【時代小説】 清水港の清水次郎長とその妻お蝶

蔵屋

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第一巻

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 【清水港の清水次郎長とその妻お蝶】

 清水次郎長しみずのじろちょうは実在した人物である。
 これは史実に基づく。
 時は文政3年1月1日〈1820年2月14日〉に清水に生まれた男子がいた。
 後の次郎長である。
次郎長は明治26年〈1893年〉6月12日)に没するまでこの世に存在した。
 次郎長は、幕末・明治の侠客、博徒、実業家であった。
 彼の本名は山本長五郎やまもとちょうごろうと言った。
 米問屋・山本次郎八の養子になり、後に語り継がれる清水次郎長となる。
 彼の人生は波瀾万丈であった。次郎長を支えた女房がいた。お蝶である。
 このお蝶と次郎長の出会いにはあるドラマがあった。
 それはある夏の夜の盆踊りの時であった。
 ひょんな出会いから次郎長はお蝶に盆踊りに誘われたのである。
 根っからの極道者の次郎長は踊りなどしたことがなかった。しかし次郎長はお蝶に惚れていた。
 お蝶に誘われるまま盆踊り大会に行きお蝶と一緒に踊ったのであった。
 次郎長はその時お蝶にこう言われたという。
 「あら、次郎さん、なかなか上手いわよ。次郎さんのヒョットコ踊り。私あなたのその腰の引けた踊りがとても好きよ」
 次郎長はお蝶の言葉に褒められたのか、それとも貶されたのか、分からなかったけれども、お蝶の踊り、特に次郎長はお蝶の腰回りやお尻の動きに合わせて踊ったのである。
 やがて二人は意気投合し踊りの会場を後にして森の中に入って行った。
 お蝶はいきなり次郎長に抱きついて次郎長の唇にキスをしたのだ。
 びっくりしたのは次郎長であった。
 二人はその夜、男女の関係になったのだ。
 その数年後、二人は一緒やになり結婚したのである。
 「高砂や‥‥」
 二人の結婚式は次郎長の生家で始まった。
 三三九度さんさんくどは、日本の結婚式で行われる固めの儀式の1つである。三献の儀ともいう。
 (固めの盃)
 (明治時代の結婚式での三三九度)
 男女が同じ酒を飲み交わす。初めに男性が三度、次に女性が三度、最後に男性が三度の合計九度飲む。儀式には大中小3つの大きさの盃を一組にした三ツ組盃が用いられる。三三九度は神前式以外の和の人前式の儀式としても取り入れられている。人前式の儀式としては他に、「水合わせの儀」「貝合わせの儀」などがある。

 三三九度は婚礼の中で、夫婦および両家の魂の共有・共通化をはかる儀式である。日本の共食信仰に基づくものだ。私の結婚式が三三九度であった。それは家柄を重んじる両家の格式ある儀式であった。
 それは半年前の結納式の日から始まった。

 さて平安時代の大饗や、南北朝・室町時代以降の本膳料理など、儀礼的な酒宴の習慣があったが、酒宴の初めには本膳料理では式三献と呼ばれる主人と客の間で盃が交わす酒礼が行われていた。
 
 婚礼の「夫婦盃」が儀礼として様式化されるのは、室町時代の武家社会からであり、伊勢流・小笠原流などの礼法によって整備され、次第に民間に広まったのである。
 
 三人官女は式三献に必要な道具を持っている。
 婚礼の再現であるひな人形に於いて式三献に用いる道具を持っているのが三人官女である。中央の三方に盃を持ち、左右がそれぞれ酒を注ぐための長柄銚子加え提子を持っている。

 進行としては、長柄を手にした本酌が盃に酒を注ぎ、次酌は加えを使って長柄に酒を補充する役割である。

 さて、次郎長の話だ。次郎長は西暦1893年6月12日にこの世を去った。享年73歳。
 次郎長の職業は博徒と記録にある。
 妻はおちょうお蝶
 子供は天田五郎という養子である。
 次郎長は高木三右衛門(実父)、山本次郎八(養父)の二人の父親を経験する。
 養家が没落したことで博徒になり、やくざ仲間で名をあげて清水に縄張りをもった。戊辰戦争の際に修理で立ち寄った清水港に逆賊船としてそのまま放置されていた咸臨丸(榎本武揚の率いる旧幕府艦隊の旗艦)の中から、戦死した乗組員の遺体を小舟を出して収容し丁重に葬ったことから、次郎長のこの義侠心に深く感動した幕臣の山岡鉄舟と知り合い、旧幕臣救済のため、維新後は富士の裾野の開墾に乗り出し、社会事業家としても活躍した。
 次郎長は常に義理人情に熱い本物の男であった。のち、「次郎長伯山」と異名をとった三代目神田伯山の講談で「海道一の親分」として取り上げられたことから名が広まり、二代目広沢虎造の浪曲(ラジオ放送、レコード)、村上元三の『次郎長三国志』などの小説のほか、映画・テレビドラマの題材として多く取り上げられ、人気を博する。これらの作品群では大政、小政、森の石松など、「清水二十八人衆」という屈強な子分がいたとされる。
 清水港にはこの次郎長伝説が今も健在なのだ。
 次郎長は船持ち船頭・高木三右衛門(雲不見三右衛門)の次男に生まれる。母方の叔父に当たる米穀商の甲田屋の主・山本次郎八は実子がなく、次郎八の養子となった。幼少時代の仲間に「長」(正式の名称は不明)という子供がいたために周囲が長五郎を次郎八の家の長五郎、次郎長と呼び、長じてからもそう呼称されることになったという。
清水港は富士川舟運を通じて信濃・甲斐方面の年貢米を江戸へ輸送する廻米を行っており、清水湊の廻船業者は口銭徴収を主とする特権的業者が主であったが、次郎長の生まれた美濃輪町は清水湊(清水港)に於ける新開地で、父の三右衛門は自ら商品を輸送する海運業者であった。また、叔父の次郎八は米穀仲買の株を持つ商人であることからも、三右衛門は次郎八を通じて米穀を輸送していたと考えられている。

 養父の次郎八は天保6年(1835年)に死去し、次郎長は甲田屋の主人となる。次郎長は妻帯して家業に従事するが一方では博奕を行い喧嘩も繰り返しており、天保14年(1843年)、喧嘩の果てに人を斬ると、妻を離別して実姉夫婦に甲田屋の家産を譲り、江尻大熊ら弟分とともに出奔し、無宿人となる。諸国を旅して修行を積み交際を広げ成長した次郎長は清水湊に一家を構えた。この時代の次郎長の事跡については明治初期に養子であった天田五郎の『東海遊侠伝』に詳しい記述がある。

 ー(博徒間抗争)ー

 弘化2年(1845年)には甲斐国鴨狩津向村(市川三郷町)の津向文吉と次郎長の叔父・和田島太右衛門の間で出入りが発生し、次郎長はこれを調停している。弘化4年(1847年)には江尻大熊の妹おちょうを妻に迎え、一家を構える。

 安政5年(1858年)12月29日には甲州に於ける出入りにおいて役人に追われ、逃亡先の尾張国名古屋で保下田久六の裏切りに遭い、女房のおちょうを失う。安政6年(1859年)には尾張知多亀崎乙川において久六を殺害する。同年9月16日には下田金平・吉兵衛らが沼津から清水港へ上陸し、次郎長を急襲する。

 文久元年(1861年)1月15日には駿河国江尻追分において石松の敵である都田吉兵衛を殺害する。同年10月には菊川において下田金平と手打ちを行う。文久3年(1863年)5月10日には天竜川において甲斐国の黒駒勝蔵と対陣する。

 元治元年(1864年)6月5日には三河国の平井亀吉に匿われていた勝蔵を形原斧八とともに襲撃する。平井の役では勝蔵の子分、大岩、小岩が殺されたとされる。平井亀吉は役人から逃れるために旅に出るが尾張藩からスカウトされ、ヤクザ部隊の集義隊に加わった。

 1866年、荒神山の喧嘩があった。

 ー(次郎長と山岡鉄舟の出会い)ー

 山岡鉄舟は慶応4年(1868年)5月29日、東征大総督府から駿府町差配役に任命された伏谷如水より東海道筋・清水港の警固役を任命され、この役を7月まで務めた。同年5月から6月には赤報隊に加わった黒駒勝蔵と駿府で対決している。

 同年9月18日、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚に率いられて品川沖から脱走した艦隊のうち、咸臨丸は暴風雨により房州沖で破船し、修理のため清水湊に停泊したところを新政府海軍に発見・攻撃され、船に残っていた幕府軍の全員が交戦によって死亡した。世に言う咸臨丸事件である。
 戦いの後、戦死した乗組員の遺体は明治新政府の咎めを恐れて誰も処理しようとする者がなく、清水湾内に漂い、腐敗するまま放置された。これを見かねた次郎長は舟を出して遺体を収容し、向島の砂浜に埋葬した。新政府軍はこの収容作業を咎めたが、次郎長は「死ねばみな仏にござる。仏に官軍も賊軍もない」と突っぱね、翌年には「壮士墓」を建立したという。ここにも次郎長の人間としての素晴らしさが伺える。

 同年3月9日に旧幕臣の山岡鉄舟(後に静岡藩大参事となる)は駿府において西郷隆盛と面談し徳川慶喜の助命・徳川家名の存続を訴えているが、鉄舟は咸臨丸事件における次郎長の義侠心に深く感じ入り、これが機縁となって次郎長は明治後に山岡・榎本と交際したとされる逸話がある。
 私はこの関係は史実であると確信している。
 清水次郎長も山岡鉄舟も日本を代表する人格者だったからである。

 明治2年(1869年)5月22日には二代目おちょうが新番組隊士により殺害される。 
 明治4年(1871年)2月には旧久能山東照宮の神領である山林開墾を企図するが、大谷村の抵抗に遭い断念している。同年10月14日には甲斐で黒駒勝蔵が赤報隊脱退と幕府時代の罪状で処刑されている。

 明治7年(1874年)には本格的に富士山南麓の開墾事業に着手する。明治12年(1879年)には山岡鉄舟らの協力を得て油田開発にも乗り出している。
 明治11年(1878年)には山岡鉄舟に依頼され天田愚庵を預かる。愚庵は明治15年(1882年)に次郎長の養子となる。明治13年(1880年)6月15日には三河平井一家の原田常吉や雲風竜吉らと手打ちを行なっている。雲風竜吉は黒駒勝蔵と同盟して次郎長とも敵対していた博徒で、同年6月24日付『函右日報』の記事ではこの手打ちを勝蔵と次郎長の和解として報じているのだ。

 博打を止めた次郎長は、清水港の発展のためには茶の販路を拡大するのが重要であると着目。蒸気船が入港できるように清水の外港を整備すべしと訴え、また自分でも横浜との定期航路線を営業する「静隆社」を設立した。この他にも県令・大迫貞清の奨めによって静岡の刑務所にいた囚徒を督励して現在の富士市大渕の開墾に携わったり、私塾の英語教育を熱心に後援したという口碑がある。

 また有栖川宮に従っていた元官軍の駿州赤心隊や遠州報国隊の旧隊士たちが故郷へ戻ってきた際には駿河へ移住させられた旧幕臣が恨みを込めてテロ行為を繰り返す事件が起き、次郎長は地元で血を流させないために弱い者をかばっているのである。

 明治16年(1883年)に静岡県令に就任した奈良原繁は博徒の大刈込に着手、次郎長は明治17年(1884年)2月25日に「賭博犯処分規則」により静岡県警察本所に逮捕される。同年4月7日には懲罰7年・過料金400円に処せられ、井宮監獄(静岡市葵区井宮町)に服役する。街道警護役という大役を任せられて平民としては破格の帯刀も許されていた次郎長だったが、旧幕時代の賭博稼業までもを対象とされた重い刑罰だったのである。
 同年4月には養子の天田愚庵が次郎長の数奇な生涯を描いた『東海遊侠伝』を出版し、次郎長の名が全国に広まるきっかけとなったのだ。
 静岡県令・関口隆吉などの尽力などにより、明治18年(1885年)に刑期の満了を待たずに次郎長は仮釈放処分になった。

 明治19年(1886年)東京大学医学部別課を卒業した植木重敏と横浜から土佐に向かう船上で知り合い、植木と同じ土佐須崎鍛冶町出身の渡辺良三と共に清水へ招聘し、済衆医院を静岡県有渡郡清水町に開設した。明治21年(1888年)7月19日には山岡鉄舟が死去し、谷中全生庵で行われた葬儀には清水一家で参列している。同年8月4日には富士山南麓開墾官有地払い下げを受け、開墾地の一部を高島嘉右衛門に売却している。

 明治26年(1893年)、風邪をこじらせ死去。享年74(満73歳没)。戒名は碩量軒雄山義海居士。墓碑に「侠客次郎長之墓」とあるは榎本武揚の筆である。

 次郎長翁を知る会には博徒時代の次郎長を描いた「清水次郎長肖像画」が所蔵されている。

 ー(清水次郎長(山本長五郎)と天皇との結びつき)ー

 画賛には文久3年(1863年)に孝明天皇が会津藩主松平容保に宛てた「孝明天皇宸翰」の年記・宛所を慶応2年(1866年)・山本長五郎に変えた内容が記されており、天皇と次郎長の結びつきの深さを強調させている。

 また、梅蔭禅寺に銅像がつくられている。この寺には、清水次郎長、お蝶、大政、小政の墓もある。墓石は「博打に勝つお守りになる」との噂が立ち、墓石を少しずつ砕いて盗んでいくものが絶えなかったと言われている。

ー(清水一家六代目継承問題)ー

 昭和41年(1966年)に清水次郎長の五代目の「正統清水一家」が解散後途絶えていた名跡を、平成19年(2007年)に山口組系二代目美尾組組長・高木康男が「六代目」として襲名するという記事がある週刊誌に掲載された。

 高木は闇金融の元締めとして逮捕された人物である(美尾尚利・初代美尾組組長が五代目の元若衆)。これにより、静岡市暴力追放推進協議会は、闇金融の元締めだった人物が清水次郎長の跡目を襲名するのは、清水の観光客減・イメージ悪化につながるとして清水警察署に継承阻止の要望書を送った。しかし、六代目清水一家が正式に襲名発足し、観光協会とみやげ物店の中には次郎長グッズを販売中止した店があり観光への影響が出ている。
 
 いずれにせよ、私はこの清水次郎長という人物に日本人としての誇りを持ったのであった。


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