『追放令嬢は薬草(ハーブ)に夢中 ~前世の知識でポーションを作っていたら、聖女様より崇められ、私を捨てた王太子が泣きついてきました~』

とびぃ

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第5章 奇跡(ポーションと行商人)

5-1:黒咳病の診察

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(……マルク。ハンスさん。あなたたちの、その善意と信頼が、今、私を最悪の舞台に引きずり出したのよ……!)
ソフィアは、天を仰ぎたい衝動を、奥歯を噛み締めることで必死にこらえた。
村人たちの視線が、突き刺さる。それはもはや、数週間前の「魔女」に向けられる恐怖や敵意ではない。もっと厄介な、盲目的なまでの「信頼」と「期待」だった。彼らにとって、ソフィアはすでに牙猪の呪い(と彼らが信じているもの)すら治す「薬師様」であり、この村の守護神のような存在になりつつあった。
そして、泥まみれの護衛の男は、藁にもすがる思いで、ハンスが指し示した「薬師様」——あまりにも場違いな、ボロボロのドレスの残骸をまとった銀髪の少女——を、疑いと焦燥の入り混じった目で見つめている。
「……薬師様、どうか……」
「頼む! 旦那様を……ロイド様を助けてくれ!」
護衛の男が、ソフィアの足元に崩れ落ちるようにして懇願した。
(……逃げ場、なし、ね)
ソフィアは、観念して、深く、静かに息を吸った。
ここで「私には無理です」と踵を返せば、築き上げてきた村人たちとの信頼関係は崩壊する。それだけならまだいい。だが、この得体の知れない『黒咳病』を村の入り口に放置すれば、この小さな村が壊滅する可能性すらあった。
(スローライフも、研究生活も、すべては安定した『基盤』があってこそ。この村がパンデミックに陥れば、私のアトリエも無事では済まない)
研究者(カオリ)としての合理的な思考が、瞬時にリスクとリターンを計算する。
リスク:面倒ごと(王都)との接触。未知の感染症への被曝。
リターン:村の安全確保(=研究基盤の維持)。そして……。
ソフィアの赤い瞳が、馬車の中で響き渡る凄まじい咳の音に向けられた。
(……王都の医者も、神官も、聖女すら治せない、未知の病原体。……なんて、魅力的な研究対象(サンプル)なのかしら)
結局のところ、彼女の行動原理は常にそこにあった。
恐怖よりも、好奇心が勝る。
「……分かりました」
ソフィアの声は、村の広場に、凛として響いた。
「ですが、条件があります」
彼女は、懇願する護衛の男と、固唾を飲んで見守る村長のハンスを、交互に見据えた。
「第一に、これは『黒咳病』という感染症です。あなたたち全員、これ以上近づいてはいけません」
ソフィアは、自分の腰のポーチから、予備の布(ドレスの切れ端を煮沸消毒したもの)を取り出し、自分の口と鼻を覆った。原始的なマスクだ。
「ハンスさん。村の皆を、ここから最低でも五十メートルは離してください。特に、子供たちと老人を。それと、マルク!」
「は、はい!」
マルクが、緊張した面持ちで背筋を伸ばす。
「あなたも下がりなさい。あなたは一度、大怪我をしている。抵抗力が落ちている時に、新しい病に触れるのは自殺行為よ」
「で、でも……」
「これは、命令です」
ソフィアの有無を言わさぬ口調に、マルクは唇を噛み締めながらも、頷いて後ずさった。
村人たちが、ソフィアの異様なまでの警戒ぶりに、改めて事の重大さを認識し、ざわめきながら距離を取っていく。
「第二に」
ソフィアは、護衛の男に向き直った。
「患者の治療は、私のアトリエ(小屋)で行います。この村に病原体を持ち込むわけにはいきません。……ですが、アトリエに運んだが最後、あなたも、患者も、私が許可するまで、絶対に外には出られません。事実上の『隔離』ですわ。それでも、よろしいか」
「か、構わん! 旦那様の命が助かるなら、何でもする!」
護衛の男——バルカスと名乗った——は、即答した。
「結構。では、状況を見ます。……開けて」
ソフィアは、泥まみれの馬車の扉に、布を当てた手で触れた。
バルカスが、壊れかけた扉を、軋む音を立てながら開ける。
ムワッ、と。
馬車の中から、熱気と、病的な汗の匂い、そして、鉄錆のような微かな血の匂いが混じり合った、濃密な空気が流れ出し、ソフィアの顔を打った。
(……ひどい)
そこは、地獄の縮図だった。
豪華だったであろう内装——ビロード張りの座席や、寄せ木細工の床——は、吐瀉物(としゃぶつ)や、咳と共に吐き出されたであろう血痰で、無残に汚れきっていた。
そして、その中央に、一人の男がぐったりと横たわっていた。
歳は、ソフィア(カオリ)の前世と同じ、三十代半ばだろうか。
高価な絹のシャツは汗でぐっしょりと濡れ、肌に張り付いている。顔色は土気色を通り越し、唇は酸素不足で紫色(チアノーゼ)を呈していた。
だが、ソフィアの目を引いたのは、その苦悶の表情の中でも失われていない、商魂たくましい、鋭い意志の光だった。彼こそが、この商会の主、ロイドに違いなかった。
「ゲホッ、ゴホッ!……ゲェッ……!」
ソフィアの気配に気づいたのか、ロイドが、再び発作的な咳に見舞われた。
それは、咳というよりは、体内のすべてを絞り出すかのような痙攣だった。彼は、気道を確保しようともがき、その紫色の爪が、虚空を必死に掻きむしった。
(……肺が、機能していない。高熱、呼吸困難、血痰。症状は、前世の『重篤な細菌性肺炎』、あるいは……『肺ペスト』に酷似している)
ソフィアの脳内で、前世の知識(データベース)が、警報を鳴らす。
(これは、ただの風邪やインフルエンザとは次元が違う。極めて致死率と感染力が高い病原体だ)
彼女は、ロイドの首筋に、そっと指を触れた。
(脈拍、異常に速い。そして、熱……火傷しそうなほどだ。40度は超えているわね)
インターフェイスは、人間には反応しない。診断は、すべてソフィア(カオリ)の知識と五感だけが頼りだ。
「……バルカスさん」
ソフィアは、顔色を失っている護衛に、冷静に告げた。
「猶予はありません。今すぐ、アトリエに運びます。あなたは、患者の体を支えて。私は、これ以上馬車に病原体が残らないよう、最低限の『処理』をします」
ソフィアは、麻袋から、先日蒸留した『フォレスト・ラベンダー精油』の瓶を取り出した。
(純度38%……。消毒用アルコールの代わりにはなるわ)
彼女は、馬車の中に残っていた布類に、その精油を惜しげもなく振りかけた。
「火をつけます。離れて」
ソフィアが火口箱で火をつけると、精油を含んだ布は、ラベンダーの強烈な芳香と共に、ボッと激しく燃え上がった。馬車ごと燃やすわけにはいかないが、少なくとも、この場で空中に飛散する病原体を、熱と煙である程度は殺菌できるはずだ。
(前世の知識(アロマテラピー)では、ラベンダーに強い殺菌作用があるとされていた。この世界の魔力を含んだ精油なら、なおさら効果があるはず……!)
炎が馬車の中で一瞬だけ荒れ狂い、すぐに鎮火する。だが、馬車の周囲には、焼けた匂いと、濃厚なラベンダーの香りが充満していた。
「……行きますわよ。覚悟を決めて」
ソフィアは、バルカスと共に、ぐったりとしたロイドを両側から抱え上げた。
ずしり、と。
一人の人間の命の重みが、侯爵令嬢の華奢な肩に、のしかかった。
ソフィアは、村人たちには目もくれず、ただまっすぐに、森のアトリエへと続く道を、急ぎ始めた。
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