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第三巻
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島津家は関ヶ原の合戦で石田三成率いる西軍に味方した為、敗軍の将となり外様大名となった。そのことについて少し触れておきたい。
時は西暦1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」である。
徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍の大大名達の勝敗が決し、西軍が総崩れとなったとき、西軍の島津義弘の部隊は前代未聞の退却劇を見せた。約500騎馬隊。これは、前面の敵中を突破して退却するという作戦で、島津の退き口と呼ばれるものだ。
島津隊は東軍の仮借ない追撃を食い止めるため、島津豊久、長寿院盛淳などが自らを犠牲とする捨て奸という戦法を用いて、大将の島津義弘を国元である薩摩の国へ帰還させることに成功したのだ。
関ヶ原の戦いに於ける島津家当主・島津義弘は勇将として知られる島津豊久や、島津家の重臣・長寿院盛淳をはじめとする家臣達が、その身を犠牲にしても救いたいと望んだ島津義弘。
島津義弘は、1535年(天文4年)7月23日、島津家15代当主島津貴久の次男として誕生した。父の島津貴久は薩摩国、大隅国(現在の鹿児島県東部)を統一した戦国大名である。
島津義弘が初陣を飾ったのは、1554年(天文23年)の大隅国・岩剣城を巡る蒲生氏との戦いであった。
そして1557年(弘治3年)の蒲生氏を攻めた合戦では、5本の矢を受けて重傷を負いながらも、はじめて敵の首級を挙げたのであった。
その後も、島津義久には数々の武勇伝がある。1572年(元亀3年)の「木崎原の戦い」では日向国(現在の宮崎県)の伊東義祐率いる3,000の大軍に対し、300の兵で勝利。
更に1578年(天正6年)の耳川の戦いでも、豊後国の大友宗麟を撃破するなど、多くの戦いで武功を挙げている。
家臣に慕われた島津義弘の強さと人柄は
豊臣秀吉に臣従したのちには、1592年(天正20年)の文禄の役、1597年(慶長2年)の慶長の役のいずれでも朝鮮半島へ渡り、参戦している。
なかでも、慶長の役における合戦のひとつ泗川の戦いでは、自軍およそ7,000で30,000以上の敵兵を討ち取ったとされ、この戦果を聞いた徳川家康は、前代未聞の大勝利と高く評価したという。
これにより島津義弘の評価は、ただ武功にはとどまらず朝鮮出兵では、日本軍は朝鮮半島の厳しい寒さに悩まされ、多くの凍死者を出したと伝えられている。
しかし、島津隊で凍死する者はひとりもいなかったとのこと。その理由は、主従にかかわらず全員で囲炉裏を囲むなどして暖を取り、島津義弘自身も寝食をともにして兵達を気遣っていたという。
このように、島津義弘が家臣ひとりひとりに気を配り、大切にしていたという逸話は数多く残されているのだ。
この島津義久の武勇はもとより、その実直な人柄から家臣に慕われ、さらには福島正則ら武闘派の武将達からの尊敬も得ていたということだ。
こうした島津義弘の人となりが、のちに島津の退き口を成功へと導く土台となるのである。
伏見城への援軍を拒まれ西軍に付いた島津義久。
1600年(慶長5年)、徳川家康が会津の上杉景勝征伐のために軍を動かすと、徳川家康からの援軍要請を受けた島津義弘は、1,000の軍勢を率いて、徳川家康の重臣鳥居元忠が守る伏見城へ駆け付けたと言われている。
このとき、島津義弘が1,000の兵しか動員できなかったのは、当時、島津義弘の三男島津忠恒が島津家の家老を殺害するという事件を起こしたため、島津義弘と、兄で島津家当主の島津義久とは決裂状態にあり、国元の島津軍を自由に動かすことができなかったからである。
援軍として伏見城へ入ろうとした島津義弘であったが鳥居元忠から「援軍の話は聞いていない」と入城を拒まれてしまう。
そこでやむなく、石田三成を中心とする西軍に与したと言われている。
関ヶ原の戦いで孤立!敵中突破を決断。
しかし一方、徳川家康が会津征伐のため出陣したときには、上杉景勝に対して「石田三成らとともに味方する」との書状を送っていたとされ、はじめから西軍の中心人物のひとりとして反徳川家康の動きに加わっていたとの説もありる。
私はこの説を支持している。
ところが、関ヶ原での決戦を前にした岐阜城での攻防戦では、西軍の撤退を知らされず置き去りにされたり、関ヶ原の戦い前日の作戦会議においては主張が聞き入れられなかったりと、西軍内での島津義弘の扱いは尊重されているとは言えないものであった。
そして迎えた関ヶ原の戦い当日、開戦しても島津義弘は動こうとはしなかったと言われている。これも史実であると私は思っている。
石田三成の使者が来た時に戦いに加わるよう要請されたが、その使者が馬から下りなかったため無礼であると島津義弘や甥の島津豊久は激怒し、使者を追い返した。
その後、東軍と西軍は一進一退の攻防を繰りす。しかし午後2時頃、それまで戦いに加わらず戦況を見ていた小早川秀秋が、西軍の大谷吉継を攻撃。ドミノ倒し的に西軍から東軍へ寝返る者が続出すると、西軍は瞬く間に総崩れとなり、島津隊は退路を断たれ東軍に囲まれてしまった。
島津義弘は徳川家康本陣へ突入しての討死を覚悟した。島津豊久に説得されて敵中突破を決意。島津隊は島津義弘を無事に薩摩国へ返すべく、結束を固めたのだ。
この時島津隊は島津豊久を先陣として、東軍前衛部隊である福島正則隊を突破し、関ヶ原を起点とする伊勢街道を南下するルートを選択した。
この時福島正則は自軍に島津隊と交戦することを禁じている。すでに関ヶ原の戦いの勝敗は決しているため、退却する島津隊を深追いして自軍の兵を無益に失う必要はないと考えたのである。
東軍の真っただ中を突っ切っていく島津隊は、徳川家康が本陣を構えた桃配山と南宮山の南側を通る伊勢街道を南進します。そこへ、徳川四天王に列せられる井伊直政と、徳川家康の四男で井伊直政の娘婿でもある松平忠吉が追い付いて来た。更に徳川四天王の本多忠勝もそのあとを追っていた。
やむなく、先陣の島津豊久が取って返して殿を務めることに。このとき、井伊直政・松平忠吉らの部隊を足止めするために、島津隊は捨て奸という戦法を用いた。
捨て奸とは、殿の小部隊がその場にとどまり、追ってくる敵と討死するまで戦って足止めをする戦い方のこと。最初の小部隊が全滅すると、また新しい小部隊が足止めのために残り、これを繰り返して時間を稼ぎ、その間に島津義弘を生還させるという戦法である。敵から見えにくくするため、鉄砲を持った兵士があぐらをかいて座り、追撃部隊の指揮官を狙撃してから、槍で敵に突撃。このことから座禅陣とも呼ばれた戦法である。
兵士の多くが鉄砲を装備していたこと、また射撃の腕前が高く、勇猛果敢な島津隊だからこそ可能であった戦法と言えるのだ。
多くの兵が命を賭して退却劇を成功へ導く。
島津隊が進む伊勢街道は、南宮山の南側で養老山地の東側を通る伊勢東街道と、西側を通る伊勢西街道に分岐していた。この分岐点のあたりで、井伊直政・松平忠吉隊が間近に迫ったため、島津家重臣の長寿院盛淳は島津義弘から賜った鳳凰の陣羽織を身に付けて、敵前に立ちはだかる。そして「我こそは義弘なり」と名乗りを上げると、付き従った兵士18名とともに主君の身代わりとなって討死したのだ。
長寿院盛淳を失いながらも、島津義弘を擁する島津本隊は伊勢東街道をさらに南進。一方、島津豊久が率いる部隊は伊勢西街道を南下するルートを選ぶがすでに島津豊久は先の戦闘で重傷を負っていた。
追撃部隊の井伊直政は、この島津豊久を追っていたものの、島津隊からの銃撃を腕に受けてそのまま落馬。徳川家康から追撃中止の命令が下されたこともあって、島津隊への追撃を断念した。井伊直政はこのときの傷がもとで、2年後に命を落としている。
この後伊勢東街道を南下した島津義弘の部隊は養老山地を越えて堺まで逃れ、そこから船で薩摩国へ帰還した。壮絶な撤退戦である島津の退き口によって、島津義弘は生還することが出来たが撤退戦を開始したときすでに300人(一説には1,000人)だった島津隊は、80数名になったと伝えられている。先鋒、そして殿を務めて奮戦した島津豊久は、追っ手と戦って討死(または自刃)した。
さて、島津の退き口が成功した理由は、前述の通り島津隊が鉄砲の腕前など戦いに秀でていたこと、また恐れ知らずであったことなどが挙げられる。
そして何より、島津義弘を生還させるためには死をもいとわないという精神力と結束力。島津家臣達の島津義弘に対する忠誠心は厚く、それはひとえに島津義弘の人柄の賜物である、と言えるだろう。常日頃から家臣や兵士達に寄り添い、戦場では苦楽をともにしていた島津義弘のために、重臣から一兵卒に至るまで惜しみなく命をなげうったのであった。
島津義弘へ尊敬の念を抱いたのは、島津家臣だけではなかった。関ヶ原の戦いでは敵対した徳川勢も例外ではなく、井伊直政は島津隊への追撃戦で重傷を負ったにもかかわらず、島津義弘と徳川家康の和平交渉にあたっては仲介役を務めているのだ。
また、福島正則も講和のために尽力した。
井伊直政や福島正則らの力添えもあり、最終的に徳川家康は津島家の本領を安堵(土地の領有を承認し保証すること)している。
島津家を守り抜いた島津義弘は、晩年には大隅国の加治木に隠居し、後進の育成に力を注いだのである。
1619年(元和5年)7月21日、島津義弘が没したときには、13名の家臣が殉死の禁止令に背いて切腹している。
この島津家は三代将軍・家光の治世で謀反の企てをしたのであった。
柳生十兵衛は伊賀忍者・木猿達と一緒に船に乗り鹿児島湾に到着し、鹿児島城下に潜入したのであった。
その時、十兵衛と木猿は琉球王子と知り合い、力を合わせて島津の江戸幕府転覆という陰謀に立ち向かうのであった。
時は西暦1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」である。
徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍の大大名達の勝敗が決し、西軍が総崩れとなったとき、西軍の島津義弘の部隊は前代未聞の退却劇を見せた。約500騎馬隊。これは、前面の敵中を突破して退却するという作戦で、島津の退き口と呼ばれるものだ。
島津隊は東軍の仮借ない追撃を食い止めるため、島津豊久、長寿院盛淳などが自らを犠牲とする捨て奸という戦法を用いて、大将の島津義弘を国元である薩摩の国へ帰還させることに成功したのだ。
関ヶ原の戦いに於ける島津家当主・島津義弘は勇将として知られる島津豊久や、島津家の重臣・長寿院盛淳をはじめとする家臣達が、その身を犠牲にしても救いたいと望んだ島津義弘。
島津義弘は、1535年(天文4年)7月23日、島津家15代当主島津貴久の次男として誕生した。父の島津貴久は薩摩国、大隅国(現在の鹿児島県東部)を統一した戦国大名である。
島津義弘が初陣を飾ったのは、1554年(天文23年)の大隅国・岩剣城を巡る蒲生氏との戦いであった。
そして1557年(弘治3年)の蒲生氏を攻めた合戦では、5本の矢を受けて重傷を負いながらも、はじめて敵の首級を挙げたのであった。
その後も、島津義久には数々の武勇伝がある。1572年(元亀3年)の「木崎原の戦い」では日向国(現在の宮崎県)の伊東義祐率いる3,000の大軍に対し、300の兵で勝利。
更に1578年(天正6年)の耳川の戦いでも、豊後国の大友宗麟を撃破するなど、多くの戦いで武功を挙げている。
家臣に慕われた島津義弘の強さと人柄は
豊臣秀吉に臣従したのちには、1592年(天正20年)の文禄の役、1597年(慶長2年)の慶長の役のいずれでも朝鮮半島へ渡り、参戦している。
なかでも、慶長の役における合戦のひとつ泗川の戦いでは、自軍およそ7,000で30,000以上の敵兵を討ち取ったとされ、この戦果を聞いた徳川家康は、前代未聞の大勝利と高く評価したという。
これにより島津義弘の評価は、ただ武功にはとどまらず朝鮮出兵では、日本軍は朝鮮半島の厳しい寒さに悩まされ、多くの凍死者を出したと伝えられている。
しかし、島津隊で凍死する者はひとりもいなかったとのこと。その理由は、主従にかかわらず全員で囲炉裏を囲むなどして暖を取り、島津義弘自身も寝食をともにして兵達を気遣っていたという。
このように、島津義弘が家臣ひとりひとりに気を配り、大切にしていたという逸話は数多く残されているのだ。
この島津義久の武勇はもとより、その実直な人柄から家臣に慕われ、さらには福島正則ら武闘派の武将達からの尊敬も得ていたということだ。
こうした島津義弘の人となりが、のちに島津の退き口を成功へと導く土台となるのである。
伏見城への援軍を拒まれ西軍に付いた島津義久。
1600年(慶長5年)、徳川家康が会津の上杉景勝征伐のために軍を動かすと、徳川家康からの援軍要請を受けた島津義弘は、1,000の軍勢を率いて、徳川家康の重臣鳥居元忠が守る伏見城へ駆け付けたと言われている。
このとき、島津義弘が1,000の兵しか動員できなかったのは、当時、島津義弘の三男島津忠恒が島津家の家老を殺害するという事件を起こしたため、島津義弘と、兄で島津家当主の島津義久とは決裂状態にあり、国元の島津軍を自由に動かすことができなかったからである。
援軍として伏見城へ入ろうとした島津義弘であったが鳥居元忠から「援軍の話は聞いていない」と入城を拒まれてしまう。
そこでやむなく、石田三成を中心とする西軍に与したと言われている。
関ヶ原の戦いで孤立!敵中突破を決断。
しかし一方、徳川家康が会津征伐のため出陣したときには、上杉景勝に対して「石田三成らとともに味方する」との書状を送っていたとされ、はじめから西軍の中心人物のひとりとして反徳川家康の動きに加わっていたとの説もありる。
私はこの説を支持している。
ところが、関ヶ原での決戦を前にした岐阜城での攻防戦では、西軍の撤退を知らされず置き去りにされたり、関ヶ原の戦い前日の作戦会議においては主張が聞き入れられなかったりと、西軍内での島津義弘の扱いは尊重されているとは言えないものであった。
そして迎えた関ヶ原の戦い当日、開戦しても島津義弘は動こうとはしなかったと言われている。これも史実であると私は思っている。
石田三成の使者が来た時に戦いに加わるよう要請されたが、その使者が馬から下りなかったため無礼であると島津義弘や甥の島津豊久は激怒し、使者を追い返した。
その後、東軍と西軍は一進一退の攻防を繰りす。しかし午後2時頃、それまで戦いに加わらず戦況を見ていた小早川秀秋が、西軍の大谷吉継を攻撃。ドミノ倒し的に西軍から東軍へ寝返る者が続出すると、西軍は瞬く間に総崩れとなり、島津隊は退路を断たれ東軍に囲まれてしまった。
島津義弘は徳川家康本陣へ突入しての討死を覚悟した。島津豊久に説得されて敵中突破を決意。島津隊は島津義弘を無事に薩摩国へ返すべく、結束を固めたのだ。
この時島津隊は島津豊久を先陣として、東軍前衛部隊である福島正則隊を突破し、関ヶ原を起点とする伊勢街道を南下するルートを選択した。
この時福島正則は自軍に島津隊と交戦することを禁じている。すでに関ヶ原の戦いの勝敗は決しているため、退却する島津隊を深追いして自軍の兵を無益に失う必要はないと考えたのである。
東軍の真っただ中を突っ切っていく島津隊は、徳川家康が本陣を構えた桃配山と南宮山の南側を通る伊勢街道を南進します。そこへ、徳川四天王に列せられる井伊直政と、徳川家康の四男で井伊直政の娘婿でもある松平忠吉が追い付いて来た。更に徳川四天王の本多忠勝もそのあとを追っていた。
やむなく、先陣の島津豊久が取って返して殿を務めることに。このとき、井伊直政・松平忠吉らの部隊を足止めするために、島津隊は捨て奸という戦法を用いた。
捨て奸とは、殿の小部隊がその場にとどまり、追ってくる敵と討死するまで戦って足止めをする戦い方のこと。最初の小部隊が全滅すると、また新しい小部隊が足止めのために残り、これを繰り返して時間を稼ぎ、その間に島津義弘を生還させるという戦法である。敵から見えにくくするため、鉄砲を持った兵士があぐらをかいて座り、追撃部隊の指揮官を狙撃してから、槍で敵に突撃。このことから座禅陣とも呼ばれた戦法である。
兵士の多くが鉄砲を装備していたこと、また射撃の腕前が高く、勇猛果敢な島津隊だからこそ可能であった戦法と言えるのだ。
多くの兵が命を賭して退却劇を成功へ導く。
島津隊が進む伊勢街道は、南宮山の南側で養老山地の東側を通る伊勢東街道と、西側を通る伊勢西街道に分岐していた。この分岐点のあたりで、井伊直政・松平忠吉隊が間近に迫ったため、島津家重臣の長寿院盛淳は島津義弘から賜った鳳凰の陣羽織を身に付けて、敵前に立ちはだかる。そして「我こそは義弘なり」と名乗りを上げると、付き従った兵士18名とともに主君の身代わりとなって討死したのだ。
長寿院盛淳を失いながらも、島津義弘を擁する島津本隊は伊勢東街道をさらに南進。一方、島津豊久が率いる部隊は伊勢西街道を南下するルートを選ぶがすでに島津豊久は先の戦闘で重傷を負っていた。
追撃部隊の井伊直政は、この島津豊久を追っていたものの、島津隊からの銃撃を腕に受けてそのまま落馬。徳川家康から追撃中止の命令が下されたこともあって、島津隊への追撃を断念した。井伊直政はこのときの傷がもとで、2年後に命を落としている。
この後伊勢東街道を南下した島津義弘の部隊は養老山地を越えて堺まで逃れ、そこから船で薩摩国へ帰還した。壮絶な撤退戦である島津の退き口によって、島津義弘は生還することが出来たが撤退戦を開始したときすでに300人(一説には1,000人)だった島津隊は、80数名になったと伝えられている。先鋒、そして殿を務めて奮戦した島津豊久は、追っ手と戦って討死(または自刃)した。
さて、島津の退き口が成功した理由は、前述の通り島津隊が鉄砲の腕前など戦いに秀でていたこと、また恐れ知らずであったことなどが挙げられる。
そして何より、島津義弘を生還させるためには死をもいとわないという精神力と結束力。島津家臣達の島津義弘に対する忠誠心は厚く、それはひとえに島津義弘の人柄の賜物である、と言えるだろう。常日頃から家臣や兵士達に寄り添い、戦場では苦楽をともにしていた島津義弘のために、重臣から一兵卒に至るまで惜しみなく命をなげうったのであった。
島津義弘へ尊敬の念を抱いたのは、島津家臣だけではなかった。関ヶ原の戦いでは敵対した徳川勢も例外ではなく、井伊直政は島津隊への追撃戦で重傷を負ったにもかかわらず、島津義弘と徳川家康の和平交渉にあたっては仲介役を務めているのだ。
また、福島正則も講和のために尽力した。
井伊直政や福島正則らの力添えもあり、最終的に徳川家康は津島家の本領を安堵(土地の領有を承認し保証すること)している。
島津家を守り抜いた島津義弘は、晩年には大隅国の加治木に隠居し、後進の育成に力を注いだのである。
1619年(元和5年)7月21日、島津義弘が没したときには、13名の家臣が殉死の禁止令に背いて切腹している。
この島津家は三代将軍・家光の治世で謀反の企てをしたのであった。
柳生十兵衛は伊賀忍者・木猿達と一緒に船に乗り鹿児島湾に到着し、鹿児島城下に潜入したのであった。
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藤井松平家の下級藩士・芦田家に、柔太郎と清次郎の兄弟が居た。
兄・柔太郎は儒学を学ぶため昌平黌《しょうへいこう》へ、弟・清次郎は数学を学ぶため瑪得瑪弟加塾《まてまてかじゅく》へ、それぞれ江戸遊学をした。
嘉永6年(1853年)、兄弟は十日の休暇をとって、浦賀まで「黒船の大きさを測定する」ための旅に向かう。
品川宿で待ち合わせをした兄弟であったが、弟・清次郎は約束の時間までにはやってこなかった。
時は経ち――。
兄・柔太郎は学問を終えて帰郷し、藩校で教鞭を執るようになった。
遅れて一時帰郷した清次郎だったが、藩命による出仕を拒み、遊学の延長を望んでいた。
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幕末期の兵学者・赤松小三郎先生と、その実兄で儒者の芦田柔太郎のお話。
※この作品は史実を元にしたフィクションです。
※時系列・人物の性格などは、史実と違う部分があります。
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