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大和は本殿の端に置いていたバケツの水を手に取り、雑巾を浸した。すっかり乾いていた床板が、水分を含んで色を濃くしていく。その変化をぼんやりと眺めながら、何度も雑巾を絞り、木の床を拭いていく。
カタン。
どこかの板が軋んだ音に、ふと手が止まる。大和は目を細め、その板の上にそっと手を添えた。
(ここに……俺、座ってたような……?)
拭いたばかりの床に触れると、不思議な感覚がこみ上げる。ほんの少し、温もりがあるような気がした。
そのまま周囲を見渡す。半ば朽ちかけた柱、色褪せた扉。埃っぽかったけれど、それでもこの本殿は思ったほど荒れてはいなかった。守屋がずっと守ってくれていたのだ。霧生も、大和の居場所も。
ほうきを手にした守屋が、本殿の入り口で落ち葉を掃いている。朱峯は……相変わらず何もせず、本殿の隅に寄りかかっていた。
「じいちゃん、普段どのくらい掃除しに来てんの?」
「月に何回か、気が向いた時にな。でも本殿しか手が回らんのよ。他にやるもんもおらんし、気づいたらわし一人だけになってしもうた」
「……そっか」
大和は何気なく、奥のご神体に目を遣った。
手を伸ばし、木の柱を軽くなぞる。細かい溝に指が触れるたび、心の奥底で何かがゆっくりと溶けていくようだった。
濡れた雑巾を握りしめる指先が、微かに震える。
ぽた、ぽた。
滴る水滴が、床に落ちる音だけが静かに響いた。
——ふと、鼻腔をくすぐる匂い。
ひんやりとした木の香り。草の匂い。ほんのりと土の匂いも混ざっている。
そして、
(お日様の……霧生の、匂い?)
瞬間、胸の奥がずくんと軋んだ。目の奥が熱くなる。
頭の奥で、霧が晴れていく。それはまるで、ずっと心の奥に眠っていた記憶が、ゆっくりと目を覚ましていくような——。
————————————————————
静かだった。
泣きすぎて、目の奥がじんじんと痛む。鼻も詰まっていて、息をするのも苦しい。
「……うぅ」
幼い大和は小さな拳で目元をこすり、膝を抱え込んだ。寂しい。苦しい。両親はいない。学校にも、友だちはいない。
僕には誰もいない。ひとりぼっちだった。
どこにも行く場所がなくて、ここにいる。いつからか、ここに来ると少しだけ楽になれる気がしていた。静かで、風が気持ちよくて、誰にも邪魔されない場所。
——ふと、気配を感じた。
そっと顔を上げると、視界の向こうに白い影が揺れている。
(……犬?)
月明かりを浴びたような、白銀の毛並み。ふわふわとした長い尻尾。それは神様の遣いみたいな、不思議な空気を纏っている。
けれど、遠い。その犬は少し離れた場所で、大和をじっと見ていた。
「……君は、どこから来たの?」
掠れた声で問いかける。犬は、少しの間こちらを見つめ——それから、静かに背を向けた。
(……行っちゃう?)
胸の奥が、きゅっと縮こまる。大和は慌てて声を上げた。
「君も、いなくなっちゃうの?」
犬の耳が、ぴくりと揺れる。
「君も、僕を一人にするの?」
喉が詰まる。鼻がすんすん鳴る。言葉を続けるたびに、込み上げてくる涙が止まらなくなりそうだった。
「……やっぱり、僕はひとりぼっちなんだ」
そう言って、再び膝に顔を埋めようとした、その時——。
ふわり、と。
柔らかい毛並みが、頬に触れた。
驚いて顔を上げると、白銀の犬が、すぐ目の前にいた。さっきまで遠くにいたはずなのに。足音の一つもしなかった。
「……?」
犬は、大和の手の甲に鼻先を寄せる。少しくすぐったい。だけど、温かい。
「……君、僕のこと……嫌いじゃないの?」
犬は何も応えない。けれど、その澄んだ青灰色の瞳は、ただまっすぐに大和を映していた。
ゆっくりと、そっと。
小さな手が、白くふわふわの毛並みに触れる。温かかった。それだけで、また涙が零れた。
「……君は、どこにも行かない?」
犬は動かない。かわりに、その大きな身体をそっと寄せてきた。
大和はたまらず、ぎゅっと抱きしめた。頬を埋めると、心臓の音が聞こえた。静かで、穏やかで、暖かなお日様の匂いがした。
大和は手を止め、ご神体をじっと見つめていた。掃除をするはずだった。なのに、動けない。指先が微かに震えている。何かが、胸の奥からゆっくりとあふれ出そうとしていた。
(……俺、ここに……いたんだ。)
ひゅう、と。遠くで木々が鳴る音がした。それがどこから聞こえたのか、大和にはわからなかった。
ふいに、目の前の景色が揺らぐ。
それから、山の上の神社にはいつも白銀の犬がいた。学校で嫌なことがあった日も、家でひとりぼっちだった日も、両親が恋しくなった日も。ここに来ると、彼がいた。
「今日は、先生に怒られた……」
「みんな僕のこと女みたいだって揶揄うんだ……」
「家に帰りたくない。お母さんもお父さんも、僕なんていらないんだ。弟の方が大事だから」
泣きながら話す大和の隣で、犬は黙って寄り添っていた。時々、涙で濡れた頬を舐めてくれた。泣き疲れた時には身体を寄せて温めてくれた。そのふわふわの毛に顔を埋めると、嫌なことを忘れて自然と眠りに落ちた。
どんなに世界が冷たくても、彼だけは、ずっと側にいてくれた。彼だけが、大和の世界だった。もう、彼しか必要なかった。
「ねぇ、僕の家族になって」
その声は、大和のもの。
「でも今は、連れて帰れないんだ。陸人……弟が、動物とか、だめで。だから、僕がおっきくなって、あの家から出たら、迎えに来るね」
白銀の犬は、この時初めて鳴いた。威厳のある声で、一言だけ。
——あの犬は、霧生だったんだ。
——俺が、願ったんだ。霧生と家族になりたいって。
これが、約束。
霧生は、ここでずっと大和を待っていたのかもしれない。そして、忘れてしまった自分のところへ、霧生が来てくれたのだ。
「……っ」
大和は、はっと息を呑んだ。気づけば、ご神体の前ではなく、霧生のそばに座り込んでいた。
目の前には、白銀の毛並み。ゆっくりと胸が上下する、小さな狼の姿。
——やっと、思い出せた。
霧生は、ずっと側にいた。誰よりも、大和の居場所になってくれていた。遠い昔の約束を守りに、家族になりに来てくれた。胸の奥が、締めつけられる。痛いくらいに。
「……っ」
「大和くん?」
守屋の声が、遠くから聞こえる。けれど、大和は答えられなかった。
「……大和くん、泣いているのかい?」
その言葉で、自分が泣いていることを自覚した。頬を伝う涙が止まらない。
「俺……思い出したぞ……」
声が震える。
膝の上に横たわる霧生を見つめる。幼い頃と同じように、彼の側で涙を流している。
「……霧生」
名を呼んだ瞬間、小さな狼の耳が、ぴくりと動いた。
日が落ちる頃、空は赤紫に染まっていた。
「さて、今日はこの辺にしておくかの」
守屋が竹ぼうきを本殿の壁に立てかけ、背中を軽く伸ばす。掃除を始めた頃よりも、境内はずっと綺麗になっていた。長年積もった落ち葉や埃を払うだけでも、神社の雰囲気は少しずつ変わるものだ。
「お前さんたちは、明日も来るかい?」
「しばらくは通うつもりです。だから、守屋さんは無理しないでくださいね」
「ほっほ、わしはもう長年の習慣じゃからな。また何日かしたら来るよ」
守屋は満足げに笑いながら、本殿を見回した。そして、端で丸まる銀色の狼を一瞥すると、ふっと微笑む。
「それにしても、不思議なもんじゃ。こりゃまるで、ほんに大口様の生まれ変わりのようじゃの」
そう呟きながら、守屋は手を軽く振ると、ゆっくりと神社の石段を降りていった。残されたのは、大和と朱峯、そして霧生。
「……行ったな」
朱峯が柱にもたれながら、気怠そうに呟く。
「本殿で寝る気かい?それとも人間らしく家に帰るかい?」
「……今日はここにいる」
大和は霧生の寝顔を見下ろしながら答えた。昼間よりも、呼吸は落ち着いている。ぴくりとも動かないが、胸の上下は穏やかだ。
(こいつがここにいて、俺がここにいる……。)
この状況は、昔と同じだ。
小さい頃、俺は何度もここで泣いていた。そのたびに、霧生は側にいてくれた。
(……もう少しこのままでいたい。)
「朱峯、お前は?」
「私は人間じゃないからね。どこででも寝られるよ」
「やっぱりそうなんじゃねぇか、おい霧生」
「まったくね」
適当に会話を交わしながら、大和は霧生の横に腰を下ろした。
夜の本殿は静かだった。木々が風に揺れる音が、微かに響く。時折、草むらで小さな虫が鳴いた。月明かりが差し込む。本殿の天井に細い影が揺れる。
「……霧生」
そっと名を呼ぶ。
その瞬間、狼の耳が、また微かに動いた。
——それだけ。
霧生は眠ったまま、動かない。けれど、生きている。ほんの僅かな反応でも、大和の胸の奥はじんと熱くなる。
「……おやすみ」
霧生の頭を、そっと撫でる。
今日一日で、色々なことを思い出した。ここに来てよかった。けれど、思い出したはずなのに、まだ足りない。神社の記憶だけが、なぜかぽっかりと空白のままだ。
(俺は、どうして神社に来なくなったんだろう……。)
唯一の居場所だったのに。大好きな霧生がいたのに。今の今まで完全に忘れていたなんて。まるで、最初からなかったみたいに。
風が吹く。夜の空気はひんやりとしていて、静かに肌を撫でていった。大和は霧生の寝息を聞きながら、そっと瞼を閉じる。
(明日になったら、何か思い出せんのかな……。)
大和はそう思いながら、ゆっくりと眠りに落ちた。
翌朝、静寂を破るように、鳥のさえずりが聞こえた。
大和はゆっくりと目を開ける。薄暗い本殿の天井が視界に入り、昨日のことを思い出した。霧生の側でいつの間にか眠ってしまったらしい。
(……霧生は。)
横を見ると、銀色の毛並みが朝の光を受けて柔らかく輝いていた。そっと手を伸ばし霧生の身体に触れると、確かな温もりがあった。指の隙間をすり抜ける毛は、昨日よりもなめらかに感じる。大和は微かに安堵しながら、霧生の頭を優しく撫でた。
「おはよう、霧生」
狼の耳がぴくりと動く。けれど、まだ目を開ける気配はない。
「はは……まだ寝てるか」
大和は大きく伸びをしてから本殿の外へ出る。硬い床で寝たからか、全身がギシギシと軋んでいた。
「ようやく起きたかい」
柱にもたれかかっていた朱峯が、欠伸交じりに言った。
「朝からのんびりだねぇ」
「人間は寝ないと死ぬんでね」
「そうだったね」
朱峯との会話もそこそこに切り上げ、大和は本殿の周囲を見回す。
(そうだ。ここ、裏に湧き水があったはず。まだ出てっかな。)
そう思い立ち、足を向ける。
しばらく歩くと、苔むした岩の間から、細い水の流れが現れた。ちょろちょろと細く水が落ちる音がする。大和はしゃがみ込み、両手を水に浸した。ひんやりとした感触が心地いい。
(……俺、昔もここで手を洗ってた。)
手をすくって顔を洗う。すっかり春とはいえ、山の湧き水はまだ冷たい。少しだけ肩を震わせながら、手早く身支度を済ませた。
「ふうん、人間ってのは朝からそんな面倒なことをするんだね」
気だるげな声に振り返ると、朱峯が腕を組んでこちらを見下ろしていた。
「顔を洗うくらい、普通だろ」
「神は汚れたりしないからね。前に風呂に入ってから、何百年経っただろう」
「そんな自慢すんな」
霧生と同じようなことを言っている。軽く額の水を払うと、本殿に戻り、カバンの中からおにぎりを取り出した。ここに来る前に買っておいたものだ。
本殿の階段に腰掛け、おにぎりの包みを開く。これも、昔に同じことをした気がした。
「いただきます」
手を合わせ、一口食べる。一人での食事はこんなに味気なかっただろうか。随分と、一緒に食べていないような気がする。
「霧生。お前が起きたら、美味い飯いっぱい作ってやるからな」
「神は食べなくても平気だよ」
いつの間にか隣にいた朱峯は、何の感情も伺えない声でそう言った。
「霧生もそんなこと言ってたな」
「そうさ。命を奪って糧にするなんて、今の私には無理だね」
「でも、そうしないと人間は死ぬ」
「人間は、ほんに手間がかかるねぇ」
飢えれば死ぬ。力が出なければ霧生を救うこともできない。
おにぎりの味はしなかった。それでも大和は少しずつ噛み砕いて、飲み込む。
「霧生が元気になったら、あんたにも食事を振舞ってやるよ」
「ふふ、遠慮するよ」
「そうかよ」
朱峯と適当なやり取りをしながら、大和はもう一口おにぎりを齧る。
今日は、霧生が目を覚ますだろうか。そうであればいい。そうなるように、また掃除をして、お供えをしよう。
朝食を終えると、大和はそっと立ち上がり、ほうきを手に取った。本殿の入り口に積もった落ち葉を掃きながら、昨日よりも少し澄んだ空気を感じる。
境内を掃き終わると、次にご神体の前に小さなお供えを置いた。昨日持ってきた米と酒、そして近所で買ったお饅頭。
「そんなものを供えて、何か変わるのかい」
意地の悪い笑みを浮かべながら、朱峯が問う。
「変わるかはわかんねぇ。でも、俺にできるのはこんなことくらいだから」
「へえ。随分殊勝なことを言うねえ」
そう言いながら、朱峯は本殿を見上げた。風が心なしか心地よく吹く。陽の光が、少しだけ差し込んでいる。神である朱峯にはわかった。気の流れが変わったのだと。
「ふふ。ほんに、可愛くない」
「……何?」
「なんでも」
朱峯の含んだ言い方は気になったが、大和はご神体に向き直る。そして静かに手を合わせた。
なあ、霧生。お前、ずっと俺のこと守ってくれてたんだな。
それなのに、俺はなぜか、あんなに大切だったこの場所も、お前のことも、約束も、全部忘れちまってたよ。
約束守らなくてごめん。
お前のこと、迎えに行かなくてごめん。
俺を守るために、しんどい思いさせて、ごめん。
あの日も、お前が調子悪いってわかってたのに、放って出て行って、ごめん。
ちゃんと、話聞いとけばよかった。信じてやればよかった。
それなのに、ずっと一緒にいてくれてありがとう。
迎えに来てくれて、家族になりに来てくれて、ありがとう。
俺、お前とこれからもずっと一緒にいたいよ。
消えてほしくなんかないよ。
なあ、霧生。俺、もう認めるわ。
俺、お前が好きだよ。
お前がずっと俺の居場所になってくれてたこと、覚えてなかったけど、それでもお前のことを好きになってたよ。
最初は得体の知れないやつだと思ったし、世話も大変だったけど、お前との生活は心地よくて、もう離れるなんてできねぇよ。
なあ、霧生……聞こえてるか。
頼むから、生きてくれ。
俺のために力を使い果たして消えるなんてやめてくれ。
これからも一緒に生きていきたいんだ。
そのために、お前と一緒に考えたいんだ。
だから早く目を覚ましてくれよ。お願いだ。
大和は静かに顔を上げ、頬を伝っていた涙を拭った。
そして、「霧生のために願うなんて、おかしな話だよな」と、涙を拭いながら小さく笑った。
カタン。
どこかの板が軋んだ音に、ふと手が止まる。大和は目を細め、その板の上にそっと手を添えた。
(ここに……俺、座ってたような……?)
拭いたばかりの床に触れると、不思議な感覚がこみ上げる。ほんの少し、温もりがあるような気がした。
そのまま周囲を見渡す。半ば朽ちかけた柱、色褪せた扉。埃っぽかったけれど、それでもこの本殿は思ったほど荒れてはいなかった。守屋がずっと守ってくれていたのだ。霧生も、大和の居場所も。
ほうきを手にした守屋が、本殿の入り口で落ち葉を掃いている。朱峯は……相変わらず何もせず、本殿の隅に寄りかかっていた。
「じいちゃん、普段どのくらい掃除しに来てんの?」
「月に何回か、気が向いた時にな。でも本殿しか手が回らんのよ。他にやるもんもおらんし、気づいたらわし一人だけになってしもうた」
「……そっか」
大和は何気なく、奥のご神体に目を遣った。
手を伸ばし、木の柱を軽くなぞる。細かい溝に指が触れるたび、心の奥底で何かがゆっくりと溶けていくようだった。
濡れた雑巾を握りしめる指先が、微かに震える。
ぽた、ぽた。
滴る水滴が、床に落ちる音だけが静かに響いた。
——ふと、鼻腔をくすぐる匂い。
ひんやりとした木の香り。草の匂い。ほんのりと土の匂いも混ざっている。
そして、
(お日様の……霧生の、匂い?)
瞬間、胸の奥がずくんと軋んだ。目の奥が熱くなる。
頭の奥で、霧が晴れていく。それはまるで、ずっと心の奥に眠っていた記憶が、ゆっくりと目を覚ましていくような——。
————————————————————
静かだった。
泣きすぎて、目の奥がじんじんと痛む。鼻も詰まっていて、息をするのも苦しい。
「……うぅ」
幼い大和は小さな拳で目元をこすり、膝を抱え込んだ。寂しい。苦しい。両親はいない。学校にも、友だちはいない。
僕には誰もいない。ひとりぼっちだった。
どこにも行く場所がなくて、ここにいる。いつからか、ここに来ると少しだけ楽になれる気がしていた。静かで、風が気持ちよくて、誰にも邪魔されない場所。
——ふと、気配を感じた。
そっと顔を上げると、視界の向こうに白い影が揺れている。
(……犬?)
月明かりを浴びたような、白銀の毛並み。ふわふわとした長い尻尾。それは神様の遣いみたいな、不思議な空気を纏っている。
けれど、遠い。その犬は少し離れた場所で、大和をじっと見ていた。
「……君は、どこから来たの?」
掠れた声で問いかける。犬は、少しの間こちらを見つめ——それから、静かに背を向けた。
(……行っちゃう?)
胸の奥が、きゅっと縮こまる。大和は慌てて声を上げた。
「君も、いなくなっちゃうの?」
犬の耳が、ぴくりと揺れる。
「君も、僕を一人にするの?」
喉が詰まる。鼻がすんすん鳴る。言葉を続けるたびに、込み上げてくる涙が止まらなくなりそうだった。
「……やっぱり、僕はひとりぼっちなんだ」
そう言って、再び膝に顔を埋めようとした、その時——。
ふわり、と。
柔らかい毛並みが、頬に触れた。
驚いて顔を上げると、白銀の犬が、すぐ目の前にいた。さっきまで遠くにいたはずなのに。足音の一つもしなかった。
「……?」
犬は、大和の手の甲に鼻先を寄せる。少しくすぐったい。だけど、温かい。
「……君、僕のこと……嫌いじゃないの?」
犬は何も応えない。けれど、その澄んだ青灰色の瞳は、ただまっすぐに大和を映していた。
ゆっくりと、そっと。
小さな手が、白くふわふわの毛並みに触れる。温かかった。それだけで、また涙が零れた。
「……君は、どこにも行かない?」
犬は動かない。かわりに、その大きな身体をそっと寄せてきた。
大和はたまらず、ぎゅっと抱きしめた。頬を埋めると、心臓の音が聞こえた。静かで、穏やかで、暖かなお日様の匂いがした。
大和は手を止め、ご神体をじっと見つめていた。掃除をするはずだった。なのに、動けない。指先が微かに震えている。何かが、胸の奥からゆっくりとあふれ出そうとしていた。
(……俺、ここに……いたんだ。)
ひゅう、と。遠くで木々が鳴る音がした。それがどこから聞こえたのか、大和にはわからなかった。
ふいに、目の前の景色が揺らぐ。
それから、山の上の神社にはいつも白銀の犬がいた。学校で嫌なことがあった日も、家でひとりぼっちだった日も、両親が恋しくなった日も。ここに来ると、彼がいた。
「今日は、先生に怒られた……」
「みんな僕のこと女みたいだって揶揄うんだ……」
「家に帰りたくない。お母さんもお父さんも、僕なんていらないんだ。弟の方が大事だから」
泣きながら話す大和の隣で、犬は黙って寄り添っていた。時々、涙で濡れた頬を舐めてくれた。泣き疲れた時には身体を寄せて温めてくれた。そのふわふわの毛に顔を埋めると、嫌なことを忘れて自然と眠りに落ちた。
どんなに世界が冷たくても、彼だけは、ずっと側にいてくれた。彼だけが、大和の世界だった。もう、彼しか必要なかった。
「ねぇ、僕の家族になって」
その声は、大和のもの。
「でも今は、連れて帰れないんだ。陸人……弟が、動物とか、だめで。だから、僕がおっきくなって、あの家から出たら、迎えに来るね」
白銀の犬は、この時初めて鳴いた。威厳のある声で、一言だけ。
——あの犬は、霧生だったんだ。
——俺が、願ったんだ。霧生と家族になりたいって。
これが、約束。
霧生は、ここでずっと大和を待っていたのかもしれない。そして、忘れてしまった自分のところへ、霧生が来てくれたのだ。
「……っ」
大和は、はっと息を呑んだ。気づけば、ご神体の前ではなく、霧生のそばに座り込んでいた。
目の前には、白銀の毛並み。ゆっくりと胸が上下する、小さな狼の姿。
——やっと、思い出せた。
霧生は、ずっと側にいた。誰よりも、大和の居場所になってくれていた。遠い昔の約束を守りに、家族になりに来てくれた。胸の奥が、締めつけられる。痛いくらいに。
「……っ」
「大和くん?」
守屋の声が、遠くから聞こえる。けれど、大和は答えられなかった。
「……大和くん、泣いているのかい?」
その言葉で、自分が泣いていることを自覚した。頬を伝う涙が止まらない。
「俺……思い出したぞ……」
声が震える。
膝の上に横たわる霧生を見つめる。幼い頃と同じように、彼の側で涙を流している。
「……霧生」
名を呼んだ瞬間、小さな狼の耳が、ぴくりと動いた。
日が落ちる頃、空は赤紫に染まっていた。
「さて、今日はこの辺にしておくかの」
守屋が竹ぼうきを本殿の壁に立てかけ、背中を軽く伸ばす。掃除を始めた頃よりも、境内はずっと綺麗になっていた。長年積もった落ち葉や埃を払うだけでも、神社の雰囲気は少しずつ変わるものだ。
「お前さんたちは、明日も来るかい?」
「しばらくは通うつもりです。だから、守屋さんは無理しないでくださいね」
「ほっほ、わしはもう長年の習慣じゃからな。また何日かしたら来るよ」
守屋は満足げに笑いながら、本殿を見回した。そして、端で丸まる銀色の狼を一瞥すると、ふっと微笑む。
「それにしても、不思議なもんじゃ。こりゃまるで、ほんに大口様の生まれ変わりのようじゃの」
そう呟きながら、守屋は手を軽く振ると、ゆっくりと神社の石段を降りていった。残されたのは、大和と朱峯、そして霧生。
「……行ったな」
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「本殿で寝る気かい?それとも人間らしく家に帰るかい?」
「……今日はここにいる」
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(こいつがここにいて、俺がここにいる……。)
この状況は、昔と同じだ。
小さい頃、俺は何度もここで泣いていた。そのたびに、霧生は側にいてくれた。
(……もう少しこのままでいたい。)
「朱峯、お前は?」
「私は人間じゃないからね。どこででも寝られるよ」
「やっぱりそうなんじゃねぇか、おい霧生」
「まったくね」
適当に会話を交わしながら、大和は霧生の横に腰を下ろした。
夜の本殿は静かだった。木々が風に揺れる音が、微かに響く。時折、草むらで小さな虫が鳴いた。月明かりが差し込む。本殿の天井に細い影が揺れる。
「……霧生」
そっと名を呼ぶ。
その瞬間、狼の耳が、また微かに動いた。
——それだけ。
霧生は眠ったまま、動かない。けれど、生きている。ほんの僅かな反応でも、大和の胸の奥はじんと熱くなる。
「……おやすみ」
霧生の頭を、そっと撫でる。
今日一日で、色々なことを思い出した。ここに来てよかった。けれど、思い出したはずなのに、まだ足りない。神社の記憶だけが、なぜかぽっかりと空白のままだ。
(俺は、どうして神社に来なくなったんだろう……。)
唯一の居場所だったのに。大好きな霧生がいたのに。今の今まで完全に忘れていたなんて。まるで、最初からなかったみたいに。
風が吹く。夜の空気はひんやりとしていて、静かに肌を撫でていった。大和は霧生の寝息を聞きながら、そっと瞼を閉じる。
(明日になったら、何か思い出せんのかな……。)
大和はそう思いながら、ゆっくりと眠りに落ちた。
翌朝、静寂を破るように、鳥のさえずりが聞こえた。
大和はゆっくりと目を開ける。薄暗い本殿の天井が視界に入り、昨日のことを思い出した。霧生の側でいつの間にか眠ってしまったらしい。
(……霧生は。)
横を見ると、銀色の毛並みが朝の光を受けて柔らかく輝いていた。そっと手を伸ばし霧生の身体に触れると、確かな温もりがあった。指の隙間をすり抜ける毛は、昨日よりもなめらかに感じる。大和は微かに安堵しながら、霧生の頭を優しく撫でた。
「おはよう、霧生」
狼の耳がぴくりと動く。けれど、まだ目を開ける気配はない。
「はは……まだ寝てるか」
大和は大きく伸びをしてから本殿の外へ出る。硬い床で寝たからか、全身がギシギシと軋んでいた。
「ようやく起きたかい」
柱にもたれかかっていた朱峯が、欠伸交じりに言った。
「朝からのんびりだねぇ」
「人間は寝ないと死ぬんでね」
「そうだったね」
朱峯との会話もそこそこに切り上げ、大和は本殿の周囲を見回す。
(そうだ。ここ、裏に湧き水があったはず。まだ出てっかな。)
そう思い立ち、足を向ける。
しばらく歩くと、苔むした岩の間から、細い水の流れが現れた。ちょろちょろと細く水が落ちる音がする。大和はしゃがみ込み、両手を水に浸した。ひんやりとした感触が心地いい。
(……俺、昔もここで手を洗ってた。)
手をすくって顔を洗う。すっかり春とはいえ、山の湧き水はまだ冷たい。少しだけ肩を震わせながら、手早く身支度を済ませた。
「ふうん、人間ってのは朝からそんな面倒なことをするんだね」
気だるげな声に振り返ると、朱峯が腕を組んでこちらを見下ろしていた。
「顔を洗うくらい、普通だろ」
「神は汚れたりしないからね。前に風呂に入ってから、何百年経っただろう」
「そんな自慢すんな」
霧生と同じようなことを言っている。軽く額の水を払うと、本殿に戻り、カバンの中からおにぎりを取り出した。ここに来る前に買っておいたものだ。
本殿の階段に腰掛け、おにぎりの包みを開く。これも、昔に同じことをした気がした。
「いただきます」
手を合わせ、一口食べる。一人での食事はこんなに味気なかっただろうか。随分と、一緒に食べていないような気がする。
「霧生。お前が起きたら、美味い飯いっぱい作ってやるからな」
「神は食べなくても平気だよ」
いつの間にか隣にいた朱峯は、何の感情も伺えない声でそう言った。
「霧生もそんなこと言ってたな」
「そうさ。命を奪って糧にするなんて、今の私には無理だね」
「でも、そうしないと人間は死ぬ」
「人間は、ほんに手間がかかるねぇ」
飢えれば死ぬ。力が出なければ霧生を救うこともできない。
おにぎりの味はしなかった。それでも大和は少しずつ噛み砕いて、飲み込む。
「霧生が元気になったら、あんたにも食事を振舞ってやるよ」
「ふふ、遠慮するよ」
「そうかよ」
朱峯と適当なやり取りをしながら、大和はもう一口おにぎりを齧る。
今日は、霧生が目を覚ますだろうか。そうであればいい。そうなるように、また掃除をして、お供えをしよう。
朝食を終えると、大和はそっと立ち上がり、ほうきを手に取った。本殿の入り口に積もった落ち葉を掃きながら、昨日よりも少し澄んだ空気を感じる。
境内を掃き終わると、次にご神体の前に小さなお供えを置いた。昨日持ってきた米と酒、そして近所で買ったお饅頭。
「そんなものを供えて、何か変わるのかい」
意地の悪い笑みを浮かべながら、朱峯が問う。
「変わるかはわかんねぇ。でも、俺にできるのはこんなことくらいだから」
「へえ。随分殊勝なことを言うねえ」
そう言いながら、朱峯は本殿を見上げた。風が心なしか心地よく吹く。陽の光が、少しだけ差し込んでいる。神である朱峯にはわかった。気の流れが変わったのだと。
「ふふ。ほんに、可愛くない」
「……何?」
「なんでも」
朱峯の含んだ言い方は気になったが、大和はご神体に向き直る。そして静かに手を合わせた。
なあ、霧生。お前、ずっと俺のこと守ってくれてたんだな。
それなのに、俺はなぜか、あんなに大切だったこの場所も、お前のことも、約束も、全部忘れちまってたよ。
約束守らなくてごめん。
お前のこと、迎えに行かなくてごめん。
俺を守るために、しんどい思いさせて、ごめん。
あの日も、お前が調子悪いってわかってたのに、放って出て行って、ごめん。
ちゃんと、話聞いとけばよかった。信じてやればよかった。
それなのに、ずっと一緒にいてくれてありがとう。
迎えに来てくれて、家族になりに来てくれて、ありがとう。
俺、お前とこれからもずっと一緒にいたいよ。
消えてほしくなんかないよ。
なあ、霧生。俺、もう認めるわ。
俺、お前が好きだよ。
お前がずっと俺の居場所になってくれてたこと、覚えてなかったけど、それでもお前のことを好きになってたよ。
最初は得体の知れないやつだと思ったし、世話も大変だったけど、お前との生活は心地よくて、もう離れるなんてできねぇよ。
なあ、霧生……聞こえてるか。
頼むから、生きてくれ。
俺のために力を使い果たして消えるなんてやめてくれ。
これからも一緒に生きていきたいんだ。
そのために、お前と一緒に考えたいんだ。
だから早く目を覚ましてくれよ。お願いだ。
大和は静かに顔を上げ、頬を伝っていた涙を拭った。
そして、「霧生のために願うなんて、おかしな話だよな」と、涙を拭いながら小さく笑った。
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マンスーン
BL
ギルドの事務職員・三上薫は、ある日、ギルドロビーで発作を起こしかけていた英雄ガルド・ベルンシュタインから抱きしめられ、首筋を猛烈に吸引。「見つけた……俺の酸素……!」と叫び、離れなくなってしまう。
最強おじさん(変態)×ギルドの事務職員(平凡)
世界観が現代日本、異世界ごちゃ混ぜ設定になっております。
ブラコンすぎて面倒な男を演じていた平凡兄、やめたら押し倒されました
あと
BL
「お兄ちゃん!一肌脱ぎます!」
完璧公爵跡取り息子許嫁攻め×ブラコン兄鈍感受け
可愛い弟と攻めの幸せのために、平凡なのに面倒な男を演じることにした受け。毎日の告白、束縛発言などを繰り広げ、上手くいきそうになったため、やめたら、なんと…?
攻め:ヴィクター・ローレンツ
受け:リアム・グレイソン
弟:リチャード・グレイソン
pixivにも投稿しています。
ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。
性悪なお嬢様に命令されて泣く泣く恋敵を殺りにいったらヤられました
まりも13
BL
フワフワとした酩酊状態が薄れ、僕は気がつくとパンパンパン、ズチュッと卑猥な音をたてて激しく誰かと交わっていた。
性悪なお嬢様の命令で恋敵を泣く泣く殺りに行ったら逆にヤラれちゃった、ちょっとアホな子の話です。
(ムーンライトノベルにも掲載しています)
入社1ヶ月のワンコ系男子が、知らずのうちに射止めたのはイケメン社長!?
monteri
BL
CM制作会社の新入社員、藤白純太は入社1ヶ月で教育係の先輩が過労で倒れたため、特別なクライアントの担当を引き継ぐことになる。
そのクライアントは、女子禁制ミーハー厳禁の芸能事務所だった。
主人公の無知で純なところに、翻弄されたり、骨抜きにされるイケメン社長と、何も知らない純太がドキドキするお話です。
※今回の表紙はAI生成です
※小説家になろうにも公開してます
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
【完結】国に売られた僕は変態皇帝に育てられ寵妃になった
cyan
BL
陛下が町娘に手を出して生まれたのが僕。後宮で虐げられて生活していた僕は、とうとう他国に売られることになった。
一途なシオンと、皇帝のお話。
※どんどん変態度が増すので苦手な方はお気を付けください。
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