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第一巻
しおりを挟む大化の改新から律令国家へ
大化の改新は、645年に中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を打倒した乙巳の変に始まる一連の政治改革であった。この改革により、豪族中心の政治から天皇中心の政治へと移行し、中央集権国家の基盤が築かれたのだ。
7世紀半ば、中国大陸では唐が強大な勢力を築き、朝鮮半島情勢も不安定であった。このような国際情勢の中、日本国内では蘇我氏が権力を握り、天皇家の力をしのぐほどになっていた。中大兄皇子と中臣鎌足は、唐に対抗できる強い国を作るため、天皇中心の国家体制を目指し、蘇我氏打倒を計画したのだ。
「もう現界ぞ。鎌足、いつやる。いつ蘇我入鹿を討つのじょ。」
「朝鮮からの特使が来訪した時に決行しましょう。」
中大兄皇子と中臣鎌足の密談で決着がついた。乙巳の変である。
645年6月12日、中大兄皇子と中臣鎌足らは、飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を暗殺した。こ乙巳の変により蘇我氏は滅亡したのである。
乙巳の変の翌年、646年に「改新の詔」が発布された。これにより、新たな改革が打ち出された。
その新たな改革とは、次の通りである。
一つ目は公地公民制である。土地と人民はすべて天皇の所有とする。
二つ目は地方行政組織の整備であった。国・郡・里の行政区分を設ける。
三つ目は、戸籍・計帳の作成をする。人民を把握し、税を徴収する基礎とする。
四つ目は班田収授法を定める。6歳以上の人民に口分田を貸し与え、死後に国に返却させる。
五つ目は租・庸・調の税制を定める。米、麻布、絹などを税として納めさせる。
大化の改新は、日本で初めての元号「大化」を定めたことでも知られている。これは、中国王朝の支配下から脱し、独立した国家であることを示す強い意志が込められていた。この改革は、後の律令国家の出発点となり、日本の国家形成に於いて大きな転換点となったのだ。
大化の改新から次に近江令が定められた。
近江令は、飛鳥時代の天智天皇の治世に制定されたとされる全22巻の法令体系である。日本で最初の体系的な法典と考えられている。原本は現存せず、その存在については歴史学者の間で議論が続いている。
この近江令は、天智天皇の命により藤原鎌足らが編纂したとされ、668年(天智7年)に制定、670年または671年までに施行されたとされている。律(刑法)は含まれず、令(行政法)のみで構成されていたと考えられている。
『藤氏家伝』や『弘仁格式』序に、天智天皇が668年に令22巻を制定したという記述がある。
670年に作成された日本初の全国的な戸籍である庚午年籍は、近江令の規定に基づいて作成されたと言われている。しかし、
非存在説もある。
近江朝の時代に近い『日本書紀』には近江令に関する記述が見られないことが、非存在説の根拠の一つだと言われている。
原本が現存せず、その内容も不明な点が多いことから、存在を否定する説もあるのだ。
近江令は、672年の壬申の乱で近江朝廷が滅亡した際に廃止されたとする意見もある。
日本の律令法典としては、近江令の後に飛鳥浄御原令、大宝律令、養老律令などが次々と制定されたのである。
飛鳥浄御原令は、689年に持統天皇によって施行された、日本で最初の体系的な法典である。律令のうち「令」(行政法・民法)のみで構成され、全22巻からなっていた。
この飛鳥浄御原令は、天武天皇の命により681年に編纂が始まり、天武天皇の死後、持統天皇がその意志を継いで施行した法典である。日本の律令制度の基礎となり、後の大宝律令へとつながる重要な法典である。
天武天皇が壬申の乱(672年)に勝利し即位した後、法整備を進める中で編纂が開始された。奈良県明日香村の飛鳥浄御原宮で制定されたとされている。
飛鳥浄御原令と大宝律令の最も大きな違いは、「律」(刑法)の有無である。
飛鳥浄御原令は「令」のみ(行政法・民法)
大宝律令は「律」と「令」の両方(刑法・行政法・民法)を定めた。
飛鳥浄御原令は現存しておらず、詳細は不明な点が多い。しかし戸籍作成や班田収授の基礎がこの時に築かれたと考えられている。官人の遷任や戸籍作成の起点となるなど、日本の律令制成立過程において画期的な役割を果たしたのだ。
その後飛鳥浄御原令は、急遽施行されたため未完成な部分もあり、律令の編纂作業はその後も継続されました。日本の律令制度は、飛鳥浄御原令から大宝律令、そして養老律令へと発展していったのだ。
律令国家は、主に7世紀後半から10世紀頃までの日本を指し、中国の律令制度を参考にして作られた中央集権的な法治国家であった。大宝律令が制定された701年から約200年間続いたのだ。
律令国家とは、法律(律)と統治の仕組み(令)に基づいて、天皇を頂点とする中央集権的な政治体制を整えた国家のことである。現代の「法治国家」の元祖とも言えるものだ。
律令国家の成立は、645年の大化の改新がきっかけであった。白村江の戦いでの敗北後、唐に対抗するため、強力な国家体制の実現を目指す必要があった。天智天皇の治世である。
中国の隋や唐の律令制度をモデルに、日本独自の律令が定められたのだ。
律は罪と刑罰について定めた、現在の刑法にあたるものである。
令は行政の枠組みや政治の仕組みについて定めた、現在の民法・商法・行政法などにあたるものだ。
日本で制定された主な律令には以下のものがあります。
近江令は668年完成とされたと言われているが存在には諸説ある。
飛鳥浄御原令は689年に施行された。
大宝律令は701年に制定・施行され、律令国家の基本法となったものだ。
養老律令は718年頃に作られ、757年に施行された。
律令国家が最も機能したのは、奈良時代前半の約100年間だ。しかし、平安時代には徐々にその体制が崩れていく。
律令国家では、土地と人民は国家が支配する「公地公民」が原則である。戸籍や計帳を作成し、人民から税(租・庸・調など)を徴収したのだ。
さて、大宝律令は、701年(大宝元年)に制定された日本の律令。「律」6巻、「令」11巻の全17巻。唐の律令を参考にしたと考えられている。
大宝律令の意義に挙げられるのは、中国(唐)の方式が基準の制度への転換にある。
冠位十二階の制度は、当初は徳目をあらわす漢字で個々の官位を示していたが、数値で上下関係を示す中国式に替わっている。また評も、中国で地方行政組織の名称に使われてきた郡に用字を替えている。
遣隋使の派遣以来、7世紀の間に100年ほどの歳月をかけて蓄積した中国文明への理解によって、朝鮮半島経由の中国文明ではない、同時代の中国に倣うための準備が可能になってきていたことを意味する。
大宝律令は、日本の国情に合致した律令政治の実現を目指して編纂された。刑法にあたる6巻の「律(りつ)」はほぼ唐律をそのまま導入しているが、現代の行政法および民法などにあたる11巻の「令(りょう)」は唐令に倣いつつも日本社会の実情に則して改変されている。
この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省(神祇官、太政官 - 中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省)の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。役所で取り扱う文書には元号を使うこと、印鑑を押すこと、定められた形式に従って作成された文書以外は受理しないことなど文書と手続きの形式を重視した文書主義が導入されたのだ。
また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ(国郡里制)、中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていた。
罪を犯した者への罰である。
笞…ち:竹のムチで10~50回打たれる
杖…じょう:ツエで60~100回打たれる
徒…ず:1~3年の懲役
流…る:遠方への追放
死…し:死刑が刑罰であった。
大宝律令の原文は現存しておらず、一部が逸文として『続日本紀』や『令集解』古記などの他文献に残存している。
757年に施行された養老律令はおおむね大宝律令を継承しているとされており、養老律令を元にして大宝律令の復元が行われている。
大宝令と養老令の編目の順序は異なっていたと考えられているが、大宝令の編目順序は明らかでない。
日本最初の法律「大宝律令(たいほうりつりょう)」
「大宝律令(たいほうりつりょう)」は、大宝元年(701年)に制定された、日本の国づくりの原点ともいえる最初の本格的な法律です。
律は刑罰、令は政治や経済、教育、医療など国のしくみを定めたもので、この「大宝律令」によって、国の制度や役職、税、軍事、医療の仕組みまでが整えられました。
「大宝律令」の原文は、長い時の流れの中で失われ、現在ではその全文を知ることはできません。
しかし、その制度や内容は、のちに養老2年(718年)に整えられた「養老律令(ようろうりつりょう)」に受け継がれました。
お灸の原料である「よもぎ」については、この律令の中の「軍防令(ぐんぼうりょう)」に記されています。
軍のきまりを定めた「軍防令(ぐんぼうりょう)」
「軍防令」とは、軍事や防衛に関する制度を定めた章です。
兵士の装備や勤務のきまりなどが記され、当時の軍のしくみを知るうえで重要な記録とされています。
その中には、お灸の原料である「よもぎ」について記されています。
戦の必需品だった「よもぎ」「備戎具条(びじゅうぐじょう)」
兵士が携帯すべき武器や防具、日用品などの装備品について定められています。
具体的には、調理器具、斧、弓、矢、履物などが挙げられ、その中には、熟艾(やいぐさ)=乾燥させたよも
もぎも含まれており、火を起こすために用いられていました。
「よもぎ」は奈良時代の兵士にとって、戦で火を扱うための欠かせない必需品だったのです。
原文
“凡兵士。毎火。紺布幕一口。~省略~火鑽一具。熟艾一斤。手鋸一具。毎人。~省略~行軍之日。自盡將去。若上番年。唯將人別戎具。自外不須。”
「よもぎ」が伝えた煙の合図「放烟貯備条(ほうえんちょびじょう)」
煙を上げて合図を送るための準備として、艾(よもぎ)、藁(わら)、生柴(なまき)などを集め、それらを混ぜ合わせて煙を放つようにしておくことが定められています。
また、これらの材料を保管する場所では、むやみに人に火を使わせたり、野火が燃え移ることがないように注意することも記されています。
奈良時代には、「よもぎ」が医療だけでなく、軍事にも欠かせない大切なものだったことを物語っています。
原文
“凡放烟貯備者。須收艾。藁。生柴等。相和放烟。其貯藁柴等處。勿令浪人放火及野火延燒”
奈良時代にはすでに、お灸の原料であるよもぎが、火や煙を扱ううえで欠かせない重要な素材として重宝されていました。お灸のぬくもりの背景には、こうした古代の知恵とくらしの工夫が、今もなお息づいているのです。
養老律令(ようろうりつりょう)は、古代日本で757年(天平宝字元年)に施行された基本法令。構成は、律10巻12編、令10巻30編。大宝律令に続く律令として施行され、古代日本の政治体制を規定する根本法令として機能した。しかし、平安時代に入ると現実の社会・経済状況と齟齬をきたし始め、平安時代には格式の制定などによってこれを補ってきたが、平安中期までにほとんど形骸化した。廃止法令は特に出されず、形式的には明治維新期まで存続した[1]。制定内容の資料が未発見である大宝律令は、この養老律令から学者らが内容を推測して概要を捉えている。
成立
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701年(大宝元年)、藤原不比等らによる編纂によって大宝律令が成立したが、その後も不比等らは、日本の国情により適合した内容とするために、律令の撰修(改修)作業[2]を継続していた(「慶雲の改革」参照)。三代格式の弘仁格式によれば、718年(養老2年)に各10巻の律と令が藤原不比等により撰されている。ところが、720年(養老4年)の不比等の死により律令撰修はいったん停止することとなった。ただし、養老期には「大倭」と表記されていたはずの国名が「大和」に修正されているなど、いくつかの条文に天平以降の実情の反映が見られることから、その後も改訂の企てがあり、最終的に施行の際にその成果の一部が反映されたとの見方もある[3]。
その後、孝謙天皇の治世の757年5月、藤原仲麻呂の主導[4]によって720年に撰修が中断していた新律令が施行されることとなった。これが養老律令である。旧大宝律令と新養老律令では、一部(戸令など)に重要な改正もあったものの、全般的に大きな差異はなく、語句や表現、法令不備の修正が主な相違点であった。ただし、この通説に対しては近年において榎本淳一は大宝律令から養老律令への改正を一部唐風化による乖離を含むものの全体的には日本の実情に合わせた大規模な改正が行われ、養老律令によって内容・形式が整った法典が完成したとする新説[5]を唱え、以後両者の差異に関する議論も行われるようになった。
以後、桓武天皇の時代に養老律令の修正・追加を目的とした刪定律令(24条)・刪定令格(45条)の制定が行われたが短期間で廃止となり、以後日本において律令が編纂されることはなかった。
明治維新後、明治政府は1868年(明治元年)に「仮刑律」、1870年に「新律綱領」を制定した。律令のうち、律の部分のみ改正した法といえ、これは律令制への復古と、武家法、慣習法などを用いて実際の状況に対応する両方の面があった。
1873年の法改正、改定律例から、従来の慣例と異なるヨーロッパの刑法制の導入が始まり、1876年には、律から官吏の職務処分が切り離された。1880年(明治13年)に制定された旧刑法で、従来の「律」から、近代法制である「刑法」へ、用語面でも置き換わることになった。
復元と注釈
意義
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養老律令は、大宝律令と大きな相違点はないため、養老律令施行後もそれ以前と変わらない政治運営が行われたと見られ、律令制史上の大きな意義は特にないとされている。
養老律令の意義は、施行当時の政治状況と関連づけて理解される。養老律令は、撰修途中の律令であり、あえて施行する必要は特になかったはずである。事実、養老律令を施行しようとする動きは757年まで見られなかった。757年当時の政治状況を見ると、それまで中央政府に君臨していた聖武上皇が756年に没し、政府内で複数の勢力が主導権争いを始めていた。その中で藤原仲麻呂が孝謙天皇と連携して、急速に台頭し始めていた。これらの状況から、養老律令施行の背景には、両者共通の祖父である不比等の成果を活用することで、不比等の政治を継承することを宣言するとともに、孝謙・仲麻呂政権の安定を図ろうとする政治的意図があったと考えられている。
一方、大宝律令の施行から半世紀が経過して律令国家の定着していく中で、より日本の実情に合わせた律令制への再構築の一環として行われたとして積極的評価をする説(春名宏昭説)もある。
また、法令としても、近世に至るまで法体系のモデルとして依然として参照され続けた。江戸幕府の公事方御定書は、編纂に当たって、武家法の先例はもちろんのこと、養老律令や、律令の本家である唐や明の法体系を先例として参照している[6]。
篇目
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律
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律は現代でいう刑法にあたる。
篇 篇目 読み
第一 名例律上 めいれいりつ
第二 名例律下
第三 衛禁律 えごんりつ
職制律 しきせいりつ
第四 戸婚律 ここんりつ
第五 厩庫律 くこりつ
擅興律 せんこうりつ
第六 賊盗律 ぞくとうりつ
第七 闘訟律 とうしょうりつ
第八 詐偽律 さぎりつ
第九 雑律 ぞうりつ
第十 捕亡律 ほもうりつ
断獄律 だんごくりつ
令
編集
唐令と日本令では、篇目の大幅な組み替えもあり、順序もかなり違っている。また、条文内容のかなりの部分が日本風に改められている。
篇 篇目 読み
第一 官位令 かんいりょう
第二 職員令 しきいんりょう
後宮職員令 ごくうしきいんりょう
東宮職員令 とうぐうしきいんりょう
家令職員令 けりょうしきいんりょう
第三 神祇令 じんぎりょう
僧尼令 そうにりょう
第四 戸令 こりょう
田令 でんりょう
賦役令 ぶやくりょう
学令 がくりょう
第五 選叙令 せんじょりょう
継嗣令 けいしりょう
考課令 こうかりょう
禄令 ろくりょう
第六 宮衛令 くえいりょう
軍防令 ぐんぼうりょう
第七 儀制令 ぎせいりょう
衣服令 えぶくりょう
営繕令 ようぜんりょう
第八 公式令 くしきりょう
第九 倉庫令 そうこりょう
厩牧令 くもくりょう
医疾令 いしつりょう
仮寧令 けにょうりょう
喪葬令 そうそうりょう
第十 関市令 げんしりょう
捕亡令 ぶもうりょう
獄令 ごくりょう
雑令 ぞうりょう
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