神の契りは解けない

碧碧

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「さて、さっそくだけど」

 出された麦茶に口をつけつつ、朱峯が切り出した。

「霧生、人間の身体になって変わったことはあるかい」
「……ん。少し肌に感じる感覚が違う。あとは腹が空いて飯が欲しくなるし、夜になれば睡眠したくなる」

 追い出すのはもう諦めたのだろう。霧生は淡々と朱峯に問われたことについて答えていく。

「やはり、人間とは随分面倒なのだな。神に戻りたくならないのかい」
「ならない」

 ぴしゃりと言い切った霧生の目には迷いも何もない。朱峯は一瞬驚いたように目を見開いた後、微かに微笑みを浮かべた。

「霧生はあんまりに力が強いから、他の神もよく機嫌を伺いに来てたよね」
「昔の話だ」
「でもほら、西から来たあの子なんて、わざわざ自分の天狗に酒を造らせて君に献上してさあ。よほど嫁になりたかったんだろうなあ」
「……あれは、相当しつこかった」
「ふふ、モテる男は大変だねぇ」
「知るか」

 霧生の返事はそっけないが、過去を思い出しているのかどこか懐かしさを滲ませていた。二人はまさに旧友なのだろう。大和は黙ってかつての霧生についての話に耳を澄ませる。けれど、どこか居心地が悪い。

「覚えてるかい。昔二人で人間に紛れようとして八雲深霧雄神やくもふかきりおのかみ様のお怒りに触れたこと」
「覚えてる。朱峯の耳が出そうになって、無理矢理連れ戻された。あの後の修行の辛さと、お前への恨みは忘れない」
「ごめんねぇ。でも霧生だって人の姿になるの苦手だったでしょう。随分と練習していたもんねぇ」
「ああ。二人して苦手なのに人間に紛れようとするなんて無謀だった」
「ふふ。懐かしい」

 朱峯が遠くを見るように目を細めた。在りし日の二人の思い出を辿るように、ゆっくりと瞬きをする。朱峯の言葉に、霧生が少し懐かしそうに目を伏せた。大和は、なぜかそれがなんとなく気に入らなかった。

(……俺の知らねぇ霧生ばっか、だな。)

 そう思うと、なんだか落ち着かなくて、無意識に膝の上で拳を握る。当然だ。霧生と朱峯は、途方もない時間をともに過ごしてきたのだから。そんなことはわかっていても、面白くないものは面白くない。

 ぼんやりとコップを指で弄る。妙に指先が熱い。昔の話をする霧生は懐かしそうだ。朱峯も楽しそうに笑っている。なのに、俺だけが、この場に馴染めていない。

(……こいつ、早く帰ってくんねぇかな。そしたら——)

「あれから、二人で随分と人の姿になる練習をしたねぇ。まさか、本当に人間になってしまうとは思わなかったけれど」
「大和と生きるって決めてから、かなり修行した。だからお前より人に化けるのが上手くなったな」
「……ふふ」

 ぼうっと聞いていたら自分の名前が聞こえて、大和が顔を上げる。

「あれから、俺は大和の側にいられるようにすることだけを考えて生きてきた」

 さらりと言われたその言葉が、大和の胸の奥に落ちて、静かに響く。

「だから人間になったことも後悔していないし、神に戻りたいとも思わない」

 それが、あまりにも自然で、まっすぐな言い方だったから。さっきまでモヤモヤしていたのが嘘みたいに、胸の重さが消えていく。

「難しい儀式をしてくれた朱峯には感謝している。ありがとう」

 ——沈黙が落ちる。

 朱峯が、そっと目を伏せた。そして、微かに笑って、ぽつりと呟く。

「ふふ……すっかりこの人間に染まってしまって……寂しいなあ」

 まるで大切な何かを諦めたような、どこか切ない笑みだった。

「朱峯……?」

 大和が言葉を発する前に、朱峯はゆるく笑って誤魔化す。その瞳が揺れているのが見えて、大和はハッと息を呑んだ。

(もしかしてこいつ、霧生のこと……。)

「朱峯お前……」

 大和が口を開きかけたその時。



 ピンポーン。



「おや、お客さんかな」

 今日二度目の来客を知らせるインターフォンの音。口に出かけた言葉を飲み込み、大和が玄関に向かう。

「どちら様で——」
「おー大和いたか!バイクなかったから出かけてんのかと思った!」
「迅先輩……!」

 大和が制止するのも間に合わず、桐島はさっさと靴を脱いで部屋に向かっていく。そして朱峯の姿を見つけ、ぽかんと口を開けた。

「大和のツレって、こんなイケメンばっかりなのか?」
「……ツレじゃないです」

 さっきまでの緊張感は消え失せ、大和はがっくりと肩を落とした。

「いやーお客さん来てたとは知らなかった!酒いっぱい持ってきたから、一緒していい?」
「いや俺まだ酒飲めねえっす」
「おお、この人間は気が利くじゃないか。霧生もほら、大和など放っておいて一緒に飲もう」
「……こいつ、嫌い」

 霧生が大和の隣でじとっとした目を向ける。大和は思わず苦笑したが、それより気になるのは迅が持ってきた酒の量だった。

「てかなんで酒っすか?前に祝いもらったばっかりなのに」
「そりゃ、お前ん家にお邪魔するんだから手土産くらい持ってくるわ。これでもジョーシキジンなんでな」

 桐島と朱峯が軽い挨拶を済ませた後、テーブルの上に置かれた酒が次々と開けられていく。朱峯だけでなく、霧生も注がれるがままに飲んでいた。大和はその様子を眺めながらげんなりと顔を曇らせる。

(役所に行って手続きしようと思ってたのに……これは朝までコースだな……。)

 大和が諦めて、何かつまみでも作ろうかと立ち上がろうとした時。ぐいっと桐島が大和のシャツの首元を引き寄せた。

「あー、やっぱヤッてんだ」
「ブホッ!?!?」

 大和は思わず噎せる。

(ヤッてるって何?!てか、やっぱりって何?!)

 混乱している大和の服の中を、桐島が覗き込む。が、一瞬で霧生が大和を抱き寄せた。二人の前で強く抱きしめられ、大和が真っ赤になって必死に身を捩る。

「ちょっ、霧生?!何?!」
「お前、俺の大和に何をしている」

 霧生は桐島を射抜くような眼差しで見つめていた。こめかみに青筋が浮いているのが見える。

「いや~、前見た時からそんな感じかなーって思ってたんだけど、首のとこにチラチラチラチラ、キスマークみたいなのが見えちゃってるからさ~」
「なッ!?だから昨日やめろって言っただろ……!」
「なるほど、昨晩はお愉しみでしたね……?」
「ウワアアアアア!!!」

 墓穴を掘って慌てふためく大和を、霧生が一層強く抱きしめてくる。

「マーキングしておいて正解だった」
「不正解だよバカ!」
「じゃあ祝杯だな!おめでとー大和アンド霧生サン!乾杯しようぜ!」
「ありがとう。お前いい奴だな。乾杯」
「だから違うって!!霧生も簡単に態度変えんな!!」

 どうしてこうなってしまったのか。久しぶりに霧生とゆっくりこの部屋で過ごせると思っていたのに。これからのことを話し合って、正式に番になろうと——。

(いやいやいや、決して抱かれたいとかではなく……!)

「どうした大和。さっきから変な顔をして」
「失礼なこと言ってんじゃねぇ!」
「大和きゅんは、霧生くんといちゃいちゃできなくて拗ねてるんだよねえ?」
「迅先輩!全然違うから!!」
「そうだったのか大和。すまなかったな。んー」
「ウワアアアア!顔近づけんな!」
「いいぞ!キース!キース!」
「やめろおおおおお!この酔っ払いどもがアアアアア!」
「いやあ、人間ってやっぱり面白いなあ」
「お前絶対寄ってないだろ!止めろよおおお!」

 酔いが回ってきたのだろう。終始好き勝手に話を進める三人に、大和はついに限界を迎えた。

「もういい、もういいから、全員とりあえず落ち着け!!」

 霧生の腕から逃れるように藻掻きながら怒鳴るが、酔っ払い達が言うことを聞くはずもなく。結局、大和は抵抗を諦めた。こうなったらもう誰も止められない。

「大和、撫でろ」
「お前、人前でよくそんなこと強請れるな」
「早く」

 そう言って、大和の手を取って自分の頭に押し当てる霧生。大和は仕方なく乱暴に銀髪をかき回し、ぐちゃぐちゃにしてやった。

「痛い」
「文句言うな」

 ぐいっとまた杯を傾けた朱峯が、そんな二人を見てゆるく微笑む。

「霧生も、ほんに変わったねぇ。まさかこんなに甘えたになっているとは思わなかったよ」
「……変わったか?」
「うん。昔の霧生は孤高の存在で、話をするのなんて私ぐらいだったろう」
「動物の神が珍しかっただけだ」

 霧生はそう言って、ぐいっと日本酒をあおる。昔の霧生を知っている朱峯に思うところがないと言えば嘘になる。だが、甘えたで優しい霧生は大和だけのものだ。そう思えば、胸の中にかかったモヤが少し晴れた気がした。

 やりとりを見ていた桐島が、にやりと笑う。

「なんかもうカップルっていうより、夫婦って感じだな?」
「ブ……ッ!はあああ?!」

 夫婦。大和はびくりと肩を揺らした。耳や首まで一気に朱に染まる。

「なんだその顔?今更照れてんのかあ?」

 慌てて俯いたが、桐島にまじまじと顔を覗き込まれてぷいっと横を向く。その顔を霧生に救い上げられて、流れるようにキスをされた。

「そんな顔、俺以外に見せるな」
「な……な……」
「あと桐島、俺たちは正式に伴侶になる。そもそも今頃番っているはずだったのに、お前たちが来たからできなかったんだ」
「ふぁ……ッ?!」
「あ、そうだったん?ごめんな大和」
「今からしてくれてもいいんですよ?」

 キスだけで固まっていたのに、三人からのあまりの追い打ちに頭が真っ白になる。霧生が恨みつらみを吐き出しているのにツッコミを入れることもできず、大和は霧生の膝の上でとうとう意識を手放した。






 翌朝。暖かい日差しに目を開ける。久しぶりの自分のアパート。隣にはすぅすぅと寝息を立てる霧生が——いなかった。

「霧生……っ?!」

 見ればテーブルを囲んで屍が2つ転がっている。霧生と桐島だ。昨日大和が眠ってしまってから一体どれほど飲んだのだろう。桐島が持ってきた酒は見事に空になり、床に散らばっていた。

「お前、霧生が隣に寝ているのがもう当たり前なんだねえ」
「……っ!」

 朱峯だった。ベッドの足元からのそりと立ち上がり、そう呟く。その顔は見惚れるほど美しいのに、何の感情も浮かべていない。それがなぜか酷く恐ろしかった。

「昨日、思ったんだけど、お前もしかして霧生のこと、本気で……」

 口ごもりながらそおう言うと、朱峯が口角をゆっくりと上げる。

「何だい気持ち悪い。霧生と私は兄弟弟子のようなものだよ」
「兄弟、弟子……?」

 聞きなれない言葉を復唱すると、朱峯はやれやれと首を振った。

「私たちは、八雲深霧雄神という神の下で修行に励んでいたんだよ。昨日霧生も言っていたけれど、天では動物の神は少ない。あの当時は狼の霧生、狐の私、あとは蛇がちょっといたくらいかな。人間に加護を与えたり、罰を与えたり、神としての仕事をするにあたって、人間のことを知らないといけないけれど、私たちは元々動物だからわからない。そこで八雲深霧雄神様が私たちの師匠になってくださった。それで霧生とは共に修行をしてきたのさ。それこそ人の形になる練習とかね」
「ああ、なるほど……」
「だから心配することはないよ。確かに私は霧生のことは気に入っているし、神として今後も一緒にいてくれたら嬉しかったけれど、お前のような感情ではないから」

 そう言った朱峯の瞳には、やはり少し暗い影が落ちていて。しかし大和が口を開く前に、朱峯は少し明るい口調で言葉を続けた。

「霧生はお前と出会ってから、より一層修行に打ち込むようになったよ。私は力は強かったけれど、そもそも人間に興味がなかったからね。人間に関することでは霧生にすぐ追い越されてしまった」
「……」
「お前を迎えに行くまでの間、そうやって霧生は過ごしていたんだよ。全てはお前のため」
「霧生……」

 当の本人は床の上でまだ寝息を立てている。床が硬くて不快なのか、少し眉根を寄せているように見えた。

「八雲深霧雄神様は、人と神は直接関わるべきではないっていう教えだったんだけど、霧生はそれだけは聞かなくてね。毎日狼の姿で幼いお前と接触していた。お前がその時の記憶をなくしているのは、多分八雲深霧雄神様のお力じゃないかな」
「なん、だって……?」

 思わぬところでずっと心に引っかかっていたことの解答が得られた。

「八雲深霧雄神様は人の心を操るのが得意な方でね。お前の記憶を消すなんて容易いことさ。人間と神が交われば、世の秩序が狂ってしまう。だからお力を使われたのだろう」
「……」
「それでも霧生の心は変わらなかった。修行を重ね、律儀にお前が迎えに来るのを待って、来ないと思えば逆に迎えに行って。ついに人間になってしまった」

 朱峯の言葉に、大和は何も言えなかった。大和はこの世から一人の神を奪ったのだ。朱峯や八雲深霧雄神から。

「八雲深霧雄神様はたいそう悲しんでおられたよ。やはり人間と関わらせるべきではなかったとね。儀式をした私も怒られてしまった。ふふふ」
「あ……なんか、ごめん……」

 この男はいけ好かないが、巻き込んでしまったのは事実だ。やまとは俯き、ただ静かに謝った。

「へえ、素直になったらなったで気味が悪いね」
「お前……俺が素直に謝ってやってんのに」
「あ、そうそう。八雲深霧雄神様は人の心を操るのが得意と言っただろう?霧生も同じく、とっても得意だったんだよ」
「霧生が……?」

 ここで寝入っていた霧生が薄く瞼を開いた。昨日何があったのか思い出そうとするかのように、ぼうっと周囲を見回す。

「お前のその感情も、操られていたとしたら……?」
「そんな、こと……」

 信じられるはずがない。信じたくない。けれど、一瞬だけ胸がざわつく。
 もし本当に霧生が、力を使っていたのだとしたら——。
 もしも、自分が霧生に惹かれたのが、その影響だったとしたら——。

「ないと言えるかな?」

 いつしか朱峯の顔には意地の悪い笑みが浮かんでいる。くつくつと一通り笑った後、彼はまだ床でだらけている霧生に向き直った。

「霧生。私はそろそろ失礼するよ。君が祀られていた白霧神社の管理を任されてね。元々忙しいのに、君の分の仕事まですることになったんだから、今度豪勢なお礼をしておくれよ」
「朱峯……?」

 未だ寝ぼけている霧生にそれだけ言うと、朱峯は玄関へと向かった。その背中を見て、大和は思わず立ち上がる。

「待てよ、朱峯——」

 声をかけるが、彼は振り返らない。ただ、軽く片手を上げただけだった。

「霧生を奪ったお前には、これくらいの意地悪、許してもらうよ」

 まるで冗談のように軽い。けれど、その言葉は、酷く重くのしかかった。

 朱峯はそのまま玄関のドアを開け、朝の光の中へと消えていった。

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