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第五話 氷の公爵の威圧と、勘違いの舞踏会
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「……リリアナ、それはなんだ」
舞踏会当日の夕刻。 公爵邸の衣装部屋にて、アレクシス様が私の手元を指差し、心底不思議そうな顔で尋ねた。
私は胸を張って答えた。
「ドレスです! 実家から持ってきた中で、一番状態の良いものを、私が丹精込めてリメイクいたしました!」
私の手には、薄いピンク色のドレスが握られている。 もとは義妹のマリアが「色がくすんで気に入らない」と言って捨てたものだが、私が洗濯し、破れた箇所にレースを縫い付け、なんとか見られる状態にしたものだ。 デザインは数年前の流行だが、清潔感はあるはずだ。
「公爵様が用意してくださると伺いましたが、高価なドレスを汚してしまっては申し訳ありませんし、私のような『飾り』の妻には、これで十分かと思いまして……」
私が倹約家アピールを込めて説明すると、アレクシス様はこめかみを指で押さえ、深いため息をついた。
「……あのな。これから向かうのは王城だ。国王陛下もいらっしゃる公式の場だぞ」
「は、はい」
「そんな、つぎはぎだらけの布切れを着ていけば、私が妻に服も与えない甲斐性なしだと宣伝するようなものだ」
「布切れ……!」
一応、精一杯のオシャレだったのだが、公爵様の目から見れば雑巾と変わらないらしい。 私はシュンとしてドレスを下ろした。
「捨てろとは言わんが、今日はそれを着るな。……おい」
彼が指を鳴らすと、控えていた侍女たちが一斉に動き出した。 そして、部屋の奥から、うやうやしく運ばれてきたのは――。
「わぁ……っ!」
私は思わず息を呑んだ。
それは、夜空を切り取ったかのような、深いミッドナイトブルーのドレスだった。 最高級のシルク地には、細かなダイヤモンドの粉末が織り込まれているのか、照明を受けて星屑のようにキラキラと輝いている。 胸元や袖口には、繊細な銀糸の刺繍と、本物のサファイアが散りばめられていた。
「こ、これを……私が着るのですか?」
「他に誰がいる。私の瞳の色に合わせた」
アレクシス様はこともなげに言った。 瞳の色に合わせた。 それはつまり、ペアルック(概念的な)ということだろうか。 所有印を押されるようで、なんだか顔が熱くなる。
「さあ、時間がない。着替えろ」
彼はそう言って部屋を出て行った。 残された私は、侍女たちの手によって、あれよあれよという間に「お支度」をされていった。
「奥様、肌が白くていらっしゃるから、この深い青がとてもよく映えますわ」 「お痩せになってはいますが、ウエストのラインが綺麗です」 「髪も艶が出てきましたね。少し結い上げましょう」
侍女たちの手際は魔法のようだった。 コルセットで締め上げられ、ドレスを纏い、髪を結い上げられ、化粧を施される。 鏡の前に立たされた時、私は自分の目を疑った。
「……誰?」
そこに映っていたのは、いつもの地味で幸薄そうなリリアナではなかった。 透き通るような白い肌に、夜空色のドレスが映え、凛とした美しさを湛えた貴婦人がいた。 少し頬が紅潮し、瞳が潤んでいるのが、自分でも分かる。
(これが、私……?)
「……悪くない」
いつの間にか戻ってきていたアレクシス様が、鏡越しに私を見て呟いた。 彼はすでに正装に着替えていた。 黒を基調とした公爵家の礼服に、青いサッシュを斜めにかけている。 その姿は、息が止まるほど格好良かった。 まさに「氷の公爵」の完成形だ。
「馬子にも衣装だな」
彼は憎まれ口を叩きながらも、私の首元に、ドレスと同じサファイアのネックレスをかけてくれた。 その指先が、首筋に触れる。 冷たい指なのに、触れた場所から火傷しそうなほど熱くなる。
「……行くぞ。私の隣を歩く以上、堂々としていろ」
「は、はい……!」
私は震える足で、彼のエスコートを受けた。 シンデレラの魔法が解ける時間までは、私は夢を見させてもらおう。 そう心に決めて。
***
王城の舞踏会場は、光の洪水だった。 天井には数え切れないほどのシャンデリアが輝き、磨き上げられた大理石の床に反射している。 華やかなドレスを纏った貴婦人たち、煌びやかな軍服や燕尾服の紳士たち。 楽団が奏でる優雅なワルツの調べ。 むせ返るような香水の香りと、話し声のさざめき。
そのすべてが、私たちが会場の入り口に立った瞬間、ピタリと止まった。
「――オルブライト公爵閣下、ならびに公爵夫人、ご到着!」
衛兵の高らかなアナウンスが響き渡る。
ザワッ……。
会場中の視線が、一斉に私たちに突き刺さった。
「おい、あれを見ろ……」 「氷の公爵が、女性を連れているぞ……」 「まさか、あれが噂の?」 「なんて冷たい美貌の公爵様……今日も素敵だわ……」 「隣の女性は誰? 見たことのない顔だけど」
好奇心、羨望、嫉妬、値踏み。 様々な感情が入り混じった視線が、物理的な圧力となって押し寄せてくる。 私は思わず足がすくみそうになった。
(怖い……みんなが見てる……)
私の手は、アレクシス様の腕をギュッと握りしめていた。 手汗をかいていないか心配だ。 ドレスの裾を踏んで転んだらどうしよう。 呼吸が浅くなりかけた、その時。
「……前を見ろ」
隣から、低い声が聞こえた。 アレクシス様だ。 彼は前を向いたまま、表情一つ変えずに囁いた。
「下を向くな。お前は何も悪いことをしていない」
「で、でも……視線が……」
「ただの有象無象だ。カボチャかジャガイモだと思え」
「カボチャ……」
「私の腕だけを見ていればいい。私が支えている。絶対に転ばせない」
その言葉には、不思議な説得力があった。 私は恐る恐る顔を上げ、彼の横顔を見た。 彼は堂々としていた。 周囲の雑音など意に介さず、王者の風格で歩を進めている。
(そうか、この人がいるんだもの)
私は深呼吸をして、背筋を伸ばした。 彼の腕の温もりが、命綱のように私を支えてくれている。
私たちは大階段をゆっくりと下りていった。 アレクシス様が放つ冷気(オーラ)のせいか、私たちが進むと、自然と人垣が割れて道ができる。 モーゼの海割りのようだ。
「ごきげんよう、アレクシス卿」 「お久しぶりです、公爵閣下」
勇気ある何人かの貴族が挨拶をしてくるが、アレクシス様は「ああ」とか「うむ」と短く返すだけだ。 愛想のかけらもない。 けれど、それが逆に「クールで素敵!」と女性たちの熱視線を集めているのだから、世の中は不公平だ。
一方で、私に向けられる視線はもっと露骨だった。 特に女性たちからの視線は刺々しい。
「あの方があの成金の娘?」 「没落寸前だったクレイトン家の……」 「地味な顔立ちね。公爵様の隣には不釣り合いだわ」
ひそひそ声が聞こえてくる。 やっぱり、そう言われるよね。 私は心が折れそうになったが、そのたびにアレクシス様の腕に力がこもるのを感じて、なんとか笑顔を張り付けた。
やがて、ダンスの時間が始まった。 ファーストダンスは、王族あるいは最高位の貴族が踊るのが慣例だ。 筆頭公爵であるアレクシス様は、当然のように私をフロアの中央へと導いた。
「踊れるか?」
「……基本のステップくらいなら、なんとか」
実家での教育は最低限だったが、ダンスだけは亡き母が教えてくれた記憶がある。 でも、こんな大勢の前で踊るなんて初めてだ。
アレクシス様は、私の腰に手を回し、もう片方の手で私の手を取った。 至近距離で見下ろされるアイスブルーの瞳。 心臓が口から飛び出しそうだ。
音楽が始まる。 優雅な三拍子。
「……私の足に乗ってもいい」
アレクシス様が耳元で囁いた。
「えっ?」
「私がリードする。お前はただ、私に身を任せていればいい」
彼のリードは完璧だった。 私の拙いステップを、彼が力強く、かつ滑らかにガイドしてくれる。 まるで私がダンスの名手になったかのような錯覚に陥るほど、体が自然に動く。 ターンをするたびに、ドレスの裾がふわりと広がり、星屑のように煌めく。
「綺麗だ……」
誰かが呟いた声が聞こえた。 それはドレスのことかもしれないし、アレクシス様のことかもしれない。 でも、今の私にはどうでもよかった。
目の前にいるアレクシス様の瞳に、私だけが映っている。 それだけで、胸がいっぱいだった。
「……緊張しているのか?」
「はい、すごく……」
「顔が赤いぞ」
「公爵様が……近すぎるからです」
「……夫婦なのだから、これくらい普通だ」
彼はそう言いながらも、少しだけ視線を逸らした。 その耳が赤いことに気づいて、私は少しだけ緊張がほぐれた。
(この人も、緊張しているのかな……?)
曲が終わると、会場からは割れんばかりの拍手が起こった。 私は夢見心地のまま、アレクシス様にエスコートされてフロアを後にした。
「少し休んでいろ。私は挨拶回りに行ってくる」
壁際の休憩スペースに私を座らせると、アレクシス様は言った。
「誰か来ても相手にするな。すぐに戻る」
「はい、大人しくしています」
彼は心配そうに何度も振り返りながら、貴族たちの輪の中へと消えていった。 私はふぅっと息をつき、ウェイターから受け取った果実水を一口飲んだ。 緊張の糸が切れて、どっと疲れが出た。
その時だった。
「やあ、美しいお嬢さん。一人かい?」
頭上から、甘ったるい声が降ってきた。 顔を上げると、派手な服装の若い男が立っていた。 金髪を巻き毛にして、胸元を大きく開けた、いかにも「遊び人」といった風情の貴族だ。
「……夫を待っておりますので」
私は礼儀正しく、しかしきっぱりと断った。 アレクシス様から「相手にするな」と言われている。
しかし、男は引き下がらなかった。 むしろ、興味深そうに身を乗り出してくる。
「夫? ああ、あの堅物の公爵のことか。あんな氷みたいな男と一緒にいて楽しいかい? 僕ならもっと君を楽しませてあげられるよ」
男の手が、私の肩に伸びてくる。
「君のような純朴そうな子は好みなんだ。どうだい、少し外の空気を吸いに行かないか?」
「い、いえ、結構です! 触らないでください!」
私は身を引いて避けようとしたが、男はしつこく距離を詰めてくる。 壁際で逃げ場がない。 怖い。 誰か助けて。
「恥ずかしがらなくていいよ。公爵だって、君みたいな地味な子より、もっと派手な美人が好きなはずさ。僕なら君の良さを……」
男の手が私の頬に触れようとした、その瞬間だった。
ゴォォォォォ……ッ!!
突如として、会場の気温が急激に下がった。 いや、物理的な気温ではない。 肌を刺すような、圧倒的な殺気が、空間を支配したのだ。
「ひぃっ!?」
男が悲鳴を上げて飛び退いた。 周囲にいた人々も、青ざめた顔で一斉に沈黙する。 ガタガタと食器が震える音が響く。
その殺気の発生源は、私の背後にあった。
ゆっくりと振り返る。 そこには、地獄の底から這い上がってきた魔王のような形相のアレクシス様が立っていた。
「…………」
無言だ。 一言も発していない。 けれど、そのアイスブルーの瞳は、完全に「絶対零度」を超えていた。 瞳孔が開かれ、ハイライトが消えている。 全身から立ち昇る魔力が、陽炎のように空気を揺らしている。
男を睨みつける視線は、もはや人間を見る目ではない。 汚らわしい害虫、いや、今すぐに駆除すべき病原菌を見る目だ。
「あ、あ、あ、アレクシス公爵……か、閣下……」
男は腰を抜かしてへたり込んだ。 歯の根が合わず、ガチガチと鳴っている。
「こ、これは違います! 私はただ、夫人にご挨拶を……そ、そう、ご挨拶をしようと……!」
アレクシス様は、ゆっくりと一歩踏み出した。
コツン。
革靴の音が、死の宣告のように響く。
「……私の妻に、その汚い手で触れようとしたな?」
低く、地を這うような声。 怒声ではない。 あまりの怒りに、感情が一周回って静まり返っている声だ。
「そ、そんなつもりじゃ……!」
「消えろ」
短く、簡潔な命令。
「私の視界から消えろ。二度と私の妻に近づくな。……さもなくば、その腕を氷像にして粉々に砕くぞ」
比喩ではない。 彼の手元には、パキパキと音を立てて氷の結晶が生成されていた。 本気だ。 この場で魔法を行使して、血の雨を降らせる気だ。
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃッ!!」
男は無様に叫び声を上げ、転がるようにして逃げ出した。 会場中の人々が、恐怖で凍りついている。 「氷の公爵」の伝説に、新たな1ページが刻まれた瞬間だった。
(ど、どうしよう……!)
私は震え上がった。 アレクシス様が激怒している。 あんなに恐ろしい顔、初めて見た。 きっと、私が隙を見せたからだ。 公爵夫人としての自覚が足りず、変な男に絡まれて、公爵家の名誉を傷つけてしまったからだ。
アレクシス様が、ゆっくりと私の方を向く。 その瞳には、まだ怒りの余韻が残っている。
「……リリアナ」
「は、はいっ! 申し訳ありませんでした!!」
私は反射的に頭を下げた。
「私が不用意でした! もっと毅然としていればよかったのに、あんな男に絡まれてしまって……公爵様のお顔に泥を塗ってしまいました! どうかお許しください!」
「……は?」
「すぐに帰ります! 反省室に入ります! もう二度と社交の場には出ませんから、どうか捨てないでください……!」
私は必死で謝り続けた。 殺されるかもしれない、と思った。 「お前のような隙だらけの女は妻失格だ」と言われるのが怖かった。
しかし。
ギュッ。
私の体は、強い力で抱きしめられていた。
「え……?」
顔を上げると、アレクシス様の胸元があった。 彼は私を、人目も憚らず、強く、強く抱きしめていた。 その腕は微かに震えていた。
「……無事でよかった」
耳元で、安堵の溜息が聞こえた。
「アレクシス様……?」
「遅くなってすまない。怖かっただろう」
「え、いえ、私は……怒っていらっしゃるのでは……?」
「怒っているさ」
彼はギリリと歯噛みした。
「あの男にも、そして……お前を一人にした自分自身にな」
「自分自身に……?」
「あんな害虫が寄り付くほど、今日のお前が魅力的だということを計算に入れていなかった。……私の失態だ」
彼は苦々しげに言った。 魅力的? 私が?
「帰るぞ。もう十分だ」
「えっ、でもまだ夜会は……」
「これ以上、他の男にお前を見せたくない」
彼はそう言い捨てると、私の肩を抱き、マントで私の姿を隠すようにして、足早に出口へと向かった。 周囲の貴族たちは、蜘蛛の子を散らすように道を開けた。 誰も私たちを止めようとはしなかった。
***
帰りの馬車の中。 沈黙が流れていた。
アレクシス様は腕を組み、不機嫌そうに窓の外を睨んでいる。 私は膝の上で手を握りしめ、小さくなっていた。
(やっぱり、怒っているわよね……)
「見せたくない」というのは、きっと「恥ずかしいから見せたくない」という意味だろう。 あんな騒ぎを起こした妻なんて、隠しておきたいに決まっている。
「……あの、アレクシス様」
「なんだ」
「本日は、本当に申し訳ありませんでした。素敵なドレスまで用意していただいたのに……」
「……ドレスは、よく似合っていた」
彼は窓の外を見たまま、ぶっきらぼうに言った。
「そ、そうですか? ありがとうございます」
「だが、胸元が開きすぎだ」
「え?」
「それから背中もだ。あんな無防備な格好をしていれば、虫が寄ってくるのも当然だ」
「あ、あれはそういうデザインで……侍女の方々が流行だと言って……」
「今後は禁止だ。私の前以外では、肌を露出するな」
「ええっ!?」
「首まで詰まった服を着ろ。手袋も外すな。……これは命令だ」
彼はすごい剣幕で言った。 それはまるで、自分の大切な宝物を誰にも見せたくない子供のようだった。
「……は、はい。承知いたしました」
私は呆気にとられながらも返事をした。 変な命令だ。 でも、不思議と嫌な気分ではなかった。 むしろ、彼がそこまで私に関心を持ってくれていることが、少しだけ嬉しかった。
「……手」
「はい?」
「手が冷たい。貸せ」
彼は私の返事も待たずに、私の両手を取り、自分の両手で包み込んだ。 そして、ハァーッと温かい息を吹きかける。
「冷え性なのか? もっと食べて肉をつけろと言っているだろう」
「食べてます! 毎日お腹がはち切れそうなくらい!」
「なら、もっとだ」
彼は私の手を、自分のコートのポケット――つまり、彼のお腹の上へと強引に入れた。 そこは、カイロのように温かかった。
「……屋敷に着くまで、こうして温めておく」
「あ、あの、アレクシス様の手が冷えてしまいます……」
「構わん。私は氷の公爵だからな」
彼は冗談めかして言ったが、その表情は柔らかかった。 薄暗い馬車の中で、私たちの距離は今までで一番近かった。 彼の心臓の音が、私の掌を通して伝わってくる。
(契約結婚なのに……どうしてこんなに甘いの?)
私は混乱していた。 「愛することはない」という言葉と、今の彼の行動が矛盾しすぎている。 ツンとデレの温度差で風邪を引きそうだ。
けれど、一つだけ確かなことがあった。 私は、この不器用で、怖いくらい過保護な旦那様のことが、嫌いじゃない。 いや、むしろ……。
私の胸の奥で、小さな恋の蕾が、ポッと音を立てて開いたような気がした。
だが、甘い雰囲気はここまでだった。 馬車が公爵邸に到着すると、そこには新たな「試練」が待ち受けていたのだ。
「おかえりなさいませ、旦那様! 奥様!」
玄関ホールに整列した使用人たち。 その最後尾で、なぜかニヤニヤと笑いを堪えている侍女長が、一歩前に進み出た。
「旦那様。……例の『日課』のお時間でございますが?」
「……っ!?」
アレクシス様の体が、ビクッと硬直した。 日課? なんのことだろう。
アレクシス様は、真っ赤な顔で私と侍女長を交互に見ると、咳払いを一つして、決死の覚悟を決めたような顔で私に向き直った。
「……リリアナ」
「は、はい?」
「その……これからは、夫婦円満を装う訓練が必要だ」
「訓練、ですか?」
「そうだ。今日のように、外敵から身を守るためにも、我々が仲睦まじい夫婦であると、使用人たちにも周知させる必要がある」
彼は早口でまくし立てた。 そして、おもむろに顔を近づけてくる。
「え、あ、あの……?」
「……動くな」
彼の端正な顔が、目の前まで迫る。 長い睫毛。 整った鼻筋。 そして、形の良い唇が――。
チュッ。
「……!!??」
軽い、本当に羽が触れるような感触が、私の頬に落ちた。 行ってきますのキス、ならぬ、おやすみなさいのキス?
会場は静まり返り、次の瞬間、使用人たちからは「キャーッ!」という黄色い悲鳴が、私からは「ボンッ!」という湯気が噴き出した。
「……以上だ。解散!」
アレクシス様は真っ赤な顔で叫ぶと、脱兎のごとく階段を駆け上がっていった。 残された私は、頬を押さえたまま、その場にへたり込んだ。
「……契約書に、キスなんて書いてなかったはずですけどぉぉぉ!?」
私の悲痛な叫び(とときめき)は、公爵邸の夜空に吸い込まれていった。 契約結婚生活、第6話にして、ついに「スキンシップ」という名の新たなオプションが追加されてしまったのである。
舞踏会当日の夕刻。 公爵邸の衣装部屋にて、アレクシス様が私の手元を指差し、心底不思議そうな顔で尋ねた。
私は胸を張って答えた。
「ドレスです! 実家から持ってきた中で、一番状態の良いものを、私が丹精込めてリメイクいたしました!」
私の手には、薄いピンク色のドレスが握られている。 もとは義妹のマリアが「色がくすんで気に入らない」と言って捨てたものだが、私が洗濯し、破れた箇所にレースを縫い付け、なんとか見られる状態にしたものだ。 デザインは数年前の流行だが、清潔感はあるはずだ。
「公爵様が用意してくださると伺いましたが、高価なドレスを汚してしまっては申し訳ありませんし、私のような『飾り』の妻には、これで十分かと思いまして……」
私が倹約家アピールを込めて説明すると、アレクシス様はこめかみを指で押さえ、深いため息をついた。
「……あのな。これから向かうのは王城だ。国王陛下もいらっしゃる公式の場だぞ」
「は、はい」
「そんな、つぎはぎだらけの布切れを着ていけば、私が妻に服も与えない甲斐性なしだと宣伝するようなものだ」
「布切れ……!」
一応、精一杯のオシャレだったのだが、公爵様の目から見れば雑巾と変わらないらしい。 私はシュンとしてドレスを下ろした。
「捨てろとは言わんが、今日はそれを着るな。……おい」
彼が指を鳴らすと、控えていた侍女たちが一斉に動き出した。 そして、部屋の奥から、うやうやしく運ばれてきたのは――。
「わぁ……っ!」
私は思わず息を呑んだ。
それは、夜空を切り取ったかのような、深いミッドナイトブルーのドレスだった。 最高級のシルク地には、細かなダイヤモンドの粉末が織り込まれているのか、照明を受けて星屑のようにキラキラと輝いている。 胸元や袖口には、繊細な銀糸の刺繍と、本物のサファイアが散りばめられていた。
「こ、これを……私が着るのですか?」
「他に誰がいる。私の瞳の色に合わせた」
アレクシス様はこともなげに言った。 瞳の色に合わせた。 それはつまり、ペアルック(概念的な)ということだろうか。 所有印を押されるようで、なんだか顔が熱くなる。
「さあ、時間がない。着替えろ」
彼はそう言って部屋を出て行った。 残された私は、侍女たちの手によって、あれよあれよという間に「お支度」をされていった。
「奥様、肌が白くていらっしゃるから、この深い青がとてもよく映えますわ」 「お痩せになってはいますが、ウエストのラインが綺麗です」 「髪も艶が出てきましたね。少し結い上げましょう」
侍女たちの手際は魔法のようだった。 コルセットで締め上げられ、ドレスを纏い、髪を結い上げられ、化粧を施される。 鏡の前に立たされた時、私は自分の目を疑った。
「……誰?」
そこに映っていたのは、いつもの地味で幸薄そうなリリアナではなかった。 透き通るような白い肌に、夜空色のドレスが映え、凛とした美しさを湛えた貴婦人がいた。 少し頬が紅潮し、瞳が潤んでいるのが、自分でも分かる。
(これが、私……?)
「……悪くない」
いつの間にか戻ってきていたアレクシス様が、鏡越しに私を見て呟いた。 彼はすでに正装に着替えていた。 黒を基調とした公爵家の礼服に、青いサッシュを斜めにかけている。 その姿は、息が止まるほど格好良かった。 まさに「氷の公爵」の完成形だ。
「馬子にも衣装だな」
彼は憎まれ口を叩きながらも、私の首元に、ドレスと同じサファイアのネックレスをかけてくれた。 その指先が、首筋に触れる。 冷たい指なのに、触れた場所から火傷しそうなほど熱くなる。
「……行くぞ。私の隣を歩く以上、堂々としていろ」
「は、はい……!」
私は震える足で、彼のエスコートを受けた。 シンデレラの魔法が解ける時間までは、私は夢を見させてもらおう。 そう心に決めて。
***
王城の舞踏会場は、光の洪水だった。 天井には数え切れないほどのシャンデリアが輝き、磨き上げられた大理石の床に反射している。 華やかなドレスを纏った貴婦人たち、煌びやかな軍服や燕尾服の紳士たち。 楽団が奏でる優雅なワルツの調べ。 むせ返るような香水の香りと、話し声のさざめき。
そのすべてが、私たちが会場の入り口に立った瞬間、ピタリと止まった。
「――オルブライト公爵閣下、ならびに公爵夫人、ご到着!」
衛兵の高らかなアナウンスが響き渡る。
ザワッ……。
会場中の視線が、一斉に私たちに突き刺さった。
「おい、あれを見ろ……」 「氷の公爵が、女性を連れているぞ……」 「まさか、あれが噂の?」 「なんて冷たい美貌の公爵様……今日も素敵だわ……」 「隣の女性は誰? 見たことのない顔だけど」
好奇心、羨望、嫉妬、値踏み。 様々な感情が入り混じった視線が、物理的な圧力となって押し寄せてくる。 私は思わず足がすくみそうになった。
(怖い……みんなが見てる……)
私の手は、アレクシス様の腕をギュッと握りしめていた。 手汗をかいていないか心配だ。 ドレスの裾を踏んで転んだらどうしよう。 呼吸が浅くなりかけた、その時。
「……前を見ろ」
隣から、低い声が聞こえた。 アレクシス様だ。 彼は前を向いたまま、表情一つ変えずに囁いた。
「下を向くな。お前は何も悪いことをしていない」
「で、でも……視線が……」
「ただの有象無象だ。カボチャかジャガイモだと思え」
「カボチャ……」
「私の腕だけを見ていればいい。私が支えている。絶対に転ばせない」
その言葉には、不思議な説得力があった。 私は恐る恐る顔を上げ、彼の横顔を見た。 彼は堂々としていた。 周囲の雑音など意に介さず、王者の風格で歩を進めている。
(そうか、この人がいるんだもの)
私は深呼吸をして、背筋を伸ばした。 彼の腕の温もりが、命綱のように私を支えてくれている。
私たちは大階段をゆっくりと下りていった。 アレクシス様が放つ冷気(オーラ)のせいか、私たちが進むと、自然と人垣が割れて道ができる。 モーゼの海割りのようだ。
「ごきげんよう、アレクシス卿」 「お久しぶりです、公爵閣下」
勇気ある何人かの貴族が挨拶をしてくるが、アレクシス様は「ああ」とか「うむ」と短く返すだけだ。 愛想のかけらもない。 けれど、それが逆に「クールで素敵!」と女性たちの熱視線を集めているのだから、世の中は不公平だ。
一方で、私に向けられる視線はもっと露骨だった。 特に女性たちからの視線は刺々しい。
「あの方があの成金の娘?」 「没落寸前だったクレイトン家の……」 「地味な顔立ちね。公爵様の隣には不釣り合いだわ」
ひそひそ声が聞こえてくる。 やっぱり、そう言われるよね。 私は心が折れそうになったが、そのたびにアレクシス様の腕に力がこもるのを感じて、なんとか笑顔を張り付けた。
やがて、ダンスの時間が始まった。 ファーストダンスは、王族あるいは最高位の貴族が踊るのが慣例だ。 筆頭公爵であるアレクシス様は、当然のように私をフロアの中央へと導いた。
「踊れるか?」
「……基本のステップくらいなら、なんとか」
実家での教育は最低限だったが、ダンスだけは亡き母が教えてくれた記憶がある。 でも、こんな大勢の前で踊るなんて初めてだ。
アレクシス様は、私の腰に手を回し、もう片方の手で私の手を取った。 至近距離で見下ろされるアイスブルーの瞳。 心臓が口から飛び出しそうだ。
音楽が始まる。 優雅な三拍子。
「……私の足に乗ってもいい」
アレクシス様が耳元で囁いた。
「えっ?」
「私がリードする。お前はただ、私に身を任せていればいい」
彼のリードは完璧だった。 私の拙いステップを、彼が力強く、かつ滑らかにガイドしてくれる。 まるで私がダンスの名手になったかのような錯覚に陥るほど、体が自然に動く。 ターンをするたびに、ドレスの裾がふわりと広がり、星屑のように煌めく。
「綺麗だ……」
誰かが呟いた声が聞こえた。 それはドレスのことかもしれないし、アレクシス様のことかもしれない。 でも、今の私にはどうでもよかった。
目の前にいるアレクシス様の瞳に、私だけが映っている。 それだけで、胸がいっぱいだった。
「……緊張しているのか?」
「はい、すごく……」
「顔が赤いぞ」
「公爵様が……近すぎるからです」
「……夫婦なのだから、これくらい普通だ」
彼はそう言いながらも、少しだけ視線を逸らした。 その耳が赤いことに気づいて、私は少しだけ緊張がほぐれた。
(この人も、緊張しているのかな……?)
曲が終わると、会場からは割れんばかりの拍手が起こった。 私は夢見心地のまま、アレクシス様にエスコートされてフロアを後にした。
「少し休んでいろ。私は挨拶回りに行ってくる」
壁際の休憩スペースに私を座らせると、アレクシス様は言った。
「誰か来ても相手にするな。すぐに戻る」
「はい、大人しくしています」
彼は心配そうに何度も振り返りながら、貴族たちの輪の中へと消えていった。 私はふぅっと息をつき、ウェイターから受け取った果実水を一口飲んだ。 緊張の糸が切れて、どっと疲れが出た。
その時だった。
「やあ、美しいお嬢さん。一人かい?」
頭上から、甘ったるい声が降ってきた。 顔を上げると、派手な服装の若い男が立っていた。 金髪を巻き毛にして、胸元を大きく開けた、いかにも「遊び人」といった風情の貴族だ。
「……夫を待っておりますので」
私は礼儀正しく、しかしきっぱりと断った。 アレクシス様から「相手にするな」と言われている。
しかし、男は引き下がらなかった。 むしろ、興味深そうに身を乗り出してくる。
「夫? ああ、あの堅物の公爵のことか。あんな氷みたいな男と一緒にいて楽しいかい? 僕ならもっと君を楽しませてあげられるよ」
男の手が、私の肩に伸びてくる。
「君のような純朴そうな子は好みなんだ。どうだい、少し外の空気を吸いに行かないか?」
「い、いえ、結構です! 触らないでください!」
私は身を引いて避けようとしたが、男はしつこく距離を詰めてくる。 壁際で逃げ場がない。 怖い。 誰か助けて。
「恥ずかしがらなくていいよ。公爵だって、君みたいな地味な子より、もっと派手な美人が好きなはずさ。僕なら君の良さを……」
男の手が私の頬に触れようとした、その瞬間だった。
ゴォォォォォ……ッ!!
突如として、会場の気温が急激に下がった。 いや、物理的な気温ではない。 肌を刺すような、圧倒的な殺気が、空間を支配したのだ。
「ひぃっ!?」
男が悲鳴を上げて飛び退いた。 周囲にいた人々も、青ざめた顔で一斉に沈黙する。 ガタガタと食器が震える音が響く。
その殺気の発生源は、私の背後にあった。
ゆっくりと振り返る。 そこには、地獄の底から這い上がってきた魔王のような形相のアレクシス様が立っていた。
「…………」
無言だ。 一言も発していない。 けれど、そのアイスブルーの瞳は、完全に「絶対零度」を超えていた。 瞳孔が開かれ、ハイライトが消えている。 全身から立ち昇る魔力が、陽炎のように空気を揺らしている。
男を睨みつける視線は、もはや人間を見る目ではない。 汚らわしい害虫、いや、今すぐに駆除すべき病原菌を見る目だ。
「あ、あ、あ、アレクシス公爵……か、閣下……」
男は腰を抜かしてへたり込んだ。 歯の根が合わず、ガチガチと鳴っている。
「こ、これは違います! 私はただ、夫人にご挨拶を……そ、そう、ご挨拶をしようと……!」
アレクシス様は、ゆっくりと一歩踏み出した。
コツン。
革靴の音が、死の宣告のように響く。
「……私の妻に、その汚い手で触れようとしたな?」
低く、地を這うような声。 怒声ではない。 あまりの怒りに、感情が一周回って静まり返っている声だ。
「そ、そんなつもりじゃ……!」
「消えろ」
短く、簡潔な命令。
「私の視界から消えろ。二度と私の妻に近づくな。……さもなくば、その腕を氷像にして粉々に砕くぞ」
比喩ではない。 彼の手元には、パキパキと音を立てて氷の結晶が生成されていた。 本気だ。 この場で魔法を行使して、血の雨を降らせる気だ。
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃッ!!」
男は無様に叫び声を上げ、転がるようにして逃げ出した。 会場中の人々が、恐怖で凍りついている。 「氷の公爵」の伝説に、新たな1ページが刻まれた瞬間だった。
(ど、どうしよう……!)
私は震え上がった。 アレクシス様が激怒している。 あんなに恐ろしい顔、初めて見た。 きっと、私が隙を見せたからだ。 公爵夫人としての自覚が足りず、変な男に絡まれて、公爵家の名誉を傷つけてしまったからだ。
アレクシス様が、ゆっくりと私の方を向く。 その瞳には、まだ怒りの余韻が残っている。
「……リリアナ」
「は、はいっ! 申し訳ありませんでした!!」
私は反射的に頭を下げた。
「私が不用意でした! もっと毅然としていればよかったのに、あんな男に絡まれてしまって……公爵様のお顔に泥を塗ってしまいました! どうかお許しください!」
「……は?」
「すぐに帰ります! 反省室に入ります! もう二度と社交の場には出ませんから、どうか捨てないでください……!」
私は必死で謝り続けた。 殺されるかもしれない、と思った。 「お前のような隙だらけの女は妻失格だ」と言われるのが怖かった。
しかし。
ギュッ。
私の体は、強い力で抱きしめられていた。
「え……?」
顔を上げると、アレクシス様の胸元があった。 彼は私を、人目も憚らず、強く、強く抱きしめていた。 その腕は微かに震えていた。
「……無事でよかった」
耳元で、安堵の溜息が聞こえた。
「アレクシス様……?」
「遅くなってすまない。怖かっただろう」
「え、いえ、私は……怒っていらっしゃるのでは……?」
「怒っているさ」
彼はギリリと歯噛みした。
「あの男にも、そして……お前を一人にした自分自身にな」
「自分自身に……?」
「あんな害虫が寄り付くほど、今日のお前が魅力的だということを計算に入れていなかった。……私の失態だ」
彼は苦々しげに言った。 魅力的? 私が?
「帰るぞ。もう十分だ」
「えっ、でもまだ夜会は……」
「これ以上、他の男にお前を見せたくない」
彼はそう言い捨てると、私の肩を抱き、マントで私の姿を隠すようにして、足早に出口へと向かった。 周囲の貴族たちは、蜘蛛の子を散らすように道を開けた。 誰も私たちを止めようとはしなかった。
***
帰りの馬車の中。 沈黙が流れていた。
アレクシス様は腕を組み、不機嫌そうに窓の外を睨んでいる。 私は膝の上で手を握りしめ、小さくなっていた。
(やっぱり、怒っているわよね……)
「見せたくない」というのは、きっと「恥ずかしいから見せたくない」という意味だろう。 あんな騒ぎを起こした妻なんて、隠しておきたいに決まっている。
「……あの、アレクシス様」
「なんだ」
「本日は、本当に申し訳ありませんでした。素敵なドレスまで用意していただいたのに……」
「……ドレスは、よく似合っていた」
彼は窓の外を見たまま、ぶっきらぼうに言った。
「そ、そうですか? ありがとうございます」
「だが、胸元が開きすぎだ」
「え?」
「それから背中もだ。あんな無防備な格好をしていれば、虫が寄ってくるのも当然だ」
「あ、あれはそういうデザインで……侍女の方々が流行だと言って……」
「今後は禁止だ。私の前以外では、肌を露出するな」
「ええっ!?」
「首まで詰まった服を着ろ。手袋も外すな。……これは命令だ」
彼はすごい剣幕で言った。 それはまるで、自分の大切な宝物を誰にも見せたくない子供のようだった。
「……は、はい。承知いたしました」
私は呆気にとられながらも返事をした。 変な命令だ。 でも、不思議と嫌な気分ではなかった。 むしろ、彼がそこまで私に関心を持ってくれていることが、少しだけ嬉しかった。
「……手」
「はい?」
「手が冷たい。貸せ」
彼は私の返事も待たずに、私の両手を取り、自分の両手で包み込んだ。 そして、ハァーッと温かい息を吹きかける。
「冷え性なのか? もっと食べて肉をつけろと言っているだろう」
「食べてます! 毎日お腹がはち切れそうなくらい!」
「なら、もっとだ」
彼は私の手を、自分のコートのポケット――つまり、彼のお腹の上へと強引に入れた。 そこは、カイロのように温かかった。
「……屋敷に着くまで、こうして温めておく」
「あ、あの、アレクシス様の手が冷えてしまいます……」
「構わん。私は氷の公爵だからな」
彼は冗談めかして言ったが、その表情は柔らかかった。 薄暗い馬車の中で、私たちの距離は今までで一番近かった。 彼の心臓の音が、私の掌を通して伝わってくる。
(契約結婚なのに……どうしてこんなに甘いの?)
私は混乱していた。 「愛することはない」という言葉と、今の彼の行動が矛盾しすぎている。 ツンとデレの温度差で風邪を引きそうだ。
けれど、一つだけ確かなことがあった。 私は、この不器用で、怖いくらい過保護な旦那様のことが、嫌いじゃない。 いや、むしろ……。
私の胸の奥で、小さな恋の蕾が、ポッと音を立てて開いたような気がした。
だが、甘い雰囲気はここまでだった。 馬車が公爵邸に到着すると、そこには新たな「試練」が待ち受けていたのだ。
「おかえりなさいませ、旦那様! 奥様!」
玄関ホールに整列した使用人たち。 その最後尾で、なぜかニヤニヤと笑いを堪えている侍女長が、一歩前に進み出た。
「旦那様。……例の『日課』のお時間でございますが?」
「……っ!?」
アレクシス様の体が、ビクッと硬直した。 日課? なんのことだろう。
アレクシス様は、真っ赤な顔で私と侍女長を交互に見ると、咳払いを一つして、決死の覚悟を決めたような顔で私に向き直った。
「……リリアナ」
「は、はい?」
「その……これからは、夫婦円満を装う訓練が必要だ」
「訓練、ですか?」
「そうだ。今日のように、外敵から身を守るためにも、我々が仲睦まじい夫婦であると、使用人たちにも周知させる必要がある」
彼は早口でまくし立てた。 そして、おもむろに顔を近づけてくる。
「え、あ、あの……?」
「……動くな」
彼の端正な顔が、目の前まで迫る。 長い睫毛。 整った鼻筋。 そして、形の良い唇が――。
チュッ。
「……!!??」
軽い、本当に羽が触れるような感触が、私の頬に落ちた。 行ってきますのキス、ならぬ、おやすみなさいのキス?
会場は静まり返り、次の瞬間、使用人たちからは「キャーッ!」という黄色い悲鳴が、私からは「ボンッ!」という湯気が噴き出した。
「……以上だ。解散!」
アレクシス様は真っ赤な顔で叫ぶと、脱兎のごとく階段を駆け上がっていった。 残された私は、頬を押さえたまま、その場にへたり込んだ。
「……契約書に、キスなんて書いてなかったはずですけどぉぉぉ!?」
私の悲痛な叫び(とときめき)は、公爵邸の夜空に吸い込まれていった。 契約結婚生活、第6話にして、ついに「スキンシップ」という名の新たなオプションが追加されてしまったのである。
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