「君を愛することはない」と言った旦那様が、毎晩離してくれません。 ~白い結婚のはずが、契約書にない溺愛オプションが追加されている件について

ラムネ

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第三話 監視という名の蜜月と、薔薇の棘

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「二度と、私の前で刺繍などするな」

アレクシス様の、血を吐くような怒声が、一晩経っても耳の奥にこびりついて離れなかった。

翌朝。 私は重い気分で目を覚ました。 隣のソファには、またしても窮屈そうに体を折りたたんで眠るアレクシス様の姿があったけれど、昨日ほどの幸福感は湧いてこなかった。 私の心には、踏み潰されそうになったあのお守り袋の残像が、棘のように突き刺さっていたからだ。

(やっぱり、怒らせてしまったんだわ……)

私はベッドの中で膝を抱えた。 「何もしなくていい」と言われたのに、余計なことをしたからだ。 あのお守りは、私の唯一の得意分野である刺繍で作ったもの。 感謝の気持ちを伝えたかっただけなのに、それが彼の逆鱗に触れるなんて。

アレクシス様が起きてくる前に、私は逃げるように身支度を整えた。 顔を合わせるのが怖い。 またあの、憎悪に満ちた目で見られるかと思うと、心臓が痛いほど縮こまる。

朝食の席でも、会話はなかった。 アレクシス様は黙々と食事を進め、私は萎縮して、昨日ほど美味しく味わう余裕もなかった。 それでも「残すな」という命令だけは守らなければと、必死に胃に詰め込んだのだけど。

「……私は執務室にいる。用事がある時以外は入ってくるな」

食後のコーヒーを飲み干すと、彼はそれだけ言い残して部屋を出て行った。 私の方を見ようともしなかった。 その冷たい背中が、「お前になど関心はない」と語っているようで、私は胸がズキリと痛んだ。

(……落ち込んでいても仕方ないわ。衣食住は保証されているんだもの。贅沢を言っちゃダメ)

私は自分の頬をパンと叩いて気合を入れた。 刺繍が禁止なら、別のことで役に立てばいい。 じっとしているのは性に合わないし、何より「ただ飯食らい」だと思われるのが一番怖い。

私は屋敷の裏手へと足を向けた。

そこには、広大な庭園が広がっていた。 手入れはされているものの、どこか無機質で、色彩に乏しい庭だった。 整然と刈り込まれた植木、幾何学模様を描く石畳。 美しいけれど、そこに「命の躍動」が感じられないのは、この屋敷の主であるアレクシス様の心を映しているようだった。

「あら……?」

庭の隅、温室の近くに、少しだけ手入れが行き届いていない一画を見つけた。 枯れかけた薔薇の木が数本、力なく枝を垂れている。

(かわいそうに……まだ根は生きているのに)

私は思わず駆け寄った。 実家では、荒れ果てた庭を一人で管理していたから、植物の状態を見るのは得意だ。 この薔薇は病気ではない。ただ、土が固くなって呼吸ができていないだけだ。

「これなら、私がなんとかできるかもしれない」

私はドレスの袖を捲り上げ、近くにあった園芸用のスコップを手に取った。 ふかふかの土に入れ替え、剪定をしてあげれば、きっとまた美しい花を咲かせるはずだ。

「おや、何をしておるのですかな」

背後から、しわがれた声がかかった。 振り返ると、日焼けした肌に無愛想な顔を張り付けた、初老の庭師が立っていた。 手には大きな剪定バサミを持っている。

「あ、ごめんなさい! 勝手にいじってしまって。この薔薇、元気がなさそうだったので……」

「ふん。その薔薇はもう寿命だ。近々引き抜いて処分する予定でしてな」

庭師は興味なさそうに言った。 その目には、私への警戒心がありありと浮かんでいる。 「公爵様が連れてきた新しい女が、気まぐれに庭いじりか」とでも言いたげだ。

「いえ、寿命じゃありません!」

私は思わず反論していた。

「見てください、ここの芽。まだ緑色が残っています。それに根元の土が固すぎるから、水を吸い上げられていないだけです。ちゃんと手入れをすれば、必ず蘇ります!」

「……ほう?」

庭師が片眉を上げた。 素人の戯言だと思っていただろうに、私が専門的な指摘をしたのが意外だったらしい。

「お嬢ちゃん、土いじりの経験があるのかい?」

「はい。実家の庭は全て私が管理していましたから。肥料の配合も、剪定の時期も分かります」

私はスコップを握り直し、薔薇の根元を丁寧に掘り返し始めた。 土の匂いが懐かしい。 ドレスが汚れるのも構わず、私は夢中で作業を続けた。 固まった土をほぐし、空気を入れ、枯れた枝を最小限に切り落とす。

その手際は、自分でも慣れたものだと思う。 これまで、誰からも褒められることのなかった特技だけれど、植物たちは嘘をつかない。 手をかければかけただけ、応えてくれる。

「……なるほど。口だけじゃなさそうだ」

しばらく黙って見ていた庭師が、ぽつりと呟いた。 その声から、刺々しさが消えている。

「そこまで言うなら、好きにやってみなせぇ。どうせ捨てるつもりだった木だ」

「ありがとうございます! 絶対に綺麗に咲かせてみせますから!」

私は満面の笑みで答えた。 庭師のおじいさんは、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いたが、その口元がわずかに緩んでいるのを私は見逃さなかった。

それから数時間。 私は泥だらけになって働いた。 額に汗が滲み、髪も少し乱れたけれど、久しぶりに体が軽かった。 やっぱり、私はこうやって体を動かしている方が性に合っている。

「ふぅ……これで良し」

手入れを終えた薔薇の木を見上げ、私は満足げに息をついた。 これなら、来月には蕾をつけるはずだ。

その時だった。

「……そこで何をしている」

頭上から、氷点下の声が降ってきた。 ビクリとして見上げると、公爵邸の二階、執務室のバルコニーに、アレクシス様が立っていた。 腕を組み、仁王立ちでこちらを見下ろしている。 その顔は、昨晩見た時と同じくらい険しい。

「あ、アレクシス様……!」

「屋敷で大人しくしていろと言ったはずだ。なぜ泥遊びをしている」

「ど、泥遊びではありません! 庭の手入れを……」

「入ってこい。今すぐだ」

有無を言わせぬ命令口調。 私は慌ててスコップを置き、庭師のおじいさんに「また明日!」と手を振って、屋敷へと走った。

(怒られる……また怒られる……)

玄関でメイドたちにギョッとされながら、泥だらけの手を洗い、執務室へと向かう。 重厚な扉の前に立つと、心臓が早鐘を打った。 もしかして、庭仕事も禁止されるのだろうか。 刺繍もダメ、庭仕事もダメとなると、私は本当に部屋の隅で呼吸をするだけの置物にならなければならない。

「し、失礼いたします……」

恐る恐る扉を開けると、そこには書類の山に埋もれたアレクシス様がいた。 彼は私が入ってくると、ペンを置き、深いため息をついた。

「座れ」

彼が顎で示したのは、執務机のすぐ横に置かれた椅子だった。 え、そんな近くに?

「あ、あの、汚れた服ですので、ソファの端で十分です」

「いいから座れ」

逆らえない。 私は縮こまるようにして、指定された椅子にちょこんと座った。 アレクシス様との距離、わずか1メートル。 彼の整った横顔が間近に見えて、直視できない。

「……お前は、少し目を離すとすぐにこれだ」

彼は呆れたように言った。

「あれほど休んでいろと言ったのに、炎天下で労働をするとはな。自殺願望でもあるのか?」

「い、いいえ! ただ、じっとしているのが苦手で……それに、あの薔薇が可哀想だったので」

「薔薇だと?」

「はい。手入れされていない薔薇の木があって……放っておけなくて」

私がモジモジしながら説明すると、アレクシス様はふいっと視線を逸らした。 その横顔には、怒りというよりは、どこか困惑と、諦めのような色が混じっていた。

「……私の屋敷の庭師は優秀だが、あの薔薇は確かに放置されていたな」

「はい。でも、もう大丈夫です。私が愛情を込めましたから」

「愛情……」

彼がその単語を口の中で転がすように呟いた。 そして、じっと私の手を見つめる。 土いじりで少し荒れ、爪の間に土が残った、貴族の令嬢とは思えない武骨な手。

「……汚い手だ」

「っ、申し訳ありません……」

私は反射的に手を後ろに隠した。 やっぱり、不快だったのだ。

けれど、彼は続けてこう言った。

「だが……働き者の手だ」

「え?」

顔を上げると、アレクシス様はすぐに書類に視線を戻していた。 今、なんて? 褒められたの? それとも皮肉?

「とにかく、私の目の届かないところで勝手な真似をされると困る。管理不行き届きだと思われるからな」

彼は咳払いを一つして、宣言した。

「今後、日中はここで過ごせ」

「えっ? こ、この執務室でですか?」

「そうだ。私の監視下にあれば、倒れたりしてもすぐに対処できる。……これは業務命令だ」

業務命令。 その言葉の便利さに気づいたのか、彼は少し得意げだ。

「は、はい……承知いたしました」

こうして、私の「執務室での監視生活」が始まった。 といっても、私がすることは特にない。 アレクシス様が膨大な書類を処理する横で、私は借りてきた本を読んだり、窓の外を眺めたりするだけだ。

アレクシス様は、仕事中は鬼のように集中していて、私の方を見ようともしない。 部下が報告に来ると、氷のような冷徹さで指示を出し、的確に問題を解決していく。 その姿は、悔しいけれど惚れ惚れするほど格好良かった。 「氷の公爵」の異名は伊達じゃない。

でも、ふとした瞬間に、彼がチラリと私の方を見ていることに、私は気づき始めていた。 私がページをめくる音や、小さく咳払いをするたびに、ペンを走らせる手がピタリと止まるのだ。 そして、「大丈夫か?」「寒くないか?」と聞いてくるわけでもなく、ただじっと観察して、また仕事に戻る。

(……もしかして、邪魔だと思われているのかな)

私は息を殺すようにして過ごした。

そんな奇妙な同居生活が数日続いたある日のこと。 事件は起きた。

その日、アレクシス様は朝から機嫌が悪かった。 領地でのトラブルの報告があったらしく、眉間の皺がいつにも増して深い。 執務室の空気は張り詰め、部下たちも震え上がって退室していくほどだった。

私は部屋の隅で、空気に同化するように大人しくしていた。 ふと、アレクシス様が乱暴に書類を掴もうとして、袖口を引っ掛けた。

ブチッ。

乾いた音がして、彼の上着の袖ボタンが一つ、弾け飛んだ。 コロコロと転がり、私の足元で止まる。

「チッ……」

アレクシス様は舌打ちをして、取れた袖口を忌々しげに睨んだ。 そして、そのまま仕事を続けようとする。

「あ、あの!」

私は思わず立ち上がって、ボタンを拾い上げた。

「アレクシス様、ボタンが取れています。すぐに付け直します!」

「……放っておけ。あとで着替える」

「でも、そのままだと袖口が開いてしまって、お仕事がしにくいのでは? それに、公爵様がボタンの取れた服を着ているなんて、格好がつきません」

私は反射的に、隠し持っていたソーイングセットを取り出そうとした。 いつもポケットに入れている小さな携帯用セットだ。

しかし、針と糸を取り出した瞬間、アレクシス様の表情が凍りついた。

「……待て」

低い声。 室内の温度が急激に下がる。

「誰が、刺繍をしていいと言った?」

「え……?」

「私の前で針を持つなと言ったはずだ。忘れたのか?」

あの日と同じ、昏い怒りの色が彼の瞳に宿る。 私は恐怖で手が震えた。 でも、今回は引き下がりたくなかった。

「刺繍ではありません! これは、ただのボタン付けです!」

「同じことだ! 針を使うな!」

「どうしてですか!?」

私は叫んでいた。 自分でも驚くほどの大きな声だった。

「私は貴方の妻です! 旦那様の身なりを整えるのは、妻の務めです! 愛されていないとしても、ただの契約だとしても……今の私は、貴方に衣食住をいただいて生かされている身です。せめてこれくらいのことをさせてください!」

私の目から、ポロポロと涙がこぼれた。 何もさせてもらえない。 ただ太らされて、置いておかれるだけ。 それが惨めで、申し訳なくて、何より、目の前の彼が不便そうにしているのが放っておけなかった。

「貴方の役に立ちたいんです……! 私には、これくらいしか能がないから……!」

涙声で訴える私を、アレクシス様は呆然と見つめていた。 その瞳の中で、怒りの炎が揺らぎ、やがて消えていく。 代わりに浮かんだのは、深い困惑と、見たこともないような切ない色だった。

「……役に、立ちたい……?」

「はい……」

「ただのボタン付けだぞ? 使用人にやらせればいいことだ」

「私がやりたいんです。アレクシス様のために」

「私の……ために……」

彼はよろめくように一歩後ずさり、机に手をついた。 まるで、とてつもない衝撃を受けたかのような顔をしている。

長い沈黙が流れた。 やがて、彼は深く、深くため息をついた。 それは諦めのため息であり、同時に、どこか安堵したような響きを持っていた。

「……分かった」

彼は静かに言った。 そして、私の方へと歩み寄ってくる。

「え?」

「付けるなら、今すぐやれ。ただし条件がある」

彼は私の目の前で椅子を引き寄せ、ドカリと座った。 そして、腕を突き出す。

「私の目の前でやれ。絶対に視線を逸らすな。そして、一瞬でも危ないと思ったらすぐに止めろ」

「は、はい!」

私は涙を拭い、急いで針に糸を通した。 許された。 ただボタンを付けるだけなのに、まるで世界を救う許可をもらったかのように嬉しい。

私は震える手で、彼の上着の袖口に針を通した。 緊張する。 アレクシス様の顔が近い。 彼がじっと、瞬きもせずに私の手元を凝視しているのが分かる。 まるで爆弾処理を見守るような緊張感だ。

(落ち着いて、リリアナ。これは得意なはずでしょう)

一針、一針、丁寧に。 彼の高価な生地を傷つけないように。 丈夫に、かつ美しく。

私の指先がリズムを取り戻していく。 アレクシス様の体温が、布越しに伝わってくる。 男性特有の、しっかりとした腕。 氷の公爵と呼ばれる彼も、ちゃんと温かい血が通った人間なのだと、改めて実感する。

「……器用だな」

頭上から、ぽつりと声が降ってきた。

「え?」

「動きに迷いがない。……美しい手際だ」

不意打ちの称賛に、心臓が跳ねた。 あの冷徹なアレクシス様が、褒めてくれた?

動揺した瞬間。

チクリ。

「あっ」

針先が、私の人差し指を掠めた。 わずかな痛みとともに、赤い血の玉がぷくりと浮かび上がる。

しまった。 一番やってはいけないミスを。 怒られる。針を取り上げられる。

「す、すみません! すぐに拭きま……」

私が言い訳をしようとした、その時だった。

ガタンッ!

アレクシス様が椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がったかと思うと、私の手首を掴んだ。 その顔は蒼白で、まるで私が瀕死の重傷を負ったかのような形相だった。

「リリアナ!!」

「だ、大丈夫です、ただのかすり傷で……」

「見せろ!」

彼は私の指を引き寄せ、凝視する。 そして、次の瞬間――。

パクッ。

「……え?」

私の思考が停止した。

温かくて、濡れた感触が指先を包み込む。 アレクシス様が、私の指を口に含んでいた。

「あ、あ、アレクシス様……!?」

私はパニックになった。 何が起きているの? 公爵様が、私の指を? 舐めてる?

舌先が、傷口を優しくなぞる。 背筋に電流が走ったような衝撃。 心臓が破裂しそうだ。

チュッ、と音を立てて指が解放される。 アレクシス様は、真剣な表情で口元を拭った。

「……消毒だ」

「しょ、消毒……?」

「唾液には殺菌作用がある。これくらい常識だろう」

彼は大真面目だった。 いや、大真面目を装っているだけかもしれない。 なぜなら、彼の耳は真っ赤に染まっていて、視線はあからさまに泳いでいたからだ。

「これ以上血が出ないか確認する。……もう一度見せろ」

「え、あ、はい……」

彼は私の手を放そうとしなかった。 それどころか、両手で私の手を包み込み、まるで宝物でも鑑定するかのように、指先をじっくりと見つめている。 その指で、私の傷口の周りを愛おしげに摩る。

「……痛くないか?」

「は、はい。もう全然……」

痛いわけがない。 むしろ、熱い。 指先から伝わる彼の体温と、奇妙な色気が、私の全身を熱くさせている。

「……そうか。ならいい」

彼はそう言っても、まだ手を離さない。 至近距離で、アイスブルーの瞳が私を捉える。 そこには、氷のような冷たさは微塵もなかった。 あるのは、とろけるような甘さと、焦げ付くような独占欲。

「今度からは、もっと気をつけろ。……私の心臓に悪い」

「は、はい……」

心臓に悪いのはこちらだと言いたい。 私は顔が沸騰しそうで、うつむくことしかできなかった。

この日を境に、アレクシス様の「監視」という名の拘束は、さらにエスカレートしていくことになる。 そして、使用人たちの態度も、劇的に変わり始めるのだった。

「奥様、本日の庭のお手入れですが……」 「奥様、旦那様がお呼びです。……なぜか抱き枕を持って」

私の平穏な「空気のような生活」は、完全に崩壊の序曲を奏で始めていた。
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