「君を愛することはない」と言った旦那様が、毎晩離してくれません。 ~白い結婚のはずが、契約書にない溺愛オプションが追加されている件について

ラムネ

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第六話 業務命令のキスと、膝の上の公爵夫人

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「……おはよう」

「お、おはようございます……」

翌朝。 ダイニングルームに流れる空気は、これまでになくぎこちないものだった。

昨晩の「おやすみなさいのキス(逃走付き)」事件から一夜明け、私たち夫婦の間には、目に見えない巨大な壁――いや、ピンク色の靄のようなものが漂っていた。

アレクシス様は、視線を私の顔から絶妙にずらした位置(だいたい右耳のあたり)に固定したまま、黙々と朝食のソーセージを切り刻んでいる。 その耳は、朝日のせいだけではない赤さを帯びていた。

一方の私も、昨夜の感触が頬に残っているような気がして、まともに彼の顔を見られない。 スープを飲む手が震え、スプーンがカチカチと音を立ててしまう。

(あ、あれは訓練。そう、訓練よ……)

私は心の中で必死に呪文を唱えた。 あれは夫婦円満を装うための演技であり、契約上の業務の一環。 アレクシス様もそう言っていた。 だから、変に意識したり、ときめいたりするのは間違いなのだ。

「……リリアナ」

「は、はいっ!」

不意に名前を呼ばれ、私はビクッと背筋を伸ばした。

「……パンが進んでいないぞ。ジャムが嫌いなのか?」

「い、いえ! 大好きです!」

「なら、なぜ塗らない」

「あ、その、手が滑りそうで……」

私が言い訳にもならないことを口走ると、アレクシス様は「はぁ」と短く息を吐いた。 そして、私の皿からパンを取り上げると、ナイフでたっぷりとバターを塗り、さらにその上からイチゴジャムを山盛りにした。

「……ほら、口を開けろ」

「え?」

「手が滑るんだろう? なら、私が食わせてやる」

「えええええ!?」

私は仰天した。 あーん!? 大人の、しかも公爵夫妻が、朝食の席ですることではない。 周囲には使用人たちが控えているのだ。

「む、無理です! 恥ずかしすぎます!」

「……昨日の夜会でのことを忘れたのか? お前は私の妻だ。これくらいの親密さは当然だ」

アレクシス様は真顔で言い放った。 そして、ジャムたっぷりのパンを私の口元へ突き出す。

「さあ、食え。業務命令だ」

また出た、業務命令。 この言葉を出されると、私には拒否権がない。

私は泣く泣く口を開けた。 パクッ。

「……どうだ?」

「……おいひいでふ」

「そうか。ならもっと食え」

彼は満足げに頷くと、次から次へと料理を私の口に運び始めた。 スクランブルエッグ、サラダ、ソーセージ。 私は雛鳥のように口を開けて待つしかない。 使用人たちが、壁際でプルプルと震えながら(おそらく笑いを堪えながら)見守っている気配が痛いほど突き刺さる。

(これは何のプレイなの……!?)

恥ずかしさで爆発しそうになりながら、私はなんとか朝食を完食した。 アレクシス様は「よし、今日もよく食べたな」と、まるでペットの成長を喜ぶ飼い主のような顔で私の頭を撫でた。

だが、本当の試練はここからだった。

アレクシス様が出仕する時間になり、私たちは玄関ホールへと向かった。 そこには、いつものように執事のセバスチャンと侍女長、そして数名のメイドたちが整列していた。

「行ってらっしゃいませ、旦那様」

私が頭を下げて見送ろうとすると、アレクシス様が立ち止まった。 そして、チラリと横目で侍女長を見る。 侍女長は、眼鏡の奥の瞳をキラリと光らせ、無言の圧力を放っていた。 『旦那様、お忘れではありませんか?』という顔だ。

アレクシス様は、ゴホンと咳払いをした。

「……リリアナ」

「はい?」

「……行ってくる」

「はい、行ってらっしゃいませ」

「…………」

「…………?」

アレクシス様は動かない。 何かを待っている。 そして、その顔がじわじわと赤くなっていく。

「……キ、キスだ」

彼は蚊の鳴くような声で言った。

「は?」

「『行ってらっしゃいのキス』がないと、出発できない」

「…………はあぁぁ!?」

私は素っ頓狂な声を上げてしまった。 何を言っているの、この人は。 昨日の夜のアレで懲りたんじゃないの?

「ご、ご冗談を……」

「冗談ではない! これは、その、円満アピールのための重要な儀式だ!」

彼は早口でまくし立てた。 視線は泳ぎまくっている。

「使用人たちの目がある。ここで冷淡な態度を取れば、昨日の努力が水の泡だ。……ほら、早くしろ。遅刻するぞ」

「そ、そんな、私のせいにしないでください!」

私は抗議したが、侍女長たちの視線も「奥様、早くして差し上げてください」と言わんばかりに温かい(生温かい)。 四面楚歌だ。

「……わ、分かりました。業務命令ですね?」

「そ、そうだ。業務だ」

私は覚悟を決めた。 深呼吸をする。 目の前には、長身のアレクシス様。 背伸びをしても、頬には届きそうにない。

「……届きません」

私が正直に申告すると、彼は無言で少し屈んでくれた。 その顔が目の前に迫る。 整いすぎた美貌。長い睫毛が震えている。

私は震える手で彼の肩に触れ、意を決して――。

チュッ。

彼の右頬に、唇を押し付けた。 熱い。 肌が燃えているようだ。

「……っ」

アレクシス様の体がビクリと跳ねた。 そして、次の瞬間。

ギュッ!!!

「きゃっ!?」

彼は私を離すどころか、強い力で抱きしめてきた。 行ってきますのハグ、のオプション追加だ。

「……行ってくる」

耳元で、甘く低い声が囁かれる。 吐息が首筋にかかり、ゾクゾクと背筋が震えた。

「一日中、大人しくしていろ。……誰にも会うなよ」

その声には、深い独占欲が滲んでいた。 ただの演技にしては、あまりにも熱のこもった抱擁。 私の体温まで急上昇し、頭がくらくらする。

彼は数秒間、私の匂いを吸い込むようにしてから、パッと体を離した。

「……では、行く!」

彼はそれだけ叫ぶと、逃げるように馬車へと乗り込んでいった。 まるで嵐のような出発だった。

残された私は、玄関ホールで呆然と立ち尽くしていた。 唇には彼の頬の感触が、体には抱きしめられた強さが残っている。

「奥様、お熱うございますねぇ」

侍女長が嬉しそうに言った。 私は両手で顔を覆い、しゃがみ込んだ。

「……仕事です。これは仕事なんですぅ……」

私の悲痛な呻き声は、誰にも届かなかった。

          ***

日中。 私は今日も今日とて、アレクシス様の執務室にいた。 「日中は私の監視下に置く」という命令は継続中なのだ。 今日は彼が王城での会議で不在のため、留守番である。

「はぁ……」

広い執務室に一人。 静かだ。 アレクシス様がいないと、部屋がやけに広く感じる。

私は彼のデスクの近くにあるソファに座り、刺繍を……しようとして、手を止めた。 そういえば、刺繍は禁止されていたのだった。 ボタン付けの一件で少し緩和された気もするけれど、やはり彼がいない場所でやるのは気が引ける。 見つかったら「隠れてやっていたのか」と怒られるかもしれない。

(それにしても、あのお守り……どこにいったのかしら)

あの日、踏み潰されそうになったお守り袋。 結局、アレクシス様に取り上げられてしまったのだ。 捨てられてしまったのだろうか。

私はふと、彼のデスクに目をやった。 整然と積まれた書類の山。 高級な文具セット。 その片隅に、見慣れない革の小箱が置いてある。

(……なんだろう?)

好奇心に勝てず、私はそっと近づいた。 蓋が開いている。 中を覗き込むと――。

「えっ?」

そこには、あのお守り袋が入っていた。 しかも、泥汚れは綺麗に拭き取られ、丁寧に保管されている。 それだけではない。 お守りの隣には、私がボタンを付け直した時に使った糸の切れ端や、私が以前、庭で摘んできた押し花までが入っていた。

(こ、これって……私の?)

私のゴミ……じゃなくて、私が関わったものコレクション? どういうこと?

「捨てろ」と言ったくせに。 「二度とするな」と怒ったくせに。 彼はこれを、一番身近なデスクの上に置いて、大切に持っていたのだ。

「……アレクシス様……」

胸がキュッとなる。 あの冷たい言葉の裏に隠された、彼の本当の気持ち。 不器用で、言葉足らずで、でも誰よりも情が深い人。

(やっぱり、私はこの人のことが……)

自覚しかけた想いを打ち消すように、私はパタンと箱の蓋を閉じた。 見てはいけないものを見てしまった気がする。 これは彼の秘密だ。 私が知っていると知られたら、彼はきっと羞恥で死んでしまうか、屋敷ごと凍らせてしまうかもしれない。

「見なかったことにしよう。うん、私は何も見ていない」

私はソファに戻り、本を開いた。 でも、文字なんて頭に入ってこない。 早く帰ってこないかな。 早く彼の顔が見たいな。

そんなことばかり考えていた。

          ***

夕方、アレクシス様が帰宅した。 私は弾むような足取りで玄関まで迎えに出た。

「おかえりなさいませ、アレクシス様!」

「……ああ」

彼は少し疲れた顔をしていたが、私を見ると表情がわずかに緩んだ。

「大人しくしていたか?」

「はい! 一歩も外に出ませんでした!」

「……そうか。いい子だ」

彼は自然な動作で私の頭をポンポンと撫でた。 その手つきが優しくて、私は思わず目を細める。

「執務室へ行く。少し仕事が残っている」

「はい、お茶をお持ちしますね」

夕食までの間、彼は残業をするらしい。 私はいつもの定位置(デスクの横の椅子)に座り、彼が仕事をする様子を眺めていた。

カリカリ、カリカリ……。 羽ペンの音が心地よい。 でも、アレクシス様は時折、首を回したり、肩を揉んだりして辛そうだ。 会議続きで疲れているのだろう。

「あの、肩をお揉みしましょうか?」

私が提案すると、彼は手を止めてこちらを見た。

「……いや、いい。それより、そこの書類を取ってくれ」

「これですか?」

「違う、その下の青いファイルだ」

「はい、どうぞ」

私がファイルを渡そうと立ち上がり、彼のそばへ行くと。

グイッ。

「きゃっ!?」

腕を引かれ、バランスを崩した私は、そのままアレクシス様の膝の上にドスンと落ちた。

「……あ、あの、アレクシス様?」

状況が理解できない。 私は今、公爵様の太ももの上に座っている。 いわゆる「膝抱っこ」の状態だ。 彼の腕が私の腰に回され、完全に固定されている。

「う、動くな」

彼の声がすぐ耳元でした。 吐息がかかる距離だ。

「つ、疲れで目が霞んで……書類の字がよく見えん」

「えっ? 目が?」

「そうだ。だから、君が近くにいて、私の目の焦点が合うように調整する必要がある」

「……はい?」

意味が分からない。 私が近くにいると焦点が合う? 医学的にどんな根拠があるのだろう。

「それに、ここは冷える。君は体温が高いから、湯たんぽ代わりだ」

「湯たんぽ……」

「とにかく、このまま動くな。仕事ができん」

彼はそう言い張ると、私を膝に乗せたまま、何食わぬ顔でペンを握り直した。 そして、私の肩越しに書類に目を走らせ、サインをし始める。

(ちょ、ちょっと待って……!)

この体勢、恥ずかしすぎる! 背中には彼の広い胸板。 お尻の下には彼の太もも(筋肉質で硬い)。 彼が腕を動かすたびに、胸元が擦れ、彼の匂いに包まれる。

「あ、あの、重くないですか? 私、最近よく食べるので重くなったと……」

「軽い。羽毛布団より軽い」

「そんなわけありません!」

「黙っていろ。……気が散る」

彼は私の頭に顎を乗せた。 重みと温もりが頭頂部に伝わる。 これは完全に、大型犬が気に入ったクッションを確保している状態だ。

「……リリアナ」

「は、はい……」

「……髪から、いい匂いがするな」

彼は私の髪を一房すくい、鼻先で弄ぶように嗅いだ。

「ひゃぅっ……!」

変な声が出た。 耳元で囁くのは反則だ。 心臓がうるさすぎて、彼に聞こえてしまいそうだ。

「お前は、私の癒やし成分だな」

「い、癒やし成分……?」

「ああ。吸うと落ち着く」

彼は真面目な顔で、とんでもないことを言っている。 私は酸素かアロマか何かだろうか。

「……契約書には、癒やし効果の提供も含まれていたか?」

「い、いいえ、書いてありませんでした……」

「そうか。なら、これはオプションだな」

彼は微かに笑った。 その震動が背中に伝わってくる。

「……ずっと、こうしていたい」

彼がぽつりと漏らした言葉。 それは独り言のように小さかったけれど、私の胸の奥深くに染み渡った。

「ずっと」なんて。 そんなの、まるで愛し合っている夫婦みたいじゃない。

私は勇気を出して、少しだけ背中を彼に預けてみた。 すると、腰に回された腕の力が、ぎゅっと強くなった。

(……私も)

私も、こうしていると落ち着く。 この強くて温かい腕の中が、世界で一番安全な場所だと感じる。

執務室の窓の外、夕焼けが空を茜色に染めていく。 私たちは言葉もなく、ただ重なり合って、静かな時間を共有した。 書類仕事はちっとも進んでいなかったけれど、アレクシス様は気にする様子もなかった。

          ***

その夜。 寝室に戻った私たちは、いつものように就寝の準備をしていた。 最近では、アレクシス様がベッドに入ってくること(抱き枕化)が暗黙の了解になりつつある。

「……今日は疲れただろう」

アレクシス様が、ベッドの端に腰掛けて私を見た。

「アレクシス様こそ。一日中お仕事で……」

「ああ。だが、最後にお前分を補充したから問題ない」

「お前分って何ですか……」

「栄養素だ」

彼は真顔で答えた。 この人は本当に、時々天然なのか計算なのか分からないことを言う。

「明日は、騎士団の演習を見に行く。……お前も来るか?」

「えっ、いいのですか?」

「屋敷にずっと籠もっているのも退屈だろう。それに、私の仕事ぶりを……その、見ておくのも妻の務めだ」

本当は「格好いいところを見せたい」と言いたいのが見え見えだが、私は気づかないふりをした。

「はい! ぜひ行きたいです!」

「……そうか。なら、明日は早起きしろよ」

彼は嬉しそうに目を細めた。

幸せだ。 こんな日々が、ずっと続けばいいのに。

しかし、私は忘れていた。 幸せな物語には、必ず「波乱」というスパイスが必要だということを。 そして、その波乱の種は、明日の騎士団演習場に潜んでいたのだ。

「公爵夫人にお会いできるとは光栄です! 俺、ずっとお噂を伺っていました!」

爽やかな笑顔。 輝くような金髪。 人懐っこい瞳。

アレクシス様とは正反対の、「陽」の気を纏った若い近衛騎士。

彼が私の手に触れ、親しげに話しかけたその瞬間。 私の隣で、世界が凍りつく音がした。

「…………」

アレクシス様の笑顔が消え、瞳から光が失われる。 そして、その背後にどす黒いオーラが立ち昇るのを、私は戦慄とともに目撃することになる。

契約書にないオプション、第2弾。 それは、公爵様の「致死量ギリギリの嫉妬」だった。
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