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第三章
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【級友三谷信との出会い。三島由紀夫】
三島(公威)は初等科1、2年から詩や俳句などを初等科機関誌『小ざくら』に発表し始めたのである。
三島は読書に親しみ、世界童話集、印度童話集、『千夜一夜物語』、小川未明、鈴木三重吉、ストリンドベルヒの童話、北原白秋、フランス近代詩、丸山薫や草野心平の詩、講談社『少年倶楽部』(山中峯太郎、南洋一郎、高垣眸ら)、『スピード太郎』などを愛読したという。自家中毒や風邪で学校を休みがちで、4年生の時は肺門リンパ腺炎を患い、体がだるく姿勢が悪くなり教師によく叱られていた、そんな三島であった。
初等科3年の時は、作文「ふくろふ」の〈フウロフ、貴女は森の女王です〉という内容に対し、国語担当の鈴木弘一から「題材を現在にとれ」と注意されるなど、国語(綴方)の成績は中程度であったのだという。
つまり教師に嫌われていたのではないかと私はおもう。主治医の方針で日光に当たることを禁じられていた三島(公威)は、〈日に当ること不可然(しかるべからず)〉と言って日影を選んで過ごしていたため、虚弱体質で色が青白く、当時の綽名は「蝋燭」「アオジロ」であった、可哀想な三島であった。
初等科6年の時には校内の悪童から「おいアオジロ、お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」とからかわれているのを三谷が目撃している。級友の三谷の回顧録から読みとることが出来る。
初等科六年の時のことである。元気一杯で悪戯ばかりしている仲間が、三島に「おいアオジロ――彼の綽名――お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」と揶揄った。三島はサッとズボンの前ボタンをあけて一物を取り出し、「おい、見ろ見ろ」とその悪戯坊主に迫った。それは、揶揄った側がたじろく程の迫力であった。また濃紺の制服のズボンをバックにした一物は、その頃の彼の貧弱な体に比べて意外と大きかったという。
この6年生の時の1936年(昭和11年)には、2月26日に二・二六事件があった。急遽、授業は1時限目で取り止めとなり、いかなることに遭っても「学習院学生たる矜り」を忘れてはならないと先生から訓示を受けて帰宅した。当時はこのように一大事件があると教師から訓示を受けていたのだ。
それを生徒たちが必ず守る。こうして日本人は逞しく戦時下を生き抜いたのである。
あぁ。なんと頼もしい日本人のことよ!
今の日本人にこの時代の 反骨精神を持ってもらいたいものだ。
(蔵屋日唱談)
三島は6月には「非常な威厳と尊さがひらめいて居る」と日の丸を表現した作文「わが国旗」を書いたのである。
1937年(昭和12年)、学習院中等科に進んだ4月、両親の転居に伴い祖父母のもとを離れ、渋谷区大山町15番地(現・渋谷区松濤二丁目4番8号)の借家で両親と妹・弟と暮らすようになったのである。夏子は、1週間に1度三島(公威)が泊まりに来ることを約束させ、日夜三島(公威)の写真を抱きしめて泣いたていたという。
青白く虚弱な三島(公威)は中等科でも同級生にからかわれ、屋上から鞄を落とされたりした。その時鞄に入っていた万年筆3本折れるたと。また、学食で皿に醤油をドバドバかけられ野菜サラダを食べられなくさせられたりという、虐めをずいぶん受けたいた。私には考えにくい凄まじい虐めを三島は受けていたのである。
三島(公威)は文芸部に入り、同年7月、学習院校内誌『輔仁会雑誌』159号に作文「春草抄――初等科時代の思ひ出」を発表。自作の散文が初めて活字となった。中等科から国語担当になった岩田九郎(俳句会「木犀会」主宰の俳人)に作文や短歌の才能を認められ成績も上がった。三島はやっと日の目を見るようになったのである。
以後、『輔仁会雑誌』には、中等科・高等科の約7年間(中等科は5年間、高等科の3年は9月卒業)で多くの詩歌や散文作品、戯曲を発表することとなったのである。11、12歳頃、ワイルドに魅せられ、やがて谷崎潤一郎、ラディゲなども読み始めたのである。
7月に盧溝橋事件が発生し、支那事変(日中戦争)となった。この年の秋、8歳年上の高等科3年の文芸部員・坊城俊民と出会い、文学交遊を結んだのである。
初対面の時の三島(公威)の印象を坊城は「人波をかきわけて、華奢な少年が、帽子をかぶりなおしながらあらわれた。首が細く、皮膚がまっ白だった。目深な学帽の庇の奥に、大きな瞳が見ひらかれている。『平岡公威です』 高からず、低からず、その声が私の気に入った」とし、その時の光景を以下のように語っているように、三島に高感を持ったのである。
「文芸部の坊城だ」 彼はすでに私の名を知っていたらしく、その目がなごんだ。「きみが投稿した詩、“秋二篇”だったね、今度の輔仁会雑誌にのせるように、委員に言っておいた」 私は学習院で使われている二人称“貴様”は用いなかった。彼があまりにも幼く見えたので。… 「これは、文芸部の雑誌“雪線”だ。おれの小説が出ているから読んでくれ。きみの詩の批評もはさんである」 三島は全身にはじらいを示し、それを受け取った。私はかすかにうなずいた。もう行ってもよろしい、という合図である。三島は一瞬躊躇し、思いきったように、挙手の礼をした。このやや不器用な敬礼や、はじらいの中に、私は少年のやさしい魂を垣間見たと思った。
私はこの坊城俊民氏の回顧録から三島由紀夫の少年時代の人間としての「優しい魂」を持った少年であると、思ったのである。
全国の少年たちにこの三島由紀夫の少年としての生き様から何かを感じとってもらいたい。
「君たち、自身で考えてごらん」
と、私は日本全国の少年諸君に考えて、何かを感じとり、学んでほしい。
三島少年は神に好かれた少年だったのだから。
次回は坊城俊民氏の回顧録をご紹介しはます。
to be continued
三島(公威)は初等科1、2年から詩や俳句などを初等科機関誌『小ざくら』に発表し始めたのである。
三島は読書に親しみ、世界童話集、印度童話集、『千夜一夜物語』、小川未明、鈴木三重吉、ストリンドベルヒの童話、北原白秋、フランス近代詩、丸山薫や草野心平の詩、講談社『少年倶楽部』(山中峯太郎、南洋一郎、高垣眸ら)、『スピード太郎』などを愛読したという。自家中毒や風邪で学校を休みがちで、4年生の時は肺門リンパ腺炎を患い、体がだるく姿勢が悪くなり教師によく叱られていた、そんな三島であった。
初等科3年の時は、作文「ふくろふ」の〈フウロフ、貴女は森の女王です〉という内容に対し、国語担当の鈴木弘一から「題材を現在にとれ」と注意されるなど、国語(綴方)の成績は中程度であったのだという。
つまり教師に嫌われていたのではないかと私はおもう。主治医の方針で日光に当たることを禁じられていた三島(公威)は、〈日に当ること不可然(しかるべからず)〉と言って日影を選んで過ごしていたため、虚弱体質で色が青白く、当時の綽名は「蝋燭」「アオジロ」であった、可哀想な三島であった。
初等科6年の時には校内の悪童から「おいアオジロ、お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」とからかわれているのを三谷が目撃している。級友の三谷の回顧録から読みとることが出来る。
初等科六年の時のことである。元気一杯で悪戯ばかりしている仲間が、三島に「おいアオジロ――彼の綽名――お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」と揶揄った。三島はサッとズボンの前ボタンをあけて一物を取り出し、「おい、見ろ見ろ」とその悪戯坊主に迫った。それは、揶揄った側がたじろく程の迫力であった。また濃紺の制服のズボンをバックにした一物は、その頃の彼の貧弱な体に比べて意外と大きかったという。
この6年生の時の1936年(昭和11年)には、2月26日に二・二六事件があった。急遽、授業は1時限目で取り止めとなり、いかなることに遭っても「学習院学生たる矜り」を忘れてはならないと先生から訓示を受けて帰宅した。当時はこのように一大事件があると教師から訓示を受けていたのだ。
それを生徒たちが必ず守る。こうして日本人は逞しく戦時下を生き抜いたのである。
あぁ。なんと頼もしい日本人のことよ!
今の日本人にこの時代の 反骨精神を持ってもらいたいものだ。
(蔵屋日唱談)
三島は6月には「非常な威厳と尊さがひらめいて居る」と日の丸を表現した作文「わが国旗」を書いたのである。
1937年(昭和12年)、学習院中等科に進んだ4月、両親の転居に伴い祖父母のもとを離れ、渋谷区大山町15番地(現・渋谷区松濤二丁目4番8号)の借家で両親と妹・弟と暮らすようになったのである。夏子は、1週間に1度三島(公威)が泊まりに来ることを約束させ、日夜三島(公威)の写真を抱きしめて泣いたていたという。
青白く虚弱な三島(公威)は中等科でも同級生にからかわれ、屋上から鞄を落とされたりした。その時鞄に入っていた万年筆3本折れるたと。また、学食で皿に醤油をドバドバかけられ野菜サラダを食べられなくさせられたりという、虐めをずいぶん受けたいた。私には考えにくい凄まじい虐めを三島は受けていたのである。
三島(公威)は文芸部に入り、同年7月、学習院校内誌『輔仁会雑誌』159号に作文「春草抄――初等科時代の思ひ出」を発表。自作の散文が初めて活字となった。中等科から国語担当になった岩田九郎(俳句会「木犀会」主宰の俳人)に作文や短歌の才能を認められ成績も上がった。三島はやっと日の目を見るようになったのである。
以後、『輔仁会雑誌』には、中等科・高等科の約7年間(中等科は5年間、高等科の3年は9月卒業)で多くの詩歌や散文作品、戯曲を発表することとなったのである。11、12歳頃、ワイルドに魅せられ、やがて谷崎潤一郎、ラディゲなども読み始めたのである。
7月に盧溝橋事件が発生し、支那事変(日中戦争)となった。この年の秋、8歳年上の高等科3年の文芸部員・坊城俊民と出会い、文学交遊を結んだのである。
初対面の時の三島(公威)の印象を坊城は「人波をかきわけて、華奢な少年が、帽子をかぶりなおしながらあらわれた。首が細く、皮膚がまっ白だった。目深な学帽の庇の奥に、大きな瞳が見ひらかれている。『平岡公威です』 高からず、低からず、その声が私の気に入った」とし、その時の光景を以下のように語っているように、三島に高感を持ったのである。
「文芸部の坊城だ」 彼はすでに私の名を知っていたらしく、その目がなごんだ。「きみが投稿した詩、“秋二篇”だったね、今度の輔仁会雑誌にのせるように、委員に言っておいた」 私は学習院で使われている二人称“貴様”は用いなかった。彼があまりにも幼く見えたので。… 「これは、文芸部の雑誌“雪線”だ。おれの小説が出ているから読んでくれ。きみの詩の批評もはさんである」 三島は全身にはじらいを示し、それを受け取った。私はかすかにうなずいた。もう行ってもよろしい、という合図である。三島は一瞬躊躇し、思いきったように、挙手の礼をした。このやや不器用な敬礼や、はじらいの中に、私は少年のやさしい魂を垣間見たと思った。
私はこの坊城俊民氏の回顧録から三島由紀夫の少年時代の人間としての「優しい魂」を持った少年であると、思ったのである。
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