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第二十話(最終話) 永遠の契約書
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オルブライト公爵邸の朝は、今日も賑やかに、そして甘やかに幕を開けた。
「……リリアナ。あと五分」
「アレクシス様、もう一時間も経っています。シエルとフローラが起きてきますよ」
天蓋付きの広大なベッドの中。 朝の光が差し込む寝室で、私はこの国の筆頭公爵にして、私の最愛の夫であるアレクシス様に捕獲されていた。 彼の腕は私の腰をがっちりとホールドし、その顔は私の胸元に埋もれている。
「子供たちはセバスチャンが見ている。……私は今、妻という名のエネルギーを充填中だ」
「充電時間が長すぎます。……もう、いい加減に起きてください」
私は苦笑しながら、彼のプラチナブロンドの髪を梳いた。 出会ってから十数年。 アレクシス様は三十代後半になったが、その美貌は衰えるどころか、成熟した大人の色気と威厳を増し、見る者すべてを魅了する「魔性の公爵」として君臨している。 ただし、私に対してだけは、相変わらず甘えん坊の大型犬だ。
「……今日という日が、何の日か忘れたわけではないだろう?」
彼が顔を上げ、少し拗ねたような瞳で私を見つめた。 アイスブルーの瞳の奥に、熱い光が揺らめいている。
「忘れるはずありません。……私たちが初めて出会った日、ですよね」
そう。今日は結婚記念日ではない。 私が借金のカタとしてこの屋敷に連れてこられ、彼と初めて対面し、あの衝撃的な「愛することはない宣言」を受けた日だ。 いわば、「契約結婚記念日」である。
「そうだ。……あの日、私は人生最大の嘘をついた」
彼は自嘲気味に笑い、私の指先に口付けた。
「『君を愛することはない』……今思い出しても、穴があったら入りたいほどの失言だ」
「ふふ、でも私は感謝していますよ。あの言葉があったからこそ、今の幸せが奇跡のように感じられるのですから」
「……お前は心が広すぎる。私なら、あんなことを言った男の寝首をかいているところだ」
物騒なことをサラリと言いながら、彼は体を起こした。 鍛え上げられた上半身が露わになり、窓からの光を受けて輝く。 長い付き合いになるのに、いまだに直視するとドキドキしてしまう自分が悔しい。
「さて、起きるか。……今日は特別な一日になるぞ」
彼は意味深に微笑み、私に手を差し伸べた。 その笑顔に、予感めいたものを感じながら、私は彼の手を取った。
***
ダイニングルームに降りると、すでに子供たちが席に着いていた。
「おはようございます、お父様、お母様!」
元気よく挨拶をしたのは、十歳になった長男のシエルだ。 彼は、父親譲りの整った顔立ちと、母親譲りの(と自分では思っている)優しい性格を併せ持つ、完璧な美少年に成長していた。 すでに社交界では「次期氷の公爵」として、令嬢たちの熱い視線を集めているが、本人は至ってクールだ。 ただし、妹のことになると話は別だが。
「おはよう、お父様、お母様」
シエルの隣で、栗色の髪を揺らして微笑むのは、四歳になった長女のフローラだ。 彼女は私に似て植物魔法の才能があり、彼女が歩いた後には小さな花が咲くという、メルヘンチックな特技を持っている。
「おはよう、二人とも」
アレクシス様は、シエルの頭を撫で、フローラを抱き上げて頬にキスをした。
「フローラ、今日も可愛いな。庭の薔薇の精霊かと思ったぞ」
「うふふ、お父様ったら。私はお母様の娘ですわ」
フローラがクスクスと笑う。 この子は、天然なのか計算なのか、父親の扱いを心得ている。
「お父様、朝からデレデレしすぎです。威厳がありません」
シエルが冷静にツッコミを入れる。
「うるさい。家庭内で威厳など必要ない。必要なのは愛だ」
アレクシス様は開き直り、私の隣に座って当然のように私の分のパンにバターを塗り始めた。 相変わらずの過保護ぶりだ。
「そういえば、シエル。魔法の制御訓練はどうだ?」
「順調です。昨日は、庭の噴水を一瞬で凍らせて、また元に戻す練習をしました」
「ほう、元に戻す魔法まで習得したか。……私より優秀かもしれんな」
「当然です。僕の目標は、お父様を超えることですから」
シエルは不敵に笑った。 頼もしい限りだ。 かつて魔力暴走で屋敷をパニックに陥れた赤ちゃんが、こんなに立派になるなんて。
「私はね、昨日新しいお花とお話ししたの!」
フローラが目を輝かせて報告する。
「『今日はいい天気だね』って言ってたわ!」
「そうか。フローラは優しい子だな」
私は娘の頭を撫でた。 平和だ。 かつて孤独と冷たさに支配されていたこの屋敷が、今はこんなにも温かな会話で満たされている。
「……さて」
食後のコーヒーを飲み終えると、アレクシス様が改まった表情で立ち上がった。
「今日は公務を休みにした。……リリアナ、少し付き合ってくれ」
「えっ、どこへ?」
「……思い出の場所だ」
彼はそう言うと、私に手を差し出した。 子供たちがニヤニヤと顔を見合わせているのが見えた。 どうやら、彼らも何か知っているらしい。
***
アレクシス様に連れられてやってきたのは、屋敷の裏手に広がる広大な庭園の、一番奥にある温室だった。
そこは、私がまだ「飾り」の妻だった頃、枯れかけていた薔薇を見つけ、手入れを始めた場所だ。 あの時、庭師のおじいさんに止められながらも、泥だらけになって世話をした薔薇。 そして、それを見つけたアレクシス様に「汚い手だが、働き者の手だ」と、不器用に褒められた場所。
今、その温室は、見事な薔薇園になっていた。 赤、白、ピンク、黄色。 数え切れないほどの薔薇が咲き乱れ、甘い香りを漂わせている。
「……綺麗」
私は息を呑んだ。
「お前が手入れを始めてから、庭師たちが張り切ってな。今では国一番の薔薇園だと評判だそうだ」
アレクシス様は懐かしそうに薔薇を見つめた。
「リリアナ。……覚えているか? あの日、お前はここで私に言った。『この薔薇が可哀想だから』と」
「はい、覚えています」
「あの言葉が……私の胸に刺さったんだ」
彼は私の方を向き、静かに語り始めた。
「当時の私は、この薔薇と同じだった。……誰にも顧みられず、心を閉ざし、ただ枯れていくだけの存在だった」
「アレクシス様……」
「だが、お前は私を見つけてくれた。……泥だらけになって、傷つくのも厭わず、私の固まった心を解きほぐし、水をくれ、光をくれた」
彼の手が、私の頬に触れる。 その指先は温かい。
「お前のおかげで、私は再び咲くことができた。……人間として、夫として、そして父として」
「……私こそ、貴方に救われました」
私は涙をこらえて伝えた。
「屋根裏部屋で凍えていた私に、居場所をくれたのは貴方です。……『愛さない』と言いながら、誰よりも深く愛してくれた。貴方がいたから、私は自分を好きになれました」
「……そうか」
彼は嬉しそうに目を細め、そしてジャケットのポケットから、一枚の羊皮紙を取り出した。 それは、古びたものではなく、真新しい最高級の羊皮紙だった。 金のインクで、美しい文字が綴られている。
「……これは?」
「新しい契約書だ」
「契約書?」
「ああ。……十数年前、私が一方的に押し付けたあのふざけた契約書は、破り捨てたままだっただろう?」
確かに、シエルが生まれる前、彼は「白い結婚」の契約書を暖炉に放り込んだ。 それ以来、私たちは契約のない、ただの愛し合う夫婦として過ごしてきた。
「だが、やはり『契約』は必要だと思うんだ」
彼は真剣な顔で言った。
「私は氷の公爵だ。……一度交わした契約は、死んでも守る。それが私の矜持だ」
「……はい」
「だから、リリアナ。……私と、最後の契約を結んでほしい」
彼は契約書を私に手渡した。 私は震える手でそれを受け取り、内容を目で追った。
『終身愛契約書』
タイトルからして重い。 そして、その内容は……。
第一条: 甲(アレクシス)は、乙(リリアナ)を、命ある限り、いや、命尽きた後も魂が消滅するまで、最優先で愛し、守り抜くことを誓う。
第二条: 甲は、毎日最低三回は乙に愛を囁き、キスを贈るものとする。ただし、乙が望む場合はこの限りではなく、無制限に追加可能とする。
第三条: 乙は、甲のそばで自由に生き、笑い、時に泣き、怒り、そのすべての感情を甲と共有する権利を有する。甲は、乙の涙を拭い、笑顔を守る義務を負う。
第四条: 二人の間に生まれた子供たち(シエル、フローラ、および将来の子供たち)に対しても、甲と乙は惜しみない愛を注ぎ、温かい家庭を築くことを誓う。
第五条: 本契約の有効期限は「永遠」とし、いかなる理由があろうとも破棄、解除は認められない。死が二人を分かつ時も、契約は継続され、来世において再会し、再び愛し合うものとする。
「……なんですか、これ」
読み終えた私は、涙と笑いが同時に込み上げてきて、顔をくしゃくしゃにした。
「……重すぎます」
「そうか? 私としては、まだ書き足りないくらいなんだが」
彼は大真面目だった。
「特に第五条だ。……来世の予約までしておかないと、お前は人気があるからな。他の男に取られる心配がある」
「取られませんよ。……私には、貴方しかいないんですから」
「……リリアナ」
「サイン、します」
私は彼からペンを受け取った。 迷いはなかった。 これは契約書という名の、彼からの最大級のラブレターだ。
さらさらと署名をする。 『リリアナ・フォン・オルブライト』。 私の名前。 彼がくれた、大切な名前。
「……契約成立だ」
アレクシス様は、契約書を受け取ると、それを大切に懐にしまった。 そして、再び私の前に跪き、私の左手を取った。
「リリアナ。……私の妻になってくれて、ありがとう」
「こちらこそ。……私の旦那様になってくれて、ありがとうございます」
彼は私の薬指の指輪に、長く、深い口付けを落とした。 その姿は、どんな絵画よりも美しく、神聖だった。
「お父様ー! お母様ー!」
「パパー! ママー!」
その時、庭の向こうから子供たちの声が聞こえてきた。 シエルとフローラが、こちらに向かって走ってくる。
「……やれやれ、いいところだったのに」
アレクシス様は苦笑しながら立ち上がったが、その表情は幸せに満ちていた。
「パパ、遅いよ! セバスチャンが『記念撮影の時間です』って言ってる!」
「ママ、お花摘んできたの! 髪に飾ってあげる!」
子供たちが私たちに飛びついてくる。 シエルはアレクシス様に、フローラは私に。
「おお、そうか。記念撮影か」
アレクシス様はシエルを抱え上げ、肩車をした。
「お父様、高い! 景色がいいです!」
「だろう? これが次期公爵の視点だ。よく覚えておけ」
「フローラ、ありがとう。とっても綺麗なお花ね」
私はフローラを抱き上げ、彼女がくれた小さな白い花を髪に挿した。
「ママ、綺麗! お姫様みたい!」
「ふふ、ありがとう」
私たちは四人で並び、屋敷の方へと歩き出した。 セバスチャンが、カメラを持って待ち構えているのが見える。 屋敷のバルコニーでは、侍女たちが手を振っている。
「……リリアナ」
歩きながら、アレクシス様が私の肩を抱いた。
「はい」
「……幸せか?」
彼は、少し不安そうに聞いてきた。 まだ、自信がないのだろうか。 自分が私を幸せにできているのかどうか。
私は立ち止まり、彼の目を見つめた。 そして、満面の笑みで答えた。
「いいえ」
「……え?」
彼の顔が凍りつく。
「幸せじゃありません」
私は一呼吸置いて、続けた。
「……『超』幸せ、です!」
「……っ!」
彼は一瞬呆気にとられ、それから吹き出した。
「……はははっ! そうか、『超』か! それはよかった!」
彼は声を上げて笑った。 こんなに無防備に、心から笑う彼を見るのは初めてかもしれない。
「私もだ、リリアナ。……私も、『超』愛しているぞ!」
彼は子供たちの前であることも忘れて、私の頬にキスをした。
「パパ、恥ずかしい!」 「きゃあ、ラブラブ!」
子供たちがはやし立てる。 春の風が吹き抜け、薔薇の花びらが舞い散る。 光に包まれた庭園で、私たちは笑い合った。
かつて、「君を愛することはない」と告げられた絶望の夜から始まった物語。 数々の試練を乗り越え、涙を流し、すれ違い、そして結ばれた二人の心。 契約書から始まった関係は、いつしか本物の愛となり、そして永遠の絆となった。
「……さあ、行こう。私たちの家に」
アレクシス様が言った。
「はい、あなた」
私たちは手を繋ぎ、未来へと続く道を歩き出した。
この先も、きっと色々なことがあるだろう。 シエルが反抗期を迎えるかもしれないし、フローラが恋をしてアレクシス様が発狂するかもしれない(間違いなくするだろう)。 でも、大丈夫。 私たちには、あの「永遠の契約書」がある。 そして何より、互いを思いやる心がある限り、この幸せな物語は終わらない。
『死がふたりを分かつまで、毎日愛を囁き、共に生きること』
その誓いは、今日も、明日も、そしてその先もずっと、守られ続けるだろう。
fin.
「……リリアナ。あと五分」
「アレクシス様、もう一時間も経っています。シエルとフローラが起きてきますよ」
天蓋付きの広大なベッドの中。 朝の光が差し込む寝室で、私はこの国の筆頭公爵にして、私の最愛の夫であるアレクシス様に捕獲されていた。 彼の腕は私の腰をがっちりとホールドし、その顔は私の胸元に埋もれている。
「子供たちはセバスチャンが見ている。……私は今、妻という名のエネルギーを充填中だ」
「充電時間が長すぎます。……もう、いい加減に起きてください」
私は苦笑しながら、彼のプラチナブロンドの髪を梳いた。 出会ってから十数年。 アレクシス様は三十代後半になったが、その美貌は衰えるどころか、成熟した大人の色気と威厳を増し、見る者すべてを魅了する「魔性の公爵」として君臨している。 ただし、私に対してだけは、相変わらず甘えん坊の大型犬だ。
「……今日という日が、何の日か忘れたわけではないだろう?」
彼が顔を上げ、少し拗ねたような瞳で私を見つめた。 アイスブルーの瞳の奥に、熱い光が揺らめいている。
「忘れるはずありません。……私たちが初めて出会った日、ですよね」
そう。今日は結婚記念日ではない。 私が借金のカタとしてこの屋敷に連れてこられ、彼と初めて対面し、あの衝撃的な「愛することはない宣言」を受けた日だ。 いわば、「契約結婚記念日」である。
「そうだ。……あの日、私は人生最大の嘘をついた」
彼は自嘲気味に笑い、私の指先に口付けた。
「『君を愛することはない』……今思い出しても、穴があったら入りたいほどの失言だ」
「ふふ、でも私は感謝していますよ。あの言葉があったからこそ、今の幸せが奇跡のように感じられるのですから」
「……お前は心が広すぎる。私なら、あんなことを言った男の寝首をかいているところだ」
物騒なことをサラリと言いながら、彼は体を起こした。 鍛え上げられた上半身が露わになり、窓からの光を受けて輝く。 長い付き合いになるのに、いまだに直視するとドキドキしてしまう自分が悔しい。
「さて、起きるか。……今日は特別な一日になるぞ」
彼は意味深に微笑み、私に手を差し伸べた。 その笑顔に、予感めいたものを感じながら、私は彼の手を取った。
***
ダイニングルームに降りると、すでに子供たちが席に着いていた。
「おはようございます、お父様、お母様!」
元気よく挨拶をしたのは、十歳になった長男のシエルだ。 彼は、父親譲りの整った顔立ちと、母親譲りの(と自分では思っている)優しい性格を併せ持つ、完璧な美少年に成長していた。 すでに社交界では「次期氷の公爵」として、令嬢たちの熱い視線を集めているが、本人は至ってクールだ。 ただし、妹のことになると話は別だが。
「おはよう、お父様、お母様」
シエルの隣で、栗色の髪を揺らして微笑むのは、四歳になった長女のフローラだ。 彼女は私に似て植物魔法の才能があり、彼女が歩いた後には小さな花が咲くという、メルヘンチックな特技を持っている。
「おはよう、二人とも」
アレクシス様は、シエルの頭を撫で、フローラを抱き上げて頬にキスをした。
「フローラ、今日も可愛いな。庭の薔薇の精霊かと思ったぞ」
「うふふ、お父様ったら。私はお母様の娘ですわ」
フローラがクスクスと笑う。 この子は、天然なのか計算なのか、父親の扱いを心得ている。
「お父様、朝からデレデレしすぎです。威厳がありません」
シエルが冷静にツッコミを入れる。
「うるさい。家庭内で威厳など必要ない。必要なのは愛だ」
アレクシス様は開き直り、私の隣に座って当然のように私の分のパンにバターを塗り始めた。 相変わらずの過保護ぶりだ。
「そういえば、シエル。魔法の制御訓練はどうだ?」
「順調です。昨日は、庭の噴水を一瞬で凍らせて、また元に戻す練習をしました」
「ほう、元に戻す魔法まで習得したか。……私より優秀かもしれんな」
「当然です。僕の目標は、お父様を超えることですから」
シエルは不敵に笑った。 頼もしい限りだ。 かつて魔力暴走で屋敷をパニックに陥れた赤ちゃんが、こんなに立派になるなんて。
「私はね、昨日新しいお花とお話ししたの!」
フローラが目を輝かせて報告する。
「『今日はいい天気だね』って言ってたわ!」
「そうか。フローラは優しい子だな」
私は娘の頭を撫でた。 平和だ。 かつて孤独と冷たさに支配されていたこの屋敷が、今はこんなにも温かな会話で満たされている。
「……さて」
食後のコーヒーを飲み終えると、アレクシス様が改まった表情で立ち上がった。
「今日は公務を休みにした。……リリアナ、少し付き合ってくれ」
「えっ、どこへ?」
「……思い出の場所だ」
彼はそう言うと、私に手を差し出した。 子供たちがニヤニヤと顔を見合わせているのが見えた。 どうやら、彼らも何か知っているらしい。
***
アレクシス様に連れられてやってきたのは、屋敷の裏手に広がる広大な庭園の、一番奥にある温室だった。
そこは、私がまだ「飾り」の妻だった頃、枯れかけていた薔薇を見つけ、手入れを始めた場所だ。 あの時、庭師のおじいさんに止められながらも、泥だらけになって世話をした薔薇。 そして、それを見つけたアレクシス様に「汚い手だが、働き者の手だ」と、不器用に褒められた場所。
今、その温室は、見事な薔薇園になっていた。 赤、白、ピンク、黄色。 数え切れないほどの薔薇が咲き乱れ、甘い香りを漂わせている。
「……綺麗」
私は息を呑んだ。
「お前が手入れを始めてから、庭師たちが張り切ってな。今では国一番の薔薇園だと評判だそうだ」
アレクシス様は懐かしそうに薔薇を見つめた。
「リリアナ。……覚えているか? あの日、お前はここで私に言った。『この薔薇が可哀想だから』と」
「はい、覚えています」
「あの言葉が……私の胸に刺さったんだ」
彼は私の方を向き、静かに語り始めた。
「当時の私は、この薔薇と同じだった。……誰にも顧みられず、心を閉ざし、ただ枯れていくだけの存在だった」
「アレクシス様……」
「だが、お前は私を見つけてくれた。……泥だらけになって、傷つくのも厭わず、私の固まった心を解きほぐし、水をくれ、光をくれた」
彼の手が、私の頬に触れる。 その指先は温かい。
「お前のおかげで、私は再び咲くことができた。……人間として、夫として、そして父として」
「……私こそ、貴方に救われました」
私は涙をこらえて伝えた。
「屋根裏部屋で凍えていた私に、居場所をくれたのは貴方です。……『愛さない』と言いながら、誰よりも深く愛してくれた。貴方がいたから、私は自分を好きになれました」
「……そうか」
彼は嬉しそうに目を細め、そしてジャケットのポケットから、一枚の羊皮紙を取り出した。 それは、古びたものではなく、真新しい最高級の羊皮紙だった。 金のインクで、美しい文字が綴られている。
「……これは?」
「新しい契約書だ」
「契約書?」
「ああ。……十数年前、私が一方的に押し付けたあのふざけた契約書は、破り捨てたままだっただろう?」
確かに、シエルが生まれる前、彼は「白い結婚」の契約書を暖炉に放り込んだ。 それ以来、私たちは契約のない、ただの愛し合う夫婦として過ごしてきた。
「だが、やはり『契約』は必要だと思うんだ」
彼は真剣な顔で言った。
「私は氷の公爵だ。……一度交わした契約は、死んでも守る。それが私の矜持だ」
「……はい」
「だから、リリアナ。……私と、最後の契約を結んでほしい」
彼は契約書を私に手渡した。 私は震える手でそれを受け取り、内容を目で追った。
『終身愛契約書』
タイトルからして重い。 そして、その内容は……。
第一条: 甲(アレクシス)は、乙(リリアナ)を、命ある限り、いや、命尽きた後も魂が消滅するまで、最優先で愛し、守り抜くことを誓う。
第二条: 甲は、毎日最低三回は乙に愛を囁き、キスを贈るものとする。ただし、乙が望む場合はこの限りではなく、無制限に追加可能とする。
第三条: 乙は、甲のそばで自由に生き、笑い、時に泣き、怒り、そのすべての感情を甲と共有する権利を有する。甲は、乙の涙を拭い、笑顔を守る義務を負う。
第四条: 二人の間に生まれた子供たち(シエル、フローラ、および将来の子供たち)に対しても、甲と乙は惜しみない愛を注ぎ、温かい家庭を築くことを誓う。
第五条: 本契約の有効期限は「永遠」とし、いかなる理由があろうとも破棄、解除は認められない。死が二人を分かつ時も、契約は継続され、来世において再会し、再び愛し合うものとする。
「……なんですか、これ」
読み終えた私は、涙と笑いが同時に込み上げてきて、顔をくしゃくしゃにした。
「……重すぎます」
「そうか? 私としては、まだ書き足りないくらいなんだが」
彼は大真面目だった。
「特に第五条だ。……来世の予約までしておかないと、お前は人気があるからな。他の男に取られる心配がある」
「取られませんよ。……私には、貴方しかいないんですから」
「……リリアナ」
「サイン、します」
私は彼からペンを受け取った。 迷いはなかった。 これは契約書という名の、彼からの最大級のラブレターだ。
さらさらと署名をする。 『リリアナ・フォン・オルブライト』。 私の名前。 彼がくれた、大切な名前。
「……契約成立だ」
アレクシス様は、契約書を受け取ると、それを大切に懐にしまった。 そして、再び私の前に跪き、私の左手を取った。
「リリアナ。……私の妻になってくれて、ありがとう」
「こちらこそ。……私の旦那様になってくれて、ありがとうございます」
彼は私の薬指の指輪に、長く、深い口付けを落とした。 その姿は、どんな絵画よりも美しく、神聖だった。
「お父様ー! お母様ー!」
「パパー! ママー!」
その時、庭の向こうから子供たちの声が聞こえてきた。 シエルとフローラが、こちらに向かって走ってくる。
「……やれやれ、いいところだったのに」
アレクシス様は苦笑しながら立ち上がったが、その表情は幸せに満ちていた。
「パパ、遅いよ! セバスチャンが『記念撮影の時間です』って言ってる!」
「ママ、お花摘んできたの! 髪に飾ってあげる!」
子供たちが私たちに飛びついてくる。 シエルはアレクシス様に、フローラは私に。
「おお、そうか。記念撮影か」
アレクシス様はシエルを抱え上げ、肩車をした。
「お父様、高い! 景色がいいです!」
「だろう? これが次期公爵の視点だ。よく覚えておけ」
「フローラ、ありがとう。とっても綺麗なお花ね」
私はフローラを抱き上げ、彼女がくれた小さな白い花を髪に挿した。
「ママ、綺麗! お姫様みたい!」
「ふふ、ありがとう」
私たちは四人で並び、屋敷の方へと歩き出した。 セバスチャンが、カメラを持って待ち構えているのが見える。 屋敷のバルコニーでは、侍女たちが手を振っている。
「……リリアナ」
歩きながら、アレクシス様が私の肩を抱いた。
「はい」
「……幸せか?」
彼は、少し不安そうに聞いてきた。 まだ、自信がないのだろうか。 自分が私を幸せにできているのかどうか。
私は立ち止まり、彼の目を見つめた。 そして、満面の笑みで答えた。
「いいえ」
「……え?」
彼の顔が凍りつく。
「幸せじゃありません」
私は一呼吸置いて、続けた。
「……『超』幸せ、です!」
「……っ!」
彼は一瞬呆気にとられ、それから吹き出した。
「……はははっ! そうか、『超』か! それはよかった!」
彼は声を上げて笑った。 こんなに無防備に、心から笑う彼を見るのは初めてかもしれない。
「私もだ、リリアナ。……私も、『超』愛しているぞ!」
彼は子供たちの前であることも忘れて、私の頬にキスをした。
「パパ、恥ずかしい!」 「きゃあ、ラブラブ!」
子供たちがはやし立てる。 春の風が吹き抜け、薔薇の花びらが舞い散る。 光に包まれた庭園で、私たちは笑い合った。
かつて、「君を愛することはない」と告げられた絶望の夜から始まった物語。 数々の試練を乗り越え、涙を流し、すれ違い、そして結ばれた二人の心。 契約書から始まった関係は、いつしか本物の愛となり、そして永遠の絆となった。
「……さあ、行こう。私たちの家に」
アレクシス様が言った。
「はい、あなた」
私たちは手を繋ぎ、未来へと続く道を歩き出した。
この先も、きっと色々なことがあるだろう。 シエルが反抗期を迎えるかもしれないし、フローラが恋をしてアレクシス様が発狂するかもしれない(間違いなくするだろう)。 でも、大丈夫。 私たちには、あの「永遠の契約書」がある。 そして何より、互いを思いやる心がある限り、この幸せな物語は終わらない。
『死がふたりを分かつまで、毎日愛を囁き、共に生きること』
その誓いは、今日も、明日も、そしてその先もずっと、守られ続けるだろう。
fin.
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4万文字ぐらいの中編になります。
※小説なろう、エブリスタに記載してます
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