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26話
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その魔導書を王都の市場で偶然手に入れたとき、セシルは幸運が訪れたことを感謝した。
禁書を手に入れた場合は魔術学院に届けるべし、という規則を破り、セシルは魔導書を己のものとした。
露見すれば牢獄行きは免れなかったが、セシルは上手くやり遂げたのだ。
魔導書を手に入れたセシルはしかし、本を開いて内容を読み解くことを避けていた。読めば試したくなるという確信があり、それは多大な危険を伴う。
だが、マシューと関係を持つ女への嫉妬に狂ったセシルは激情の迸るまま、禁書を夢中で読み解き、やがて——ぴったりな魔術を見つけた。
それは、人間をおぞましい獣の姿に変えた上、意のままに精神を支配する魔法薬の作り方であった。
だが、セシルはしくじってしまった。
——私はどの手順を間違えた? いや、今はそれよりも……。
己の未熟さを責めるよりもこの状況を説明しなければ、とセシルはマシューへ視線を向けた。理性を取り戻し、自身の変わり果てた身体に目を見張っているマシューに、セシルは元に戻す薬があるから安心しろ、と告げようと口を開いた。
「君が悪い」
だが、セシルは頭に浮かんだままの言葉をマシューへと、きつい口調で言い放っていた。頭の中には、やめろ——! と叫ぶ声が響く。
「俺……?」
マシューの戸惑った声音に気づかないふりをして、セシルはさらに言葉を重ねる。
「私は悪くない」
セシルは惨めさに打ちひしがれていた。
唯一の拠り所である魔術を失敗してしまい、矜持は完全に損なわれた。惨めな自分をこれ以上晒すくらいならば、すべて失くなってしまえばいい——と、自棄になっていた。
「セシル……?」
セシルの紫色の目から涙が溢れ、頬を大粒の涙が伝い落ちていた。
「ど、どうしたんだ!? 大丈夫かっ!?」
「うるさいっ」
「ええっ……」
「いなくなればいいのに……」
セシルは口元を手で押さえ、しゃがみこんだ。まるで呪いにかけられたかのように、マシューを遠ざけようとする言葉が口をついて出てしまう。
マシューは鋭く伸びた獣の爪がセシルを傷つけてしまわないように、細心の注意を払いながら、闇の中で仄かな光を浴びて艶めく漆黒の髪にやさしく手を置いた。
「大丈夫だからな」
「……何がだ!」
マシューの手を、セシルは渾身の力で振り払った。
「あっ……」
そのあとひどく不安げに眉尻を下げたセシルにマシューは苦笑し、鋭い爪で傷つけてしまわないよう、そうっと腕の中に閉じ込める。震える背中をあやすようにやさしく叩いた。
「よしよし。つらかったな」
セシルの背に置かれたマシューの手のひらは、いつものように温かだった。
「……私、はっ」
言葉を紡ごうと口を開いたセシルだが、しゃくり上げてしまい、上手く話すことができない。
「無理するなよ。落ち着いてからでいいから」
恐ろしげな姿になってしまったマシューだが、いつものように優しかった。誰よりも優しいと、セシルは温かな腕の中で心の底から安堵し、深く息を吸い込むのだった。
しばらくすると、セシルの震えが収まったことにマシューは気づいた。
「セシル? 大丈夫か?」
「……ああ」
「よかったあ」
「すまなかった。気が動転していた」
「疲れてたのかもな。気にしなくていいからな」
「ありがとう……」
マシューの優しさに、セシルはまたも目尻から涙が滲む気配を覚え、これ以上醜態を晒したくない、と慌てて気を引き締めた。
「なあ、服が破れてる……。俺……お前の薬を飲んだ後からの記憶がないんだが……なにかしちまったのか?」
「いや、大したことはなかったから、心配するな。……少々舐め回されはしたが」
「舐め……!? 悪いな……まったく覚えがねえわ」
心配げな表情を向けるマシューを、セシルは訝しむ。
「君はなぜ……」
「ん……?」
セシルは顔を上げた。
「私を責めない?」
変わり果ててしまったマシューの顔には、以前と変わらぬ優しい笑みが浮かんでいた。
「それは……」
マシューは言葉を詰まらせたが、セシルの不安げな紫色の瞳を見て、覚悟を決めた。
「何よりも大切だから」
眉を曇らせ目に涙の膜を作る愛する人——セシルの憂いが晴れますように、とマシューは願った。
「お前のことが」
その言葉を受けたセシルは目を大きく見開き、呆然としたまま、こう言った。
「何を言っているんだ……?」
「えっ……。セシル?」
「うそだ……」
「おいおい。うそなもんか」
「そんなはずない。私なんか……」
「私なんか、って何だよ」
セシルの蚊の鳴くような、ほとんど聞こえない声量で呟いた。
「私は君には相応しくない」
「……セシル?」
顔を覗き込もうとするマシューから、セシルは反射的に顔を背けた。マシューに確かめねばならない——とセシルは内心気が急いていたが、その前にまずはやることがある、と気持ちを切り替えた。
「解除薬がある。話の続きは、それを飲んでからにしよう」
「元の姿に戻れるのか? よかった……作ってくれてたのか」
「こちらは失敗していなければいいのだが……」
自信なさげなセシルに、マシューはごくりと唾を飲み込む。
「もし失敗していたら、俺はどうなるんだ?」
「それは……また作ってやるから、とりあえず飲んでみてくれ」
歯切れの悪いセシルを訝しみながらも、マシューは渡された銀の杯を傾け、一気に中身を飲み干した。
マシューは杯を取り落とした。痛みが全身を痛みが刺し貫き、立っていることすら危うくなる。
「また、これか……っ!」
うずくまり、痛みを堪えるマシューの肩に、セシルは手を置いた。不思議と痛みが和らぎ、マシューは目を閉じた。
禁書を手に入れた場合は魔術学院に届けるべし、という規則を破り、セシルは魔導書を己のものとした。
露見すれば牢獄行きは免れなかったが、セシルは上手くやり遂げたのだ。
魔導書を手に入れたセシルはしかし、本を開いて内容を読み解くことを避けていた。読めば試したくなるという確信があり、それは多大な危険を伴う。
だが、マシューと関係を持つ女への嫉妬に狂ったセシルは激情の迸るまま、禁書を夢中で読み解き、やがて——ぴったりな魔術を見つけた。
それは、人間をおぞましい獣の姿に変えた上、意のままに精神を支配する魔法薬の作り方であった。
だが、セシルはしくじってしまった。
——私はどの手順を間違えた? いや、今はそれよりも……。
己の未熟さを責めるよりもこの状況を説明しなければ、とセシルはマシューへ視線を向けた。理性を取り戻し、自身の変わり果てた身体に目を見張っているマシューに、セシルは元に戻す薬があるから安心しろ、と告げようと口を開いた。
「君が悪い」
だが、セシルは頭に浮かんだままの言葉をマシューへと、きつい口調で言い放っていた。頭の中には、やめろ——! と叫ぶ声が響く。
「俺……?」
マシューの戸惑った声音に気づかないふりをして、セシルはさらに言葉を重ねる。
「私は悪くない」
セシルは惨めさに打ちひしがれていた。
唯一の拠り所である魔術を失敗してしまい、矜持は完全に損なわれた。惨めな自分をこれ以上晒すくらいならば、すべて失くなってしまえばいい——と、自棄になっていた。
「セシル……?」
セシルの紫色の目から涙が溢れ、頬を大粒の涙が伝い落ちていた。
「ど、どうしたんだ!? 大丈夫かっ!?」
「うるさいっ」
「ええっ……」
「いなくなればいいのに……」
セシルは口元を手で押さえ、しゃがみこんだ。まるで呪いにかけられたかのように、マシューを遠ざけようとする言葉が口をついて出てしまう。
マシューは鋭く伸びた獣の爪がセシルを傷つけてしまわないように、細心の注意を払いながら、闇の中で仄かな光を浴びて艶めく漆黒の髪にやさしく手を置いた。
「大丈夫だからな」
「……何がだ!」
マシューの手を、セシルは渾身の力で振り払った。
「あっ……」
そのあとひどく不安げに眉尻を下げたセシルにマシューは苦笑し、鋭い爪で傷つけてしまわないよう、そうっと腕の中に閉じ込める。震える背中をあやすようにやさしく叩いた。
「よしよし。つらかったな」
セシルの背に置かれたマシューの手のひらは、いつものように温かだった。
「……私、はっ」
言葉を紡ごうと口を開いたセシルだが、しゃくり上げてしまい、上手く話すことができない。
「無理するなよ。落ち着いてからでいいから」
恐ろしげな姿になってしまったマシューだが、いつものように優しかった。誰よりも優しいと、セシルは温かな腕の中で心の底から安堵し、深く息を吸い込むのだった。
しばらくすると、セシルの震えが収まったことにマシューは気づいた。
「セシル? 大丈夫か?」
「……ああ」
「よかったあ」
「すまなかった。気が動転していた」
「疲れてたのかもな。気にしなくていいからな」
「ありがとう……」
マシューの優しさに、セシルはまたも目尻から涙が滲む気配を覚え、これ以上醜態を晒したくない、と慌てて気を引き締めた。
「なあ、服が破れてる……。俺……お前の薬を飲んだ後からの記憶がないんだが……なにかしちまったのか?」
「いや、大したことはなかったから、心配するな。……少々舐め回されはしたが」
「舐め……!? 悪いな……まったく覚えがねえわ」
心配げな表情を向けるマシューを、セシルは訝しむ。
「君はなぜ……」
「ん……?」
セシルは顔を上げた。
「私を責めない?」
変わり果ててしまったマシューの顔には、以前と変わらぬ優しい笑みが浮かんでいた。
「それは……」
マシューは言葉を詰まらせたが、セシルの不安げな紫色の瞳を見て、覚悟を決めた。
「何よりも大切だから」
眉を曇らせ目に涙の膜を作る愛する人——セシルの憂いが晴れますように、とマシューは願った。
「お前のことが」
その言葉を受けたセシルは目を大きく見開き、呆然としたまま、こう言った。
「何を言っているんだ……?」
「えっ……。セシル?」
「うそだ……」
「おいおい。うそなもんか」
「そんなはずない。私なんか……」
「私なんか、って何だよ」
セシルの蚊の鳴くような、ほとんど聞こえない声量で呟いた。
「私は君には相応しくない」
「……セシル?」
顔を覗き込もうとするマシューから、セシルは反射的に顔を背けた。マシューに確かめねばならない——とセシルは内心気が急いていたが、その前にまずはやることがある、と気持ちを切り替えた。
「解除薬がある。話の続きは、それを飲んでからにしよう」
「元の姿に戻れるのか? よかった……作ってくれてたのか」
「こちらは失敗していなければいいのだが……」
自信なさげなセシルに、マシューはごくりと唾を飲み込む。
「もし失敗していたら、俺はどうなるんだ?」
「それは……また作ってやるから、とりあえず飲んでみてくれ」
歯切れの悪いセシルを訝しみながらも、マシューは渡された銀の杯を傾け、一気に中身を飲み干した。
マシューは杯を取り落とした。痛みが全身を痛みが刺し貫き、立っていることすら危うくなる。
「また、これか……っ!」
うずくまり、痛みを堪えるマシューの肩に、セシルは手を置いた。不思議と痛みが和らぎ、マシューは目を閉じた。
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