神の契りは解けない

碧碧

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 大和は本殿の端に置いていたバケツの水を手に取り、雑巾を浸した。すっかり乾いていた床板が、水分を含んで色を濃くしていく。その変化をぼんやりと眺めながら、何度も雑巾を絞り、木の床を拭いていく。

 カタン。

 どこかの板が軋んだ音に、ふと手が止まる。大和は目を細め、その板の上にそっと手を添えた。

(ここに……俺、座ってたような……?)

 拭いたばかりの床に触れると、不思議な感覚がこみ上げる。ほんの少し、温もりがあるような気がした。

 そのまま周囲を見渡す。半ば朽ちかけた柱、色褪せた扉。埃っぽかったけれど、それでもこの本殿は思ったほど荒れてはいなかった。守屋がずっと守ってくれていたのだ。霧生も、大和の居場所も。

 ほうきを手にした守屋が、本殿の入り口で落ち葉を掃いている。朱峯は……相変わらず何もせず、本殿の隅に寄りかかっていた。

「じいちゃん、普段どのくらい掃除しに来てんの?」
「月に何回か、気が向いた時にな。でも本殿しか手が回らんのよ。他にやるもんもおらんし、気づいたらわし一人だけになってしもうた」
「……そっか」

 大和は何気なく、奥のご神体に目を遣った。
 手を伸ばし、木の柱を軽くなぞる。細かい溝に指が触れるたび、心の奥底で何かがゆっくりと溶けていくようだった。

 濡れた雑巾を握りしめる指先が、微かに震える。

 ぽた、ぽた。

 滴る水滴が、床に落ちる音だけが静かに響いた。

 ——ふと、鼻腔をくすぐる匂い。

 ひんやりとした木の香り。草の匂い。ほんのりと土の匂いも混ざっている。
 そして、

(お日様の……霧生の、匂い?)

 瞬間、胸の奥がずくんと軋んだ。目の奥が熱くなる。

 頭の奥で、霧が晴れていく。それはまるで、ずっと心の奥に眠っていた記憶が、ゆっくりと目を覚ましていくような——。



 ————————————————————



 静かだった。

 泣きすぎて、目の奥がじんじんと痛む。鼻も詰まっていて、息をするのも苦しい。

「……うぅ」

 幼い大和は小さな拳で目元をこすり、膝を抱え込んだ。寂しい。苦しい。両親はいない。学校にも、友だちはいない。

 僕には誰もいない。ひとりぼっちだった。

 どこにも行く場所がなくて、ここにいる。いつからか、ここに来ると少しだけ楽になれる気がしていた。静かで、風が気持ちよくて、誰にも邪魔されない場所。

 ——ふと、気配を感じた。

 そっと顔を上げると、視界の向こうに白い影が揺れている。

(……犬?)

 月明かりを浴びたような、白銀の毛並み。ふわふわとした長い尻尾。それは神様の遣いみたいな、不思議な空気を纏っている。

 けれど、遠い。その犬は少し離れた場所で、大和をじっと見ていた。

「……君は、どこから来たの?」

 掠れた声で問いかける。犬は、少しの間こちらを見つめ——それから、静かに背を向けた。

(……行っちゃう?)

 胸の奥が、きゅっと縮こまる。大和は慌てて声を上げた。

「君も、いなくなっちゃうの?」

 犬の耳が、ぴくりと揺れる。

「君も、僕を一人にするの?」

 喉が詰まる。鼻がすんすん鳴る。言葉を続けるたびに、込み上げてくる涙が止まらなくなりそうだった。

「……やっぱり、僕はひとりぼっちなんだ」

 そう言って、再び膝に顔を埋めようとした、その時——。

 ふわり、と。
 柔らかい毛並みが、頬に触れた。

 驚いて顔を上げると、白銀の犬が、すぐ目の前にいた。さっきまで遠くにいたはずなのに。足音の一つもしなかった。

「……?」

 犬は、大和の手の甲に鼻先を寄せる。少しくすぐったい。だけど、温かい。

「……君、僕のこと……嫌いじゃないの?」

 犬は何も応えない。けれど、その澄んだ青灰色の瞳は、ただまっすぐに大和を映していた。

 ゆっくりと、そっと。
 小さな手が、白くふわふわの毛並みに触れる。温かかった。それだけで、また涙が零れた。

「……君は、どこにも行かない?」

 犬は動かない。かわりに、その大きな身体をそっと寄せてきた。

 大和はたまらず、ぎゅっと抱きしめた。頬を埋めると、心臓の音が聞こえた。静かで、穏やかで、暖かなお日様の匂いがした。



 大和は手を止め、ご神体をじっと見つめていた。掃除をするはずだった。なのに、動けない。指先が微かに震えている。何かが、胸の奥からゆっくりとあふれ出そうとしていた。

(……俺、ここに……いたんだ。)

 ひゅう、と。遠くで木々が鳴る音がした。それがどこから聞こえたのか、大和にはわからなかった。

 ふいに、目の前の景色が揺らぐ。





 それから、山の上の神社にはいつも白銀の犬がいた。学校で嫌なことがあった日も、家でひとりぼっちだった日も、両親が恋しくなった日も。ここに来ると、彼がいた。

「今日は、先生に怒られた……」
「みんな僕のこと女みたいだって揶揄うんだ……」
「家に帰りたくない。お母さんもお父さんも、僕なんていらないんだ。弟の方が大事だから」

 泣きながら話す大和の隣で、犬は黙って寄り添っていた。時々、涙で濡れた頬を舐めてくれた。泣き疲れた時には身体を寄せて温めてくれた。そのふわふわの毛に顔を埋めると、嫌なことを忘れて自然と眠りに落ちた。

 どんなに世界が冷たくても、彼だけは、ずっと側にいてくれた。彼だけが、大和の世界だった。もう、彼しか必要なかった。

「ねぇ、僕の家族になって」

 その声は、大和のもの。

「でも今は、連れて帰れないんだ。陸人……弟が、動物とか、だめで。だから、僕がおっきくなって、あの家から出たら、迎えに来るね」

 白銀の犬は、この時初めて鳴いた。威厳のある声で、一言だけ。



 ——あの犬は、霧生だったんだ。
 ——俺が、願ったんだ。霧生と家族になりたいって。

 これが、約束。
 霧生は、ここでずっと大和を待っていたのかもしれない。そして、忘れてしまった自分のところへ、霧生が来てくれたのだ。



「……っ」

 大和は、はっと息を呑んだ。気づけば、ご神体の前ではなく、霧生のそばに座り込んでいた。

 目の前には、白銀の毛並み。ゆっくりと胸が上下する、小さな狼の姿。

 ——やっと、思い出せた。

 霧生は、ずっと側にいた。誰よりも、大和の居場所になってくれていた。遠い昔の約束を守りに、家族になりに来てくれた。胸の奥が、締めつけられる。痛いくらいに。

「……っ」
「大和くん?」

 守屋の声が、遠くから聞こえる。けれど、大和は答えられなかった。

「……大和くん、泣いているのかい?」

 その言葉で、自分が泣いていることを自覚した。頬を伝う涙が止まらない。

「俺……思い出したぞ……」

 声が震える。
 膝の上に横たわる霧生を見つめる。幼い頃と同じように、彼の側で涙を流している。

「……霧生」

 名を呼んだ瞬間、小さな狼の耳が、ぴくりと動いた。





 日が落ちる頃、空は赤紫に染まっていた。

「さて、今日はこの辺にしておくかの」

 守屋が竹ぼうきを本殿の壁に立てかけ、背中を軽く伸ばす。掃除を始めた頃よりも、境内はずっと綺麗になっていた。長年積もった落ち葉や埃を払うだけでも、神社の雰囲気は少しずつ変わるものだ。

「お前さんたちは、明日も来るかい?」
「しばらくは通うつもりです。だから、守屋さんは無理しないでくださいね」
「ほっほ、わしはもう長年の習慣じゃからな。また何日かしたら来るよ」

 守屋は満足げに笑いながら、本殿を見回した。そして、端で丸まる銀色の狼を一瞥すると、ふっと微笑む。

「それにしても、不思議なもんじゃ。こりゃまるで、ほんに大口様の生まれ変わりのようじゃの」

 そう呟きながら、守屋は手を軽く振ると、ゆっくりと神社の石段を降りていった。残されたのは、大和と朱峯、そして霧生。

「……行ったな」

 朱峯が柱にもたれながら、気怠そうに呟く。

「本殿で寝る気かい?それとも人間らしく家に帰るかい?」
「……今日はここにいる」

 大和は霧生の寝顔を見下ろしながら答えた。昼間よりも、呼吸は落ち着いている。ぴくりとも動かないが、胸の上下は穏やかだ。

(こいつがここにいて、俺がここにいる……。)

 この状況は、昔と同じだ。
 小さい頃、俺は何度もここで泣いていた。そのたびに、霧生は側にいてくれた。

(……もう少しこのままでいたい。)

「朱峯、お前は?」
「私は人間じゃないからね。どこででも寝られるよ」
「やっぱりそうなんじゃねぇか、おい霧生」
「まったくね」

 適当に会話を交わしながら、大和は霧生の横に腰を下ろした。

 夜の本殿は静かだった。木々が風に揺れる音が、微かに響く。時折、草むらで小さな虫が鳴いた。月明かりが差し込む。本殿の天井に細い影が揺れる。

「……霧生」

 そっと名を呼ぶ。
 その瞬間、狼の耳が、また微かに動いた。

 ——それだけ。

 霧生は眠ったまま、動かない。けれど、生きている。ほんの僅かな反応でも、大和の胸の奥はじんと熱くなる。

「……おやすみ」

 霧生の頭を、そっと撫でる。

 今日一日で、色々なことを思い出した。ここに来てよかった。けれど、思い出したはずなのに、まだ足りない。神社の記憶だけが、なぜかぽっかりと空白のままだ。

(俺は、どうして神社に来なくなったんだろう……。)

 唯一の居場所だったのに。大好きな霧生がいたのに。今の今まで完全に忘れていたなんて。まるで、最初からなかったみたいに。

 風が吹く。夜の空気はひんやりとしていて、静かに肌を撫でていった。大和は霧生の寝息を聞きながら、そっと瞼を閉じる。

(明日になったら、何か思い出せんのかな……。)

 大和はそう思いながら、ゆっくりと眠りに落ちた。





 翌朝、静寂を破るように、鳥のさえずりが聞こえた。

 大和はゆっくりと目を開ける。薄暗い本殿の天井が視界に入り、昨日のことを思い出した。霧生の側でいつの間にか眠ってしまったらしい。

(……霧生は。)

 横を見ると、銀色の毛並みが朝の光を受けて柔らかく輝いていた。そっと手を伸ばし霧生の身体に触れると、確かな温もりがあった。指の隙間をすり抜ける毛は、昨日よりもなめらかに感じる。大和は微かに安堵しながら、霧生の頭を優しく撫でた。

「おはよう、霧生」

 狼の耳がぴくりと動く。けれど、まだ目を開ける気配はない。

「はは……まだ寝てるか」

 大和は大きく伸びをしてから本殿の外へ出る。硬い床で寝たからか、全身がギシギシと軋んでいた。

「ようやく起きたかい」

 柱にもたれかかっていた朱峯が、欠伸交じりに言った。

「朝からのんびりだねぇ」
「人間は寝ないと死ぬんでね」
「そうだったね」

 朱峯との会話もそこそこに切り上げ、大和は本殿の周囲を見回す。

(そうだ。ここ、裏に湧き水があったはず。まだ出てっかな。)

 そう思い立ち、足を向ける。

 しばらく歩くと、苔むした岩の間から、細い水の流れが現れた。ちょろちょろと細く水が落ちる音がする。大和はしゃがみ込み、両手を水に浸した。ひんやりとした感触が心地いい。

(……俺、昔もここで手を洗ってた。)

 手をすくって顔を洗う。すっかり春とはいえ、山の湧き水はまだ冷たい。少しだけ肩を震わせながら、手早く身支度を済ませた。

「ふうん、人間ってのは朝からそんな面倒なことをするんだね」

 気だるげな声に振り返ると、朱峯が腕を組んでこちらを見下ろしていた。

「顔を洗うくらい、普通だろ」
「神は汚れたりしないからね。前に風呂に入ってから、何百年経っただろう」
「そんな自慢すんな」

 霧生と同じようなことを言っている。軽く額の水を払うと、本殿に戻り、カバンの中からおにぎりを取り出した。ここに来る前に買っておいたものだ。

 本殿の階段に腰掛け、おにぎりの包みを開く。これも、昔に同じことをした気がした。

「いただきます」

 手を合わせ、一口食べる。一人での食事はこんなに味気なかっただろうか。随分と、一緒に食べていないような気がする。

「霧生。お前が起きたら、美味い飯いっぱい作ってやるからな」
「神は食べなくても平気だよ」

 いつの間にか隣にいた朱峯は、何の感情も伺えない声でそう言った。

「霧生もそんなこと言ってたな」
「そうさ。命を奪って糧にするなんて、今の私には無理だね」
「でも、そうしないと人間は死ぬ」
「人間は、ほんに手間がかかるねぇ」

 飢えれば死ぬ。力が出なければ霧生を救うこともできない。

 おにぎりの味はしなかった。それでも大和は少しずつ噛み砕いて、飲み込む。

「霧生が元気になったら、あんたにも食事を振舞ってやるよ」
「ふふ、遠慮するよ」
「そうかよ」

 朱峯と適当なやり取りをしながら、大和はもう一口おにぎりを齧る。

 今日は、霧生が目を覚ますだろうか。そうであればいい。そうなるように、また掃除をして、お供えをしよう。

 朝食を終えると、大和はそっと立ち上がり、ほうきを手に取った。本殿の入り口に積もった落ち葉を掃きながら、昨日よりも少し澄んだ空気を感じる。

 境内を掃き終わると、次にご神体の前に小さなお供えを置いた。昨日持ってきた米と酒、そして近所で買ったお饅頭。

「そんなものを供えて、何か変わるのかい」

 意地の悪い笑みを浮かべながら、朱峯が問う。

「変わるかはわかんねぇ。でも、俺にできるのはこんなことくらいだから」
「へえ。随分殊勝なことを言うねえ」

 そう言いながら、朱峯は本殿を見上げた。風が心なしか心地よく吹く。陽の光が、少しだけ差し込んでいる。神である朱峯にはわかった。気の流れが変わったのだと。

「ふふ。ほんに、可愛くない」
「……何?」
「なんでも」

 朱峯の含んだ言い方は気になったが、大和はご神体に向き直る。そして静かに手を合わせた。


 なあ、霧生。お前、ずっと俺のこと守ってくれてたんだな。
 それなのに、俺はなぜか、あんなに大切だったこの場所も、お前のことも、約束も、全部忘れちまってたよ。
 約束守らなくてごめん。
 お前のこと、迎えに行かなくてごめん。
 俺を守るために、しんどい思いさせて、ごめん。
 あの日も、お前が調子悪いってわかってたのに、放って出て行って、ごめん。
 ちゃんと、話聞いとけばよかった。信じてやればよかった。
 それなのに、ずっと一緒にいてくれてありがとう。
 迎えに来てくれて、家族になりに来てくれて、ありがとう。

 俺、お前とこれからもずっと一緒にいたいよ。
 消えてほしくなんかないよ。

 なあ、霧生。俺、もう認めるわ。
 俺、お前が好きだよ。
 お前がずっと俺の居場所になってくれてたこと、覚えてなかったけど、それでもお前のことを好きになってたよ。
 最初は得体の知れないやつだと思ったし、世話も大変だったけど、お前との生活は心地よくて、もう離れるなんてできねぇよ。

 なあ、霧生……聞こえてるか。

 頼むから、生きてくれ。
 俺のために力を使い果たして消えるなんてやめてくれ。
 これからも一緒に生きていきたいんだ。
 そのために、お前と一緒に考えたいんだ。
 だから早く目を覚ましてくれよ。お願いだ。


 大和は静かに顔を上げ、頬を伝っていた涙を拭った。
 そして、「霧生のために願うなんて、おかしな話だよな」と、涙を拭いながら小さく笑った。
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