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第6話『奥様は魔力無効化(アンチ・マジック)』
鉱山街への視察から数日が経ちました。 あの日を境に、黒鷲城の雰囲気は劇的に変化していました。
かつては「死の城」「魔窟」などと呼ばれ、常に重苦しい空気が漂っていたこの場所は、今や活気に満ちた「生活の場」へと生まれ変わろうとしています。
「奥様、こちらのカーテンですが、明るい色に取り替えてみました!」 「奥様、中庭の花壇に植える球根が届きました!」 「奥様、今日の昼食は新作のキッシュです。味見をお願いします!」
私が廊下を歩くだけで、メイドや執事たちがキラキラした目で寄ってきます。 彼らはもう、私を「かわいそうな生贄」としては見ていません。 この城に革命をもたらす「指導者」として、あるいは親しみやすい「アイドル」のように扱ってくれているのです。
「ええ、ありがとう。とても素敵だわ」
私が笑顔で応えると、彼らは頬を染めて喜びます。 使用人たちが明るくなると、自然と城全体の空気も軽くなります。 窓が開け放たれ、新鮮な空気が循環し、埃っぽかった廊下は磨き上げられてピカピカに輝いています。
そんな平和な日常の中で、ただ一つ、変わらない……いいえ、さらに悪化(?)している問題がありました。
「……エルサ」
背後から、低い声とともに、ずっしりとした重みがのしかかってきました。 振り返るまでもなく、私の旦那様、ジークハルト様です。
彼は背後から私を抱きしめ、肩に顎を乗せて甘えたような声を出しています。 もちろん、周囲の使用人たちは「見なかったこと」にするスキルを習得済みですので、壁の花になりきって直立不動を保っています。
「旦那様、どうされたのですか? 今は執務の時間のはずでは?」
「集中できない。お前の姿が見えないと、書類の文字が全部お前の顔に見えてくる」
「それは重症ですね……。お医者様を呼びましょうか?」
「必要ない。特効薬はここにある」
彼はそう言って、私の首筋に顔を埋め、深呼吸をしました。 スーッ、ハァーッ、と肺の空気をすべて入れ替えるような勢いです。 くすぐったくて身をよじると、彼はさらに強く腕を回してきました。
「……充電完了」
数分後、彼は満足げに顔を上げました。
「これで一時間は戦える。……じゃあな、エルサ。あまり無理はするなよ」
彼は名残惜しそうに私の頭を撫でると、翻って執務室へと戻っていきました。 その背中は、先ほどまでの甘えん坊モードが嘘のように、凛とした領主の威厳を取り戻していました。
「……ふふ、旦那様ったら」
私は苦笑しながら彼を見送りました。 最近のジークハルト様は、まるで分離不安症の子供のように、隙あらば私に触れようとします。 もちろん、愛されているのは嬉しいのですが、少し心配になることもありました。
彼は時折、とても苦しそうな顔をするのです。 私に触れているときは穏やかなのですが、離れた瞬間に、ふっと影が差すような。 まるで、見えない重荷に耐えているような表情を見せることがありました。
その理由が何なのか、私にはまだ、正確にはわかっていませんでした。 ただの「魔力が強いゆえの体調不良」だと思っていたのです。 あの日が来るまでは。
◇
それは、北の空が不気味な紫色に染まった日のことでした。
朝から、城内の空気がピリピリと張り詰めていました。 使用人たちの顔色が悪く、どこか怯えているように見えます。 窓ガラスが、風もないのにカタカタと震えていました。
「どうしたの? みんな、様子がおかしいわ」
私が尋ねると、古株のメイド長が震える声で教えてくれました。
「『魔の嵐(マナ・ストーム)』が近づいているのです、奥様」
「魔の嵐?」
「はい。北の山脈から吹き下ろす、高濃度の魔力を含んだ嵐です。これが発生すると、大気中の魔力が乱れ、魔物たちが活性化し……そして何より、旦那様の体調が著しく悪化するのです」
彼女の言葉が終わるか終わらないかのうちに、ズドンッ!という地響きが城を揺らしました。
「きゃっ!」
悲鳴を上げてしゃがみ込むメイドたち。 揺れは地震によるものではありませんでした。 城の中心部、つまりジークハルト様の執務室がある塔の方角から、衝撃波のようなものが放たれたのです。
「だ、旦那様の魔力が……暴走しかけている……!」
「早く、地下の封印室へ避難していただく準備を!」 「誰か、鎮静剤を持って行け! 死にたくない奴は近づくな!」
廊下が騒然となりました。 騎士たちが走り回り、使用人たちは物陰に隠れています。
私は、ただならぬ事態に心臓が早鐘を打ちました。 ジークハルト様が、苦しんでいる。
「待って! 旦那様はどこ!? 執務室にいるの!?」
私が通りがかりの騎士の腕を掴んで尋ねると、彼は青ざめた顔で首を振りました。
「いけません、奥様! 今は近づいてはなりません! 今の旦那様は、ご自身の魔力を制御できず、近づくものすべてを破壊してしまう状態です!」
「でも、放っておけません!」
「無理です! 過去に、嵐の日にうっかり部屋に入ったメイドが、衝撃波で吹き飛ばされて全治三ヶ月の重傷を負いました。最強の騎士団長でさえ、部屋の前まで行くのが精一杯なんです!」
騎士は私の身を案じて、必死に止めようとしました。 しかし、その言葉を聞いて、私は逆に決意を固めました。
誰も近づけないなら。 誰にも助けられないなら。 私が行くしかありません。
「離して。私は平気よ」
「奥様!? 正気ですか!?」
私は騎士の手を振りほどき、ドレスの裾を翻して走り出しました。 目指すは、城の最奥にある執務室。
階段を駆け上がるにつれて、空気が重くなっていくのを感じました。 水の中を歩いているような抵抗感。 肌にピリピリとくる静電気のような刺激。 壁の燭台の火が、青白く変色して揺らめいています。
(これが、魔力の圧力……)
普通の人なら、この場に立っているだけで呼吸困難になるのかもしれません。 でも、私には「重い」と感じる程度でした。 私の体質が、周囲の魔力を弾いているようです。
執務室の前に到着しました。 重厚な扉の向こうからは、獣の唸り声のような低い音が響いてきます。 そして、時折、バチバチッという破裂音とともに、扉の隙間から黒い火花が散っています。
扉の前には、二人の騎士が膝をついて苦しんでいました。 見張りをしていたようですが、漏れ出る瘴気に当てられて動けなくなっているのです。
「奥……様……? き、来ては……いけま……せん……」
「下がっていてください。後は私が」
私は彼らに微笑みかけると、躊躇なく扉のノブに手をかけました。 鉄製のノブは氷のように冷え切っていました。
深呼吸を一つ。 大丈夫。彼は私を傷つけない。 そう信じて、私は扉を開け放ちました。
「ジークハルト様!」
部屋の中は、まさに嵐の中心でした。 書類や本が竜巻のように宙を舞い、家具がガタガタと暴れています。 窓の外の空よりも暗い、漆黒の魔力の渦が部屋中に充満し、視界を遮っていました。
その中心で。 ジークハルト様は、頭を抱えて床にうずくまっていました。
「ぐっ……あああああっ……!」
苦悶の叫び。 全身から黒い稲妻のような魔力が迸り、周囲の床や壁を焦がしています。 彼は仮面をつけていませんでした。 美しい顔が苦痛に歪み、紫色の瞳は焦点が合わず、赤く充血しています。
「来るな……! 誰だ……出て行けッ!!」
私の気配に気づいた彼が、獣のような声で威嚇しました。 同時に、彼から放たれた衝撃波が私を襲います。
ドォォォン!
暴風が私を吹き飛ばそうとしました。 ドレスが激しくはためき、髪が乱れます。 しかし、私は踏ん張りました。 一歩も下がりませんでした。
不思議なことに、私に向かってきた魔力の波は、私の体に触れる直前で霧散していくのです。 まるで、水が油を避けるように。
「ジークハルト様! 私です! エルサです!」
私は風に逆らって、一歩ずつ彼に近づきました。
「エル……サ……?」
彼は、霞む視界で私を捉えようとしていました。 しかし、すぐに激しく首を振りました。
「駄目だ……来るな……! 俺は今、自分を止められない……! お前を……壊して……しまう……!」
彼の体から、さらに強大な魔力が膨れ上がります。 それは拒絶ではなく、愛する人を傷つけたくないという絶望的な叫びでした。 彼は自分の爪が食い込むほど腕を抱きしめ、必死で魔力を内側に押し込めようとしています。 そのせいで、彼自身の体が内側から引き裂かれそうになっていました。
「いいえ、壊れません! 私は貴方様の妻です!」
私は走りました。 吹き荒れる魔力の暴風の中を突き進み、彼の目の前まで辿り着きました。 そして、床に膝をつき、震える彼の体を力いっぱい抱きしめました。
「落ち着いてください、ジークハルト様!」
私の腕が彼の体に触れた、その瞬間でした。
シュゥゥゥ……。
熱した鉄を水に入れたような音がしました。 そして、奇跡が起きました。
あれほど荒れ狂っていた黒い魔力の渦が、私を中心に急速に薄れていったのです。 彼から放たれていた稲妻も、衝撃波も、私が触れている部分から波紋が広がるように、静寂へと変わっていきました。
「……っ、はぁ……?」
ジークハルト様の荒い呼吸が、次第に落ち着いていきます。 強張っていた筋肉が弛緩し、彼は私の胸に崩れ落ちるように体重を預けてきました。
「痛みが……引いていく……」
彼は信じられないというように呟きました。
「頭の中で鳴り響いていた轟音が……消えた。焼けるような熱さが……なくなった」
「はい。もう大丈夫ですよ」
私は彼の汗ばんだ額をハンカチで拭い、優しく背中をさすりました。 まるで、夜泣きをする子供をあやすように。
部屋の中を舞っていた本や書類が、パラパラと床に落ちていきます。 嵐は去りました。 窓の外の不気味な空の色さえも、心なしか明るくなったように見えました。
ジークハルト様は、私の腕の中で呆然としていました。 そして、ゆっくりと顔を上げ、私を見つめました。
その瞳には、もはや狂気の色はありません。 あるのは、深い安らぎと、それ以上の驚愕でした。
「エルサ……お前は、一体……」
「ただのエルサです。貴方様の奥様です」
私は微笑みました。 すると、彼は震える手で私の頬に触れ、それからすがりつくように強く抱きしめ返してきました。
「すごい……。こんなことは初めてだ。薬も、魔法も、祈りも効かなかった俺の暴走が……お前が触れただけで、嘘のように……」
彼は私の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込みました。
「いい匂いだ。……お前の匂いを嗅ぐと、頭が冴える。魔力が……俺の言うことを聞くようになる」
「それはよかったです。なら、私は貴方様の特効薬になれますね」
「特効薬どころの話じゃない。……お前は、俺の命綱だ」
彼はそう言うと、力が抜けたように目を閉じました。 極度の緊張と苦痛から解放され、急激な眠気が襲ってきたようです。
「……すまない、少しだけ……このまま……」
「ええ、おやすみなさいませ、旦那様」
彼は私の膝枕で、数年ぶりに安らかな眠りにつきました。 その寝顔は、あどけない少年のようで、とても美しかったです。
◇
その後、城は大騒ぎになりました。 魔力の暴走が突然収まったことに驚いた騎士団長や医師たちが部屋に飛び込んできて、そこでスヤスヤと眠る主君と、それを優雅に団扇(うちわ)で扇いでいる私の姿を見て、腰を抜かしたのです。
後に判明したことですが、私の「魔力無効化」の体質は、単に魔法を弾くだけでなく、接触した相手の魔力循環を正常化し、過剰なエネルギーを中和して大地に逃がすという、「魔力アース(接地)」のような効果があるらしいのです。
特に、膨大な魔力を抱え込みすぎて自家中毒を起こしていたジークハルト様にとっては、私が触れることで余分な電気が放電され、劇的に体が楽になるというわけです。
つまり、私は彼にとって、文字通り「人間安定剤」であり、「歩くパワースポット」ならぬ「歩く浄化装置」だったのです。
この一件以来、城内での私の地位は不動のものとなりました。
「奥様! 旦那様がまた少しイライラされています! 至急、補給をお願いします!」 「奥様! 明日は雨予報で魔力が澱みそうです! 予防のために旦那様のお側についていてください!」
騎士や使用人たちは、何かあればすぐに私を頼るようになりました。 私がジークハルト様の側にいれば、城は平和で、旦那様は上機嫌。 これ以上の安全保障はありません。
そして、当のジークハルト様はというと……。
「エルサ。ここに座れ」
「旦那様、そこは執務机の上です。書類が邪魔ではありませんか?」
「構わん。膝の上なら邪魔にならない」
彼の過保護と依存は、さらに加速しました。 執務中も私を膝に乗せて仕事をしようとするし、会議中も私の手を握っていないと落ち着かないようです。
「旦那様、さすがに皆様が見ていらっしゃいますよ」
「見せつけてやればいい。俺の妻が、俺を制御できる唯一の女神だと」
彼は悪びれもせず、私の腰に手を回し、書類にサインを走らせます。 その表情は以前のような苦痛に満ちたものではなく、自信と余裕に溢れていました。 魔力のコントロールが安定したことで、彼の本来の能力――為政者としてのカリスマ性と、魔法剣士としての圧倒的な実力が、遺憾なく発揮されるようになったのです。
最近では、城の使用人たちが私たちのイチャイチャを見ても、 「ああ、今日も平和だ」 「旦那様の魔力値、安定してますね」 と、まるで天気予報を確認するように冷静に受け流すようになりました。
私は、ジークハルト様の銀髪を指で梳きながら、窓の外を見ました。 北の空は澄み渡り、美しい青色が広がっています。
この幸せが、ずっと続けばいい。 心からそう思いました。
しかし、物語というものは、幸せの絶頂にこそ波乱を用意するものです。
その日の午後。 王都から一羽の伝書鳩が届きました。 それは、私たちが忘れていた――あるいは、忘れたかった「過去」からの手紙でした。
「……王家主催の夜会への招待状?」
ジークハルト様が、届いた羊皮紙を見て眉をひそめました。 そこには、国王の紋章とともに、きらびやかな文字でこう書かれていました。
『建国記念の大夜会を開催する。辺境伯ジークハルト殿、ならびにその新妻の参加を強く要望する』
そして、その招待状の隅には、見覚えのある香水の香りが微かに残っていました。 甘ったるい、薔薇の香り。 私の妹、マリアが愛用していた香りです。
「……どうやら、向こうも動き出したようだな」
ジークハルト様の瞳が、すっと冷たくなりました。 私に向けられる温かいものとは違う、敵を殲滅するときの冷徹な光。
「エルサ。行くぞ、王都へ」
彼は私の手を強く握りしめました。
「お前を捨てた愚か者どもに、俺たちの『幸せ』を見せつけてやろう。そして、二度とお前に手を出せないよう、完全に終わらせてやる」
平和なスローライフは、一旦お休みです。 次なる舞台は、華やかで、そしてドロドロとした欲望が渦巻く王都の社交界。
私は武者震いとともに、少しの興奮を感じていました。 今の私には、最強の旦那様がついています。 あの家にいた頃の、泣いてばかりいた私とは違うのです。
「はい、旦那様。……参りましょう」
私は彼の手を握り返し、不敵に微笑みました。
かつては「死の城」「魔窟」などと呼ばれ、常に重苦しい空気が漂っていたこの場所は、今や活気に満ちた「生活の場」へと生まれ変わろうとしています。
「奥様、こちらのカーテンですが、明るい色に取り替えてみました!」 「奥様、中庭の花壇に植える球根が届きました!」 「奥様、今日の昼食は新作のキッシュです。味見をお願いします!」
私が廊下を歩くだけで、メイドや執事たちがキラキラした目で寄ってきます。 彼らはもう、私を「かわいそうな生贄」としては見ていません。 この城に革命をもたらす「指導者」として、あるいは親しみやすい「アイドル」のように扱ってくれているのです。
「ええ、ありがとう。とても素敵だわ」
私が笑顔で応えると、彼らは頬を染めて喜びます。 使用人たちが明るくなると、自然と城全体の空気も軽くなります。 窓が開け放たれ、新鮮な空気が循環し、埃っぽかった廊下は磨き上げられてピカピカに輝いています。
そんな平和な日常の中で、ただ一つ、変わらない……いいえ、さらに悪化(?)している問題がありました。
「……エルサ」
背後から、低い声とともに、ずっしりとした重みがのしかかってきました。 振り返るまでもなく、私の旦那様、ジークハルト様です。
彼は背後から私を抱きしめ、肩に顎を乗せて甘えたような声を出しています。 もちろん、周囲の使用人たちは「見なかったこと」にするスキルを習得済みですので、壁の花になりきって直立不動を保っています。
「旦那様、どうされたのですか? 今は執務の時間のはずでは?」
「集中できない。お前の姿が見えないと、書類の文字が全部お前の顔に見えてくる」
「それは重症ですね……。お医者様を呼びましょうか?」
「必要ない。特効薬はここにある」
彼はそう言って、私の首筋に顔を埋め、深呼吸をしました。 スーッ、ハァーッ、と肺の空気をすべて入れ替えるような勢いです。 くすぐったくて身をよじると、彼はさらに強く腕を回してきました。
「……充電完了」
数分後、彼は満足げに顔を上げました。
「これで一時間は戦える。……じゃあな、エルサ。あまり無理はするなよ」
彼は名残惜しそうに私の頭を撫でると、翻って執務室へと戻っていきました。 その背中は、先ほどまでの甘えん坊モードが嘘のように、凛とした領主の威厳を取り戻していました。
「……ふふ、旦那様ったら」
私は苦笑しながら彼を見送りました。 最近のジークハルト様は、まるで分離不安症の子供のように、隙あらば私に触れようとします。 もちろん、愛されているのは嬉しいのですが、少し心配になることもありました。
彼は時折、とても苦しそうな顔をするのです。 私に触れているときは穏やかなのですが、離れた瞬間に、ふっと影が差すような。 まるで、見えない重荷に耐えているような表情を見せることがありました。
その理由が何なのか、私にはまだ、正確にはわかっていませんでした。 ただの「魔力が強いゆえの体調不良」だと思っていたのです。 あの日が来るまでは。
◇
それは、北の空が不気味な紫色に染まった日のことでした。
朝から、城内の空気がピリピリと張り詰めていました。 使用人たちの顔色が悪く、どこか怯えているように見えます。 窓ガラスが、風もないのにカタカタと震えていました。
「どうしたの? みんな、様子がおかしいわ」
私が尋ねると、古株のメイド長が震える声で教えてくれました。
「『魔の嵐(マナ・ストーム)』が近づいているのです、奥様」
「魔の嵐?」
「はい。北の山脈から吹き下ろす、高濃度の魔力を含んだ嵐です。これが発生すると、大気中の魔力が乱れ、魔物たちが活性化し……そして何より、旦那様の体調が著しく悪化するのです」
彼女の言葉が終わるか終わらないかのうちに、ズドンッ!という地響きが城を揺らしました。
「きゃっ!」
悲鳴を上げてしゃがみ込むメイドたち。 揺れは地震によるものではありませんでした。 城の中心部、つまりジークハルト様の執務室がある塔の方角から、衝撃波のようなものが放たれたのです。
「だ、旦那様の魔力が……暴走しかけている……!」
「早く、地下の封印室へ避難していただく準備を!」 「誰か、鎮静剤を持って行け! 死にたくない奴は近づくな!」
廊下が騒然となりました。 騎士たちが走り回り、使用人たちは物陰に隠れています。
私は、ただならぬ事態に心臓が早鐘を打ちました。 ジークハルト様が、苦しんでいる。
「待って! 旦那様はどこ!? 執務室にいるの!?」
私が通りがかりの騎士の腕を掴んで尋ねると、彼は青ざめた顔で首を振りました。
「いけません、奥様! 今は近づいてはなりません! 今の旦那様は、ご自身の魔力を制御できず、近づくものすべてを破壊してしまう状態です!」
「でも、放っておけません!」
「無理です! 過去に、嵐の日にうっかり部屋に入ったメイドが、衝撃波で吹き飛ばされて全治三ヶ月の重傷を負いました。最強の騎士団長でさえ、部屋の前まで行くのが精一杯なんです!」
騎士は私の身を案じて、必死に止めようとしました。 しかし、その言葉を聞いて、私は逆に決意を固めました。
誰も近づけないなら。 誰にも助けられないなら。 私が行くしかありません。
「離して。私は平気よ」
「奥様!? 正気ですか!?」
私は騎士の手を振りほどき、ドレスの裾を翻して走り出しました。 目指すは、城の最奥にある執務室。
階段を駆け上がるにつれて、空気が重くなっていくのを感じました。 水の中を歩いているような抵抗感。 肌にピリピリとくる静電気のような刺激。 壁の燭台の火が、青白く変色して揺らめいています。
(これが、魔力の圧力……)
普通の人なら、この場に立っているだけで呼吸困難になるのかもしれません。 でも、私には「重い」と感じる程度でした。 私の体質が、周囲の魔力を弾いているようです。
執務室の前に到着しました。 重厚な扉の向こうからは、獣の唸り声のような低い音が響いてきます。 そして、時折、バチバチッという破裂音とともに、扉の隙間から黒い火花が散っています。
扉の前には、二人の騎士が膝をついて苦しんでいました。 見張りをしていたようですが、漏れ出る瘴気に当てられて動けなくなっているのです。
「奥……様……? き、来ては……いけま……せん……」
「下がっていてください。後は私が」
私は彼らに微笑みかけると、躊躇なく扉のノブに手をかけました。 鉄製のノブは氷のように冷え切っていました。
深呼吸を一つ。 大丈夫。彼は私を傷つけない。 そう信じて、私は扉を開け放ちました。
「ジークハルト様!」
部屋の中は、まさに嵐の中心でした。 書類や本が竜巻のように宙を舞い、家具がガタガタと暴れています。 窓の外の空よりも暗い、漆黒の魔力の渦が部屋中に充満し、視界を遮っていました。
その中心で。 ジークハルト様は、頭を抱えて床にうずくまっていました。
「ぐっ……あああああっ……!」
苦悶の叫び。 全身から黒い稲妻のような魔力が迸り、周囲の床や壁を焦がしています。 彼は仮面をつけていませんでした。 美しい顔が苦痛に歪み、紫色の瞳は焦点が合わず、赤く充血しています。
「来るな……! 誰だ……出て行けッ!!」
私の気配に気づいた彼が、獣のような声で威嚇しました。 同時に、彼から放たれた衝撃波が私を襲います。
ドォォォン!
暴風が私を吹き飛ばそうとしました。 ドレスが激しくはためき、髪が乱れます。 しかし、私は踏ん張りました。 一歩も下がりませんでした。
不思議なことに、私に向かってきた魔力の波は、私の体に触れる直前で霧散していくのです。 まるで、水が油を避けるように。
「ジークハルト様! 私です! エルサです!」
私は風に逆らって、一歩ずつ彼に近づきました。
「エル……サ……?」
彼は、霞む視界で私を捉えようとしていました。 しかし、すぐに激しく首を振りました。
「駄目だ……来るな……! 俺は今、自分を止められない……! お前を……壊して……しまう……!」
彼の体から、さらに強大な魔力が膨れ上がります。 それは拒絶ではなく、愛する人を傷つけたくないという絶望的な叫びでした。 彼は自分の爪が食い込むほど腕を抱きしめ、必死で魔力を内側に押し込めようとしています。 そのせいで、彼自身の体が内側から引き裂かれそうになっていました。
「いいえ、壊れません! 私は貴方様の妻です!」
私は走りました。 吹き荒れる魔力の暴風の中を突き進み、彼の目の前まで辿り着きました。 そして、床に膝をつき、震える彼の体を力いっぱい抱きしめました。
「落ち着いてください、ジークハルト様!」
私の腕が彼の体に触れた、その瞬間でした。
シュゥゥゥ……。
熱した鉄を水に入れたような音がしました。 そして、奇跡が起きました。
あれほど荒れ狂っていた黒い魔力の渦が、私を中心に急速に薄れていったのです。 彼から放たれていた稲妻も、衝撃波も、私が触れている部分から波紋が広がるように、静寂へと変わっていきました。
「……っ、はぁ……?」
ジークハルト様の荒い呼吸が、次第に落ち着いていきます。 強張っていた筋肉が弛緩し、彼は私の胸に崩れ落ちるように体重を預けてきました。
「痛みが……引いていく……」
彼は信じられないというように呟きました。
「頭の中で鳴り響いていた轟音が……消えた。焼けるような熱さが……なくなった」
「はい。もう大丈夫ですよ」
私は彼の汗ばんだ額をハンカチで拭い、優しく背中をさすりました。 まるで、夜泣きをする子供をあやすように。
部屋の中を舞っていた本や書類が、パラパラと床に落ちていきます。 嵐は去りました。 窓の外の不気味な空の色さえも、心なしか明るくなったように見えました。
ジークハルト様は、私の腕の中で呆然としていました。 そして、ゆっくりと顔を上げ、私を見つめました。
その瞳には、もはや狂気の色はありません。 あるのは、深い安らぎと、それ以上の驚愕でした。
「エルサ……お前は、一体……」
「ただのエルサです。貴方様の奥様です」
私は微笑みました。 すると、彼は震える手で私の頬に触れ、それからすがりつくように強く抱きしめ返してきました。
「すごい……。こんなことは初めてだ。薬も、魔法も、祈りも効かなかった俺の暴走が……お前が触れただけで、嘘のように……」
彼は私の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込みました。
「いい匂いだ。……お前の匂いを嗅ぐと、頭が冴える。魔力が……俺の言うことを聞くようになる」
「それはよかったです。なら、私は貴方様の特効薬になれますね」
「特効薬どころの話じゃない。……お前は、俺の命綱だ」
彼はそう言うと、力が抜けたように目を閉じました。 極度の緊張と苦痛から解放され、急激な眠気が襲ってきたようです。
「……すまない、少しだけ……このまま……」
「ええ、おやすみなさいませ、旦那様」
彼は私の膝枕で、数年ぶりに安らかな眠りにつきました。 その寝顔は、あどけない少年のようで、とても美しかったです。
◇
その後、城は大騒ぎになりました。 魔力の暴走が突然収まったことに驚いた騎士団長や医師たちが部屋に飛び込んできて、そこでスヤスヤと眠る主君と、それを優雅に団扇(うちわ)で扇いでいる私の姿を見て、腰を抜かしたのです。
後に判明したことですが、私の「魔力無効化」の体質は、単に魔法を弾くだけでなく、接触した相手の魔力循環を正常化し、過剰なエネルギーを中和して大地に逃がすという、「魔力アース(接地)」のような効果があるらしいのです。
特に、膨大な魔力を抱え込みすぎて自家中毒を起こしていたジークハルト様にとっては、私が触れることで余分な電気が放電され、劇的に体が楽になるというわけです。
つまり、私は彼にとって、文字通り「人間安定剤」であり、「歩くパワースポット」ならぬ「歩く浄化装置」だったのです。
この一件以来、城内での私の地位は不動のものとなりました。
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騎士や使用人たちは、何かあればすぐに私を頼るようになりました。 私がジークハルト様の側にいれば、城は平和で、旦那様は上機嫌。 これ以上の安全保障はありません。
そして、当のジークハルト様はというと……。
「エルサ。ここに座れ」
「旦那様、そこは執務机の上です。書類が邪魔ではありませんか?」
「構わん。膝の上なら邪魔にならない」
彼の過保護と依存は、さらに加速しました。 執務中も私を膝に乗せて仕事をしようとするし、会議中も私の手を握っていないと落ち着かないようです。
「旦那様、さすがに皆様が見ていらっしゃいますよ」
「見せつけてやればいい。俺の妻が、俺を制御できる唯一の女神だと」
彼は悪びれもせず、私の腰に手を回し、書類にサインを走らせます。 その表情は以前のような苦痛に満ちたものではなく、自信と余裕に溢れていました。 魔力のコントロールが安定したことで、彼の本来の能力――為政者としてのカリスマ性と、魔法剣士としての圧倒的な実力が、遺憾なく発揮されるようになったのです。
最近では、城の使用人たちが私たちのイチャイチャを見ても、 「ああ、今日も平和だ」 「旦那様の魔力値、安定してますね」 と、まるで天気予報を確認するように冷静に受け流すようになりました。
私は、ジークハルト様の銀髪を指で梳きながら、窓の外を見ました。 北の空は澄み渡り、美しい青色が広がっています。
この幸せが、ずっと続けばいい。 心からそう思いました。
しかし、物語というものは、幸せの絶頂にこそ波乱を用意するものです。
その日の午後。 王都から一羽の伝書鳩が届きました。 それは、私たちが忘れていた――あるいは、忘れたかった「過去」からの手紙でした。
「……王家主催の夜会への招待状?」
ジークハルト様が、届いた羊皮紙を見て眉をひそめました。 そこには、国王の紋章とともに、きらびやかな文字でこう書かれていました。
『建国記念の大夜会を開催する。辺境伯ジークハルト殿、ならびにその新妻の参加を強く要望する』
そして、その招待状の隅には、見覚えのある香水の香りが微かに残っていました。 甘ったるい、薔薇の香り。 私の妹、マリアが愛用していた香りです。
「……どうやら、向こうも動き出したようだな」
ジークハルト様の瞳が、すっと冷たくなりました。 私に向けられる温かいものとは違う、敵を殲滅するときの冷徹な光。
「エルサ。行くぞ、王都へ」
彼は私の手を強く握りしめました。
「お前を捨てた愚か者どもに、俺たちの『幸せ』を見せつけてやろう。そして、二度とお前に手を出せないよう、完全に終わらせてやる」
平和なスローライフは、一旦お休みです。 次なる舞台は、華やかで、そしてドロドロとした欲望が渦巻く王都の社交界。
私は武者震いとともに、少しの興奮を感じていました。 今の私には、最強の旦那様がついています。 あの家にいた頃の、泣いてばかりいた私とは違うのです。
「はい、旦那様。……参りましょう」
私は彼の手を握り返し、不敵に微笑みました。
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