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第四章
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7月に盧溝橋事件が発生し、支那事変(日中戦争)と戦火は激しくなっていった。
三島(公威)は、この年の秋、8歳年上の高等科3年の文芸部員・坊城俊民と出会い、文学交遊を結んだのであった。
初対面の時の三島(公威)の印象を坊城は「人波をかきわけて、華奢な少年が、帽子をかぶりなおしながらあらわれた。首が細く、皮膚がまっ白だった。目深な学帽の庇の奥に、大きな瞳が見ひらかれている。『平岡公威です』 高からず、低からず、その声が私の気に入った」とし、その時の光景を以下のように語っている。
「文芸部の坊城だ」 彼はすでに私の名を知っていたらしく、その目がなごんだ。「きみが投稿した詩、“秋二篇”だったね、今度の輔仁会雑誌にのせるように、委員に言っておいた」 私は学習院で使われている二人称“貴様”は用いなかった。
彼があまりにも幼く見えたので。‥‥「これは、文芸部の雑誌“雪線”だ。おれの小説が出ているから読んでくれ。きみの詩の批評もはさんである」 三島は全身にはじらいを示し、それを受け取った。私はかすかにうなずいた。もう行ってもよろしい、という合図である。
三島は一瞬躊躇し、思いきったように、挙手の礼をした。
このやや不器用な敬礼や、はじらいの中に、私は少年のやさしい魂を垣間見たと思った。
三島(公威)は1938年(昭和13年)1月頃、初めての短編小説「酸模すかんぽう‥‥秋彦の幼き思ひ出」を書き、同時期の「座禅物語」などとともに3月の『輔仁会雑誌』に発表されたのであった。
三島(公威)はこの頃、学校の剣道の早朝寒稽古に率先して起床していた。
「お母さん、この味噌汁、堪らないよ。美味しいよ。ぼくの健康になによりだよ。
いつもありがとう。僕の健康を気遣ってくれて。僕、しっかり食べて丈夫な体になるからね(笑い)」
三島(公威)はいつも言っていた。
稽古のあとに出される味噌汁がうまくてたまらないと友達に自慢するなど、中等科に上がり徐々に身体も丈夫になっていった。
三島(公威)は初めて歌舞伎の世界と出会ったのだ。
同年10月、祖母・夏子に連れられて初めて歌舞伎(『仮名手本忠臣蔵』)を観劇し、初めての能(天岩戸の神遊びを題材にした『三輪』)も母方の祖母・橋トミにも連れられて観た。この体験以降、三島(公威)は歌舞伎や能の観劇に夢中になり、三島はその後17歳から観劇記録「平岡公威劇評集」(「芝居日記」)を付け始めたという。
1939年(昭和14年)1月18日、祖母・夏子が潰瘍出血のため、小石川区駕籠町(現・文京区本駒込)の山川内科医院で死去(没年齢62歳)した。62才という早い死であった。
同年4月、前年から学習院に転任していた清水文雄が国語の担当となったのである。
国文法、作文の教師に加わった。和泉式部研究家でもある清水は三島の生涯の師となり、三島に平安朝文学への目を開かせたのである。
ドイツの侵攻により欧州の戦火は激しさをました。
同年9月、ヨーロッパではドイツ国のポーランド侵攻を受けて、フランスとイギリスがドイツに宣戦布告し、ヨーロッパから第二次世界大戦が始まった。
三島は1940年(昭和15年)1月に、後年の作風を彷彿とさせる破滅的心情の詩「凶まがごと」を書く。
同年、母・倭文重に連れられ、下落合に住む詩人・川路柳虹を訪問し、以後何度か師事を受けた。
倭文重の父・橋健三と川路柳虹は友人でもあった。
三島は同年2月に山路閑古主宰の月刊俳句雑誌『山梔くちなし』に俳句や詩歌を発表した。
三島は前年から、綽名のアオジロ、青びょうたん、白ッ子をもじって自ら「青城せいじょう」の俳号を名乗り、1年半ほどさかんに俳句や詩歌を『山梔』に投稿する。
三島は同年6月に文芸部委員に選出され(委員長は坊城俊民)、11月に、堀辰雄の文体の影響を受けた短編「彩絵硝子」を校内誌『輔仁会雑誌』に発表した。
これを読んだ同校先輩の東文彦から初めて手紙をもらったのを機に文通が始まり、同じく先輩の德川義恭とも交友を持ち始める
ことになったのである。
東は結核を患い、大森区(現・大田区)田園調布3-20の自宅で療養しながら室生犀星や堀辰雄の指導を受けて創作活動をしていたのである。
一方、坊城俊民との交友は徐々に疎遠となっていき、この時の複雑な心情は、のちに『詩を書く少年』に描かれる。
この少年時代は、ラディゲ、ワイルド、谷崎潤一郎のほか、ジャン・コクトー、リルケ、トーマス・マン、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、エドガー・アラン・ポー、リラダン、モオラン、ボードレール、メリメ、ジョイス、プルースト、カロッサ、ニーチェ、泉鏡花、芥川龍之介、志賀直哉、中原中也、田中冬二、立原道造、宮沢賢治、稲垣足穂、室生犀星、佐藤春夫、堀辰雄、伊東静雄、保田與重郎、梶井基次郎、川端康成、郡虎彦、森鷗外の戯曲、浄瑠璃、『万葉集』『古事記』『枕草子』『源氏物語』『和泉式部日記』なども愛読するようになったのである。
この頃の三島由紀夫はまさにすべての分野に興味を持ち、小説の執筆活動をしていたに違いないと私は思っている。
私は三島由紀夫の出発点であったと思っている。
まさに花ざかりの森である。
1941年(昭和16年)1月21日に父・梓が農林省水産局長に就任し、約3年間単身赴任していた大阪から帰京した。
相変わらず文学に夢中の息子を叱りつけ、原稿用紙を片っ端からビリビリ破いたのであった。
父・梓は怒り心頭に発したのであった。
「このおおばかもん。お前は何を考えている。この国家の一大事の時に。このばかたれが!」
三島(公威)は黙って下を向き、目に涙をためていたのであった。
そんな息子のために母・倭文重はこっそりと新たな原稿用紙やインクを調達して執筆を助けたのであった。母親の愛情であった。
同年4月、中等科5年に進級した公威は、7月に「花ざかりの森」を書き上げ、国語教師の清水文雄に原稿を郵送して批評を請うたのであった。
清水は、「私の内にそれまで眠っていたものが、はげしく呼びさまされ」るような感銘を受け、自身が所属する日本浪曼派系国文学雑誌『文藝文化』の同人たち(蓮田善明、池田勉、栗山理一)にも読ませるため、静岡県の伊豆修善寺温泉の新井旅館での一泊旅行を兼ねた編集会議に、その原稿を持参したのであった。
「花ざかりの森」を読んだ彼らは、「天才」が現われたことを祝福し合い、同誌掲載を即決したのである。
その際、同誌の読者圏が全国に広がっていたため、息子の文学活動を反対する父親の平岡梓の反応など、まだ16歳の公威の将来を案じ、本名「平岡公威」でなく、筆名を使わせることとなったのである。
清水は、「今しばらく平岡公威の実名を伏せて、その成長を静かに見守っていたい ‥‥
というのが、期せずして一致した同人の意向であった」と、合宿会議を回想している。
【三島由紀夫の誕生】
筆名を考えている時、清水たちの脳裏に「三島」を通ってきたことと、富士の白雪を見て「ゆきお」が思い浮かんできたのである。
帰京後、清水が筆名使用を提案すると、公威は当初本名を主張したが受け入れ、
「伊藤左千夫のような万葉風の名を希望したのである。結局「由紀雄」とし、「雄」の字が重すぎるという清水の助言で、「三島由紀夫」となった。「由紀」は、大嘗祭の神事に用いる新穀を奉るため選ばれた2つの国郡のうちの第1のものを指す「由紀」(斎忌、悠紀、由基)の字にちなんで付けられた。
リルケと保田與重郎の影響を受けた「花ざかりの森」は『文藝文化』昭和16年9月号から12月号に連載された。
第1回目の編集後記で蓮田善明は、「この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である」と激賞した。
この賞讃の言葉は、三島の意識に大きな影響を与えた。
この9月、三島は随想「惟神之道(かんながらのみち)」をノートに記し、〈地上と高天原との懸橋〉となる惟神之道の根本理念の〈まことごゝろ〉を〈人間本然のものでありながら日本人に於て最も顕著〉であり、〈豊葦原之邦の創造の精神である〉と、神道への深い傾倒を寄せた。
三島由紀夫が日本神道に目覚めた瞬間であ
った。
【伊勢神宮】
主祭神は以下の2柱です。
皇大神宮:内宮
天照坐皇大御神
一般には天照大御神として知られるます。
豊受大神宮:外宮
豊受大御神
外宮
内宮
日中戦争の拡大や日独伊三国同盟の締結によりイギリスやアメリカ合衆国と対立を深めていた日本は、この年になり行われた南部仏印進駐以降、次第に全面戦争突入が濃厚となるが、三島は「もう時期は遅いでせう」とも考えていたのである。
1941年12月8日に行われたマレー作戦と真珠湾攻撃によって、日本は日中戦争に続きついにイギリスやアメリカ、オランダなどの連合国とも開戦し、太平洋戦争(大東亜戦争)が始まったのである。
開戦当日、教室にやって来た馬術部の先輩から、「戦争がはじまった。しっかりやろう」と感激した口ぶりで話かけられ、三島も「私もなんともいへない興奮にかられました」
1942年(昭和17年)1月31日、三島は前年11月から書き始めていた評論「王朝心理文学小史」を学習院図書館懸賞論文として提出した。
この論文は、翌年1月に入選するのである。
3月24日、三島は席次2番で中等科を卒業し、4月に学習院高等科文科乙類(独語)に進んだ。三島は体操と物理の「中上」を除けば、きわめて優秀な学生であった。
運動は苦手であったが、高等科での教練の成績は常に「上」(甲)で、教官から根性があると精神力を褒められたことを、三島は誇りとしていたのである。
ドイツ語はロベルト・シンチンゲル(ドイツ語版)に師事し、ほかの教師も桜井和市、新関良三、野村行一(1957年の東宮大夫在職中に死去)らがいた。
後年ドナルド・キーンがドイツで講演をした際、一聴衆として会場にいたシンチンゲルが立ち上がり、「私は平岡君の(ドイツ語の)先生だった。彼が一番だった」と言ったエピソードや、野村行一から「自分はこんな物凄くできる生徒は初めて受け持った」と激賞されたことがあるなど三島はドイツ語は得意であった。
各地で日本軍が勝利を重ねていた同年4月、三島は大東亜戦争開戦の静かな感動を厳かに綴った詩「大詔」を『文藝文化』に発表した。
同年5月23日、文芸部委員長に選出された三島は7月1日に東文彦や德川義恭(東京帝国大学文学部に進学)と共に同人誌『赤繪』(『赤絵』)を創刊し、「苧菟と瑪耶を掲載した。
誌名の由来は志賀直哉の『万暦赤繪』にあやかって付けられた。
三島は彼らとの友情を深め、病床の東とはさらに文通を重ねた。
同年8月26日、祖父・定太郎が死亡(没年齢79歳)した。
三島は詩「挽歌一篇」を作った。
同年11月、学習院の講演依頼のため、清水文雄に連れられて保田與重郎と面会し、以後何度か訪問する。
三島は保田與重郎、蓮田善明、伊東静雄ら日本浪曼派の影響下で、詩や小説、随筆を同人誌『文藝文化』に発表し、特に蓮田の説く「皇国思想」「やまとごころ」「みやび」の心に感銘した。
三島が「みのもの月」、随筆「伊勢物語のこと」を掲載した昭和17年11月号には、蓮田が「神風連のこころ」と題した一文を掲載した。
これは蓮田にとって熊本済々黌の数年先輩にあたる森本忠が著した『神風連のこころ』(國民評論社、1942年)の書評であるが、この一文や森本の著書を読んでいた三島は、後年の1966年(昭和41年)8月に、神風連の地・熊本を訪れ、森本忠(熊本商科大学教授)と面会することになる。
ちなみに、三島の死後に村松剛が倭文重から聞いた話として、三島が中等科卒業前に一高の入試を受験し不合格となっていたという説もあるが、三島が中等科5年時の9月25日付の東文彦宛の書簡には、高等科は文科乙類(独語)にすると伝える記述があり、三島本人はそのまま文芸部の基盤が形成されていた学習院の高等科へ進む意思であったことが示されている。
なお、三島が一高を受験したかどうかは、母・倭文重の証言だけで事実関係が不明であるため、全集の年譜にも補足として、「学習院在学中には他校の受験はできなかったという説もある」と付記されている。
【戦時下の青春・大学進学と終戦】
1943年(昭和18年)2月24日、公威は学習院輔仁会の総務部総務幹事となった。
同年6月6日の輔仁会春季文化大会では、自作・演出の劇『やがてみ楯と』(2幕4場)が上演された(当初は翻訳劇を企画したが、時局に合わないということで山梨勝之進学習院長から許可が出ず、やむなく公威が創作劇を書いた。3月から10月まで『文藝文化』に「世々に残さん」を発表。同年5月、公威の「花ざかりの森」などの作品集を出版化することを伊東静雄と相談していた蓮田善明は、京都に住む富士正晴を紹介され、新人「三島」に興味を持っていた富士も出版に乗り気になった。
同年6月、月1回東京へ出張していた富士正晴は公威と会い、西巣鴨に住む医師で詩人の林富士馬宅へも連れていった。それ以降数年間、公威は林と文学的文通など親しく交際するようになった。8月、富士が公威の本の初出版について、「ひとがしないのならわたしが骨折つてでもしたい」と述べ。蓮田も、「国文学の中から語りいでられた霊のやうなひとである」と公威を讃えた。
蓮田は公威に葉書を送り、「詩友富士正晴氏が、あなたの小説の本を然るべき書店より出版することに熱心に考へられ目当てある由、もしよろしければ同氏の好意をうけられたく」と、作品原稿を富士に送付するよう勧めた。
英米との戦争が激化していく中、公威は明治以降、日本に影響を与えてきたイギリスやアメリカ文化を、〈アメリカのやうな劣弱下等な文化の国、あんなものにまけてたまるかと思ひます〉。米と英のあの愚人ども、俗人ども、と我々は永遠に戦ふべきでせう。俗な精神が世界を蔽うた時、それは世界の滅亡です〉と批判し、神聖な日本古代精神の勝利を願った。なお、公威は同盟国であるイタリアの最高指導者ベニート・ムッソリーニに好感を抱く一方で、ナチス・ドイツの総統アドルフ・ヒトラーには嫌悪感を持っていた。
同年10月8日、そんな便りをやり取りしていた東文彦が23歳の若さで急逝し、公威は弔辞を奉げた。東の死により、同人誌『赤繪』は2号で廃刊となった。文彦の父・東季彦によると、三島は死ぬまで文彦の命日に毎年欠かさず墓前参りに来ていたという。なお、この年に公威は杉並区成宗の堀辰雄宅を訪ね、堀から〈シンプルになれ〉という助言を受けていた。
当時の世情は国民に〈儀礼の強要〉をし、戦没兵士の追悼式など事あるごとにオーケストラが騒がしく「海往かば」を演奏し、ラウド・スピーカーで〈御託宣をならべる〉気風であったが、公威はそういった大仰さを、〈まるで浅草あたりの場末の芝居小屋の時局便乗劇そのまゝにて、冒瀆も甚だしく、憤懣にたへません〉と批判し、ただ心静かに〈戦歿勇士に祈念〉とだけ言えばいいのだと友人の德川義恭へ伝えている。
国民儀礼の強要は、結局、儀式いや祭事といふものへの伝統的な日本固有の感覚をズタズタにふみにじり、本末を顛倒し、挙句の果ては国家精神を型式化する謀略としか思へません。主旨がよい、となればテもなく是認されるこの頃のゆき方、これは芸術にとつてもつとも危険なことではありますまいか。今度の学制改革で来年か、さ来年、私も兵隊になるでせうが、それまで、日本の文学のために戦ひぬかねばならぬことが沢山あります。(中略)文学を護るとは、護国の大業です。文学者大会だなんだ、時局文学生産文学だ、と文学者がウロウロ・ソワソワ鼠のやうにうろついている時ではありません。
— 平岡公威「德川義恭宛ての書簡」(昭和18年9月25日付)
この年の10月には各地の戦線の状況が変わりつつあったことを受けて、在学徴集延期臨時特例が公布され、文科系の学生は徴兵猶予が停止された。
公威は早生まれのため該当しなかったが、来年20歳になる同級生のほとんど(大正13年4月以降の同年生まれ)は12月までに入隊が義務づけられた(学徒出陣)
それに先んじて、10月21日に雨の中、明治神宮外苑競技場にて盛大な「出陣学徒壮行会」が行なわれ、公威もそのニュースを重大な関心を持って聴いていた。
同年10月25日、蓮田善明は召集令状を受けて熊本へ行く前、「日本のあとのことをおまえに託した」と公威に言い遺し、
翌日、陸軍中尉の軍装と純白の手袋をして宮城前広場で皇居を拝んだ。
公威は日本の行く末と美的天皇主義(尊皇)を蓮田から託された形となった。
富士正晴も戦地へ向かう出兵前に、「にはかにお召しにあづかり三島君よりも早くゆくことになつたゆゑ、たまたま得し一首をば記しのこすに、よきひとと よきともとなり ひととせを こころはづみて おくりけるかな」という一首を公威に送った。
同年12月、徴兵適齢臨時特例が公布され、徴兵適齢が19歳に引き下げられることになった[143]。公威は来年に迫った自身の入隊を覚悟した。
徴兵検査を受けた旧加古川町公会堂
1944年(昭和19年)4月27日、公威も本籍地の兵庫県印南郡志方村村長発信の徴兵検査通達書を受け取り、5月16日、兵庫県加古郡加古川町(現・加古川市)の加古川町公会堂で徴兵検査を受けた[152]。公会堂の現在も残る松の下で、十貫(約40キログラム)の砂を入れた米俵を持ち上げるなどの検査もあった。
本籍地に程近い加古川で徴兵検査を受けたのは、〈田舎の隊で検査を受けた方がひよわさが目立つて採られないですむかもしれないといふ父の入れ知恵〉であったが、結果は第二乙種で合格となり、その隊に入隊することとなった(召集令状は翌年2月)、徴兵合格を知った母・倭文重は悲泣し、当てが外れた父・梓も気落ちした。
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【三島由紀夫の文学に対する熱意】「1」
私こと、蔵屋日唱はこの文面を読んだとき、
三島由紀夫(平岡公威)の文学にかける情熱に涙したのであった。
私の体中に足元から込み上げてくる三島由紀夫の情熱を感じたのである。
「あぁ、三島よ。何故、割腹自殺した。
あぁ、三島よ。生きよ。死ぬるな。
生きるんだ。三島よ。目を覚ませろ!馬鹿やろう!」
私の声は、あの世にいる三島由紀夫に届いたのであろうか?
級友の三谷信など、公威以外の同級生の全員が陸軍特別幹部候補生として志願していたが、公威はただ一人、幹部候補生も予備学生の試験を受けず、一兵卒として応召されるつもりであった。
それは、「遠からず、どの道を行っても死ぬのなら、1日でも長く普通の社会に居て、1行でも余計に書いておきたかったのだろう」と、平岡が「寸暇を惜しんで」執筆に励んでいた様子から、幹部候補より兵隊任務が「殊更大変」ではあるが応召日が遅い一兵卒の方を平岡が選んだ理由を三谷は理解した。
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徴兵検査合格の帰途の5月17日、大阪の住吉中学校で教師をしている伊東静雄を訪ね、支那出征前に一時帰郷していた富士正晴宅を一緒に訪ねた。
5月22日は、遺著となるであろう処女出版本『花ざかりの森』の序文を依頼するために伊東静雄の家に行くが、彼から悪感情を持たれて「学校に三時頃平岡来る。夕食を出す。俗人、神堀来る。リンゴを呉れる。九時頃までゐる。駅に送る」などと日記に書かれた。
しかし、伊東はのちに『花ざかりの森』献呈の返礼で、会う機会が少なすぎた感じがすることなどを公威に伝え、戦後には『岬にての物語』を読んで公威への評価を見直すことになる。
1944年(昭和19年)9月9日、学習院高等科を首席で卒業。卒業生総代となった。
卒業式には昭和天皇が臨席し、宮内省より天皇からの恩賜の銀時計を拝受され、駐日ドイツ大使からはドイツ文学の原書3冊(ナチスのハーケンクロイツ入り)をもらった。
御礼言上に、学習院長・山梨勝之進海軍大将と共に宮内へ参内し、謝恩会で華族会館から図書数冊も贈られた。
大学は文学部への進学という選択肢も念頭にはあったものの、父・梓の説得により、同年10月1日には東京帝国大学法学部法律学科(独法)に入学(推薦入学)した。
そこで学んだ団藤重光教授による刑事訴訟法講義の〈徹底した論理の進行〉に魅惑され、修得した法学の論理性が小説や戯曲の創作においてきわめて有用となり、のちに三島は父・梓に感謝する。
父は公威が文学に熱中することに反対して度々執筆活動を妨害していたが、息子を法学部に進学させたことにより、三島の文学に日本文学史上稀有な論理性をもたらしたことは梓の貢献であった。
出版統制の厳しく紙不足の中、〈この世の形見〉として『花ざかりの森』刊行に公威は奔走した。
用紙の確保は、父・梓が息子の形見になるかもしれないという思いから便宜を図っていたとされ、同年10月に処女短編集『花ざかりの森』(装幀は友人・德川義恭)が七丈書院で出版された。公威は17日に届いた見本本1冊をまず、入隊直前の三谷信に上野駅で献呈した。息子の文学活動に反対していた父・梓であったが、いずれ召集されてしまう公威のため、11月11日に上野(下谷区)池之端(現・台東区池之端)の中華料理店・雨月荘で出版記念会を開いてやり、母・倭文重、清水文雄ら『文藝文化』同人、徳川義恭、林富士馬などが出席した。
書店に並んだ『花ざかりの森』は、学生当時の吉本隆明や芥川比呂志らも買って読み、各高の文芸部や文学青年の間に学習院に「三島」という早熟な天才少年がいるという噂が流れた。
しかし、公威が同人となっていた日本浪曼派の『文藝文化』も物資不足や企業整備の流れの中、雑誌統合要請のために8月をもって通巻70号で終刊となっていた。
1945年(昭和20年)、いよいよ戦況は逼迫して大学の授業は中断され、公威は1月10日から「東京帝国大学勤労報国隊」として、群馬県新田郡太田町の中島飛行機小泉製作所に勤労動員され、総務部調査課配属となった。
事務作業に従事しつつ、公威は小説「中世」を書き続ける。
以前、保田與重郎に謡曲の文体について質問した際に期待した浪漫主義的答えを得られなかった思いを「中世」に書き綴ることで、人工的な豪華な言語による絶望感に裏打ちされた終末観の美学の作品化に挑戦し、中河与一の厚意によって第1回と第2回の途中までを雑誌『文藝世紀』に発表した。
誕生日の1月14日、思いがけず帰京でき、母・倭文重が焼いてくれたホットケーキを美味しく食べた。(この思い出は後年、遺作『天人五衰』に描かれることになる)。
2月4日に入営通知の電報が自宅へ届いた。公威は〈天皇陛下萬歳〉と終りに記した遺書を書き、遺髪と遺爪を用意した。
中島飛行機小泉製作所を離れることになったが、軍用機工場は前年から本格化していたアメリカ軍による日本本土空襲の優先目標であった。公威が入隊検査を受けた10日、小泉製作所はアメリカ軍の爆撃機による大空襲を受け、結果的に応召は三島の罹災をまぬがれさせる結果となった。
同年2月6日、髪を振り乱して泣く母・倭文重に見送られ、公威は父・梓と一緒に兵庫県富合村高岡廠舎へ出立した。
風邪で寝込んでいた母から移った気管支炎による眩暈や高熱の症状を出していた公威は、滞在先の志方村の知人の家(好田光伊宅)で手厚い看護を受けた。
解熱剤を服用し一旦小康状態になったものの、10日の入隊検査の折の丸裸の寒さでまた高熱となった公威は、新米の軍医からラッセルが聞こえると言われ、血沈も高い数値を示したため肺浸潤(結核の三期の症状)と診断され即日帰郷となった(その後の東京の病院の精密検査で誤診だと分かる)
その部隊の兵士たちはフィリピンに派遣され、多数が死傷してほぼ全滅した。
戦死を覚悟していたつもりが、医師の問診に同調し誇張した病状報告で答えた自身のこの時のアンビバレンスな感情が以後、三島の中で自問自答を繰り返す。
この身体の虚弱から来る気弱さや、行動から〈拒まれてゐる〉という意識が三島にとって生涯コンプレックスとなり、以降の彼に複雑な思い(常に死の観念を意識する死生観や、戦後は〈余生〉という感覚)を抱かせることになる。
梓が公威と共に自宅に戻ると一家は喜び有頂天となったが、公威は高熱と旅の疲れで1人ぼんやりとした様子で、「特攻隊に入りたかった」と真面目につぶやいたという。公威はその後4月、三谷信宛てに〈君と共に将来は、日本の文化を背負つて立つ意気込みですが、君が御奉公をすましてかへつてこられるまでに、僕が地固めをしておく心算です〉と伝え、神風特攻隊についての熱い思いを記した。
兵役は即日帰郷となったものの、一時の猶予を得たにすぎず、再び召集される可能性があった。
公威は、栗山理一を通じて野田宇太郎(『文藝』編集長)と知り合い、戦時下でただ一つ残った文芸誌『文藝』に「サーカス」と「エスガイの狩」を持ち込み、「エスガイの狩」が採用された。
処女短編集『花ざかりの森』は野田を通じ、3月に川端康成に献呈された。
川端は『文藝文化』の公威の作品群や「中世」を読んでいた。
群馬県の前橋陸軍士官学校にいる三谷信を、三谷の家族と共に慰問中の3月10日の夜、東京はアメリカ軍による大空襲に見舞われた(東京大空襲)。焦土と化した東京へ急いで戻り、公威は家族の無事を確認した
のであった。
三島は
1945年(昭和20年)5月5日から、東京よりも危険度の高い神奈川県高座郡大和の海軍高座工廠に勤労動員された。
終末観の中、公威は『和泉式部日記』『上田秋成全集』『古事記』『日本歌謡集成』『室町時代小説集』『葉隠』などの古典、泉鏡花、イェーツなどを濫読したのであった。
6月12日から数日間、軽井沢に疎開している恋人・三谷邦子(親友・三谷信の妹)に会いに行き、初めての接吻をした。
三島(公威)は邦子に自分の想いを伝えた。
「邦子。好きだ。愛してる」
三島(公威)と邦子は唇を重ねたのである。
三島は邦子の口の中に舌を入れた。
邦子は三島の舌に吸い付ああた。
三島と邦子は激しいペロキスをした。
三島と邦子は抱き合い、お互いの愛を確かめあった。二人はその場で激しく愛しあった。それは戦時下でいつ命を落とすかもしれない儚さからくるいっ時のことだからこそ、二人はその場で燃えつきるほど、激しく求めて愛し合ったのである。
帰京後の7月、戦禍が悪化して空襲が激しくなる中、公威は遺作となることを意識した「岬にての物語」を書き始めたのである。
三島はいつ死ぬか、分からぬ戦時下の不安の中にいたのであった。
1945年(昭和20年)8月6日、9日と相次ぎ、広島と長崎に原子爆弾が投下された。
公威は「世界の終りだ」と道行く人々に声をかけていた。
三島(公威)は虚無的な気分になり、わざと上空から目立つ白いシャツを着て歩いた。
8日にはソビエト連邦が日本に宣戦布告し、翌9日に満州や樺太に侵攻してきたのだ。敗戦国になる一週間前のことであった。
8月10日、三島(公威)は高熱と頭痛のため高座工廠から、一家が疎開していた豪徳寺の親戚の家に帰宅し、梅肉エキスを舐めながら床に伏せったのであった。
8月15日に終戦を迎えてラジオの玉音放送を三島(公威)は父・梓と一緒に聞いていた。
すると父・梓が言った。
「これからは芸術家の世の中だから、やっぱり小説家になったらいい」と。
以来、三島(公威)は積極的に小説の執筆活動に専念するのである。
三島(公威)は、この年の秋、8歳年上の高等科3年の文芸部員・坊城俊民と出会い、文学交遊を結んだのであった。
初対面の時の三島(公威)の印象を坊城は「人波をかきわけて、華奢な少年が、帽子をかぶりなおしながらあらわれた。首が細く、皮膚がまっ白だった。目深な学帽の庇の奥に、大きな瞳が見ひらかれている。『平岡公威です』 高からず、低からず、その声が私の気に入った」とし、その時の光景を以下のように語っている。
「文芸部の坊城だ」 彼はすでに私の名を知っていたらしく、その目がなごんだ。「きみが投稿した詩、“秋二篇”だったね、今度の輔仁会雑誌にのせるように、委員に言っておいた」 私は学習院で使われている二人称“貴様”は用いなかった。
彼があまりにも幼く見えたので。‥‥「これは、文芸部の雑誌“雪線”だ。おれの小説が出ているから読んでくれ。きみの詩の批評もはさんである」 三島は全身にはじらいを示し、それを受け取った。私はかすかにうなずいた。もう行ってもよろしい、という合図である。
三島は一瞬躊躇し、思いきったように、挙手の礼をした。
このやや不器用な敬礼や、はじらいの中に、私は少年のやさしい魂を垣間見たと思った。
三島(公威)は1938年(昭和13年)1月頃、初めての短編小説「酸模すかんぽう‥‥秋彦の幼き思ひ出」を書き、同時期の「座禅物語」などとともに3月の『輔仁会雑誌』に発表されたのであった。
三島(公威)はこの頃、学校の剣道の早朝寒稽古に率先して起床していた。
「お母さん、この味噌汁、堪らないよ。美味しいよ。ぼくの健康になによりだよ。
いつもありがとう。僕の健康を気遣ってくれて。僕、しっかり食べて丈夫な体になるからね(笑い)」
三島(公威)はいつも言っていた。
稽古のあとに出される味噌汁がうまくてたまらないと友達に自慢するなど、中等科に上がり徐々に身体も丈夫になっていった。
三島(公威)は初めて歌舞伎の世界と出会ったのだ。
同年10月、祖母・夏子に連れられて初めて歌舞伎(『仮名手本忠臣蔵』)を観劇し、初めての能(天岩戸の神遊びを題材にした『三輪』)も母方の祖母・橋トミにも連れられて観た。この体験以降、三島(公威)は歌舞伎や能の観劇に夢中になり、三島はその後17歳から観劇記録「平岡公威劇評集」(「芝居日記」)を付け始めたという。
1939年(昭和14年)1月18日、祖母・夏子が潰瘍出血のため、小石川区駕籠町(現・文京区本駒込)の山川内科医院で死去(没年齢62歳)した。62才という早い死であった。
同年4月、前年から学習院に転任していた清水文雄が国語の担当となったのである。
国文法、作文の教師に加わった。和泉式部研究家でもある清水は三島の生涯の師となり、三島に平安朝文学への目を開かせたのである。
ドイツの侵攻により欧州の戦火は激しさをました。
同年9月、ヨーロッパではドイツ国のポーランド侵攻を受けて、フランスとイギリスがドイツに宣戦布告し、ヨーロッパから第二次世界大戦が始まった。
三島は1940年(昭和15年)1月に、後年の作風を彷彿とさせる破滅的心情の詩「凶まがごと」を書く。
同年、母・倭文重に連れられ、下落合に住む詩人・川路柳虹を訪問し、以後何度か師事を受けた。
倭文重の父・橋健三と川路柳虹は友人でもあった。
三島は同年2月に山路閑古主宰の月刊俳句雑誌『山梔くちなし』に俳句や詩歌を発表した。
三島は前年から、綽名のアオジロ、青びょうたん、白ッ子をもじって自ら「青城せいじょう」の俳号を名乗り、1年半ほどさかんに俳句や詩歌を『山梔』に投稿する。
三島は同年6月に文芸部委員に選出され(委員長は坊城俊民)、11月に、堀辰雄の文体の影響を受けた短編「彩絵硝子」を校内誌『輔仁会雑誌』に発表した。
これを読んだ同校先輩の東文彦から初めて手紙をもらったのを機に文通が始まり、同じく先輩の德川義恭とも交友を持ち始める
ことになったのである。
東は結核を患い、大森区(現・大田区)田園調布3-20の自宅で療養しながら室生犀星や堀辰雄の指導を受けて創作活動をしていたのである。
一方、坊城俊民との交友は徐々に疎遠となっていき、この時の複雑な心情は、のちに『詩を書く少年』に描かれる。
この少年時代は、ラディゲ、ワイルド、谷崎潤一郎のほか、ジャン・コクトー、リルケ、トーマス・マン、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、エドガー・アラン・ポー、リラダン、モオラン、ボードレール、メリメ、ジョイス、プルースト、カロッサ、ニーチェ、泉鏡花、芥川龍之介、志賀直哉、中原中也、田中冬二、立原道造、宮沢賢治、稲垣足穂、室生犀星、佐藤春夫、堀辰雄、伊東静雄、保田與重郎、梶井基次郎、川端康成、郡虎彦、森鷗外の戯曲、浄瑠璃、『万葉集』『古事記』『枕草子』『源氏物語』『和泉式部日記』なども愛読するようになったのである。
この頃の三島由紀夫はまさにすべての分野に興味を持ち、小説の執筆活動をしていたに違いないと私は思っている。
私は三島由紀夫の出発点であったと思っている。
まさに花ざかりの森である。
1941年(昭和16年)1月21日に父・梓が農林省水産局長に就任し、約3年間単身赴任していた大阪から帰京した。
相変わらず文学に夢中の息子を叱りつけ、原稿用紙を片っ端からビリビリ破いたのであった。
父・梓は怒り心頭に発したのであった。
「このおおばかもん。お前は何を考えている。この国家の一大事の時に。このばかたれが!」
三島(公威)は黙って下を向き、目に涙をためていたのであった。
そんな息子のために母・倭文重はこっそりと新たな原稿用紙やインクを調達して執筆を助けたのであった。母親の愛情であった。
同年4月、中等科5年に進級した公威は、7月に「花ざかりの森」を書き上げ、国語教師の清水文雄に原稿を郵送して批評を請うたのであった。
清水は、「私の内にそれまで眠っていたものが、はげしく呼びさまされ」るような感銘を受け、自身が所属する日本浪曼派系国文学雑誌『文藝文化』の同人たち(蓮田善明、池田勉、栗山理一)にも読ませるため、静岡県の伊豆修善寺温泉の新井旅館での一泊旅行を兼ねた編集会議に、その原稿を持参したのであった。
「花ざかりの森」を読んだ彼らは、「天才」が現われたことを祝福し合い、同誌掲載を即決したのである。
その際、同誌の読者圏が全国に広がっていたため、息子の文学活動を反対する父親の平岡梓の反応など、まだ16歳の公威の将来を案じ、本名「平岡公威」でなく、筆名を使わせることとなったのである。
清水は、「今しばらく平岡公威の実名を伏せて、その成長を静かに見守っていたい ‥‥
というのが、期せずして一致した同人の意向であった」と、合宿会議を回想している。
【三島由紀夫の誕生】
筆名を考えている時、清水たちの脳裏に「三島」を通ってきたことと、富士の白雪を見て「ゆきお」が思い浮かんできたのである。
帰京後、清水が筆名使用を提案すると、公威は当初本名を主張したが受け入れ、
「伊藤左千夫のような万葉風の名を希望したのである。結局「由紀雄」とし、「雄」の字が重すぎるという清水の助言で、「三島由紀夫」となった。「由紀」は、大嘗祭の神事に用いる新穀を奉るため選ばれた2つの国郡のうちの第1のものを指す「由紀」(斎忌、悠紀、由基)の字にちなんで付けられた。
リルケと保田與重郎の影響を受けた「花ざかりの森」は『文藝文化』昭和16年9月号から12月号に連載された。
第1回目の編集後記で蓮田善明は、「この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である」と激賞した。
この賞讃の言葉は、三島の意識に大きな影響を与えた。
この9月、三島は随想「惟神之道(かんながらのみち)」をノートに記し、〈地上と高天原との懸橋〉となる惟神之道の根本理念の〈まことごゝろ〉を〈人間本然のものでありながら日本人に於て最も顕著〉であり、〈豊葦原之邦の創造の精神である〉と、神道への深い傾倒を寄せた。
三島由紀夫が日本神道に目覚めた瞬間であ
った。
【伊勢神宮】
主祭神は以下の2柱です。
皇大神宮:内宮
天照坐皇大御神
一般には天照大御神として知られるます。
豊受大神宮:外宮
豊受大御神
外宮
内宮
日中戦争の拡大や日独伊三国同盟の締結によりイギリスやアメリカ合衆国と対立を深めていた日本は、この年になり行われた南部仏印進駐以降、次第に全面戦争突入が濃厚となるが、三島は「もう時期は遅いでせう」とも考えていたのである。
1941年12月8日に行われたマレー作戦と真珠湾攻撃によって、日本は日中戦争に続きついにイギリスやアメリカ、オランダなどの連合国とも開戦し、太平洋戦争(大東亜戦争)が始まったのである。
開戦当日、教室にやって来た馬術部の先輩から、「戦争がはじまった。しっかりやろう」と感激した口ぶりで話かけられ、三島も「私もなんともいへない興奮にかられました」
1942年(昭和17年)1月31日、三島は前年11月から書き始めていた評論「王朝心理文学小史」を学習院図書館懸賞論文として提出した。
この論文は、翌年1月に入選するのである。
3月24日、三島は席次2番で中等科を卒業し、4月に学習院高等科文科乙類(独語)に進んだ。三島は体操と物理の「中上」を除けば、きわめて優秀な学生であった。
運動は苦手であったが、高等科での教練の成績は常に「上」(甲)で、教官から根性があると精神力を褒められたことを、三島は誇りとしていたのである。
ドイツ語はロベルト・シンチンゲル(ドイツ語版)に師事し、ほかの教師も桜井和市、新関良三、野村行一(1957年の東宮大夫在職中に死去)らがいた。
後年ドナルド・キーンがドイツで講演をした際、一聴衆として会場にいたシンチンゲルが立ち上がり、「私は平岡君の(ドイツ語の)先生だった。彼が一番だった」と言ったエピソードや、野村行一から「自分はこんな物凄くできる生徒は初めて受け持った」と激賞されたことがあるなど三島はドイツ語は得意であった。
各地で日本軍が勝利を重ねていた同年4月、三島は大東亜戦争開戦の静かな感動を厳かに綴った詩「大詔」を『文藝文化』に発表した。
同年5月23日、文芸部委員長に選出された三島は7月1日に東文彦や德川義恭(東京帝国大学文学部に進学)と共に同人誌『赤繪』(『赤絵』)を創刊し、「苧菟と瑪耶を掲載した。
誌名の由来は志賀直哉の『万暦赤繪』にあやかって付けられた。
三島は彼らとの友情を深め、病床の東とはさらに文通を重ねた。
同年8月26日、祖父・定太郎が死亡(没年齢79歳)した。
三島は詩「挽歌一篇」を作った。
同年11月、学習院の講演依頼のため、清水文雄に連れられて保田與重郎と面会し、以後何度か訪問する。
三島は保田與重郎、蓮田善明、伊東静雄ら日本浪曼派の影響下で、詩や小説、随筆を同人誌『文藝文化』に発表し、特に蓮田の説く「皇国思想」「やまとごころ」「みやび」の心に感銘した。
三島が「みのもの月」、随筆「伊勢物語のこと」を掲載した昭和17年11月号には、蓮田が「神風連のこころ」と題した一文を掲載した。
これは蓮田にとって熊本済々黌の数年先輩にあたる森本忠が著した『神風連のこころ』(國民評論社、1942年)の書評であるが、この一文や森本の著書を読んでいた三島は、後年の1966年(昭和41年)8月に、神風連の地・熊本を訪れ、森本忠(熊本商科大学教授)と面会することになる。
ちなみに、三島の死後に村松剛が倭文重から聞いた話として、三島が中等科卒業前に一高の入試を受験し不合格となっていたという説もあるが、三島が中等科5年時の9月25日付の東文彦宛の書簡には、高等科は文科乙類(独語)にすると伝える記述があり、三島本人はそのまま文芸部の基盤が形成されていた学習院の高等科へ進む意思であったことが示されている。
なお、三島が一高を受験したかどうかは、母・倭文重の証言だけで事実関係が不明であるため、全集の年譜にも補足として、「学習院在学中には他校の受験はできなかったという説もある」と付記されている。
【戦時下の青春・大学進学と終戦】
1943年(昭和18年)2月24日、公威は学習院輔仁会の総務部総務幹事となった。
同年6月6日の輔仁会春季文化大会では、自作・演出の劇『やがてみ楯と』(2幕4場)が上演された(当初は翻訳劇を企画したが、時局に合わないということで山梨勝之進学習院長から許可が出ず、やむなく公威が創作劇を書いた。3月から10月まで『文藝文化』に「世々に残さん」を発表。同年5月、公威の「花ざかりの森」などの作品集を出版化することを伊東静雄と相談していた蓮田善明は、京都に住む富士正晴を紹介され、新人「三島」に興味を持っていた富士も出版に乗り気になった。
同年6月、月1回東京へ出張していた富士正晴は公威と会い、西巣鴨に住む医師で詩人の林富士馬宅へも連れていった。それ以降数年間、公威は林と文学的文通など親しく交際するようになった。8月、富士が公威の本の初出版について、「ひとがしないのならわたしが骨折つてでもしたい」と述べ。蓮田も、「国文学の中から語りいでられた霊のやうなひとである」と公威を讃えた。
蓮田は公威に葉書を送り、「詩友富士正晴氏が、あなたの小説の本を然るべき書店より出版することに熱心に考へられ目当てある由、もしよろしければ同氏の好意をうけられたく」と、作品原稿を富士に送付するよう勧めた。
英米との戦争が激化していく中、公威は明治以降、日本に影響を与えてきたイギリスやアメリカ文化を、〈アメリカのやうな劣弱下等な文化の国、あんなものにまけてたまるかと思ひます〉。米と英のあの愚人ども、俗人ども、と我々は永遠に戦ふべきでせう。俗な精神が世界を蔽うた時、それは世界の滅亡です〉と批判し、神聖な日本古代精神の勝利を願った。なお、公威は同盟国であるイタリアの最高指導者ベニート・ムッソリーニに好感を抱く一方で、ナチス・ドイツの総統アドルフ・ヒトラーには嫌悪感を持っていた。
同年10月8日、そんな便りをやり取りしていた東文彦が23歳の若さで急逝し、公威は弔辞を奉げた。東の死により、同人誌『赤繪』は2号で廃刊となった。文彦の父・東季彦によると、三島は死ぬまで文彦の命日に毎年欠かさず墓前参りに来ていたという。なお、この年に公威は杉並区成宗の堀辰雄宅を訪ね、堀から〈シンプルになれ〉という助言を受けていた。
当時の世情は国民に〈儀礼の強要〉をし、戦没兵士の追悼式など事あるごとにオーケストラが騒がしく「海往かば」を演奏し、ラウド・スピーカーで〈御託宣をならべる〉気風であったが、公威はそういった大仰さを、〈まるで浅草あたりの場末の芝居小屋の時局便乗劇そのまゝにて、冒瀆も甚だしく、憤懣にたへません〉と批判し、ただ心静かに〈戦歿勇士に祈念〉とだけ言えばいいのだと友人の德川義恭へ伝えている。
国民儀礼の強要は、結局、儀式いや祭事といふものへの伝統的な日本固有の感覚をズタズタにふみにじり、本末を顛倒し、挙句の果ては国家精神を型式化する謀略としか思へません。主旨がよい、となればテもなく是認されるこの頃のゆき方、これは芸術にとつてもつとも危険なことではありますまいか。今度の学制改革で来年か、さ来年、私も兵隊になるでせうが、それまで、日本の文学のために戦ひぬかねばならぬことが沢山あります。(中略)文学を護るとは、護国の大業です。文学者大会だなんだ、時局文学生産文学だ、と文学者がウロウロ・ソワソワ鼠のやうにうろついている時ではありません。
— 平岡公威「德川義恭宛ての書簡」(昭和18年9月25日付)
この年の10月には各地の戦線の状況が変わりつつあったことを受けて、在学徴集延期臨時特例が公布され、文科系の学生は徴兵猶予が停止された。
公威は早生まれのため該当しなかったが、来年20歳になる同級生のほとんど(大正13年4月以降の同年生まれ)は12月までに入隊が義務づけられた(学徒出陣)
それに先んじて、10月21日に雨の中、明治神宮外苑競技場にて盛大な「出陣学徒壮行会」が行なわれ、公威もそのニュースを重大な関心を持って聴いていた。
同年10月25日、蓮田善明は召集令状を受けて熊本へ行く前、「日本のあとのことをおまえに託した」と公威に言い遺し、
翌日、陸軍中尉の軍装と純白の手袋をして宮城前広場で皇居を拝んだ。
公威は日本の行く末と美的天皇主義(尊皇)を蓮田から託された形となった。
富士正晴も戦地へ向かう出兵前に、「にはかにお召しにあづかり三島君よりも早くゆくことになつたゆゑ、たまたま得し一首をば記しのこすに、よきひとと よきともとなり ひととせを こころはづみて おくりけるかな」という一首を公威に送った。
同年12月、徴兵適齢臨時特例が公布され、徴兵適齢が19歳に引き下げられることになった[143]。公威は来年に迫った自身の入隊を覚悟した。
徴兵検査を受けた旧加古川町公会堂
1944年(昭和19年)4月27日、公威も本籍地の兵庫県印南郡志方村村長発信の徴兵検査通達書を受け取り、5月16日、兵庫県加古郡加古川町(現・加古川市)の加古川町公会堂で徴兵検査を受けた[152]。公会堂の現在も残る松の下で、十貫(約40キログラム)の砂を入れた米俵を持ち上げるなどの検査もあった。
本籍地に程近い加古川で徴兵検査を受けたのは、〈田舎の隊で検査を受けた方がひよわさが目立つて採られないですむかもしれないといふ父の入れ知恵〉であったが、結果は第二乙種で合格となり、その隊に入隊することとなった(召集令状は翌年2月)、徴兵合格を知った母・倭文重は悲泣し、当てが外れた父・梓も気落ちした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【三島由紀夫の文学に対する熱意】「1」
私こと、蔵屋日唱はこの文面を読んだとき、
三島由紀夫(平岡公威)の文学にかける情熱に涙したのであった。
私の体中に足元から込み上げてくる三島由紀夫の情熱を感じたのである。
「あぁ、三島よ。何故、割腹自殺した。
あぁ、三島よ。生きよ。死ぬるな。
生きるんだ。三島よ。目を覚ませろ!馬鹿やろう!」
私の声は、あの世にいる三島由紀夫に届いたのであろうか?
級友の三谷信など、公威以外の同級生の全員が陸軍特別幹部候補生として志願していたが、公威はただ一人、幹部候補生も予備学生の試験を受けず、一兵卒として応召されるつもりであった。
それは、「遠からず、どの道を行っても死ぬのなら、1日でも長く普通の社会に居て、1行でも余計に書いておきたかったのだろう」と、平岡が「寸暇を惜しんで」執筆に励んでいた様子から、幹部候補より兵隊任務が「殊更大変」ではあるが応召日が遅い一兵卒の方を平岡が選んだ理由を三谷は理解した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
徴兵検査合格の帰途の5月17日、大阪の住吉中学校で教師をしている伊東静雄を訪ね、支那出征前に一時帰郷していた富士正晴宅を一緒に訪ねた。
5月22日は、遺著となるであろう処女出版本『花ざかりの森』の序文を依頼するために伊東静雄の家に行くが、彼から悪感情を持たれて「学校に三時頃平岡来る。夕食を出す。俗人、神堀来る。リンゴを呉れる。九時頃までゐる。駅に送る」などと日記に書かれた。
しかし、伊東はのちに『花ざかりの森』献呈の返礼で、会う機会が少なすぎた感じがすることなどを公威に伝え、戦後には『岬にての物語』を読んで公威への評価を見直すことになる。
1944年(昭和19年)9月9日、学習院高等科を首席で卒業。卒業生総代となった。
卒業式には昭和天皇が臨席し、宮内省より天皇からの恩賜の銀時計を拝受され、駐日ドイツ大使からはドイツ文学の原書3冊(ナチスのハーケンクロイツ入り)をもらった。
御礼言上に、学習院長・山梨勝之進海軍大将と共に宮内へ参内し、謝恩会で華族会館から図書数冊も贈られた。
大学は文学部への進学という選択肢も念頭にはあったものの、父・梓の説得により、同年10月1日には東京帝国大学法学部法律学科(独法)に入学(推薦入学)した。
そこで学んだ団藤重光教授による刑事訴訟法講義の〈徹底した論理の進行〉に魅惑され、修得した法学の論理性が小説や戯曲の創作においてきわめて有用となり、のちに三島は父・梓に感謝する。
父は公威が文学に熱中することに反対して度々執筆活動を妨害していたが、息子を法学部に進学させたことにより、三島の文学に日本文学史上稀有な論理性をもたらしたことは梓の貢献であった。
出版統制の厳しく紙不足の中、〈この世の形見〉として『花ざかりの森』刊行に公威は奔走した。
用紙の確保は、父・梓が息子の形見になるかもしれないという思いから便宜を図っていたとされ、同年10月に処女短編集『花ざかりの森』(装幀は友人・德川義恭)が七丈書院で出版された。公威は17日に届いた見本本1冊をまず、入隊直前の三谷信に上野駅で献呈した。息子の文学活動に反対していた父・梓であったが、いずれ召集されてしまう公威のため、11月11日に上野(下谷区)池之端(現・台東区池之端)の中華料理店・雨月荘で出版記念会を開いてやり、母・倭文重、清水文雄ら『文藝文化』同人、徳川義恭、林富士馬などが出席した。
書店に並んだ『花ざかりの森』は、学生当時の吉本隆明や芥川比呂志らも買って読み、各高の文芸部や文学青年の間に学習院に「三島」という早熟な天才少年がいるという噂が流れた。
しかし、公威が同人となっていた日本浪曼派の『文藝文化』も物資不足や企業整備の流れの中、雑誌統合要請のために8月をもって通巻70号で終刊となっていた。
1945年(昭和20年)、いよいよ戦況は逼迫して大学の授業は中断され、公威は1月10日から「東京帝国大学勤労報国隊」として、群馬県新田郡太田町の中島飛行機小泉製作所に勤労動員され、総務部調査課配属となった。
事務作業に従事しつつ、公威は小説「中世」を書き続ける。
以前、保田與重郎に謡曲の文体について質問した際に期待した浪漫主義的答えを得られなかった思いを「中世」に書き綴ることで、人工的な豪華な言語による絶望感に裏打ちされた終末観の美学の作品化に挑戦し、中河与一の厚意によって第1回と第2回の途中までを雑誌『文藝世紀』に発表した。
誕生日の1月14日、思いがけず帰京でき、母・倭文重が焼いてくれたホットケーキを美味しく食べた。(この思い出は後年、遺作『天人五衰』に描かれることになる)。
2月4日に入営通知の電報が自宅へ届いた。公威は〈天皇陛下萬歳〉と終りに記した遺書を書き、遺髪と遺爪を用意した。
中島飛行機小泉製作所を離れることになったが、軍用機工場は前年から本格化していたアメリカ軍による日本本土空襲の優先目標であった。公威が入隊検査を受けた10日、小泉製作所はアメリカ軍の爆撃機による大空襲を受け、結果的に応召は三島の罹災をまぬがれさせる結果となった。
同年2月6日、髪を振り乱して泣く母・倭文重に見送られ、公威は父・梓と一緒に兵庫県富合村高岡廠舎へ出立した。
風邪で寝込んでいた母から移った気管支炎による眩暈や高熱の症状を出していた公威は、滞在先の志方村の知人の家(好田光伊宅)で手厚い看護を受けた。
解熱剤を服用し一旦小康状態になったものの、10日の入隊検査の折の丸裸の寒さでまた高熱となった公威は、新米の軍医からラッセルが聞こえると言われ、血沈も高い数値を示したため肺浸潤(結核の三期の症状)と診断され即日帰郷となった(その後の東京の病院の精密検査で誤診だと分かる)
その部隊の兵士たちはフィリピンに派遣され、多数が死傷してほぼ全滅した。
戦死を覚悟していたつもりが、医師の問診に同調し誇張した病状報告で答えた自身のこの時のアンビバレンスな感情が以後、三島の中で自問自答を繰り返す。
この身体の虚弱から来る気弱さや、行動から〈拒まれてゐる〉という意識が三島にとって生涯コンプレックスとなり、以降の彼に複雑な思い(常に死の観念を意識する死生観や、戦後は〈余生〉という感覚)を抱かせることになる。
梓が公威と共に自宅に戻ると一家は喜び有頂天となったが、公威は高熱と旅の疲れで1人ぼんやりとした様子で、「特攻隊に入りたかった」と真面目につぶやいたという。公威はその後4月、三谷信宛てに〈君と共に将来は、日本の文化を背負つて立つ意気込みですが、君が御奉公をすましてかへつてこられるまでに、僕が地固めをしておく心算です〉と伝え、神風特攻隊についての熱い思いを記した。
兵役は即日帰郷となったものの、一時の猶予を得たにすぎず、再び召集される可能性があった。
公威は、栗山理一を通じて野田宇太郎(『文藝』編集長)と知り合い、戦時下でただ一つ残った文芸誌『文藝』に「サーカス」と「エスガイの狩」を持ち込み、「エスガイの狩」が採用された。
処女短編集『花ざかりの森』は野田を通じ、3月に川端康成に献呈された。
川端は『文藝文化』の公威の作品群や「中世」を読んでいた。
群馬県の前橋陸軍士官学校にいる三谷信を、三谷の家族と共に慰問中の3月10日の夜、東京はアメリカ軍による大空襲に見舞われた(東京大空襲)。焦土と化した東京へ急いで戻り、公威は家族の無事を確認した
のであった。
三島は
1945年(昭和20年)5月5日から、東京よりも危険度の高い神奈川県高座郡大和の海軍高座工廠に勤労動員された。
終末観の中、公威は『和泉式部日記』『上田秋成全集』『古事記』『日本歌謡集成』『室町時代小説集』『葉隠』などの古典、泉鏡花、イェーツなどを濫読したのであった。
6月12日から数日間、軽井沢に疎開している恋人・三谷邦子(親友・三谷信の妹)に会いに行き、初めての接吻をした。
三島(公威)は邦子に自分の想いを伝えた。
「邦子。好きだ。愛してる」
三島(公威)と邦子は唇を重ねたのである。
三島は邦子の口の中に舌を入れた。
邦子は三島の舌に吸い付ああた。
三島と邦子は激しいペロキスをした。
三島と邦子は抱き合い、お互いの愛を確かめあった。二人はその場で激しく愛しあった。それは戦時下でいつ命を落とすかもしれない儚さからくるいっ時のことだからこそ、二人はその場で燃えつきるほど、激しく求めて愛し合ったのである。
帰京後の7月、戦禍が悪化して空襲が激しくなる中、公威は遺作となることを意識した「岬にての物語」を書き始めたのである。
三島はいつ死ぬか、分からぬ戦時下の不安の中にいたのであった。
1945年(昭和20年)8月6日、9日と相次ぎ、広島と長崎に原子爆弾が投下された。
公威は「世界の終りだ」と道行く人々に声をかけていた。
三島(公威)は虚無的な気分になり、わざと上空から目立つ白いシャツを着て歩いた。
8日にはソビエト連邦が日本に宣戦布告し、翌9日に満州や樺太に侵攻してきたのだ。敗戦国になる一週間前のことであった。
8月10日、三島(公威)は高熱と頭痛のため高座工廠から、一家が疎開していた豪徳寺の親戚の家に帰宅し、梅肉エキスを舐めながら床に伏せったのであった。
8月15日に終戦を迎えてラジオの玉音放送を三島(公威)は父・梓と一緒に聞いていた。
すると父・梓が言った。
「これからは芸術家の世の中だから、やっぱり小説家になったらいい」と。
以来、三島(公威)は積極的に小説の執筆活動に専念するのである。
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