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ガラスのピアノ③

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「コンクール、りつちゃんを推薦したかったわ」
 そんな先生の声がりつの耳に届く。
「とんでもないです」
 と答えている母親の声も。

 もともと母親に「やってみない?」と言われて始めたピアノだ。
 楽しくはあったけれど、コンクールとかにまで興味があったわけじゃない。
 どうせ中学生になって部活を始めれば辞めるだろう。そこで辞めなくても、受験生になれば続けるのは厳しい。
 それなほんの少し早まっただけ。
 そう自分自身に向かって言い訳を並び立てた。

 でも、りつはピアノが好きだった。
 好きで好きでたまらなかった。
 好きだったからこそ、練習も苦にならなかったし、何時間でもピアノを弾いていられた。
 楽曲の中に広がる無限の世界は、本の中に広がる物語の世界と同じようで、制限がなく、自由で、りつだけの世界だった。
 人見知りで、人前に出ることが苦手だったけれど、ピアノを弾いている時だけは堂々としていられた。
 そんな自分が、りつは好きだった。
 大好きなことを続けることで、誰かに認められることも嬉しかった。
 コンクール自体には興味はなかったけれど、憧れの先輩たちと同じ舞台に立つことは目標だった。
 発表会での演奏はミスもなく、今までの本番の中で最高の出来だった。
 発表会後に「これならコンクールも大丈夫ね」と先生に言ってもらった。認められたと思った。
 だから、「コンクールに推薦したかった」という言葉は決してお世辞じゃない。
 あんなことなければ、コンクールに出れていた。出たかった。
 でも、どうしようもない事だったから。
 ピアノを辞めるのと同時に、ピアノが好きだという感情も封印した。
 そして、うっかり封印が解けてしまわぬように、ピアノを遠ざけた。

 声も上げずに、ただ淡々と涙を流しているりつにレーゲルはそっと背中を合わせて寄り添った。
 じんわりと背中から伝わってくる温もりがりつは嬉しかった。

 涙が止まった頃、リートがハンカチを咥えて、りつの膝に降りた。
 真っ白なハンカチをりつは受け取る。

「ピアノ、やっぱり、好き」
 涙を拭きながら俯いて、絞り出すようにしてりつは言った。
「でも、もう1度ピアノをやりたいとは、言えない」
 噛み締められた下唇から血が滲む。
「ここで、弾けばいいわ」
 バッとりつは顔を上げる。
「ここで好きなだけ弾けばいい。ただし、約束して。学校を、生活を疎かにしないこと。ここに来るのは学校が終わったあと、放課後だけ。
 ここにいる間、りつちゃんは現実世界にいないことになる。だからそんなに長い間いる訳にはいかないの」
 そーっとレーゲルはりつの頭を撫でる。

「いい?約束よ。時の歌を歌うのは放課後だけ。それと誰もいないところでね」
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