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第二章
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三島 由紀夫は1925年〈大正14年〉1月14日 にこの世に生まれた。彼は1970年〈昭和45年〉11月25日)にこの世を去った。
私も物書きである。彼のような文才はないが、彼と同じ日本民族である。
読者諸君も、知っての達り我々日本民族の祖は縄文人である、ということだ。
北海道のアイヌ民族は純粋な縄文人であり日本民族なのだ。アイヌ民族以外は大陸からやってきた民族との混血と考えてよいだろう。しかし、彼らが渡来する前から土着していた縄文人もいた筈だ。彼らは純粋な縄文人であり、日本民族であり、大和民族なのだ。
さて、今回は三島由紀夫のことだ。彼は
日本の小説家であり、劇作家。随筆家、評論家、過激な政治活動家であった。
本名は平岡 公威という。
ペンネームは三島 由紀夫である。
生誕は1925年1月14日。
出生地は大日本帝国・東京府東京市四谷区永住町2番地(現:東京都新宿区四谷四丁目22番)である。
三島由紀夫は1970年11月25日(45歳没)
に死没した。
死んだ場所は日本・東京都新宿区市谷本村町1番地(現:市谷本村町5-1)陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地である。
彼の割腹現場は幾度となくテレビ放映された。私はその映像を幾度も観た。
私はその時、彼のことを次のように評価した。
「死ねば負け犬。何のために、お前は生きてきた。馬鹿やろー!死んだらお前の意思を継ぐ輩がいると思うのか!喝!生きよ!
生きてお前の意思を継ぐ人材を育てるんだ。生きよ!死ぬな!」
これが私の彼にたいする想いであった。
人間は決して自らの命を粗末にしてはならない。自殺などもってのほかだ。
大本の出口 王仁三郎は次のように教えた。
「自殺をした人間は必ず地獄にいき、死の苦しみを味わう」と。
三島由紀夫が割腹自殺をしたのは私が16才のときであった。
彼の最終学歴東京大学法学部法律学科卒業
彼の人生における活動期間は1941年 -~1970年までの29年間であった。
彼の作家としてのジャンルは小説、戯曲、評論、随筆などなどである。
彼の作家としてのテーマは古典美、日本の雅、超越的な美意識、源泉の感情、悲劇性を帯びた美的存在、被疎外者における純粋
芸術と人生、生と死、精神と肉体、言葉と行動、認識と行為、存在と当為、文武両道、大和魂、憂国、皇国などなど、であとた。彼の作家としての文学活動は日本浪曼派であり第二次戦後派であり、耽美派で
あった。
彼の小説の代表作をご紹介しよう。
『題名』と、(初版年)
『仮面の告白』(1949年)
『禁色』(1951年 - 1953年)
『潮騒』(1954年)
『近代能楽集』(1956年)
『金閣寺』(1956年)
『鹿鳴館』(1956年)
『鏡子の家』(1959年)
『憂国』(1961年)
『サド侯爵夫人』(1965年)
『豊饒の海』(1965年 - 1970年)
彼の作家としての人生は薔薇色の人生であった。
彼の主な受賞歴をご紹介しよう。
受賞された賞の名前と受賞された年である。
新潮社文学賞(1954年)
岸田演劇賞(1955年)
読売文学賞(1956年・1961年)
週刊読売新劇賞(1958年)
フォルメントール国際文学賞(英語版)第2位(1964年・1967年)
毎日芸術賞(1964年)
文部省芸術祭賞(1965年)
フランス・ツール国際短編映画祭劇映画部門第2位(1965年)
三島由紀夫のデビュー作は次の2冊だ。
『酸模すかんぽう――秋彦の幼き思ひ出』(1938年)
『花ざかりの森』(1941年)
三島由紀夫は結婚していた。
配偶者は平岡瑤子(1958年 - 1970年 死別)
子供は平岡紀子、平岡威一郎。
三島由紀夫について、私が語るとすれば次のようなことだろうか。おはずかしいが。
三島は戦後の日本の文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるほど日本語の枠を超え、日本国外においても広く認められた作家であったといった。例えば、『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人であった。
国際放送されたテレビ番組に初めて出演した日本人でもあったのだ。
三島の代表作は、小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』などと。戯曲に『近代能楽集』『鹿鳴館』『サド侯爵夫人』などがある。修辞に富んだ絢爛豪華で詩的な文体、古典劇を基調にした人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が彼の特徴といえる。
私は三島の晩年は評価しない。あまりにも過激な発言が多かったからだ。
三島の晩年は政治的・国粋主義的な傾向を強め、陸上自衛隊に体験入隊したり、民兵組織「楯の会」を結成したりして、実際に右翼として、過激な活動をして、警察当局をなやませた。
1970年(昭和45年)11月25日(水曜日)、楯の会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)を訪れ東部方面総監を監禁した。バルコニーで自衛隊員にクーデターを促す演説をしたのち、割腹自殺を遂げたのである。この一件は社会に大きな衝撃を与え、民族派から派生した新右翼を生み出すなど、国内の政治運動や文学界にも大きな影響を及ぼしたのであった。
三島の死によって一つの時代が終わったと
私は思ったのであった。
私はその時、彼のことを次のように評価した。
「死ねば負け犬。何のために、お前は生きてきた。馬鹿やろー!死んだらお前の意思を継ぐ輩がいると思うのか!喝!生きよ!
生きてお前の意思を継ぐ人材を育てるんだ。生きよ!死ぬな!」
これが私の彼にたいする想いであった。
人間は決して自らの命を粗末にしてはならない。自殺などもってのほかだ。
大本の出口 王仁三郎は次のように教えた。
「自殺をした人間は必ず地獄にいき、死の苦しみを味わう」と。
三島は大正生まれである。三島の満年齢と昭和の年数が一致し、その人生の節目や活躍が戦前から戦後に至る昭和時代の日本の興廃や盛衰の歴史的出来事と相まっているため、激動の「昭和」と生涯を共にし、その時代の持つ問題点を鋭く照らした人物だったと、私は評価している。
読者諸君はどう思いますか?
それでは三島の生涯について、私の知る限りのことをご紹介しよう。
若干、間違いや記憶違いがあるかも知れない。その場合はご容赦願いたい。
三島を語る上で彼に影響を与えた人物を知る必要があるだろう。
三島の祖父である。
祖父は平岡定太郎といった。樺太庁長官時代の話しである。
1925年(大正14年)1月14日(水曜日)、東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷四丁目22番)において、父・平岡梓(当時30歳)と母・倭文重(当時19歳)の間の長男として誕生した三島。体重は650匁(約2,438グラム)だった。「公威」の名は祖父・定太郎によって命名された。
定太郎の恩人で同郷の土木工学者・古市公威男爵にあやかって名付けられたのだ。
家は借家であったが同番地内で一番大きく、かなり広い和洋折衷の二階建てで、家族(両親と父方の祖父母)の他に女中6人と書生や下男が居た(彼らは定太郎の故郷から来た親族だった。大世帯である。祖父は借財を抱えていたため、一階には目ぼしい家財はもう残っていなかったという。
兄弟は、3年後に妹・美津子、5年後に弟・千之が生まれたのだ。
父・梓は、一高から東京帝国大学法学部を経て、高等文官試験に1番で合格したが、面接官に悪印象を持たれて大蔵省入りを拒絶され、農商務省(公威の誕生後まもなく同省の廃止に伴い、農林省に異動)に勤務していたのだ。
岸信介、我妻栄、三輪寿壮とは一高、帝大の同窓であったという。
母・倭文重は、加賀藩藩主・前田家に仕えていた儒学者・橋家の出身。父(三島の外祖父)は東京開成中学校の5代目校長で、漢学者・橋健三であった。
三島は我々凡人とは違う華麗なる一族だったのだ。
三島の彼なる一族の話しはまだ、続く。
祖父・定太郎は、兵庫県印南郡志方村大字上富木字横山(現・兵庫県加古川市志方町上富木)の農家の生まれであった。
帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を卒業後、内務省に入省し内務官僚となる。1893年(明治26年)、武家の娘である永井夏子と結婚し、福島県知事、樺太庁長官などを務めたが、疑獄事件で失脚した。のちに無罪判決となった。
祖母・夏子(戸籍名:なつ)は、父・永井岩之丞(大審院判事)と、母・高(常陸宍戸藩藩主・松平頼位が側室との間にもうけた娘)の間に長女として生まれたのだ。
夏子の母方の祖父・松平頼位の血筋を辿っていくと徳川家康に繋がっているということだ。
夏子は12歳から17歳で結婚するまで有栖川宮熾仁親王に行儀見習いとして仕えていた。
夏子の祖父は江戸幕府若年寄の永井尚志である。
なお、永井岩之丞の同僚・柳田直平の養子が柳田國男で、平岡定太郎と同じ兵庫県出身という縁もあった柳田国男は、夏子の家庭とは早くから交流があったのだ。
作家・永井荷風の永井家と夏子の実家の永井家は同族(同じ一族)で、夏子の9代前の祖先永井尚政の異母兄永井正直が荷風の12代前の祖先にあたるという。
公威は、荷風の風貌と似ている梓のことを陰で「永井荷風先生」と呼んでいたらしい。なお、夏子は幼い公威を「小虎」「小虎ちゃん」と呼んでいたという。
祖父、父、そして息子の三島由紀夫と、三代にわたって同じ大学の学部を卒業した官僚の家柄であった。江戸幕府の重臣を務めた永井尚志の行政・統治に関わる政治は、平岡家の血脈や意識に深く浸透したのではないかと推測されている。
三島は幼年期から詩を書いていたという。
三島6歳。初等科入学の頃(1931年4月)
公威と祖母・夏子とは、学習院中等科に入学するまで同居していた。
公威の幼少期は夏子の絶対的な影響下に置かれていたといえる。
公威が生まれて49日目に、「二階で赤ん坊を育てるのは危険だ」という口実のもと、夏子は公威を両親から奪い自室で育て始め、母親の倭文重が授乳する際も懐中時計で時間を計ったという。
夏子は坐骨神経痛の痛みで臥せっていることが多く、家族の中でヒステリックな振る舞いに及ぶこともたびたびで、行儀作法に厳しかったと、三島は自らの回顧録で語っている。
三島(公威)は物差しやはたきを振り回すのが好きであったが没収され、車や鉄砲などの音の出る玩具も御法度となり、外での男の子らしい遊びも禁じられたという。
夏子は孫の遊び相手におとなしい年上の女の子を選び、三島(公威)に女言葉を使わせたという。1930年(昭和5年)1月、5歳の三島(公威)は自家中毒にかかり、死の一歩手前までいったことがあったという。
病弱な三島(公威)のため、夏子は食事やおやつを厳しく制限し、貴族趣味を含む過保護な教育をしたといわれている。
その一方、歌舞伎、谷崎潤一郎、泉鏡花などの夏子の好みは後年の三島(公威)の小説家および劇作家としての素養を培った。
つまり夏子が三島(公威)に与えた影響は大きいと言える。
1931年(昭和6年)4月、三島(公威)は学習院初等科に入学した。三島(公威)を学習院に入学させたのは、大名華族意識のある夏子の意向が強く働いていたと言われている。平岡家は定太郎が元樺太庁長官だったが平民階級だったため、華族中心の学校であった学習院に入学するには紹介者が必要ということで夏子の伯父・松平頼安は上野東照宮社司であった。この夏子の伯父・松平頼安が三島の小説『神官』『好色』『怪物』『領主』のモデルになっていた。
この男、かなりの女好きであったようだ。
しかも、好色であった。かなり女を悦ばす術を知っていたのだろう。
余談ではあるが今、彼をモデルにした小説を、私は執筆中である。(笑い)
さて、夏子は三島を学習院に入学させるため、夏子の伯父・松平頼安に頼み込み、保証人になってもらったのだ。
しかし華族中心とはいえ、かつて乃木希典が院長をしていた学習院の気風は質実剛健が基本にあり、時代の波が満州事変勃発など戦争へと移行していく中、校内も硬派が優勢を占めていたのだ。
級友だった三谷信は学習院入学当時の三島(公威)の印象を以下のように述懐している。この内容は私に大変参考になった。
つまり、三島(平岡公威)は自分の産まれた時のことを覚えていたのだ。
初等科に入って間もない頃、つまり新しく友人になった者同士が互いにまだ珍しかった頃、ある級友が 「平岡さんは自分の産まれた時のことを覚えているんだって!」と告げた。その友人と私が驚き合っているとは知らずに、彼が横を走り抜けた。春陽をあびて駆け抜けた小柄な彼の後ろ姿を覚えている。
三島(公威)の学習院初等科で、級友の三谷信に出会うことになる。
この話しは次の章でお楽しみ下さい。
私も物書きである。彼のような文才はないが、彼と同じ日本民族である。
読者諸君も、知っての達り我々日本民族の祖は縄文人である、ということだ。
北海道のアイヌ民族は純粋な縄文人であり日本民族なのだ。アイヌ民族以外は大陸からやってきた民族との混血と考えてよいだろう。しかし、彼らが渡来する前から土着していた縄文人もいた筈だ。彼らは純粋な縄文人であり、日本民族であり、大和民族なのだ。
さて、今回は三島由紀夫のことだ。彼は
日本の小説家であり、劇作家。随筆家、評論家、過激な政治活動家であった。
本名は平岡 公威という。
ペンネームは三島 由紀夫である。
生誕は1925年1月14日。
出生地は大日本帝国・東京府東京市四谷区永住町2番地(現:東京都新宿区四谷四丁目22番)である。
三島由紀夫は1970年11月25日(45歳没)
に死没した。
死んだ場所は日本・東京都新宿区市谷本村町1番地(現:市谷本村町5-1)陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地である。
彼の割腹現場は幾度となくテレビ放映された。私はその映像を幾度も観た。
私はその時、彼のことを次のように評価した。
「死ねば負け犬。何のために、お前は生きてきた。馬鹿やろー!死んだらお前の意思を継ぐ輩がいると思うのか!喝!生きよ!
生きてお前の意思を継ぐ人材を育てるんだ。生きよ!死ぬな!」
これが私の彼にたいする想いであった。
人間は決して自らの命を粗末にしてはならない。自殺などもってのほかだ。
大本の出口 王仁三郎は次のように教えた。
「自殺をした人間は必ず地獄にいき、死の苦しみを味わう」と。
三島由紀夫が割腹自殺をしたのは私が16才のときであった。
彼の最終学歴東京大学法学部法律学科卒業
彼の人生における活動期間は1941年 -~1970年までの29年間であった。
彼の作家としてのジャンルは小説、戯曲、評論、随筆などなどである。
彼の作家としてのテーマは古典美、日本の雅、超越的な美意識、源泉の感情、悲劇性を帯びた美的存在、被疎外者における純粋
芸術と人生、生と死、精神と肉体、言葉と行動、認識と行為、存在と当為、文武両道、大和魂、憂国、皇国などなど、であとた。彼の作家としての文学活動は日本浪曼派であり第二次戦後派であり、耽美派で
あった。
彼の小説の代表作をご紹介しよう。
『題名』と、(初版年)
『仮面の告白』(1949年)
『禁色』(1951年 - 1953年)
『潮騒』(1954年)
『近代能楽集』(1956年)
『金閣寺』(1956年)
『鹿鳴館』(1956年)
『鏡子の家』(1959年)
『憂国』(1961年)
『サド侯爵夫人』(1965年)
『豊饒の海』(1965年 - 1970年)
彼の作家としての人生は薔薇色の人生であった。
彼の主な受賞歴をご紹介しよう。
受賞された賞の名前と受賞された年である。
新潮社文学賞(1954年)
岸田演劇賞(1955年)
読売文学賞(1956年・1961年)
週刊読売新劇賞(1958年)
フォルメントール国際文学賞(英語版)第2位(1964年・1967年)
毎日芸術賞(1964年)
文部省芸術祭賞(1965年)
フランス・ツール国際短編映画祭劇映画部門第2位(1965年)
三島由紀夫のデビュー作は次の2冊だ。
『酸模すかんぽう――秋彦の幼き思ひ出』(1938年)
『花ざかりの森』(1941年)
三島由紀夫は結婚していた。
配偶者は平岡瑤子(1958年 - 1970年 死別)
子供は平岡紀子、平岡威一郎。
三島由紀夫について、私が語るとすれば次のようなことだろうか。おはずかしいが。
三島は戦後の日本の文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるほど日本語の枠を超え、日本国外においても広く認められた作家であったといった。例えば、『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人であった。
国際放送されたテレビ番組に初めて出演した日本人でもあったのだ。
三島の代表作は、小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』などと。戯曲に『近代能楽集』『鹿鳴館』『サド侯爵夫人』などがある。修辞に富んだ絢爛豪華で詩的な文体、古典劇を基調にした人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が彼の特徴といえる。
私は三島の晩年は評価しない。あまりにも過激な発言が多かったからだ。
三島の晩年は政治的・国粋主義的な傾向を強め、陸上自衛隊に体験入隊したり、民兵組織「楯の会」を結成したりして、実際に右翼として、過激な活動をして、警察当局をなやませた。
1970年(昭和45年)11月25日(水曜日)、楯の会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)を訪れ東部方面総監を監禁した。バルコニーで自衛隊員にクーデターを促す演説をしたのち、割腹自殺を遂げたのである。この一件は社会に大きな衝撃を与え、民族派から派生した新右翼を生み出すなど、国内の政治運動や文学界にも大きな影響を及ぼしたのであった。
三島の死によって一つの時代が終わったと
私は思ったのであった。
私はその時、彼のことを次のように評価した。
「死ねば負け犬。何のために、お前は生きてきた。馬鹿やろー!死んだらお前の意思を継ぐ輩がいると思うのか!喝!生きよ!
生きてお前の意思を継ぐ人材を育てるんだ。生きよ!死ぬな!」
これが私の彼にたいする想いであった。
人間は決して自らの命を粗末にしてはならない。自殺などもってのほかだ。
大本の出口 王仁三郎は次のように教えた。
「自殺をした人間は必ず地獄にいき、死の苦しみを味わう」と。
三島は大正生まれである。三島の満年齢と昭和の年数が一致し、その人生の節目や活躍が戦前から戦後に至る昭和時代の日本の興廃や盛衰の歴史的出来事と相まっているため、激動の「昭和」と生涯を共にし、その時代の持つ問題点を鋭く照らした人物だったと、私は評価している。
読者諸君はどう思いますか?
それでは三島の生涯について、私の知る限りのことをご紹介しよう。
若干、間違いや記憶違いがあるかも知れない。その場合はご容赦願いたい。
三島を語る上で彼に影響を与えた人物を知る必要があるだろう。
三島の祖父である。
祖父は平岡定太郎といった。樺太庁長官時代の話しである。
1925年(大正14年)1月14日(水曜日)、東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷四丁目22番)において、父・平岡梓(当時30歳)と母・倭文重(当時19歳)の間の長男として誕生した三島。体重は650匁(約2,438グラム)だった。「公威」の名は祖父・定太郎によって命名された。
定太郎の恩人で同郷の土木工学者・古市公威男爵にあやかって名付けられたのだ。
家は借家であったが同番地内で一番大きく、かなり広い和洋折衷の二階建てで、家族(両親と父方の祖父母)の他に女中6人と書生や下男が居た(彼らは定太郎の故郷から来た親族だった。大世帯である。祖父は借財を抱えていたため、一階には目ぼしい家財はもう残っていなかったという。
兄弟は、3年後に妹・美津子、5年後に弟・千之が生まれたのだ。
父・梓は、一高から東京帝国大学法学部を経て、高等文官試験に1番で合格したが、面接官に悪印象を持たれて大蔵省入りを拒絶され、農商務省(公威の誕生後まもなく同省の廃止に伴い、農林省に異動)に勤務していたのだ。
岸信介、我妻栄、三輪寿壮とは一高、帝大の同窓であったという。
母・倭文重は、加賀藩藩主・前田家に仕えていた儒学者・橋家の出身。父(三島の外祖父)は東京開成中学校の5代目校長で、漢学者・橋健三であった。
三島は我々凡人とは違う華麗なる一族だったのだ。
三島の彼なる一族の話しはまだ、続く。
祖父・定太郎は、兵庫県印南郡志方村大字上富木字横山(現・兵庫県加古川市志方町上富木)の農家の生まれであった。
帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を卒業後、内務省に入省し内務官僚となる。1893年(明治26年)、武家の娘である永井夏子と結婚し、福島県知事、樺太庁長官などを務めたが、疑獄事件で失脚した。のちに無罪判決となった。
祖母・夏子(戸籍名:なつ)は、父・永井岩之丞(大審院判事)と、母・高(常陸宍戸藩藩主・松平頼位が側室との間にもうけた娘)の間に長女として生まれたのだ。
夏子の母方の祖父・松平頼位の血筋を辿っていくと徳川家康に繋がっているということだ。
夏子は12歳から17歳で結婚するまで有栖川宮熾仁親王に行儀見習いとして仕えていた。
夏子の祖父は江戸幕府若年寄の永井尚志である。
なお、永井岩之丞の同僚・柳田直平の養子が柳田國男で、平岡定太郎と同じ兵庫県出身という縁もあった柳田国男は、夏子の家庭とは早くから交流があったのだ。
作家・永井荷風の永井家と夏子の実家の永井家は同族(同じ一族)で、夏子の9代前の祖先永井尚政の異母兄永井正直が荷風の12代前の祖先にあたるという。
公威は、荷風の風貌と似ている梓のことを陰で「永井荷風先生」と呼んでいたらしい。なお、夏子は幼い公威を「小虎」「小虎ちゃん」と呼んでいたという。
祖父、父、そして息子の三島由紀夫と、三代にわたって同じ大学の学部を卒業した官僚の家柄であった。江戸幕府の重臣を務めた永井尚志の行政・統治に関わる政治は、平岡家の血脈や意識に深く浸透したのではないかと推測されている。
三島は幼年期から詩を書いていたという。
三島6歳。初等科入学の頃(1931年4月)
公威と祖母・夏子とは、学習院中等科に入学するまで同居していた。
公威の幼少期は夏子の絶対的な影響下に置かれていたといえる。
公威が生まれて49日目に、「二階で赤ん坊を育てるのは危険だ」という口実のもと、夏子は公威を両親から奪い自室で育て始め、母親の倭文重が授乳する際も懐中時計で時間を計ったという。
夏子は坐骨神経痛の痛みで臥せっていることが多く、家族の中でヒステリックな振る舞いに及ぶこともたびたびで、行儀作法に厳しかったと、三島は自らの回顧録で語っている。
三島(公威)は物差しやはたきを振り回すのが好きであったが没収され、車や鉄砲などの音の出る玩具も御法度となり、外での男の子らしい遊びも禁じられたという。
夏子は孫の遊び相手におとなしい年上の女の子を選び、三島(公威)に女言葉を使わせたという。1930年(昭和5年)1月、5歳の三島(公威)は自家中毒にかかり、死の一歩手前までいったことがあったという。
病弱な三島(公威)のため、夏子は食事やおやつを厳しく制限し、貴族趣味を含む過保護な教育をしたといわれている。
その一方、歌舞伎、谷崎潤一郎、泉鏡花などの夏子の好みは後年の三島(公威)の小説家および劇作家としての素養を培った。
つまり夏子が三島(公威)に与えた影響は大きいと言える。
1931年(昭和6年)4月、三島(公威)は学習院初等科に入学した。三島(公威)を学習院に入学させたのは、大名華族意識のある夏子の意向が強く働いていたと言われている。平岡家は定太郎が元樺太庁長官だったが平民階級だったため、華族中心の学校であった学習院に入学するには紹介者が必要ということで夏子の伯父・松平頼安は上野東照宮社司であった。この夏子の伯父・松平頼安が三島の小説『神官』『好色』『怪物』『領主』のモデルになっていた。
この男、かなりの女好きであったようだ。
しかも、好色であった。かなり女を悦ばす術を知っていたのだろう。
余談ではあるが今、彼をモデルにした小説を、私は執筆中である。(笑い)
さて、夏子は三島を学習院に入学させるため、夏子の伯父・松平頼安に頼み込み、保証人になってもらったのだ。
しかし華族中心とはいえ、かつて乃木希典が院長をしていた学習院の気風は質実剛健が基本にあり、時代の波が満州事変勃発など戦争へと移行していく中、校内も硬派が優勢を占めていたのだ。
級友だった三谷信は学習院入学当時の三島(公威)の印象を以下のように述懐している。この内容は私に大変参考になった。
つまり、三島(平岡公威)は自分の産まれた時のことを覚えていたのだ。
初等科に入って間もない頃、つまり新しく友人になった者同士が互いにまだ珍しかった頃、ある級友が 「平岡さんは自分の産まれた時のことを覚えているんだって!」と告げた。その友人と私が驚き合っているとは知らずに、彼が横を走り抜けた。春陽をあびて駆け抜けた小柄な彼の後ろ姿を覚えている。
三島(公威)の学習院初等科で、級友の三谷信に出会うことになる。
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だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
BL 男達の性事情
蔵屋
BL
漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。
漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。
漁師の仕事は多岐にわたる。
例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。
陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、
多彩だ。
漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。
漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。
養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。
陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。
漁業の種類と言われる仕事がある。
漁師の仕事だ。
仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。
沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。
日本の漁師の多くがこの形態なのだ。
沖合(近海)漁業という仕事もある。
沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。
遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。
内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。
漁師の働き方は、さまざま。
漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。
出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。
休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。
個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。
漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。
専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。
資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。
漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。
食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。
地域との連携も必要である。
沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。
この物語の主人公は極楽翔太。18歳。
翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。
もう一人の主人公は木下英二。28歳。
地元で料理旅館を経営するオーナー。
翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。
この物語の始まりである。
この物語はフィクションです。
この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
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