【ミステリー小説】 大奥無頼帳

蔵屋

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第八巻

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 柳生宗矩は徳川秀忠の治世、将軍家剣術指南役としてその地位を築いた。それは徳川家康が本能寺の変の時、堺にいた。織田信長死すとの知らせを聞くや数名の家臣達とともに伊賀越えを決行した。しかしすでに落武者狩りが始まっていた。
 家康は伊賀越えの道中、襲撃された。その襲撃を助けたのが少年時代の宗矩と宗矩の幼馴染木猿であった。木猿は伊賀忍者であった。
 二人は家康から葵紋の印籠を手渡された。
 「大人になったらわしを尋ねてこい」
 これが家康と宗矩、木猿の出会いである。
さて、大人になり宗矩と木猿は徳川家康を尋ねた。
 関ヶ原合戦の数日前である。
 宗矩は家康と対面し家康の家臣となった。
伊賀忍者の木猿は陰から宗矩を助ける。
 秀忠が二代将軍になる。秀忠の正室がお江与の方である。
 またの名前を崇源院すうげんいん
 生誕は天正元年(1573年)~寛永3年9月15日(1626年11月3日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性。近江の戦国大名浅井長政の三女で、母は織田信秀の娘であるお市の方(織田信長の妹)。崇源院は院号であり、一般にはごう小督おごうの名で知られるが、諱は達子みちこで、追贈された贈位は従一位。
 長姉の淀殿(茶々)、次姉の常高院(初)とで、いわゆる浅井三姉妹の一人で、初め佐治一成と婚約したが、秀吉により離縁させられて、その甥で養子の豊臣秀勝と再婚し、娘完子さだこをもうけたが、秀勝が急逝。江戸幕府の2代将軍となる徳川秀忠と3度目の結婚をして、3代将軍家光を含む2男5女をもうけた。猶女に鷹司孝子がいる。

 「崇源院」は、彼女の諡号(いわゆる戒名のこと)の「崇源院殿昌誉和興仁清」の院号の部分であり、名前ではなく敬称となる。 
 この院号の読み方については議論があり、歴史学界で権威がある『国史大辞典』では「すうげんいん」と読まれ、法名での「崇」は「すう」と読む例が一般的であるが、春日局が記したとみられる輪王寺所蔵の「東照大権現祝詞」では「そうげんいんさま」と書かれており、『寛永諸家系図伝』仮名本でも「崇源院殿」に「そうげんゐんでん」と読み仮名がつけられているので、当時は「そうげんいん」と呼ばれていたと考えられている。
 平成22年(2010年)6月に祐天寺で徳川家康像が安置されていた宮殿(厨子)を修理のため解体したところ、柱に「寛永五年辰九月拾五日御建立宗源院御玉家」と墨書されたものが発見された。これも「そうげんいん」と読ませているようである。

 幼名(通称)は、最も古い『太閤素生記』で「小督御料人」と記されているので、「督」であると考えられ、その他の史料では「江」あるいは「郷」の字が当てられているが、江戸時代には音や訓が同じであればどの漢字を当てるかは厳密にしなかったので、何れの字でも同音の読みで「ごう」であったことがわかる。
 字が督から江に変わった理由については、出身が近江であるからという説もあるが、福田千鶴氏は江戸中納言と呼ばれていた徳川秀忠に嫁いだので、徳川系の史料がそれに因んで「江」に字を改めたのではないかと述べている。
 私はこの福田千鶴氏の説を支持している。

 なお、『翁草』では「徳姫」としており『柳営婦女伝』では「於徳女」とあって、水戸学者の小宮山楓軒が著した『垂統大記』でも「幼名徳」とあるので、「督/徳(とく)」であるとすれば、「督/江(ごう)」の読みには再検討の余地があるとする指摘もあるが、何れも17世紀後半以後の二次的な史料であり、督の字の読み誤りの上に徳の字が当てられたとの反論があり、通説を覆すには至っていない。
 前近代の女性の殆どは成人後も幼名をそのまま通称として用いて、実名を持たなかった。しかし上流階級に限っては、位階の為に叙位文書に正式な諱で署名する必要があったので、女性であっても諱(実名)を命名されて持つことがあった。『中院通村日記』の寛永3年(1626年)12月28日の条には、亡くなった崇源院は無位で御名の字もなかったので京都所司代板倉重宗に相談したところ検討すると返事で、その後、叙位文書を作成する大内記に知らせがあって、名は「達子みちこ」で従一位を贈賜することになったという記述がある。なお、この達子は公式な名前だが、死後に贈られたものなので、生前に用いられた名前ではない。

 女性名で、連歌会や系図などで体裁を整える必要がある場合には、当時は通称(幼名)の語尾に「-子」をつけたものが用いられた。崇源院の場合には「江子」となるが、音読みならば「ごうし」で間違いないが、訓読みで読む場合には「えこ」か「きみこ」などとするのか、明記する史料はないので不明である。
 身分の高い女性は、幼名や実名のほかに尊称となる号をもっていたが、号は住居の場所や立場によって変わった。

 崇源院は、初めは貴人の妻が邸宅の北側に住宅を設けるため妻の尊称である「北方(きたのかた)/北ノ方」と呼ばれ、次いで秀忠が後継者に指名されると世嗣の正室を意味する「御新造ごしんぞう」秀忠が将軍になってからは将軍正室を意味する「御台所みだいどころ」秀忠が将軍職を家光に譲って大御所おおごしょとなってからは前将軍の正室を意味する「大御台所おおみだいどころ」という具合に変遷している。
 また、崇源院の場合には「於江与之方」「於江与君」という尊称があって、敬称である「於」「方」「君」を除いた「江与」が号となる。これは一般には「えよ」と読むことが多いが、1次史料での使用例や同時代に「えよ」と呼んだとわかる史料は存在しない。『雁金屋染物台帳』や『本光国師日記』に江戸の移った頃の崇源院を「ゑとさま」と書いたものがあり、「与」には「と」の訓音があるほか「と」の変体仮名でもあって、濁音の濁点は当時は通常は記されなかったので、「江与(えど)」と読むのが理にかなっていると福田千鶴氏は主張する。つまりこれに従えば、居所にちなむ号の読み方は「於江与之方おえどのかた」と「於江与君おえどのきみ」であった可能性が高い。

 浅井長政の三女として近江国小谷(現滋賀県長浜市)に生まれた。母は尾張国の織田信秀の娘である市。
 生年については、享年を57とし秀忠よりも9歳年長であったという俗説から逆算して、元亀元年(1570年)とする説があったが、これは史料的根拠が弱く、初と同年となってしまうので、現在ではあまり考慮されていない。他方で、『以貴小伝』では享年を54としており、これから逆算すれば生年は天正元年(1573年)となり、『幕府祚胤伝』でも天正12年(1584年)に12歳であったと書かれているので、天正元年出生説が有力とされていて、宮本義己氏はさらに分娩時期を計算して誕生月を8月と推定している。
 乳母には民部卿局がつけられた。上記の小谷出生説に異論を唱える史料もあり、延宝7年(1679年)に成立した『安土創業録』(蓬左文庫所蔵)では、小谷城を脱出したのはお市の方と娘2人であり、お市の方は岐阜で江を出産したとある。
 天正元年9月1日(1573年9月26日)、浅井長政が市の兄である織田信長と対立し、小谷城の戦いに敗北した長政らは自害し浅井氏は滅亡する。江は母の市や姉の茶々、初とともに藤掛永勝らによって救出され、信長の保護の下岐阜城に留まり、伊勢上野城(三重県津市)主で信長の弟の織田信包に預けられたとされてきたが(『信長公記』・『総見記』・『 浅井三代記』)、近年の研究によると母の市と三姉妹は尾張国守山城主で信長の叔父にあたる織田信次(江には大叔父にあたる)に預けられたことが明らかとなっている(『渓心院文』)。天正2年9月29日に織田信次が戦死した後、信長の岐阜城に転居することになる。
 天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変において信長は、家臣の明智光秀による謀反で横死する。6月27日、織田家の後継者を決める清洲会議により、母の市は織田家臣の柴田勝家と再婚して、勝家の居城である越前国北ノ庄城へ移り、三姉妹も越前へ移る。勝家は羽柴秀吉と敵対し、天正11年(1583年)には賤ヶ岳の戦いで北ノ庄城が落城、市は勝家共々自害する。江ら三姉妹は北ノ庄を脱出して秀吉により保護されたとされる(『以貴小伝』)、また三姉妹を保護したのは秀吉ではなく織田信雄とも言われている。
 この頃、江は秀吉の意向により、尾張国知多郡大野領主で信長の次男・織田信雄の家臣であり、従兄にあたる佐治一成のもとへ嫁いだという(『太閤素生記』・『柳営婦女伝系』・『玉輿記』)。 佐治氏は、一成の父・佐治信方が信長の妹(お犬の方)を室とした織田一族で、秀吉は清洲会議後に尾張を領有した信雄の懐柔を意図していたという。
 江と一成の婚姻時期・事情については記録が見られないが、天正12年(1584年)に秀吉は小牧・長久手の戦いで徳川家康・織田信雄と戦い、信雄方の一成は戦後に大野を追放され、江とも離縁したといわれる経緯から、同年初めに想定されている。小牧・長久手に於ける一成の動向などは『柳営婦女伝系』『以貴小伝』『玉輿記』などに記され、一成は家康に渡船を提供した佐屋の渡一件により秀吉の怒りを買い、追放されたという。また、一成は信雄家臣で秀吉に内通した星崎城主・岡田重孝に加担して信雄に追放されたとする説もある。
 文書上に於いては小牧・長久手以降にも一成の名は見られるものの、天正13年(1585年)作と推定される『織田信雄分限帳』においては一成の名が見られず、小牧・長久手後の論功行賞に於いて一成は大野を追放されたと考えられている。
 一方で、近世の鳥取池田家に伝来する佐治氏の由緒書には、婚姻を信長存命時の天正2年(1574年)としている。同年には一成の父・信方が戦死し信方戦死後にお犬の方は織田家に戻って他家へ再嫁していることから、江と一成の婚姻は信長の意向により織田家と佐治氏の関係を修復する意図であった可能性も考えられており、また婚約のみで実際に嫁いでなかったとする説もある。
 上記の説以外にも、江を佐治一成に嫁がせたのは秀吉ではなく、織田信雄であったとする指摘もある。
 (豊臣秀勝への再嫁)
 その後、秀吉の実の甥で養子の丹波国亀山城主(京都府亀岡市)・豊臣秀勝の元へ嫁ぐ。秀勝への再嫁時期は不明である。『兼見卿記』の天正13年10月20日条によると、同年10月18日頃に秀勝に嫁いだと記されているが、通説はこれに否定的である。それは織田信長の子で秀吉の養子になっていた羽柴秀勝が天正13年12月に没していて、その後継者とされる豊臣秀勝が羽柴秀勝存命中に「秀勝」を名乗り出ることはない、と考えられているためである。そのため、秀勝が秀吉の養子となった天正14年(1586年)以降、または文禄元年(1592年)もしくは天正19年(1591年)3月から文禄元年(1592年)2月24日までの間と考えられている。しかし、豊臣秀勝も天正13年9月時点で既に「秀勝」を名乗っていたことを示す文書が複数残されており、2人の「秀勝」が併存していた時期があるとして、天正13年10月の婚姻で間違いないとする説も出されている。更に近年の新説として、豊臣秀勝はあくまでも秀吉の甥であり、秀吉と養子縁組をしたことや羽柴秀勝の後継者となったことを裏付ける史料は存在せず、偶々秀吉の身内に「秀勝」と称する人物が被ってしまった以上の意味は存在しない、とする見解も存在する。なお、この頃には茶々は秀吉の側室、初は京極高次正室となっていると考えられている。
 秀勝は秀吉の統一事業に従って九州征伐、小田原征伐に従軍し戦功を挙げた、天正18年(1590年)11月には徳川家康の関東移封に伴い、徳川家旧領であった甲斐・信濃を与えられている。翌天正19年(1591年)には岐阜に転封となっているが、江は京都聚楽第の秀勝の屋敷に居住し、甲府や岐阜へは赴いていないと考えられている。秀勝は文禄元年(1592年)に秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に従軍し、在陣中の同年9月に朝鮮国の巨済島において病死している。秀勝と江の間には娘の完子(幼名不詳)がおり、生年は不詳であるが、文禄元年か翌年中であると考えられている。完子は茶々の猶子として引き取られ、同格の摂関家である九条家に嫁いでいる。また、織田秀信の正室が秀勝の娘と伝えられており、秀勝と江の婚姻時期が天正13年説を採用した場合、天正15年頃に完子の姉にあたり後に秀信に嫁いだ女性を産んでいた可能性、もしくは完子自身がその頃の生まれで一旦秀信に嫁いだものの、関ヶ原の戦い後に秀信と離縁して九条家に嫁いだ可能性があるとする指摘もある。

 (徳川秀忠への再嫁から晩年)

 文禄4年(1595年)9月17日には伏見において徳川家康の嗣子である秀忠に再嫁する。秀忠は天正18年(1590年)に上洛し、織田信雄の娘で秀吉の養女である小姫と縁組をしていたが、小姫の死去により婚礼には至らなかった。秀忠との間には慶長2年(1597年)の千姫を頭に家光・忠長、和子など2男5女を儲けた。
 慶長5年(1600年)、豊臣秀頼が摠見寺の堂宇を増築し、織田信長廟を安土城天主跡に造営しているが、その後、江が西尾隠岐守義次に造営を命じている。

 大坂の陣では豊臣家が滅亡して姉の淀殿を失う。元和2年5月7日に養源院で淀殿・秀頼の菩提を弔う。淀殿が父・浅井長政の供養のために建立したこの養源院が、元和5年(1619年)に火災で焼失すると、江の願いで元和7年(1621年)に幕府が再建している。寛永3年(1626年)9月15日、江戸城西の丸で死去、享年54。法名は「崇源院殿昌譽和興仁淸大禪定尼」。この時、秀忠・家光・忠長は上洛中であった。11月28日、従一位を追贈される。

 死後は長男・家光によって増上寺(東京都港区)に埋葬された。
京都市左京区黒谷町の金戒光明寺には宝篋印塔があり、碑銘には「崇源院殿一品大夫人昌譽仁淸」。和歌山県高野町の金剛峰寺には、五輪塔があり、碑銘には「崇源院殿一品大夫人昌譽大禪定尼」。また同寺院には六角宝塔内卵塔もあり、碑銘には「崇源院殿源夫人昌譽大姉」とある。

 江が嫉妬深いと書かれている史料は確かに存在する。しかしながら、それは静(浄光院)による幸松(後の保科正之)の為の安産祈願文(静本人が書いたは不明)と、その保科正之を主とする会津藩史である為、江との関係性を考えるとどちらも信憑性が高いとは言いきれないのだ。

 徳川将軍御台所(正室)で将軍生母となったのは、崇源院だけである。
 伝存史料から、江が次男の国松を一方的に可愛がり、長男の竹千代を粗末に扱ったというような具体的な証拠は存在しない。 
 ましてや国松に将軍位を継がせようとした一次史料は伝存しない。それどころか傍証史料さえ見当たらない。『藩翰請』などにそうした記事がみえてはいるが、それは江ではなく父秀忠を指したものである。江に対する非難は、かなり作為的な偏見であり、流言飛語の類とみなさざるをえない。しかし一方で、国松の方を過度に愛情を向けていたのは事実とされる記録も少なからずあり、またそれを憂慮した義父の家康から、竹千代と国松の扱いに関する訓戒状を渡されたともされている。

 戦後、鈴木尚氏が中心となって行われた増上寺の徳川家墓所発掘調査の際に、崇源院の墓も発掘され、その遺骨も調査された。その調査報告によると、崇源院は火葬にされており、父・浅井長政、母・お市の方、長姉・淀殿らがおそらくは長身であったと推察されるのと異なり、江は生前は小柄で華奢な女性であったようである。特に注目されるのは、上腕骨には、肘の関節に肘頭孔という小孔がみられた。この小孔は、普通の日本人にはなく、どちらかというと華奢な体型をもった人に現れるものである。ちなみに、増上寺に葬られた将軍一門で荼毘に付されていたのは崇源院だけであった。
 上記の内容は史実である。
 しかし、私はこの物語に於いてはこのお江与の方を怨霊として登場させている。
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