ここに顔を埋めたら、どんな匂いがするのか、大和はもう知っている。
思い出さなくてもわかる。大和はここで狼の霧生に会っていたのだ。学校も家にも居場所がなかった大和の、居場所になってくれていた。
(なんで、思い出せないんだよ……っ!)
忘れていたはずの何かが、胸の奥を締め付けるように疼いた。
「お前、昔から俺のこと……」と、思わず言いかけた瞬間。
「さて、大和くん」
守屋の声が、ふっと間を割った。
「話は後にして、まずは掃除を手伝ってくれるかい?お前さんもそのために来てくれたんじゃろ?」
「あ……うん」
そうだ。今は、考えても仕方ない。とにかく、できることをしなければ。大和はそっと霧生を撫でてから、手にしたほうきを握り直した。
35
あなたにおすすめの小説
世界を救ったあと、勇者は盗賊に逃げられました
芦田オグリ
BL
「ずっと、ずっと好きだった」
魔王討伐の祝宴の夜。
英雄の一人である《盗賊》ヒューは、一人静かに酒を飲んでいた。そこに現れた《勇者》アレックスに秘めた想いを告げられ、抱き締められてしまう。
酔いと熱に流され、彼と一夜を共にしてしまうが、盗賊の自分は勇者に相応しくないと、ヒューはその腕からそっと抜け出し、逃亡を決意した。
その体は魔族の地で浴び続けた《魔瘴》により、静かに蝕まれていた。
一方アレックスは、世界を救った栄誉を捨て、たった一人の大切な人を追い始める。
これは十年の想いを秘めた勇者パーティーの《勇者》と、病を抱えた《盗賊》の、世界を救ったあとの話。
鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる
結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。
冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。
憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
〈完結〉【書籍化・取り下げ予定】「他に愛するひとがいる」と言った旦那様が溺愛してくるのですが、そういうのは不要です
ごろごろみかん。
恋愛
「私には、他に愛するひとがいます」
「では、契約結婚といたしましょう」
そうして今の夫と結婚したシドローネ。
夫は、シドローネより四つも年下の若き騎士だ。
彼には愛するひとがいる。
それを理解した上で政略結婚を結んだはずだったのだが、だんだん夫の様子が変わり始めて……?
魔王の息子を育てることになった俺の話
お鮫
BL
俺が18歳の時森で少年を拾った。その子が将来魔王になることを知りながら俺は今日も息子としてこの子を育てる。そう決意してはや数年。
「今なんつった?よっぽど死にたいんだね。そんなに俺と離れたい?」
現在俺はかわいい息子に殺害予告を受けている。あれ、魔王は?旅に出なくていいの?とりあえず放してくれません?
魔王になる予定の男と育て親のヤンデレBL
BLは初めて書きます。見ずらい点多々あるかと思いますが、もしありましたら指摘くださるとありがたいです。
BL大賞エントリー中です。
ブラコンすぎて面倒な男を演じていた平凡兄、やめたら押し倒されました
あと
BL
「お兄ちゃん!人肌脱ぎます!」
完璧公爵跡取り息子許嫁攻め×ブラコン兄鈍感受け
可愛い弟と攻めの幸せのために、平凡なのに面倒な男を演じることにした受け。毎日の告白、束縛発言などを繰り広げ、上手くいきそうになったため、やめたら、なんと…?
攻め:ヴィクター・ローレンツ
受け:リアム・グレイソン
弟:リチャード・グレイソン
pixivにも投稿しています。
ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。
希少なΩだと隠して生きてきた薬師は、視察に来た冷徹なα騎士団長に一瞬で見抜かれ「お前は俺の番だ」と帝都に連れ去られてしまう
水凪しおん
BL
「君は、今日から俺のものだ」
辺境の村で薬師として静かに暮らす青年カイリ。彼には誰にも言えない秘密があった。それは希少なΩ(オメガ)でありながら、その性を偽りβ(ベータ)として生きていること。
ある日、村を訪れたのは『帝国の氷盾』と畏れられる冷徹な騎士団総長、リアム。彼は最上級のα(アルファ)であり、カイリが必死に隠してきたΩの資質をいとも簡単に見抜いてしまう。
「お前のその特異な力を、帝国のために使え」
強引に帝都へ連れ去られ、リアムの屋敷で“偽りの主従関係”を結ぶことになったカイリ。冷たい命令とは裏腹に、リアムが時折見せる不器用な優しさと孤独を秘めた瞳に、カイリの心は次第に揺らいでいく。
しかし、カイリの持つ特別なフェロモンは帝国の覇権を揺るがす甘美な毒。やがて二人は、宮廷を渦巻く巨大な陰謀に巻き込まれていく――。
運命の番(つがい)に抗う不遇のΩと、愛を知らない最強α騎士。
偽りの関係から始まる、甘く切ない身分差ファンタジー・ラブ!
結婚初夜に相手が舌打ちして寝室出て行こうとした
紫
BL
十数年間続いた王国と帝国の戦争の終結と和平の形として、元敵国の皇帝と結婚することになったカイル。
実家にはもう帰ってくるなと言われるし、結婚相手は心底嫌そうに舌打ちしてくるし、マジ最悪ってところから始まる話。
オメガバースでオメガの立場が低い世界
こんなあらすじとタイトルですが、主人公が可哀そうって感じは全然ないです
強くたくましくメンタルがオリハルコンな主人公です
主人公は耐える我慢する許す許容するということがあんまり出来ない人間です
倫理観もちょっと薄いです
というか、他人の事を自分と同じ人間だと思ってない部分があります
※この主人公は受けです
アプリで都合のいい男になろうとした結果、彼氏がバグりました
あと
BL
「目指せ!都合のいい男!」
穏やか完璧モテ男(理性で執着を押さえつけてる)×親しみやすい人たらし可愛い系イケメン
攻めの両親からの別れろと圧力をかけられた受け。関係は秘密なので、友達に相談もできない。悩んでいる中、どうしても別れたくないため、愛人として、「都合のいい男」になることを決意。人生相談アプリを手に入れ、努力することにする。しかし、攻めに約束を破ったと言われ……?
攻め:深海霧矢
受け:清水奏
前にアンケート取ったら、すれ違い・勘違いものが1位だったのでそれ系です。
ハピエンです。
ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。
自己判断で消しますので、悪しからず。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる