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第7話『胃袋を掴むのは基本です』
王都への出発が決まったその夜、私はベッドの中で、興奮と不安が入り混じった複雑な気持ちで天井を見上げていました。
隣では、ジークハルト様が私の手をしっかりと握りしめたまま、穏やかな寝息を立てています。 その安らかな寝顔を見ていると、私の胸の奥に、ふつふつと熱い決意が湧き上がってきました。
(絶対に、負けない)
かつての実家での私は、ただ怯え、隠れることしかできませんでした。 でも今の私には、守るべき大切な人――旦那様と、この領地の人々がいます。 王都の夜会で待ち受けているであろうマリアや義父母の悪意になんて、屈している暇はないのです。
そのためには、まず準備が必要です。 戦場に向かう兵士が剣を研ぐように、私たち夫婦も万全の状態で王都へ乗り込まなければなりません。 特に、ジークハルト様のコンディション管理は最重要課題です。
王都には、彼を「化け物」と蔑む視線や、悪意ある噂が溢れているでしょう。 ストレスは魔力暴走の引き金になりかねません。 私の「魔力無効化」によるスキンシップも効果的ですが、体の内側から――つまり、「食」によるメンタルケアも欠かせないはずです。
「……よし」
私は小さな声で気合を入れると、翌朝からの作戦を脳内で組み立て始めました。 題して、『旦那様の胃袋と心をガッチリ掴んで離さない、最強の愛妻料理作戦』です。
◇
翌朝。 私はジークハルト様より一足早く起き出し、身支度を整えて厨房へと向かいました。
「お、奥様!? こんな朝早くからどうされましたか?」
仕込みをしていた料理長(元傭兵の強面おじさん、最近は私のファン一号)が、包丁を持ったまま驚きの声を上げました。
「おはようございます、料理長。今日から出発までの三日間、厨房をお借りしてもよろしいですか? 王都への旅に向けて、保存食とお弁当を準備したいのです」
「ええっ? そんなこと、俺たちにお任せくだされば……」
「いいえ、私が作りたいのです。旦那様のお口に合うように、特別な隠し味を入れたいので」
私がウインクをすると、料理長は「ははぁ、なるほど」とニヤリと笑い、快く場所を譲ってくれました。
さあ、調理開始です。 今回の食材は、北の領地ならではの特産品をフル活用します。
まずはメインディッシュとなる、「北海サーモン」と「氷原牛」の加工から。 北海サーモンは、極寒の海で育ったため脂の乗りが尋常ではなく、口に入れるとトロリと溶ける極上の魚です。 これをハーブと塩でマリネし、桜のチップでじっくりと燻製にします。 こうすることで保存がきき、馬車の中でのお酒のつまみにも、サンドイッチの具にもなる万能食材になります。
「うわぁ……いい匂いだ……」 「燻製の香りで、朝から酒が飲みたくなるな……」
厨房のスタッフたちが鼻をクンクンさせて集まってきました。
次は、氷原牛の赤身肉を使った「特製ビーフジャーキー」です。 ただ干すのではありません。 特製のタレ(醤油ベースに、蜂蜜とニンニク、そして隠し味に果実酒を煮詰めたもの)に一晩漬け込み、低温でじっくりと乾燥させます。 噛めば噛むほど肉の旨味が溢れ出し、疲労回復効果も抜群の一品。
さらに、甘いものも忘れてはいけません。 ジークハルト様は見た目に似合わず、実は甘党であることを見抜いています。 先日も、私が作ったカスタードプリンを食べている時、幸せそうに目を細めていましたから。
今回は、旅の途中でも手軽に食べられる焼き菓子を用意します。 北の森で採れた「スノーベリー」という、酸味の強い木苺をたっぷりと練り込んだパウンドケーキ。 バターを惜しみなく使い、しっとりと焼き上げます。 ベリーの酸味がバターの濃厚さを中和し、いくらでも食べられる危険な味に仕上がります。
「ふぅ……こんなところでしょうか」
数時間後。 厨房のテーブルには、山のような料理が積み上げられていました。 燻製、ジャーキー、パウンドケーキ、さらには野菜のピクルスや、果実のコンポートまで。
「すげぇ……奥様、これ全部一人で?」 「職人技だ……」
スタッフたちが感嘆の声を漏らしていると、厨房の入り口から低い声が響きました。
「……何をしている?」
振り返ると、そこには不機嫌そうに眉を寄せたジークハルト様が立っていました。 まだ寝起きらしく、髪が少し乱れていて、それがまた色っぽいです。 もちろん、仮面はしっかり装着済みですが。
「おはようございます、旦那様。目が覚めましたか?」
「目が覚めたら隣にお前がいなかった。……俺は心臓が止まるかと思ったぞ」
彼はスタスタと私に歩み寄ると、有無を言わさず私を背後から抱きしめました。 料理人たちの前ですが、もう慣れっこです。 周囲も「いつもの発作か」と温かい目で見守ってくれています。
「ごめんなさい。でも、旦那様のために頑張っていたんですよ? 見てください」
私はテーブルの料理を指差しました。
「王都までの旅路、美味しいものがなければ退屈でしょう? だから、特製のお弁当を作っていたんです」
ジークハルト様は、並べられた料理を見渡し、仮面の奥で目を丸くしました。
「これは……全部、俺のために?」
「はい。もちろん、騎士団の皆様の分もありますけど、一番美味しいところは旦那様のものです」
「……」
彼は無言で私をさらに強く抱きしめました。
「愛している」
「はいはい、知っています」
「違う、言葉では足りない。……俺の胃袋ごと支配するつもりか、お前は」
「ふふ、その通りです。胃袋を掴めば、男の人は浮気できないと母(の形見の日記)に書いてありましたから」
「浮気などするわけがないだろう。……だが、その作戦は効果的すぎる。俺はもう、お前の料理以外、喉を通らない体になってしまったかもしれん」
彼はそう言うと、出来立てのパウンドケーキの切れ端を指差しました。
「……食べていいか?」
「どうぞ。まだ熱いので気をつけてくださいね」
彼はマスクの下半分を少し持ち上げ(器用なものです)、ケーキを口に放り込みました。 もぐもぐと咀嚼し、次の瞬間、彼の全身から「幸福」のオーラが立ち上りました。
「……美味い」
しみじみとした、深い感想でした。
「甘すぎず、酸味が効いていて……バターの香りが鼻に抜ける。これは……いくらでもいけるな」
「よかった。自信作なんです」
「エルサ。もう一つくれ。今度は、お前の手で」
彼は甘えるように口を開けました。 料理人たちが「キャーッ!」と顔を覆う(指の隙間から見ている)中、私は苦笑しながら、彼の口にケーキを運んであげました。
こうして、出発前の数日間は、ひたすら料理を作り、ジークハルト様に餌付けをする幸せな時間として過ぎていきました。
◇
そして、出発の朝。
城門の前には、信じられないほどの数の人々が集まっていました。 城の使用人たちはもちろん、城下町の住人や、近くの村の農民たちまで。 皆、手に手に花束や、手作りの御守りを持っています。
「辺境伯様ー! 奥様ー! 行ってらっしゃいませー!」 「俺たちの自慢の領主様だ! 王都の奴らに負けないでくださいよ!」 「奥様、また美味しいレシピ教えてくださいねー!」
歓声が上がります。 かつて「化け物の城」と恐れられ、誰も近づかなかったこの場所に、これほどの人々が集まり、笑顔で手を振ってくれるなんて。
ジークハルト様は、馬車の窓からその光景を眺め、少し目元を潤ませていました。
「……変わったな」
彼はポツリと呟きました。
「俺はただ、力でこの地を支配し、守ってきたつもりだった。だが、お前が来てから……領民たちの目が変わった。恐怖ではなく、親愛の目を向けてくれるようになった」
「それは、旦那様が本来持っていた優しさが、皆に伝わったからですよ」
私は彼の手を握りました。
「さあ、行きましょう。皆様の期待に応えるためにも、堂々と胸を張って」
「ああ。……行くぞ」
ジークハルト様の合図で、馬車が動き出しました。 私たちは、遠ざかる城と人々に手を振り続け、やがて街道の一本道へと進み出しました。
今回の旅は、以前の「死の行軍」とは全く違います。 護衛の騎士団も、精鋭中の精鋭が五十名。 馬車も最高級の乗り心地。 そして何より、隣には愛する人がいます。
「さて、旦那様。少し早いですけど、お昼にしましょうか」
出発して数時間。 私はバスケットを開けました。 中には、今朝焼いたばかりのパンで作った、具沢山のサンドイッチが詰まっています。 ローストビーフ、チーズとレタス、サーモンのクリームチーズ和え。
「おお……」
ジークハルト様がゴクリと喉を鳴らしました。 馬車の揺れに合わせて、サンドイッチのいい香りが漂います。
「ワインも開けますか?」
「いや、昼間から飲むと、お前に酔えなくなるからな。紅茶にしてくれ」
彼はキザなことを言いながら、私が差し出したサンドイッチに齧り付きました。
「……美味い。やはり、城で食べるより、こうして二人で食べる方が美味く感じるな」
「ふふ、ピクニックみたいで楽しいですね」
私たちは、窓の外を流れる雄大な景色を眺めながら、ゆっくりと食事を楽しみました。 時折、彼が私の口元についたパン屑を指で拭ってくれたり、私が彼の口にチーズを食べさせてあげたり。 狭い馬車の中は、甘い空気に満たされています。
一方、馬車の外では、護衛の騎士たちが休憩時間になり、私が用意した「差し入れ」を開封していました。
「うおおおっ! マジかよ!」 「奥様特製の『スタミナ肉巻きおにぎり』だ!」 「こっちには『力の湧くクッキー』が入ってるぞ!」
外から聞こえる歓喜の雄叫びに、ジークハルト様が苦笑しました。
「あいつら……俺より喜んでるんじゃないか?」
「いいじゃないですか。彼らが元気なら、私たちの旅も安全です」
「ふん。まあ、エルサの料理でパワーアップした騎士団なら、ドラゴンが来ても勝てるだろうな」
実際、その通りでした。 旅の途中、何度か魔物の襲撃がありましたが、騎士たちは鬼神のごとき強さで瞬殺してしまいました。 「奥様の弁当タイムを邪魔する奴は許さん!」という凄まじい気迫で。 彼らの胃袋もまた、完全に掌握されていたのです。
◇
旅も中盤に差し掛かったある日のこと。 私たちは、中継地点となる宿場町に到着しました。
ここは王都と辺境を結ぶ交通の要衝であり、多くの旅人や商人が行き交う賑やかな街です。 私たちは一際大きな宿屋を貸し切りにして泊まることになりました。
夕食の時間。 宿の食堂で、土地の名物料理が運ばれてきました。 しかし、それを一口食べたジークハルト様が、ピタリと動きを止めました。
「……」
「どうされました、旦那様?」
「……味が、しない」
彼はフォークを置きました。
「いや、不味いわけではないんだ。普通の味だ。だが……お前の料理に慣れすぎた舌が、満足できないと訴えている」
彼は深刻な顔で頭を抱えました。
「どうしてくれる。これでは、王都の晩餐会など拷問に等しいぞ」
「あらあら……」
私は困ったような、でも嬉しいような気持ちになりました。 彼の胃袋を掴む作戦は、成功しすぎてしまったようです。
「わかりました。では、厨房をお借りして、私が少しアレンジを加えましょうか?」
「頼む。……いや、待て」
彼はふと、何かを思いついたように顔を上げました。
「エルサ。お前の料理は、単に美味いだけじゃない。俺の魔力を安定させ、騎士たちの士気を高める力がある。……これは、武器になるんじゃないか?」
「武器、ですか?」
「ああ。王都の貴族どもは、美味いものには目がない。もし、お前の考案した『北の食材を使った料理』を夜会で披露すれば……奴らの度肝を抜けるかもしれん」
彼の目は、商人のように鋭く光っていました。 マリアや実家を見返すための、「食」による戦略。 それは私にとっても魅力的な提案でした。
「なるほど……。北の食材は『野蛮な食べ物』として見下されていますものね。それを最高級の料理に昇華させて、彼らを唸らせる……」
「そうだ。『こんな美味いものを独占していたのか!』と悔しがらせてやろう」
私たちは顔を見合わせて、悪戯っぽく笑いました。 王都での戦い方は、何もドレスや宝石を見せびらかすだけではありません。 彼らが知らない「本物の豊かさ」を見せつけることこそ、最高の復讐になるはずです。
「任せてください、旦那様。王都の料理人たちも驚くような、最高のメニューを考えておきます」
「期待しているぞ。……だが、その前に」
彼は私の手を引き、自分の方へ引き寄せました。 食堂の個室、二人きりの空間。 彼の瞳が、熱っぽく私を捉えます。
「俺の空腹を満たしてくれ。……料理以外の方法で」
「えっ……」
「今夜は長い夜になりそうだ。……覚悟はいいか?」
彼の低い声が、耳元で甘く囁きました。 王都への作戦会議は、いつの間にかベッドの中での愛の語らいへと変わっていき……。
その夜、宿の外では雪が降り始めましたが、私たちの部屋の中だけは、真夏のように熱く、甘い時間が流れていました。
◇
こうして、私たちの「美味しい」旅路は続きました。 騎士団たちとはキャンプファイヤーを囲んでシチューを食べ、宿場町では食べ歩きをし、馬車の中では愛妻弁当を広げ。
王都が近づくにつれて、空気は次第に張り詰め、政治的な思惑や敵意の気配も感じるようになりました。 しかし、私たちの絆は、毎日の食事と会話を通じて、鋼のように強固になっていました。
「見えてきたぞ、エルサ」
出発から十日目。 丘の上に立ったジークハルト様が、前方を指差しました。
遥か彼方。 平原の向こうに、巨大な城壁と、天を突くような白亜の尖塔が見えました。
王都です。 かつて私が逃げるように去った場所。 そして、私を捨てた家族が住む場所。
「……はい」
私は深く息を吸い込みました。 不思議と、恐怖はありませんでした。 隣には、最強の旦那様がいます。 背後には、信頼できる騎士たちがいます。 そして私の心には、彼らと過ごした温かい日々の記憶と、自信が満ちていました。
「行きましょう、旦那様。私たちの『凱旋』です」
「ああ。……派手に行くぞ」
ジークハルト様が仮面を装着しました。 その瞬間、彼は「愛妻家の夫」から、再び「北の絶対王者」へと変貌しました。
漆黒の馬車列が、王都の門へと向かって進撃を開始します。 それは、これから始まる波乱と、痛快な逆転劇の幕開けでした。
隣では、ジークハルト様が私の手をしっかりと握りしめたまま、穏やかな寝息を立てています。 その安らかな寝顔を見ていると、私の胸の奥に、ふつふつと熱い決意が湧き上がってきました。
(絶対に、負けない)
かつての実家での私は、ただ怯え、隠れることしかできませんでした。 でも今の私には、守るべき大切な人――旦那様と、この領地の人々がいます。 王都の夜会で待ち受けているであろうマリアや義父母の悪意になんて、屈している暇はないのです。
そのためには、まず準備が必要です。 戦場に向かう兵士が剣を研ぐように、私たち夫婦も万全の状態で王都へ乗り込まなければなりません。 特に、ジークハルト様のコンディション管理は最重要課題です。
王都には、彼を「化け物」と蔑む視線や、悪意ある噂が溢れているでしょう。 ストレスは魔力暴走の引き金になりかねません。 私の「魔力無効化」によるスキンシップも効果的ですが、体の内側から――つまり、「食」によるメンタルケアも欠かせないはずです。
「……よし」
私は小さな声で気合を入れると、翌朝からの作戦を脳内で組み立て始めました。 題して、『旦那様の胃袋と心をガッチリ掴んで離さない、最強の愛妻料理作戦』です。
◇
翌朝。 私はジークハルト様より一足早く起き出し、身支度を整えて厨房へと向かいました。
「お、奥様!? こんな朝早くからどうされましたか?」
仕込みをしていた料理長(元傭兵の強面おじさん、最近は私のファン一号)が、包丁を持ったまま驚きの声を上げました。
「おはようございます、料理長。今日から出発までの三日間、厨房をお借りしてもよろしいですか? 王都への旅に向けて、保存食とお弁当を準備したいのです」
「ええっ? そんなこと、俺たちにお任せくだされば……」
「いいえ、私が作りたいのです。旦那様のお口に合うように、特別な隠し味を入れたいので」
私がウインクをすると、料理長は「ははぁ、なるほど」とニヤリと笑い、快く場所を譲ってくれました。
さあ、調理開始です。 今回の食材は、北の領地ならではの特産品をフル活用します。
まずはメインディッシュとなる、「北海サーモン」と「氷原牛」の加工から。 北海サーモンは、極寒の海で育ったため脂の乗りが尋常ではなく、口に入れるとトロリと溶ける極上の魚です。 これをハーブと塩でマリネし、桜のチップでじっくりと燻製にします。 こうすることで保存がきき、馬車の中でのお酒のつまみにも、サンドイッチの具にもなる万能食材になります。
「うわぁ……いい匂いだ……」 「燻製の香りで、朝から酒が飲みたくなるな……」
厨房のスタッフたちが鼻をクンクンさせて集まってきました。
次は、氷原牛の赤身肉を使った「特製ビーフジャーキー」です。 ただ干すのではありません。 特製のタレ(醤油ベースに、蜂蜜とニンニク、そして隠し味に果実酒を煮詰めたもの)に一晩漬け込み、低温でじっくりと乾燥させます。 噛めば噛むほど肉の旨味が溢れ出し、疲労回復効果も抜群の一品。
さらに、甘いものも忘れてはいけません。 ジークハルト様は見た目に似合わず、実は甘党であることを見抜いています。 先日も、私が作ったカスタードプリンを食べている時、幸せそうに目を細めていましたから。
今回は、旅の途中でも手軽に食べられる焼き菓子を用意します。 北の森で採れた「スノーベリー」という、酸味の強い木苺をたっぷりと練り込んだパウンドケーキ。 バターを惜しみなく使い、しっとりと焼き上げます。 ベリーの酸味がバターの濃厚さを中和し、いくらでも食べられる危険な味に仕上がります。
「ふぅ……こんなところでしょうか」
数時間後。 厨房のテーブルには、山のような料理が積み上げられていました。 燻製、ジャーキー、パウンドケーキ、さらには野菜のピクルスや、果実のコンポートまで。
「すげぇ……奥様、これ全部一人で?」 「職人技だ……」
スタッフたちが感嘆の声を漏らしていると、厨房の入り口から低い声が響きました。
「……何をしている?」
振り返ると、そこには不機嫌そうに眉を寄せたジークハルト様が立っていました。 まだ寝起きらしく、髪が少し乱れていて、それがまた色っぽいです。 もちろん、仮面はしっかり装着済みですが。
「おはようございます、旦那様。目が覚めましたか?」
「目が覚めたら隣にお前がいなかった。……俺は心臓が止まるかと思ったぞ」
彼はスタスタと私に歩み寄ると、有無を言わさず私を背後から抱きしめました。 料理人たちの前ですが、もう慣れっこです。 周囲も「いつもの発作か」と温かい目で見守ってくれています。
「ごめんなさい。でも、旦那様のために頑張っていたんですよ? 見てください」
私はテーブルの料理を指差しました。
「王都までの旅路、美味しいものがなければ退屈でしょう? だから、特製のお弁当を作っていたんです」
ジークハルト様は、並べられた料理を見渡し、仮面の奥で目を丸くしました。
「これは……全部、俺のために?」
「はい。もちろん、騎士団の皆様の分もありますけど、一番美味しいところは旦那様のものです」
「……」
彼は無言で私をさらに強く抱きしめました。
「愛している」
「はいはい、知っています」
「違う、言葉では足りない。……俺の胃袋ごと支配するつもりか、お前は」
「ふふ、その通りです。胃袋を掴めば、男の人は浮気できないと母(の形見の日記)に書いてありましたから」
「浮気などするわけがないだろう。……だが、その作戦は効果的すぎる。俺はもう、お前の料理以外、喉を通らない体になってしまったかもしれん」
彼はそう言うと、出来立てのパウンドケーキの切れ端を指差しました。
「……食べていいか?」
「どうぞ。まだ熱いので気をつけてくださいね」
彼はマスクの下半分を少し持ち上げ(器用なものです)、ケーキを口に放り込みました。 もぐもぐと咀嚼し、次の瞬間、彼の全身から「幸福」のオーラが立ち上りました。
「……美味い」
しみじみとした、深い感想でした。
「甘すぎず、酸味が効いていて……バターの香りが鼻に抜ける。これは……いくらでもいけるな」
「よかった。自信作なんです」
「エルサ。もう一つくれ。今度は、お前の手で」
彼は甘えるように口を開けました。 料理人たちが「キャーッ!」と顔を覆う(指の隙間から見ている)中、私は苦笑しながら、彼の口にケーキを運んであげました。
こうして、出発前の数日間は、ひたすら料理を作り、ジークハルト様に餌付けをする幸せな時間として過ぎていきました。
◇
そして、出発の朝。
城門の前には、信じられないほどの数の人々が集まっていました。 城の使用人たちはもちろん、城下町の住人や、近くの村の農民たちまで。 皆、手に手に花束や、手作りの御守りを持っています。
「辺境伯様ー! 奥様ー! 行ってらっしゃいませー!」 「俺たちの自慢の領主様だ! 王都の奴らに負けないでくださいよ!」 「奥様、また美味しいレシピ教えてくださいねー!」
歓声が上がります。 かつて「化け物の城」と恐れられ、誰も近づかなかったこの場所に、これほどの人々が集まり、笑顔で手を振ってくれるなんて。
ジークハルト様は、馬車の窓からその光景を眺め、少し目元を潤ませていました。
「……変わったな」
彼はポツリと呟きました。
「俺はただ、力でこの地を支配し、守ってきたつもりだった。だが、お前が来てから……領民たちの目が変わった。恐怖ではなく、親愛の目を向けてくれるようになった」
「それは、旦那様が本来持っていた優しさが、皆に伝わったからですよ」
私は彼の手を握りました。
「さあ、行きましょう。皆様の期待に応えるためにも、堂々と胸を張って」
「ああ。……行くぞ」
ジークハルト様の合図で、馬車が動き出しました。 私たちは、遠ざかる城と人々に手を振り続け、やがて街道の一本道へと進み出しました。
今回の旅は、以前の「死の行軍」とは全く違います。 護衛の騎士団も、精鋭中の精鋭が五十名。 馬車も最高級の乗り心地。 そして何より、隣には愛する人がいます。
「さて、旦那様。少し早いですけど、お昼にしましょうか」
出発して数時間。 私はバスケットを開けました。 中には、今朝焼いたばかりのパンで作った、具沢山のサンドイッチが詰まっています。 ローストビーフ、チーズとレタス、サーモンのクリームチーズ和え。
「おお……」
ジークハルト様がゴクリと喉を鳴らしました。 馬車の揺れに合わせて、サンドイッチのいい香りが漂います。
「ワインも開けますか?」
「いや、昼間から飲むと、お前に酔えなくなるからな。紅茶にしてくれ」
彼はキザなことを言いながら、私が差し出したサンドイッチに齧り付きました。
「……美味い。やはり、城で食べるより、こうして二人で食べる方が美味く感じるな」
「ふふ、ピクニックみたいで楽しいですね」
私たちは、窓の外を流れる雄大な景色を眺めながら、ゆっくりと食事を楽しみました。 時折、彼が私の口元についたパン屑を指で拭ってくれたり、私が彼の口にチーズを食べさせてあげたり。 狭い馬車の中は、甘い空気に満たされています。
一方、馬車の外では、護衛の騎士たちが休憩時間になり、私が用意した「差し入れ」を開封していました。
「うおおおっ! マジかよ!」 「奥様特製の『スタミナ肉巻きおにぎり』だ!」 「こっちには『力の湧くクッキー』が入ってるぞ!」
外から聞こえる歓喜の雄叫びに、ジークハルト様が苦笑しました。
「あいつら……俺より喜んでるんじゃないか?」
「いいじゃないですか。彼らが元気なら、私たちの旅も安全です」
「ふん。まあ、エルサの料理でパワーアップした騎士団なら、ドラゴンが来ても勝てるだろうな」
実際、その通りでした。 旅の途中、何度か魔物の襲撃がありましたが、騎士たちは鬼神のごとき強さで瞬殺してしまいました。 「奥様の弁当タイムを邪魔する奴は許さん!」という凄まじい気迫で。 彼らの胃袋もまた、完全に掌握されていたのです。
◇
旅も中盤に差し掛かったある日のこと。 私たちは、中継地点となる宿場町に到着しました。
ここは王都と辺境を結ぶ交通の要衝であり、多くの旅人や商人が行き交う賑やかな街です。 私たちは一際大きな宿屋を貸し切りにして泊まることになりました。
夕食の時間。 宿の食堂で、土地の名物料理が運ばれてきました。 しかし、それを一口食べたジークハルト様が、ピタリと動きを止めました。
「……」
「どうされました、旦那様?」
「……味が、しない」
彼はフォークを置きました。
「いや、不味いわけではないんだ。普通の味だ。だが……お前の料理に慣れすぎた舌が、満足できないと訴えている」
彼は深刻な顔で頭を抱えました。
「どうしてくれる。これでは、王都の晩餐会など拷問に等しいぞ」
「あらあら……」
私は困ったような、でも嬉しいような気持ちになりました。 彼の胃袋を掴む作戦は、成功しすぎてしまったようです。
「わかりました。では、厨房をお借りして、私が少しアレンジを加えましょうか?」
「頼む。……いや、待て」
彼はふと、何かを思いついたように顔を上げました。
「エルサ。お前の料理は、単に美味いだけじゃない。俺の魔力を安定させ、騎士たちの士気を高める力がある。……これは、武器になるんじゃないか?」
「武器、ですか?」
「ああ。王都の貴族どもは、美味いものには目がない。もし、お前の考案した『北の食材を使った料理』を夜会で披露すれば……奴らの度肝を抜けるかもしれん」
彼の目は、商人のように鋭く光っていました。 マリアや実家を見返すための、「食」による戦略。 それは私にとっても魅力的な提案でした。
「なるほど……。北の食材は『野蛮な食べ物』として見下されていますものね。それを最高級の料理に昇華させて、彼らを唸らせる……」
「そうだ。『こんな美味いものを独占していたのか!』と悔しがらせてやろう」
私たちは顔を見合わせて、悪戯っぽく笑いました。 王都での戦い方は、何もドレスや宝石を見せびらかすだけではありません。 彼らが知らない「本物の豊かさ」を見せつけることこそ、最高の復讐になるはずです。
「任せてください、旦那様。王都の料理人たちも驚くような、最高のメニューを考えておきます」
「期待しているぞ。……だが、その前に」
彼は私の手を引き、自分の方へ引き寄せました。 食堂の個室、二人きりの空間。 彼の瞳が、熱っぽく私を捉えます。
「俺の空腹を満たしてくれ。……料理以外の方法で」
「えっ……」
「今夜は長い夜になりそうだ。……覚悟はいいか?」
彼の低い声が、耳元で甘く囁きました。 王都への作戦会議は、いつの間にかベッドの中での愛の語らいへと変わっていき……。
その夜、宿の外では雪が降り始めましたが、私たちの部屋の中だけは、真夏のように熱く、甘い時間が流れていました。
◇
こうして、私たちの「美味しい」旅路は続きました。 騎士団たちとはキャンプファイヤーを囲んでシチューを食べ、宿場町では食べ歩きをし、馬車の中では愛妻弁当を広げ。
王都が近づくにつれて、空気は次第に張り詰め、政治的な思惑や敵意の気配も感じるようになりました。 しかし、私たちの絆は、毎日の食事と会話を通じて、鋼のように強固になっていました。
「見えてきたぞ、エルサ」
出発から十日目。 丘の上に立ったジークハルト様が、前方を指差しました。
遥か彼方。 平原の向こうに、巨大な城壁と、天を突くような白亜の尖塔が見えました。
王都です。 かつて私が逃げるように去った場所。 そして、私を捨てた家族が住む場所。
「……はい」
私は深く息を吸い込みました。 不思議と、恐怖はありませんでした。 隣には、最強の旦那様がいます。 背後には、信頼できる騎士たちがいます。 そして私の心には、彼らと過ごした温かい日々の記憶と、自信が満ちていました。
「行きましょう、旦那様。私たちの『凱旋』です」
「ああ。……派手に行くぞ」
ジークハルト様が仮面を装着しました。 その瞬間、彼は「愛妻家の夫」から、再び「北の絶対王者」へと変貌しました。
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けれどオリビアは、誰かに選ばれるだけの人生を終わらせたいと思っていた。
揺れる想いの中で、彼女が選んだのは――
自分の足で立ち、自分の未来を選ぶこと。
これは、一人の女性が恋を通して自分を取り戻し、母として、そして一人の人間として強くなっていく物語。
※表紙画像はAI生成イラストをつかっています。
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