21 / 76
第二十一章
しおりを挟む
蓬莱は山なのか、島なのか?
蓬莱とは、古代中国で東の海上にある仙人が住むといわれていた仙境の一つ。道教の流れを汲む神仙思想のなかで説かれたものである。
また、四霊の一角となる小さな大陸に等しい巨大な亀・霊亀が背負っていた山ともされている。
または台湾を指すとされる。台湾は、「蓬莱仙島」と中国語で呼ばれる自称がある。
『山海経』における記述である。
(注釈)
山海経は、中国大陸で書かれた地理書。戦国時代から秦朝・漢代(前4世紀 - 3世紀頃)にかけて徐々に付加執筆されて成立したものと考えられており、最古の地理書(地誌)とされる。
『山海経』は今日的な地理書ではなく、古代中国人の伝説的地理認識を示すものであり、「奇書」扱いされている
編者は禹およびその治水を助けた伯益であると序などに仮託されているが、実際は多数の著者の手によるものと考えられる
内容のほとんどは各地の動物、植物、鉱物などの産物を記すが、その中には空想的なものや妖怪、神々の記述も多く含まれ、そこに古い時代の中国各地の神話が伝えられていると考えられている
そのため、古代中国の自然観や中国神話の重要な基礎資料となっている
もともとは、絵地図に解説文の組み合わせで構成され、『山海図経』と呼ばれていたが、古い時代に既に絵地図も失われた。そのため、現在残されている画像は『山海経』本文にある文章から逆算された後世の想像によるものであり、伝来する系統によって全く違う画像となっているものも存在している。
また、本文も当初そのままのものは伝来してはおらず、後世に編集・再構成が施されているため、各所各所で復元のされていない箇所、再構成によって方位など文意の不明確な箇所も存在している(脱簡・錯簡が起こってしまっている)。五蔵山経(南山経から中山経の5巻)では本文中にその巻に登場した山の数、距離を合計して何里あるかを示す文章が登場しているが、おおよそ本文に示されている山の数・距離と計算が合っていない。これは復元されずに消滅してしまった文章が存在しているためであると考えられている
構成している総編数・総巻数には時代によって異同があり、劉歆が漢室にたてまつった際には伝わっていた32編を校訂して18編としたとされている。『漢書』「芸文志」では13編。『隋書』「経籍志」や『新唐書』「芸文志」では23巻、『旧唐書』「経籍志」では18巻。『日本国見在書目録』では21巻としている。現行本は、西晋の郭璞(かくはく)の伝を付しており、5部18巻となっている。
河南省の洛陽近郊を中心として叙述されている五蔵山経は、時代を追って成立した本書の中でも最古の成立であり[注 1]、儒教的な傾向を持たない中国古代の原始山岳信仰を知る上で貴重な地理的資料となっている。地理学者・小川琢治は、洛陽を中心としている点・後の儒学者たちが排除した伝説や鬼神の多く登場する点・西王母が鬼神のような描写である点から、五蔵山経の部分の成立は東周の時代ではないかと推定をしている
日本には9世紀末には伝来し、江戸時代に入ると、1670年(寛文10年)に刊本として刊行され
それ以後、何度か和刻本が刊行され、戯作の素材としても用いられた
中国最古の地理書『山海経』の「海内北経」に、「蓬莱山は海中にあり、大人の市は海中にあり」と記されている
「市」とは蜃気楼のことで、九州や中部地方の日本海側ではしばしば目撃されるが、山東省煙台市の蓬莱区(旧蓬莱県)も蜃気楼の名所として古来より有名である
渤海湾に面した山東半島のはるか東方の海(渤海とも言われる)にあり、不老不死の仙人が住むと伝えられている。徐福伝説を記した司馬遷『史記』巻百十八「淮南衡山列伝」で記されている。
蓬莱は「方丈•瀛洲とともに東方の海に浮かぶ三つの山(もしくは島)であり、その中では「方丈」が中央に位置し、まとめて「三神山」という。三神山はまた「三壷」ともいい、それぞれ「蓬壷」「方壷」「瀛壷」ともいう。
瀛洲は「東瀛」ともいう。蓬莱がのちに日本を指す名前となったように「瀛洲」や「東瀛」も日本を指すことがある[3]。北魏の太和11年(487年)「瀛州」は行政区分として制定される。
三神山の他にも「岱輿」」と「員嶠」があり、かつては「五神山」だったのだがこの二つは流れて消えてしまって三神山になったのだという伝説もある。
ー日本における蓬萊ー
日本では浦島伝説の一つ『丹後国風土記』逸文では「蓬山」と書いて「とこよのくに」と読み、文脈にも神仙などの用語が出てくること、田道間守の話や他の常世国伝承にも不老不死など神仙思想の影響が窺えることから理想郷の伝承として海神宮などと習合したとも思われる。
平安時代に、僧侶の寛輔が、「蓬莱山」とは富士山を指すと述べた
『竹取物語』にも、「東の海に蓬莱という山あるなり」と記される
求婚者の一人の車持皇子に難題として「蓬莱の玉の枝」を採取して持参することが課せられ、この玉の枝を巡る話が物語の一章をなす。また、富士山と結び付けられて言及されることがあり、謡曲の一つ『富士山』には「然れば本号は不死山なりしを。郡の名に寄せて。富士の山とは申すなり。是蓬莱の。仙境たり」とあり、林羅山は「士峰元是小蓬莱」と詩に詠んだ
ほか、熊野、熱田などの霊山や仙境を蓬莱と呼ぶ
ー蓬莱島ー
日本は平和文化的に見ると洵に優れた国であると常に思っているが、それに就いて気の付いた事を少し書いてみよう。私は美術品が好きで若い頃から機会ある毎に、そういう方面に事情の許す限り心を寄せて来た。今日と雖も見たり、娯しんだり、研究したりしているが、驚くべきことは、世界中の美術品の殆どの種類は、日本に集まっているといってもいい。その中で特に言いたい事は、支那の美術品が多く蒐集《しゅうしゅう》されていている事である。
処で、お隣である中国はどうであろうか?
春秋戦国時代は、中国史において紀元前770年に周が都を洛邑へ移してから、紀元前221年に秦が中国を統一するまでの時代である。この時代の周が東周と称されることから、東周時代と称されることもある。
紀元前403年に晋が韓・魏・趙の三国に分裂する前を春秋時代、それ以降を戦国時代と分けることが多い。この時代を「周の統一時代が終わって分裂状態になり、最後に秦によって再統一された」とする解釈があるが、秦が統一した領域は周が影響力を及ぼした領域よりも広い。他にも南の楚は元々は自ら王号を称える自立した国であった。また東・北についても斉や晋などの国により領域が拡大された。
周辺部だけではなく、内地に関しても大きな変化が起こった。春秋時代の半ば頃まではそれぞれの邑が国内に点在し、その間の土地は必ずしもその国の領域に入っている訳ではなく、周(もしくは周の諸侯)に服属しない異民族が多数存在していた。しかし時代が下るにつれ、そうした点と線の支配から面の支配へと移行していった。
政治制度においても、それまでの封建制から郡県制へと移行する段階にあり、思想においても諸子百家(注釈1)と呼ばれる思想家たちが登場し、様々な新しい思想が形作られた。
なお、春秋戦国時代の名称は、孔子の『春秋』と劉向の『戦国策』にちなむ。
(注釈1)
諸子百家とは中国の春秋戦国時代に現れた学者•学派の総称。諸子は孔子・老子・荘子・墨子・孟子・荀子などの人物を指す。百家は儒家・道家・墨家・名家・法家などの学派を指す言葉である。
さて、蓬莱島の話である。
人間の寿齢のことである。神武天皇以前は兎も角として、以後でさえ普通一般の人間は百歳以上の寿齢を保っていたことは文献等を見ればわかる。とすれば病などなかったに違いない。何故なら今のような食品添加物や、防腐剤などが食品に使われてなかったし、有害な排ガスや廃液を工場の外に撒き散らしていなかったからだ。
かの有名な秦の始皇帝が臣徐福に命じ、「東海に蓬莱島あり」、「その島の人間は非常に長寿であるらしい。だからして定めし良い薬があるに
違いない。臣徐福よ。お前がその国を探して来い。わしの処にその薬を持ち帰ってこ」
遥々日本に渡来されたということである。臣徐福は日本へ上陸し、日本の何処を探してもそのようにな薬がなかったのだ。彼は失望したが本国に帰ることが出来なかった。日本にそのまま滞留して日本の地に骨を埋めた。今も和歌山に彼の墓がある。このことは確実であろう。以上簡単にご説明したが、当時の日本人は悉く無病で、百歳以上の寿齢を保つことが出来、世界中の美術品が豊富にあり、山水の自然美に富めるとしたら、これが東海の蓬莱島と言わずしてなんであろう。と言って喜ぶのはまだ、早過ぎる。何となればその上に犯罪者がいなくなり、食料の自給自足が出来、戦争の心配が無くなってこそ、初めて真の蓬莱島であると、言えるであろう。
私は断言する。今まで申し上げたことはそれ程難しい事ではない。
どういうことであるかと、言えば日月神示の教えを実行すればいいからだ。簡単なことだ。
蓬莱とは、古代中国で東の海上にある仙人が住むといわれていた仙境の一つ。道教の流れを汲む神仙思想のなかで説かれたものである。
また、四霊の一角となる小さな大陸に等しい巨大な亀・霊亀が背負っていた山ともされている。
または台湾を指すとされる。台湾は、「蓬莱仙島」と中国語で呼ばれる自称がある。
『山海経』における記述である。
(注釈)
山海経は、中国大陸で書かれた地理書。戦国時代から秦朝・漢代(前4世紀 - 3世紀頃)にかけて徐々に付加執筆されて成立したものと考えられており、最古の地理書(地誌)とされる。
『山海経』は今日的な地理書ではなく、古代中国人の伝説的地理認識を示すものであり、「奇書」扱いされている
編者は禹およびその治水を助けた伯益であると序などに仮託されているが、実際は多数の著者の手によるものと考えられる
内容のほとんどは各地の動物、植物、鉱物などの産物を記すが、その中には空想的なものや妖怪、神々の記述も多く含まれ、そこに古い時代の中国各地の神話が伝えられていると考えられている
そのため、古代中国の自然観や中国神話の重要な基礎資料となっている
もともとは、絵地図に解説文の組み合わせで構成され、『山海図経』と呼ばれていたが、古い時代に既に絵地図も失われた。そのため、現在残されている画像は『山海経』本文にある文章から逆算された後世の想像によるものであり、伝来する系統によって全く違う画像となっているものも存在している。
また、本文も当初そのままのものは伝来してはおらず、後世に編集・再構成が施されているため、各所各所で復元のされていない箇所、再構成によって方位など文意の不明確な箇所も存在している(脱簡・錯簡が起こってしまっている)。五蔵山経(南山経から中山経の5巻)では本文中にその巻に登場した山の数、距離を合計して何里あるかを示す文章が登場しているが、おおよそ本文に示されている山の数・距離と計算が合っていない。これは復元されずに消滅してしまった文章が存在しているためであると考えられている
構成している総編数・総巻数には時代によって異同があり、劉歆が漢室にたてまつった際には伝わっていた32編を校訂して18編としたとされている。『漢書』「芸文志」では13編。『隋書』「経籍志」や『新唐書』「芸文志」では23巻、『旧唐書』「経籍志」では18巻。『日本国見在書目録』では21巻としている。現行本は、西晋の郭璞(かくはく)の伝を付しており、5部18巻となっている。
河南省の洛陽近郊を中心として叙述されている五蔵山経は、時代を追って成立した本書の中でも最古の成立であり[注 1]、儒教的な傾向を持たない中国古代の原始山岳信仰を知る上で貴重な地理的資料となっている。地理学者・小川琢治は、洛陽を中心としている点・後の儒学者たちが排除した伝説や鬼神の多く登場する点・西王母が鬼神のような描写である点から、五蔵山経の部分の成立は東周の時代ではないかと推定をしている
日本には9世紀末には伝来し、江戸時代に入ると、1670年(寛文10年)に刊本として刊行され
それ以後、何度か和刻本が刊行され、戯作の素材としても用いられた
中国最古の地理書『山海経』の「海内北経」に、「蓬莱山は海中にあり、大人の市は海中にあり」と記されている
「市」とは蜃気楼のことで、九州や中部地方の日本海側ではしばしば目撃されるが、山東省煙台市の蓬莱区(旧蓬莱県)も蜃気楼の名所として古来より有名である
渤海湾に面した山東半島のはるか東方の海(渤海とも言われる)にあり、不老不死の仙人が住むと伝えられている。徐福伝説を記した司馬遷『史記』巻百十八「淮南衡山列伝」で記されている。
蓬莱は「方丈•瀛洲とともに東方の海に浮かぶ三つの山(もしくは島)であり、その中では「方丈」が中央に位置し、まとめて「三神山」という。三神山はまた「三壷」ともいい、それぞれ「蓬壷」「方壷」「瀛壷」ともいう。
瀛洲は「東瀛」ともいう。蓬莱がのちに日本を指す名前となったように「瀛洲」や「東瀛」も日本を指すことがある[3]。北魏の太和11年(487年)「瀛州」は行政区分として制定される。
三神山の他にも「岱輿」」と「員嶠」があり、かつては「五神山」だったのだがこの二つは流れて消えてしまって三神山になったのだという伝説もある。
ー日本における蓬萊ー
日本では浦島伝説の一つ『丹後国風土記』逸文では「蓬山」と書いて「とこよのくに」と読み、文脈にも神仙などの用語が出てくること、田道間守の話や他の常世国伝承にも不老不死など神仙思想の影響が窺えることから理想郷の伝承として海神宮などと習合したとも思われる。
平安時代に、僧侶の寛輔が、「蓬莱山」とは富士山を指すと述べた
『竹取物語』にも、「東の海に蓬莱という山あるなり」と記される
求婚者の一人の車持皇子に難題として「蓬莱の玉の枝」を採取して持参することが課せられ、この玉の枝を巡る話が物語の一章をなす。また、富士山と結び付けられて言及されることがあり、謡曲の一つ『富士山』には「然れば本号は不死山なりしを。郡の名に寄せて。富士の山とは申すなり。是蓬莱の。仙境たり」とあり、林羅山は「士峰元是小蓬莱」と詩に詠んだ
ほか、熊野、熱田などの霊山や仙境を蓬莱と呼ぶ
ー蓬莱島ー
日本は平和文化的に見ると洵に優れた国であると常に思っているが、それに就いて気の付いた事を少し書いてみよう。私は美術品が好きで若い頃から機会ある毎に、そういう方面に事情の許す限り心を寄せて来た。今日と雖も見たり、娯しんだり、研究したりしているが、驚くべきことは、世界中の美術品の殆どの種類は、日本に集まっているといってもいい。その中で特に言いたい事は、支那の美術品が多く蒐集《しゅうしゅう》されていている事である。
処で、お隣である中国はどうであろうか?
春秋戦国時代は、中国史において紀元前770年に周が都を洛邑へ移してから、紀元前221年に秦が中国を統一するまでの時代である。この時代の周が東周と称されることから、東周時代と称されることもある。
紀元前403年に晋が韓・魏・趙の三国に分裂する前を春秋時代、それ以降を戦国時代と分けることが多い。この時代を「周の統一時代が終わって分裂状態になり、最後に秦によって再統一された」とする解釈があるが、秦が統一した領域は周が影響力を及ぼした領域よりも広い。他にも南の楚は元々は自ら王号を称える自立した国であった。また東・北についても斉や晋などの国により領域が拡大された。
周辺部だけではなく、内地に関しても大きな変化が起こった。春秋時代の半ば頃まではそれぞれの邑が国内に点在し、その間の土地は必ずしもその国の領域に入っている訳ではなく、周(もしくは周の諸侯)に服属しない異民族が多数存在していた。しかし時代が下るにつれ、そうした点と線の支配から面の支配へと移行していった。
政治制度においても、それまでの封建制から郡県制へと移行する段階にあり、思想においても諸子百家(注釈1)と呼ばれる思想家たちが登場し、様々な新しい思想が形作られた。
なお、春秋戦国時代の名称は、孔子の『春秋』と劉向の『戦国策』にちなむ。
(注釈1)
諸子百家とは中国の春秋戦国時代に現れた学者•学派の総称。諸子は孔子・老子・荘子・墨子・孟子・荀子などの人物を指す。百家は儒家・道家・墨家・名家・法家などの学派を指す言葉である。
さて、蓬莱島の話である。
人間の寿齢のことである。神武天皇以前は兎も角として、以後でさえ普通一般の人間は百歳以上の寿齢を保っていたことは文献等を見ればわかる。とすれば病などなかったに違いない。何故なら今のような食品添加物や、防腐剤などが食品に使われてなかったし、有害な排ガスや廃液を工場の外に撒き散らしていなかったからだ。
かの有名な秦の始皇帝が臣徐福に命じ、「東海に蓬莱島あり」、「その島の人間は非常に長寿であるらしい。だからして定めし良い薬があるに
違いない。臣徐福よ。お前がその国を探して来い。わしの処にその薬を持ち帰ってこ」
遥々日本に渡来されたということである。臣徐福は日本へ上陸し、日本の何処を探してもそのようにな薬がなかったのだ。彼は失望したが本国に帰ることが出来なかった。日本にそのまま滞留して日本の地に骨を埋めた。今も和歌山に彼の墓がある。このことは確実であろう。以上簡単にご説明したが、当時の日本人は悉く無病で、百歳以上の寿齢を保つことが出来、世界中の美術品が豊富にあり、山水の自然美に富めるとしたら、これが東海の蓬莱島と言わずしてなんであろう。と言って喜ぶのはまだ、早過ぎる。何となればその上に犯罪者がいなくなり、食料の自給自足が出来、戦争の心配が無くなってこそ、初めて真の蓬莱島であると、言えるであろう。
私は断言する。今まで申し上げたことはそれ程難しい事ではない。
どういうことであるかと、言えば日月神示の教えを実行すればいいからだ。簡単なことだ。
10
あなたにおすすめの小説
神典日月神示 真実の物語
蔵屋
歴史・時代
私は二人の方々の神憑りについて、今から25年前にその真実を知りました。
この方たちのお名前は
大本開祖•出口なお(でぐちなお)、
神典研究家で画家でもあった岡本天明(おかもとてんめい)です。
この日月神示(ひつきしんじ)または日尽神示(ひつくしんじ)は、神典研究家で画家でもあった岡本天明(おかもとてんめい)に「国常立尊(国之常立神)という高級神霊からの神示を自動書記によって記述したとされる書物のことです。
昭和19年から27年(昭和23・26年も無し)に一連の神示が降り、6年後の昭和33、34年に補巻とする1巻、さらに2年後に8巻の神示が降りたとされています。
その神示を纏めた書類です。
私はこの日月神示(ひつきしんじ)に出会い、研究し始めてもう25年になります。
日月神示が降ろされた場所は麻賀多神社(まかたじんじゃ)です。日月神示の最初の第一帖と第二帖は第二次世界大戦中の昭和19年6月10日に、この神社の社務所で岡本天明が神憑りに合い自動書記さされたのです。
殆どが漢数字、独特の記号、若干のかな文字が混じった文体で構成され、抽象的な絵のみで書記されている「巻」もあります。
本巻38巻と補巻1巻の計39巻が既に発表されているが、他にも、神霊より発表を禁じられている「巻」が13巻あり、天明はこの未発表のものについて昭和36年に「或る時期が来れば発表を許されるものか、許されないのか、現在の所では不明であります」と語っています。
日月神示は、その難解さから、書記した天明自身も当初は、ほとんど読むことが出来なかったが、仲間の神典研究家や霊能者達の協力などで少しずつ解読が進み、天明亡き後も妻である岡本三典(1917年〈大正6年〉11月9日 ~2009年〈平成21年〉6月23日)の努力により、現在では一部を除きかなりの部分が解読されたと言われているます。しかし、一方では神示の中に「この筆示は8通りに読めるのであるぞ」と書かれていることもあり、解読法の一つに成功したという認識が関係者の間では一般的です。
そのために、仮訳という副題を添えての発表もありました。
なお、原文を解読して漢字仮名交じり文に書き直されたものは、特に「ひふみ神示」または「一二三神示」と呼ばれています。
縄文人の祝詞に「ひふみ祝詞(のりと)」という祝詞の歌があります。
日月神示はその登場以来、関係者や一部専門家を除きほとんど知られていなかったが、1990年代の初め頃より神典研究家で翻訳家の中矢伸一の著作などにより広く一般にも知られるようになってきたと言われています。
この小説は真実の物語です。
「神典日月神示(しんてんひつきしんじ)真実の物語」
どうぞ、お楽しみ下さい。
『神知りて 人の幸せ 願うのみ
神のつたへし 愛善の道』
歌人 蔵屋日唱
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
BL 男達の性事情
蔵屋
BL
漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。
漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。
漁師の仕事は多岐にわたる。
例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。
陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、
多彩だ。
漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。
漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。
養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。
陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。
漁業の種類と言われる仕事がある。
漁師の仕事だ。
仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。
沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。
日本の漁師の多くがこの形態なのだ。
沖合(近海)漁業という仕事もある。
沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。
遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。
内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。
漁師の働き方は、さまざま。
漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。
出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。
休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。
個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。
漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。
専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。
資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。
漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。
食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。
地域との連携も必要である。
沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。
この物語の主人公は極楽翔太。18歳。
翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。
もう一人の主人公は木下英二。28歳。
地元で料理旅館を経営するオーナー。
翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。
この物語の始まりである。
この物語はフィクションです。
この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助
蔵屋
歴史・時代
わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。
何故、甲斐国なのか?
それは、日本を象徴する富士山があるからだ。
さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。
そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。
なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。
それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。
読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。
神戸三宮割烹料理 武田 女料理人物語
蔵屋
キャラ文芸
神戸北野にある活きた食材の調理をカウンター越しに楽しむことが出来る。特別な日に大切な方と一緒に日本料理の味を楽しむ。
割烹武田は神戸ならではの鮮魚と神戸牛を中心とした旬の高級食材を使用している。
都会の喧騒を離れ、ゆったり美味しい食事を愉しむことが出来る。
情緒溢れる佇まいで店内に入ると洗練された上質な和の空間が広がる。
カウンター席からは今までの神戸にはない全く新しいダイナミックで繊細な調理の様子も愉しんむことが出来るのだ。
この小説は、実際に神戸北野にある割烹武田をモデルに私が脚色した物語である。
この物語に登場する人物、団体など、同一の物があっても一切関係ありません。但し、割烹武田は、実際に神戸北野で営業されています。
プロローグでご紹介している内容は、全て真実です。
割烹武田のweb上から引用しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる