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第1章 追放
1-3:悪役令嬢、最後の涙
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ソフィアは、スッとドレスの袖に隠したポケットに手を入れた。その動きは、悲しみに耐えかねてハンカチを探す令嬢そのものだ。
(よし、あるわ)
指先に触れるのは、クライネルト家の紋章が刺繍された、上質な絹のハンカチ。だが、ただのハンカチではない。
前世の知識——葉山カオリとしての記憶——を総動員し、この世界のタマネギによく似た野菜(刺激臭のある『涙誘い草』)から抽出したエキスを、ごく微量、染み込ませてある特製品だ。
この野菜は、普通にカットするだけでは涙は出ない。特定の温度で加熱し、成分をアルコール抽出するという、前世の化学知識がなければ「催涙成分」だけを取り出すことは不可能だった。自室に簡易的な実験器具を持ち込み、夜な夜なメイドの目を盗んで開発した、文字通りの「切り札」だった。
ソフィアは、ゆっくりとハンカチを取り出し、震える手(を演じながら)で顔を覆った。
「……アルベルト様」
声を震わせる。
「あまりにも……あまりにも、酷い仕打ちではございませんか」
ハンカチを目元に強く押し当てる。計算通り、ツン、と鼻腔の奥を刺激する感覚。アルコールと共に揮発した刺激成分が、確実に涙腺を攻撃する。計画通り、生理的な涙が堰を切ったように溢れ出した。
「私が、どれほど殿下を想い、この国の未来を案じてきたか……。リリア様のことも、将来の王太子妃となる(かもしれない)方として、この国の顔として、厳しく接したのは、すべて……すべて殿下のためを思ってこそ……」
嗚咽(を演じながら)混じりに訴える。
(ふふ、効いてきたわ。我ながら完璧な抽出ね)
流れ落ちる涙の感触を確かめながら、ソフィアは自分の研究成果に密かな満足を覚えていた。
周囲の貴族たちが、はっきりとざわめき始めた。
「まあ、ソフィア様が泣いていらっしゃる……」
「あんなに取り乱したソフィア様は初めてだわ。いつも冷静沈着で、氷の令嬢とまで呼ばれていたのに」
「もしかしたら、本当に誤解だったのでは……? 殿下の一方的な思い込みで、ソフィア様は……」
空気は、明らかにソフィアへの同情に傾きかけていた。
完璧な「悲劇のヒロイン」の姿。
クライネルト侯爵令嬢としての誇りを傷つけられ、婚約者に公衆の面前で裏切られ、それでもなお彼のことを想う健気な(ふりをした)令嬢。
アルベルトが、一瞬、たじろいだのをソフィアは見逃さなかった。彼の顔に「やりすぎたか?」という迷いが浮かんだ。
(そう、迷いなさい。そして、その迷いを断ち切るために、もっと私を強く突き放すのよ)
ソフィアの計算通りだった。
アルベルトは、自分の中に芽生えた一瞬の良心の呵責を踏みつぶすかのように、さらに声を荒げた。彼は、大衆がソフィアに同情し始めたことに気づき、焦ったのだ。
「その期に及んで、まだ白々しい嘘を!」
彼は、ソフィアが流す涙を「演技」だと断じた。皮肉なことに、それは真実だったが、彼の思考はまったく別のところにあった。
(彼は、私が「悪」でなければ困るのだ)
聖女リリアを選んだ自分の正当性を証明するためには、婚約者であるソフィアが、誰の目にも明らかな「悪役」でなければならない。
ソフィアの流す涙は、彼のシナリオにとって邪魔だった。だから、それを「嘘泣き」だと切り捨てるしかなかったのだ。
「貴様のような、嫉妬に狂い、涙で人を欺こうとする女は、王太子妃にふさわしくない!」
アルベルトが高らかに宣言する。
「よって、今この時をもって、ソフィア・フォン・クライネルト! 貴様との婚約を破棄する!」
——来た!
ソフィアの心臓が、歓喜に高鳴った。
『婚約破棄』。その言葉を、どれほど待ち望んだことか。
だが、まだだ。まだ足りない。
(これだけじゃ、ダメ……!)
婚約破棄だけでは、実家であるクライネルト侯爵家に連れ戻されてしまう。謹慎か、修道院送りか、あるいは別の貴族に「傷物」として押し付けられるか。どちらにせよ、自由な研究など望めない。
目指すは「追放」。誰の目も届かない場所への完全な隔離だ。
ソフィアは、涙に濡れた(と見せかけた)顔を上げ、絶望に打ちひしがれた(ふりをした)表情でアルベルトを見つめた。
そして、震える足で一歩後退り、その場に崩れ落ちるかのように、深く、深く、完璧なカーテシー(淑女の礼)をとった。床の大理石の冷たさが、ドレス越しに膝に伝わる。
「……殿下の、ご決断……謹んで、お受けいたしますわ」
絞り出すような、か細い声。
それは、アルベルトの目には、すべての希望を失った女の、最後の抵抗(あるいは服従)に映っただろう。
だが、ソフィアの内心は、冷静そのものだった。
(さあ、次を。もっと決定的な一言を。私を、このしがらみから完全に解放する、最後の一撃を)
彼女の、その挑発的なまでの「完璧な服従」は、アルベルトの怒りの最後の導火線に火をつけた。
(よし、あるわ)
指先に触れるのは、クライネルト家の紋章が刺繍された、上質な絹のハンカチ。だが、ただのハンカチではない。
前世の知識——葉山カオリとしての記憶——を総動員し、この世界のタマネギによく似た野菜(刺激臭のある『涙誘い草』)から抽出したエキスを、ごく微量、染み込ませてある特製品だ。
この野菜は、普通にカットするだけでは涙は出ない。特定の温度で加熱し、成分をアルコール抽出するという、前世の化学知識がなければ「催涙成分」だけを取り出すことは不可能だった。自室に簡易的な実験器具を持ち込み、夜な夜なメイドの目を盗んで開発した、文字通りの「切り札」だった。
ソフィアは、ゆっくりとハンカチを取り出し、震える手(を演じながら)で顔を覆った。
「……アルベルト様」
声を震わせる。
「あまりにも……あまりにも、酷い仕打ちではございませんか」
ハンカチを目元に強く押し当てる。計算通り、ツン、と鼻腔の奥を刺激する感覚。アルコールと共に揮発した刺激成分が、確実に涙腺を攻撃する。計画通り、生理的な涙が堰を切ったように溢れ出した。
「私が、どれほど殿下を想い、この国の未来を案じてきたか……。リリア様のことも、将来の王太子妃となる(かもしれない)方として、この国の顔として、厳しく接したのは、すべて……すべて殿下のためを思ってこそ……」
嗚咽(を演じながら)混じりに訴える。
(ふふ、効いてきたわ。我ながら完璧な抽出ね)
流れ落ちる涙の感触を確かめながら、ソフィアは自分の研究成果に密かな満足を覚えていた。
周囲の貴族たちが、はっきりとざわめき始めた。
「まあ、ソフィア様が泣いていらっしゃる……」
「あんなに取り乱したソフィア様は初めてだわ。いつも冷静沈着で、氷の令嬢とまで呼ばれていたのに」
「もしかしたら、本当に誤解だったのでは……? 殿下の一方的な思い込みで、ソフィア様は……」
空気は、明らかにソフィアへの同情に傾きかけていた。
完璧な「悲劇のヒロイン」の姿。
クライネルト侯爵令嬢としての誇りを傷つけられ、婚約者に公衆の面前で裏切られ、それでもなお彼のことを想う健気な(ふりをした)令嬢。
アルベルトが、一瞬、たじろいだのをソフィアは見逃さなかった。彼の顔に「やりすぎたか?」という迷いが浮かんだ。
(そう、迷いなさい。そして、その迷いを断ち切るために、もっと私を強く突き放すのよ)
ソフィアの計算通りだった。
アルベルトは、自分の中に芽生えた一瞬の良心の呵責を踏みつぶすかのように、さらに声を荒げた。彼は、大衆がソフィアに同情し始めたことに気づき、焦ったのだ。
「その期に及んで、まだ白々しい嘘を!」
彼は、ソフィアが流す涙を「演技」だと断じた。皮肉なことに、それは真実だったが、彼の思考はまったく別のところにあった。
(彼は、私が「悪」でなければ困るのだ)
聖女リリアを選んだ自分の正当性を証明するためには、婚約者であるソフィアが、誰の目にも明らかな「悪役」でなければならない。
ソフィアの流す涙は、彼のシナリオにとって邪魔だった。だから、それを「嘘泣き」だと切り捨てるしかなかったのだ。
「貴様のような、嫉妬に狂い、涙で人を欺こうとする女は、王太子妃にふさわしくない!」
アルベルトが高らかに宣言する。
「よって、今この時をもって、ソフィア・フォン・クライネルト! 貴様との婚約を破棄する!」
——来た!
ソフィアの心臓が、歓喜に高鳴った。
『婚約破棄』。その言葉を、どれほど待ち望んだことか。
だが、まだだ。まだ足りない。
(これだけじゃ、ダメ……!)
婚約破棄だけでは、実家であるクライネルト侯爵家に連れ戻されてしまう。謹慎か、修道院送りか、あるいは別の貴族に「傷物」として押し付けられるか。どちらにせよ、自由な研究など望めない。
目指すは「追放」。誰の目も届かない場所への完全な隔離だ。
ソフィアは、涙に濡れた(と見せかけた)顔を上げ、絶望に打ちひしがれた(ふりをした)表情でアルベルトを見つめた。
そして、震える足で一歩後退り、その場に崩れ落ちるかのように、深く、深く、完璧なカーテシー(淑女の礼)をとった。床の大理石の冷たさが、ドレス越しに膝に伝わる。
「……殿下の、ご決断……謹んで、お受けいたしますわ」
絞り出すような、か細い声。
それは、アルベルトの目には、すべての希望を失った女の、最後の抵抗(あるいは服従)に映っただろう。
だが、ソフィアの内心は、冷静そのものだった。
(さあ、次を。もっと決定的な一言を。私を、このしがらみから完全に解放する、最後の一撃を)
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