「君を愛することはない」と言った旦那様が、毎晩離してくれません。 ~白い結婚のはずが、契約書にない溺愛オプションが追加されている件について

ラムネ

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第二話 餌付けされる妻と、不機嫌な飼い主

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小鳥のさえずりが聞こえる。 遠くから、リズミカルに馬の蹄が石畳を叩く音が響いてくる。

私はゆっくりと重い瞼を持ち上げた。

(……あたたかい)

いつもなら、この時間は寒さで目が覚めるはずだった。 屋根裏部屋の薄い壁板の隙間から吹き込む冷風が、古新聞と藁を敷いただけの寝床を容赦なく冷やすからだ。 手足の感覚がなくなり、震えながら起き出して、冷たい井戸水を汲みに行くのが私の日課だった。

けれど、今はどうだろう。 全身が、雲のようなふわふわとしたものに包まれている。 肌に触れる布地は滑らかで、ほんのりと温かい。 空気そのものが柔らかく、日向のような匂いがする。

(あぁ、そうか……)

私はぼんやりとした頭で、昨日の出来事を反芻した。 私は結婚したのだ。 あの「氷の公爵」と恐れられるアレクシス・フォン・オルブライト様と。 そして、ここは公爵邸の豪華な客室――ではなく、主寝室の天蓋付きベッドの中なのだ。

夢ではなかった。 頬をつねらなくてもわかる。この圧倒的な幸福感は、夢であるはずがない。

「ふふ、ふふふ……」

自然と口元が緩み、怪しい笑い声が漏れてしまう。 最高だ。 衣食住保証、労働なし(たぶん)、暴力なし。 このパラダイスのような環境を手放してなるものか。

私は伸びをして、ベッドから起き上がろうとした。

その時だ。 私の視界に、昨晩の「信じられない光景」の続きが飛び込んできたのは。

「…………」

広い寝室の窓際に置かれた、二人掛けの革張りソファ。 そこに、巨大な何かが折りたたまれるようにして収まっていた。

アレクシス様だ。

昨夜、「私はソファで寝る」と宣言した彼は、本当にその言葉通り、ベッドを私に譲り、自分は窮屈なソファで夜を明かしたらしい。 身長が高い彼にとって、あのソファは明らかにサイズ不足だ。 長い脚が肘掛けから溢れ出し、絨毯の上に投げ出されている。 首も少し痛そうな角度に曲がっていた。

「公爵様……」

私は息を呑んだ。 冷徹で非情な氷の公爵様が、まさかこんな無防備な姿を晒しているなんて。

朝日が彼のプラチナブロンドの髪を照らし、きらきらと輝かせている。 閉じられた瞳、長い睫毛が落とす影、すっと通った鼻筋。 眠っている顔は、起きている時の威圧感が嘘のように穏やかで、まるで美術館に飾られた大理石の彫刻のようだった。

(綺麗……)

不敬だとは思いつつ、私はベッドを抜け出し、音を立てないように彼に近づいた。 間近で見ると、その美貌の破壊力は凄まじい。 肌のきめ細かさは陶器のようで、どこにも瑕疵が見当たらない。 こんなに美しい人が、本当に私の夫になったのだろうか。

「……ん」

不意に、アレクシス様が小さく呻き、身じろぎをした。 その拍子に、肩にかけていたブランケットがずり落ちそうになる。

私は慌てて手を伸ばし、落ちかけたブランケットを掴んだ。 そして、そっと彼の肩まで掛け直す。

その瞬間。

ガシッ!

「ひゃっ!?」

私の手首が、万力のような力で掴まれた。 悲鳴を上げる間もなく、強い力で引かれる。 視界が反転し、次の瞬間には、私はソファの背もたれとアレクシス様の体の間に閉じ込められていた。

「……誰だ」

頭上から降ってきた声は、地を這うように低く、絶対零度の冷気を孕んでいた。 見上げると、そこにはアイスブルーの瞳が、鋭い刃のように私を射抜いていた。 寝起きとは思えないほどの殺気だ。

「わ、私です! リリアナです、公爵様!」

私は震えながら名乗った。 殺される、と思った。 寝込みを襲った暗殺者だと勘違いされたに違いない。

アレクシス様の瞳が、私を捉えて細められる。 数秒の沈黙の後、彼の瞳から急速に殺気が引いていき、代わりに焦燥と動揺の色が広がった。

「リ、リリアナ……?」

彼はハッとしたように私の手首を離し、慌てて体を離した。 その顔には、珍しく赤みが差しているように見える。

「す、すまない。気配を感じて、つい……体が勝手に反応した」

「い、いいえ! 私が勝手に近づいたのが悪かったのです! ブランケットが落ちそうだったので……」

「……そうか。……怪我はないか?」

アレクシス様は、私の手首を再び取り、今度は恐る恐るという手つきで、指の腹で赤くなった皮膚を撫でた。 その手つきは、先ほどの剛力とは正反対に、壊れ物を扱うように優しかった。 氷のような冷たい指先が、熱を持った皮膚を冷やしていくようで心地よい。

「大丈夫です。少し驚いただけですから」

私が笑顔で答えると、彼はなぜか痛ましそうな顔をして、ふいっと顔を背けた。

「……君は、警戒心がなさすぎる」

「え?」

「私がもし、敵と間違えて剣を抜いていたらどうするつもりだったんだ」

「その時はその時です。一瞬で終わるなら、それもまた運命かと」

「……は?」

アレクシス様が再び呆れた顔をする。 私は何か変なことを言っただろうか? 実家ではいつ何が飛んでくるかわからない生活だったから、自分の命に対する執着は薄いほうだと思う。 それに、この夢のような環境で死ねるなら本望だ。

「それより、アレクシス様。お体は痛くないですか? あんな窮屈な体勢で……やはり、ベッドをお使いになればよかったのに」

「……問題ない。騎士団の遠征に比べれば、屋根があるだけマシだ」

彼はそう言って立ち上がり、首をコキコキと鳴らした。 その動作すらも絵になるのだから、美形というのは得だ。

「それに……」

彼は何か言いかけて、口を噤んだ。 視線が泳ぎ、私の方を見たり、窓の外を見たりしている。

「それに?」

「……いや、なんでもない。支度をするぞ」

彼は誤魔化すように背を向け、部屋の隅にある呼び鈴(ベル)を鳴らした。

本当は、「君が夜中にうなされていたから、心配で近くにいただけだ」と言いかけたことを、私は知る由もなかった。 私はただ、この気難しい旦那様が、意外と朝に弱いのかもしれない、と呑気に考えていた。

          ***

呼び鈴に応じて現れたのは、初老の侍女長と数名の若いメイドたちだった。 彼女たちは、アレクシス様がソファで寝ていた形跡(乱れたブランケットなど)を一瞬だけ見たが、プロらしく表情一つ変えずに整え始めた。

ただ、私に向けられる視線は、どこか冷ややかで、観察するような色を含んでいた。 「氷の公爵」が選んだ、金で買われた没落貴族の娘。 そんな噂が、すでに使用人たちの間で広まっているのかもしれない。

(気にしない、気にしない。衣食住があれば、視線なんて痛くも痒くもないわ)

私は心の中で呪文のように唱えながら、されるがままに身支度を整えられた。

用意されたドレスは、淡い若草色のシルク製で、繊細なレースがふんだんにあしらわれた一級品だった。 袖を通すのが怖いくらいに美しい。 こんなものを着て、掃除や洗濯ができるのだろうか?

「あの、もっと動きやすい服はありませんか? これでは汚してしまいそうで……」

私が恐る恐る尋ねると、侍女長は眼鏡の奥の瞳を光らせて言った。

「奥様。公爵夫人が『動きやすい服』をお求めになる理由はございません。それに、こちらは旦那様がお選びになったものです」

「えっ、アレクシス様が?」

「はい。『一番地味で目立たない色を』とのご指定でした」

なるほど。 確かにこの若草色は、華やかな夜会では埋没してしまうかもしれないが、日常着としては上品で落ち着いている。 私が目立って恥をかかないように、という彼なりの配慮だろうか。 あるいは、「俺の妻なら、これくらいの布を纏え」という体面の問題か。

どちらにせよ、ボロボロの継ぎ接ぎだらけの服しか持っていない私にとっては、王族の衣装のように思える。

「ありがとうございます。大切に着させていただきます」

私がドレスの裾を撫でてお礼を言うと、侍女長は一瞬だけ意外そうな顔をしたが、すぐに無表情に戻った。

支度が終わり、私はアレクシス様にエスコートされて(といっても、彼はずんずん先に歩いていくだけだが)、一階のダイニングルームへと向かった。

重厚な扉が開かれると、そこにはさらなる衝撃が待っていた。

「……え」

長い長いテーブルの上に並べられた、色とりどりの料理たち。 銀の器に盛られた温野菜のサラダ、厚切りのハム、ふわふわのスクランブルエッグ、香ばしい香りを放つソーセージ。 そして、バスケット山盛りの、真っ白なパン。

焼きたてのパンの香りが鼻腔をくすぐり、私のお腹が恥ずかしい音を立てて鳴った。 グゥゥゥ……。 静かな部屋に、その音は盛大に響き渡った。

使用人たちがピクリと肩を震わせる。 私は顔から火が出る思いで、俯いた。

「……座れ」

アレクシス様は、聞こえなかったフリをしてくれたのか、上座の席に着きながら短く告げた。 私はその右隣、妻としての席に座らせてもらう。

「いただきます……」

カトラリーを手に取る手が震える。 こんな豪華な朝食、見たこともない。 実家では、朝は硬くなった黒パンの切れ端と、具のない薄いスープだけだった。 年に一度の祝日ですら、ここにある一皿分の量も出なかっただろう。

私はおそるおそる、バスケットからパンを一つ取ろうとして――手が止まった。

どれも真っ白で、柔らかそうだ。 私がいつも食べていたような、焦げた耳や、カビを削り落としたような硬い部分はどこにもない。

(どうしよう……どれを取っていいのかしら)

一番小さくて、形の悪そうなものを探すが、どれも完璧な焼き上がりだ。 迷った挙句、私は一番端にあったロールパンを一つだけ皿に載せた。 そして、スープをスプーン一杯分だけすくい、口に運ぶ。

……美味しい。

野菜の甘みとブイヨンのコクが、舌の上で溶け合う。 五臓六腑に染み渡るとは、まさにこのことだ。 温かいものが胃に落ちる感覚に、涙が出そうになる。

「…………」

私が一口ごとに噛み締め、拝むようにして食べていると、不意に視線を感じた。 顔を上げると、アレクシス様がフォークを止めて、私をじっと凝視していた。

その眉間には、深い皺が刻まれている。 不機嫌そうだ。 アイスブルーの瞳が、私の皿と、私の顔を交互に見ている。

(ま、まずい……!)

私は背筋を凍らせた。 食べるのが遅いのだろうか? それとも、食べ方が汚い? あるいは、「調子に乗って食べ過ぎだ」と怒っているのか?

「も、申し訳ありません!」

私は慌ててフォークを置いた。

「す、すぐに片付けます! もう十分いただきましたから!」

まだパンを一口かじっただけだ。 でも、これ以上彼の機嫌を損ねて、この家を追い出されるわけにはいかない。 空腹は我慢できる。今までだってそうしてきたのだから。

私が席を立とうとすると、

ダンッ!!

アレクシス様が、拳でテーブルを叩いた。 食器がカチャリと音を立てて揺れる。 使用人たちが息を呑む気配がした。

ひぃっ、と私は身を縮こまらせる。 怒られる。殴られるかもしれない。 反射的に防御姿勢を取ろうとした私に向かって、アレクシス様は低い声で唸った。

「……なぜ、食べない」

「え……?」

「その皿の上の量はなんだ。小鳥の餌か?」

彼は私の皿を指差した。 そこには、小さなロールパン一つと、少し減っただけのスープ。

「毒見が必要なのかと言っているんだ。それとも、公爵家の食事が口に合わないとでも言うつもりか」

「め、滅相もございません!!」

私は必死で首を横に振った。

「とんでもなく美味しいです! 夢のように美味しいです! ただ、こんなに高級なものを、私なんかがたくさんいただいてはバチが当たるといいますか、もったいないといいますか……」

「……バチだと?」

アレクシス様の目がさらに険しくなる。

「お前は、実家でどんな食事をしていたんだ」

「えっと……パンの耳とか、野菜の皮のスープとか……あ、でも、たまにネズミがかじっていない綺麗なパンをいただけることもありました!」

私はなるべく明るく答えたつもりだった。 過去のことは笑い話にして、今は幸せだと伝えたかったからだ。

しかし、アレクシス様の反応は真逆だった。 彼の顔から表情が消え、室内の温度が急激に下がったように感じられた。 周囲に控えていた使用人たちも、凍りついたように動かなくなっている。

(あ、あれ? 私、また地雷を踏んだ?)

貧乏くさい話をして、公爵家の品位を傷つけてしまったのかもしれない。 「そんな乞食のような真似は忘れろ」と叱責されるだろうか。

アレクシス様は無言で立ち上がった。 そして、大股で私の席まで歩み寄ってくる。

来る。 怒られる。

私がギュッと目を瞑った、その時。

ドサッ。

目の前に、重たい何かが置かれる音がした。 恐る恐る目を開けると、私の皿の上に、分厚いローストビーフが二枚、追加されていた。

「え?」

コトッ。 さらに、大きなクロワッサンが二つ。

ポトッ。 茹でたブロッコリーと人参。

とぷん。 スープのおかわりが、なみなみと注がれる。

「……あ、あの、アレクシス様……?」

私が呆然と見上げると、彼は私の皿を料理で山盛りにしながら、仏頂面で言った。

「食え」

「は、はい?」

「残すな。全部食え。足りなければ厨房にある分を全部持ってこさせる」

「ええええ!?」

私は悲鳴を上げた。 私の皿は、今やちょっとした小山のようになっている。 成人男性でも食べきれるかどうかの量だ。

「そ、そんな、無理です! お腹が破裂してしまいます!」

「破裂などしない。お前は痩せすぎだ。見ていて不愉快になるほどな」

彼は私の二の腕を、服の上から軽く摘んだ。 骨と皮ばかりの感触に、彼は苛立たしげに舌打ちをする。

「いいか、これは命令だ。この屋敷にいる間は、出されたものをすべて平らげろ。まずはその枯れ木のような体をなんとかしろ」

「うぅ……」

不愉快、と言われてしまった。 やはり、私の貧相な体は見苦しいのだ。 「飾り」としての妻であっても、最低限の見た目は整えろということだろう。

そして、私の脳裏にある推測が浮かんだ。

(……待って。たくさん食べさせて、体を丈夫にさせるということは……)

痩せた牛や馬は、重い荷物を運べない。 まずは餌を与えて太らせてから、こき使うのが農家の常識だ。

つまり、これは「労働力としての身体作り」の強要だ!

(なるほど……! さすが公爵様、合理的だわ!)

ただ飯を食わせるつもりはない。 働かざる者食うべからず。 まずは体力をつけさせて、その後で馬小屋掃除や庭の開墾を命じるつもりなのだ。

納得がいった。 それなら、遠慮なくいただくのが礼儀というものだ。 労働のためのエネルギー補給だと思えば、罪悪感も薄れる。

「……承知いたしました! 旦那様の命令とあらば、完食してみせます!」

私はフォークを握り直し、決死の覚悟で山盛りの料理に挑んだ。

「んぐっ……むぐ……おいひぃ……!」

口いっぱいに頬張る。 ローストビーフの肉汁が広がる。 クロワッサンのバターの香りが鼻に抜ける。 幸せだ。 労働のための強制給餌だとしても、こんなに美味しいなら本望だ。

私がハムスターのように頬を膨らませて必死に食べていると、頭上からふっと気配が緩むのを感じた。

チラリと見上げると、アレクシス様が自分の席に戻り、コーヒーを飲みながら、横目で私を見ていた。 その表情は相変わらず無表情だったが、先ほどまでの刺すような殺気は消えていた。 むしろ、動物園で餌を食べる小動物を眺めるような、奇妙に落ち着いた空気が漂っている。

「……水も飲め。詰まらせるぞ」

彼が指を鳴らすと、メイドがすかさず水を注いでくれる。

「あぐ、ありがとうごぜえます……」

私は涙目で水を飲み下し、再びパンにかじりついた。

結局、私は出された料理の八割をどうにか胃に収めた。 残りの二割は、どうしても入らずに「申し訳ありません、これ以上は腹の皮が弾けます」と謝罪したところ、アレクシス様は「……まあ、初日はこれくらいで許してやる」と渋々認めてくれた。

満腹すぎて動けない。 こんなに食べたのは、生まれて初めてだ。

「ごちそうさまでした……本当に、美味しかったです……」

私が幸福感に浸って溜息をついていると、アレクシス様が立ち上がった。 軍服のような意匠の凝ったコートを羽織る。 これから王城へ出仕するのだろう。

「行ってくる。夕食までには戻る」

「はい! いってらっしゃいませ!」

私は重たい体を引きずって、玄関ホールまで見送りに出た。 使用人のように三つ指ついて見送ろうとしたら、「やめろ、気味が悪い」と止められたので、普通に立って頭を下げる。

「あの、アレクシス様」

「なんだ」

「私が留守の間、すべき仕事はなんでしょうか? お皿洗いは使用人の方の領分だと伺いましたので……では、窓拭きでしょうか? それとも雑草抜き?」

食べた分は働かなければならない。 私はやる気満々で袖を捲り上げようとした。

しかし、アレクシス様は冷ややかな目で私を見下ろし、ピシャリと言った。

「なにもするな」

「え?」

「掃除も、洗濯も、草むしりもするな。使用人の仕事を奪うな」

「で、では、私の仕事は……?」

「……ここにいろ」

彼はぶっきらぼうに言った。

「部屋で大人しくしていろ。それがお前の仕事だ」

「そ、そんな……ただ休んでいるだけなんて、仕事とは言えません!」

「休むのも仕事だ。その死に損ないのような顔色が治るまで、余計なことは一切するな」

彼はそれだけ言い捨てると、待たせてあった馬車には乗らず、颯爽と馬に跨った。 黒い駿馬を操る姿は、悔しいほどに様になっている。

「……ああ、それと」

彼は去り際に、ふと思い出したように振り返った。

「勝手に外へ出るなよ。迷子になられても迷惑だ」

「は、はい! 承知いたしました!」

私は背筋を伸ばして返事をした。 アレクシス様は、一度だけ私の方を振り返り――いや、睨みつけるように確認し――それから馬を走らせて去っていった。

残された私は、広大な公爵邸の玄関にぽつんと立ち尽くした。

「……休むのが、仕事……?」

そんな夢のような仕事が、この世にあるのだろうか。 いや、これはきっと「試練」だ。 大人しくしていろと言われて、本当に怠惰に過ごしたら、「やはり役立たずだ」と捨てられるに違いない。 あるいは、私がどれだけ回復が早いか観察しているのかもしれない。

「よし……言いつけ通り、部屋で大人しくしつつ、できる範囲で『有能さ』をアピールしなきゃ」

私は拳を握りしめた。 とりあえず、部屋の掃除くらいは自分でやっても怒られないだろう。 自分の身の回りのことなら、使用人の仕事を奪うことにはならないはずだ。

私は決意を胸に、屋敷の中へと戻った。

しかし、この時の私はまだ知らなかった。 この屋敷の使用人たちが、どれほど徹底的に教育されているかを。 そして、この屋敷の中で「何もしない」ことの難しさを。

廊下を歩いていると、すれ違うメイドたちがサッと道を空け、深々と頭を下げる。 その動作は完璧だが、やはり視線は合わない。 まるで、腫れ物に触るような態度だ。

(……やっぱり、歓迎はされていないわよね)

当然だ。 誇り高きオルブライト公爵家の使用人たちにとって、私のような成り上がりの(しかも没落寸前の)娘が女主人になるなんて、面白いわけがない。 「金目当ての女」 「主様をたぶらかした女」 そう思われているのは間違いない。

私は少し肩身の狭い思いをしながら、あてがわれた図書室へと向かった。 アレクシス様から「部屋にいろ」と言われたが、寝室に一日中いるのは退屈すぎる。 執事に許可を求めたところ、図書室なら構わないと言われたのだ。

重厚な扉を開け、図書室に入る。 そこは、本の森だった。 壁一面の本棚に、天井まで届くほどの書物がぎっしりと並んでいる。

「わぁ……!」

私は思わず歓声を上げた。 本が好きだ。 実家では本を読むことなど許されなかったが、父が生きていた頃に隠れて読んだ冒険小説や恋愛物語が、辛い日々を支える唯一の心の栄養だった。

私は夢中で本棚を眺め、一冊の古い詩集を手に取った。 窓辺のソファに座り、ページをめくる。

静寂な時間。 誰にも邪魔されず、罵声も飛んでこない。 ただ、物語の世界に没頭できる幸せ。

(本当に、天国だわ……)

私は知らず知らずのうちに、微睡んでいたらしい。 満腹感と、暖かな日差し、そして安心感。 それらが、長年の疲労を一気に表面化させたのだ。

コトッ。

小さな音がして、私はふと目を覚ました。

「……ん?」

目の前のローテーブルに、いつの間にか湯気の立つ紅茶と、焼き菓子が置かれていた。 誰かが運んできてくれたのだろうか。 私が寝ている間に?

ふと気配を感じて顔を上げると、本棚の陰に、誰かの後ろ姿が見えた。 黒い執事服を着た、初老の男性。 この屋敷の家令、セバスチャンだ。

彼は私に気づかれたと知ると、立ち止まり、優雅に一礼した。

「お目覚めですか、奥様」

「あ、はい……ごめんなさい、いつの間にか寝てしまって……」

「謝罪は不要でございます。旦那様より、『夫人は疲れているゆえ、なるべく静かに過ごさせろ』と厳命を受けておりますので」

「アレクシス様が……?」

あの冷たい旦那様が、そんな細かい指示を出していたなんて。 「死に損ない」と言いつつも、やはり最低限の配慮はしてくれるらしい。 律儀な方だ。

「あの、セバスチャンさん。このお菓子……」

「お口汚しかもしれませんが、当家のシェフが腕によりをかけて作ったマドレーヌでございます。お気に召せばよろしいのですが」

「いただきます!」

私はマドレーヌを一つ手に取り、口に運んだ。 バターと蜂蜜の甘い香りが口いっぱいに広がる。

「……おいしい」

自然と涙がこぼれた。 実家では、こんなお菓子、マリアが食べているのを指をくわえて見ているだけだった。 それが今、私のために用意されている。

「……奥様?」

セバスチャンが少し驚いたように私を見た。 私は慌てて涙を拭う。

「ご、ごめんなさい! あまりに美味しくて……こんなに美味しいお菓子、初めて食べました」

私が正直に言うと、セバスチャンの鉄仮面のような表情が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。

「……左様でございますか。シェフに伝えれば、喜びましょう」

「はい、ぜひお伝えください! 世界で一番美味しいと!」

私が力説すると、彼は「畏まりました」と一礼し、静かに退室していった。 その背中が、最初より少しだけ柔らかくなっていたことに、私は気づかなかった。

こうして、私の公爵邸での最初の一日は、驚くほど平穏に過ぎていった。 何もしないことに罪悪感を覚えつつも、私は貪るように「安息」を享受した。

だが、そんな平穏が長く続くはずもなかった。 夕方、アレクシス様が帰宅したのと同時に、屋敷の空気が一変する出来事が起きたのだ。

「……なんだ、これは」

玄関ホールで、帰宅したアレクシス様が立ち尽くしている。 その視線の先には、私がいる。 正確には、私の手元にあるものに向けられている。

私は、彼の帰宅を出迎えようと、あるものを持って待っていたのだ。 それは、私が日中、暇に任せて図書室で見つけた端切れと刺繍糸で作った、小さなお守り袋だった。 不恰好かもしれないが、感謝の気持ちを伝えたくて。

「あ、あの……! これ、アレクシス様に……」

私が差し出したそれを見て、アレクシス様の顔色がさっと変わった。

「……どこでそれを?」

「え? 図書室の裁縫箱に……」

「捨てろ」

「え?」

「今すぐ捨てろと言っているんだ!!」

雷のような怒声が響き渡った。 私はビクリと体を震わせ、お守りを取り落とした。 床に落ちたお守りを、アレクシス様は忌々しげに見下ろし、そして――靴で踏み潰そうとして、寸前で足を止めた。

彼の顔には、怒りと、それ以上に深い悲哀と苦痛が浮かんでいた。

「……二度と、私の前で刺繍などするな」

彼はそれだけを絞り出すように言うと、私を残して足早に階段を駆け上がっていってしまった。

残された私は、踏み潰されかけたお守りを拾い上げ、呆然と立ち尽くすしかなかった。 なぜ? ただの刺繍なのに。 私の唯一の得意分野で、感謝を伝えたかっただけなのに。

私はまだ知らなかった。 この屋敷において、「刺繍」という行為が、アレクシス様の過去のトラウマ――亡き母との凄惨な記憶に直結するタブーであることを。
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