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第12章 招かれざる来訪者、帝国の使者
12-1:アトリエへの帰還と重い沈黙
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聖樹の根本で、あの『警告(アラート)』が私の脳内に表示されてから、どれほどの時間が経っただろうか。
ギルバートの『御伽噺』と、私のインターフェイスが突きつけた『古代呪術兵器』という最悪の現実。二つの情報が、私とギルバートの間で、言葉にならない重い沈黙となってのしかかった。
森の最深部の空気は、もはや神々しいものではなく、ただ、重く、淀んでいた。聖樹が流し続ける黄金色の樹液が放つ、あの甘く腐敗した果実のような匂いが、私たちの思考そのものを鈍らせるかのように、まとわりついてくる。
「……ギルバート。ひとまず、アトリエに戻るわよ」
私が先に口を開いた。声が、自分でも驚くほど、硬く、冷たく響いた。
聖樹の根本は、もはや『聖域』ではない。『汚染源(グラウンド・ゼロ)』よ。インターフェイスも分析魔法も機能不全に陥る、魔力の飽和領域だわ。
「この『サンプル(黒い汚泥)』を、聖樹の魔力圏(飽和領域)から完全に切り離し、私たちのアトリエで、徹底的に分析する必要がある」
「あ、ああ。そうだな。それが、合理的だ」
ギルバートは、まだ青ざめた顔のまま、こわばった動きで頷いた。
彼の魔術師としての『目』には、今この瞬間も、聖樹の地下水脈に沿って、あの『コード:Unknown』が、ゆっくりと、しかし確実に『活性化(Active)』フェーズへ移行していく様が、見えているのかもしれない。
彼の顔色が悪いのは、恐怖だけではないはずだ。あの場所は、魔術師(彼)にとっても、魔力の流れが異常すぎて、気分が悪くなるほどの『圧』があるのだろう。
私たちは、聖樹に背を向けた。
あの日、王都の災厄を打ち破る「希望」として採取した黄金色の樹液は、今や、自らの命を削り続ける「悲鳴」のメタファーにしか見えなかった。
(樹が、泣いているように見えた。違う。あれは『出血』よ。この世界(ほし)そのものの、止めどない出血)
あの、腐敗した果実のような、甘く重い魔力の匂いが、ブーツにこびりついた黄金色の泥と共に、私たちについてくる。粘つく泥が、一歩踏み出すごとに、ブーツの裏で不快な音を立てた。まるで、大地そのものが、私たちを引き留めようとしているかのようだ。
森の最深部を抜ける。
鳥の声も、虫の音も、獣の気配もしない、あの絶対的な静寂。
それが、来た時とはまったく違う、不気味な「死」の気配として、肌にまとわりついた。
風が木々を揺らす「ゴウウウ」という低い音だけが、まるで、大地の苦悶の呻き声のように、森全体に響き渡っている。
ギルバートは、背後を振り返らないよう、必死に前だけを見て歩いていた。
「ソフィア薬師。あの『黒い土(Unknown)』。オーギュストの『呪い』とは、比較にならない。あれは、魔力そのものを『無』に還す力だ。もし、あれが、本当に『活性化』したら」
「分かっているわ」
私は、彼の言葉を遮った。
「この森が、消える。いいえ、この森だけではない。この『聖樹』と繋がる、この国中の『魔力(マナ)』が、すべて、あの『黒い汚泥』に『食べられて』、消滅する」
前世(カオリ)の記憶にある、科学的な生態系の崩壊とは違う。
魔術的な、もっと根源的な「世界の死」が、私たちの仮説の先にはあった。
(スローライフどころの騒ぎではないわね。これは、文字通りの『世界(アトリエ)防衛戦』よ)
牙猪(ファングボア)の縄張りを抜け、ようやく、聞き慣れた獣の気配や、虫の音が戻ってきた時、私たちは、二人とも、無意識に、安堵のため息をついていた。
汚染された「聖域」から、かろうじて「日常」の領域へと、生還したのだ。
アトリエ周辺の、慣れ親しんだ領域に戻ってきた時、私は、その「日常」の風景に、心の底から安堵している自分に気づいた。
「……薬師様ー! ギルバート様ー!」
遠くから、マルクの声がする。
麓の村から、ハンスさんたちが木を切る、乾いた斧の音が、リズミカルに響いている。
アトリエの煙突からは、朝、私が出かける前に火力を調整した、蒸留器の白煙が、細く、秋空に立ち上っていた。
(これが、私の、スローライフ)
その、当たり前だったはずの風景が、今は、失われかけている「宝物」のように、痛々しいほど、輝いて見えた。
(だが、その平穏な風景が、今や、水面下に広がる『黒い呪い』という時限爆弾の上に成り立つ、脆いものでしかないことを、私たちは知ってしまった)
(あの音も、あの煙も、あの子どもの声も。すべてが、あの『黒い汚泥』に、飲み込まれるかもしれない)
私の背筋を、冷たい汗が伝った。
アトリエの扉を開ける。
暖炉の火がぱちぱちと爆ぜる、温かい空気。
壁一面に貼られた、私の化学式と、ギルバートの魔術理論の羊皮紙。
最新鋭のガラス器具が並ぶ、完璧な実験台(プラットフォームLv.3)。
この、世界で一番安全で、合理的な、私の「城」。
私は、まず、ブーツについた「黄金色の泥」を、アトリエの外で、徹底的に洗い落とした。あの『腐敗臭』を、この聖域(アトリエ)に、持ち込みたくなかった。
「ギルバートも、早くそれを洗い流して。その匂い、頭痛がするわ」
「あ、ああ。すまない」
彼も、慌てて、小川の水でブーツを清めている。
私は、アトリエに戻ると、フィールドワーク用の革ケースから、あの『土壌サンプラー』を取り出した。その先端に付着した、地層(・・)を描くサンプル。
そして、その中央に潜む、あの『黒い汚泥』。
(これ)
前世(カオリ)の記憶が、一瞬、蘇る。
製薬会社時代、致死性の高いウイルスや、生物兵器(バイオハザード)のサンプルを、P4レベルの実験室で扱った時の、あの、全身が総毛立つような、極度の緊張感。
今、私が扱おうとしているのは、それと「同等」か、あるいは、それ以上の「未知の脅威」だ。
私は、ロイドに特注させた中で、最も頑丈な、分厚いガラスケースの中央に、ピンセットで慎重に、その『黒い汚泥』のサンプルを移した。
息を、止めていたことに、気づいた。
「ギルバート。『聖属性』でも『魔属性』でもない、あらゆる魔力を遮断する『結界』を、このケースに張れる?」
「『中和結界(ニュートラル・フィールド)』か。私の魔力で、どこまで押さえ込めるか。やってみよう」
ギルバートが杖を構え、呪文を詠唱する。
彼の声も、いつもより、低く、硬い。
ガラスケースの周囲の空間が、陽炎のように歪み、アトリエの空気から、その『サンプル』が、魔術的に切り離された。
ふう、と。
アトリエに満ちていた、あの甘く重い「腐敗臭」が、わずかに薄れた気がした。
私たちは、二人して、実験台の中央、ガラスケースの中に鎮座する、その『黒い汚泥』を、睨みつけた。
それは、ただの、黒い土塊だった。
だが、私たちの目には、この世界の「終わり」を告げる、時限爆弾のスイッチそのものに見えた。
(『Unknown』。活性化(Active)フェーズへ移行中)
(『名もなき、呪い』)
(こいつが、オーギュストの『紫死病』の、本当の『本体』)
私のスローライフを脅かす、真の「敵」が、今、目の前に、あった。
「さて」
私は、深く息を吐き出し、研究者(カオリ)の顔に戻った。
「敵の正体が、目の前にあるのなら。やることは、一つでしょう?」
私は、白衣(これもロイドに作らせた)の袖をまくり上げ、新しいガラス器具のセットを、実験台に並べ始めた。
「解剖(・・)して、分析して、その『理(ルール)』を、丸裸にしてやるわ」
ギルバートも、私のその「戦闘宣言」に、青ざめていた顔に、ようやく、いつもの、好戦的な研究者の笑みを、浮かべた。
「ああ。『科学(きみ)』と『魔法(おれ)』で、な」
ギルバートの『御伽噺』と、私のインターフェイスが突きつけた『古代呪術兵器』という最悪の現実。二つの情報が、私とギルバートの間で、言葉にならない重い沈黙となってのしかかった。
森の最深部の空気は、もはや神々しいものではなく、ただ、重く、淀んでいた。聖樹が流し続ける黄金色の樹液が放つ、あの甘く腐敗した果実のような匂いが、私たちの思考そのものを鈍らせるかのように、まとわりついてくる。
「……ギルバート。ひとまず、アトリエに戻るわよ」
私が先に口を開いた。声が、自分でも驚くほど、硬く、冷たく響いた。
聖樹の根本は、もはや『聖域』ではない。『汚染源(グラウンド・ゼロ)』よ。インターフェイスも分析魔法も機能不全に陥る、魔力の飽和領域だわ。
「この『サンプル(黒い汚泥)』を、聖樹の魔力圏(飽和領域)から完全に切り離し、私たちのアトリエで、徹底的に分析する必要がある」
「あ、ああ。そうだな。それが、合理的だ」
ギルバートは、まだ青ざめた顔のまま、こわばった動きで頷いた。
彼の魔術師としての『目』には、今この瞬間も、聖樹の地下水脈に沿って、あの『コード:Unknown』が、ゆっくりと、しかし確実に『活性化(Active)』フェーズへ移行していく様が、見えているのかもしれない。
彼の顔色が悪いのは、恐怖だけではないはずだ。あの場所は、魔術師(彼)にとっても、魔力の流れが異常すぎて、気分が悪くなるほどの『圧』があるのだろう。
私たちは、聖樹に背を向けた。
あの日、王都の災厄を打ち破る「希望」として採取した黄金色の樹液は、今や、自らの命を削り続ける「悲鳴」のメタファーにしか見えなかった。
(樹が、泣いているように見えた。違う。あれは『出血』よ。この世界(ほし)そのものの、止めどない出血)
あの、腐敗した果実のような、甘く重い魔力の匂いが、ブーツにこびりついた黄金色の泥と共に、私たちについてくる。粘つく泥が、一歩踏み出すごとに、ブーツの裏で不快な音を立てた。まるで、大地そのものが、私たちを引き留めようとしているかのようだ。
森の最深部を抜ける。
鳥の声も、虫の音も、獣の気配もしない、あの絶対的な静寂。
それが、来た時とはまったく違う、不気味な「死」の気配として、肌にまとわりついた。
風が木々を揺らす「ゴウウウ」という低い音だけが、まるで、大地の苦悶の呻き声のように、森全体に響き渡っている。
ギルバートは、背後を振り返らないよう、必死に前だけを見て歩いていた。
「ソフィア薬師。あの『黒い土(Unknown)』。オーギュストの『呪い』とは、比較にならない。あれは、魔力そのものを『無』に還す力だ。もし、あれが、本当に『活性化』したら」
「分かっているわ」
私は、彼の言葉を遮った。
「この森が、消える。いいえ、この森だけではない。この『聖樹』と繋がる、この国中の『魔力(マナ)』が、すべて、あの『黒い汚泥』に『食べられて』、消滅する」
前世(カオリ)の記憶にある、科学的な生態系の崩壊とは違う。
魔術的な、もっと根源的な「世界の死」が、私たちの仮説の先にはあった。
(スローライフどころの騒ぎではないわね。これは、文字通りの『世界(アトリエ)防衛戦』よ)
牙猪(ファングボア)の縄張りを抜け、ようやく、聞き慣れた獣の気配や、虫の音が戻ってきた時、私たちは、二人とも、無意識に、安堵のため息をついていた。
汚染された「聖域」から、かろうじて「日常」の領域へと、生還したのだ。
アトリエ周辺の、慣れ親しんだ領域に戻ってきた時、私は、その「日常」の風景に、心の底から安堵している自分に気づいた。
「……薬師様ー! ギルバート様ー!」
遠くから、マルクの声がする。
麓の村から、ハンスさんたちが木を切る、乾いた斧の音が、リズミカルに響いている。
アトリエの煙突からは、朝、私が出かける前に火力を調整した、蒸留器の白煙が、細く、秋空に立ち上っていた。
(これが、私の、スローライフ)
その、当たり前だったはずの風景が、今は、失われかけている「宝物」のように、痛々しいほど、輝いて見えた。
(だが、その平穏な風景が、今や、水面下に広がる『黒い呪い』という時限爆弾の上に成り立つ、脆いものでしかないことを、私たちは知ってしまった)
(あの音も、あの煙も、あの子どもの声も。すべてが、あの『黒い汚泥』に、飲み込まれるかもしれない)
私の背筋を、冷たい汗が伝った。
アトリエの扉を開ける。
暖炉の火がぱちぱちと爆ぜる、温かい空気。
壁一面に貼られた、私の化学式と、ギルバートの魔術理論の羊皮紙。
最新鋭のガラス器具が並ぶ、完璧な実験台(プラットフォームLv.3)。
この、世界で一番安全で、合理的な、私の「城」。
私は、まず、ブーツについた「黄金色の泥」を、アトリエの外で、徹底的に洗い落とした。あの『腐敗臭』を、この聖域(アトリエ)に、持ち込みたくなかった。
「ギルバートも、早くそれを洗い流して。その匂い、頭痛がするわ」
「あ、ああ。すまない」
彼も、慌てて、小川の水でブーツを清めている。
私は、アトリエに戻ると、フィールドワーク用の革ケースから、あの『土壌サンプラー』を取り出した。その先端に付着した、地層(・・)を描くサンプル。
そして、その中央に潜む、あの『黒い汚泥』。
(これ)
前世(カオリ)の記憶が、一瞬、蘇る。
製薬会社時代、致死性の高いウイルスや、生物兵器(バイオハザード)のサンプルを、P4レベルの実験室で扱った時の、あの、全身が総毛立つような、極度の緊張感。
今、私が扱おうとしているのは、それと「同等」か、あるいは、それ以上の「未知の脅威」だ。
私は、ロイドに特注させた中で、最も頑丈な、分厚いガラスケースの中央に、ピンセットで慎重に、その『黒い汚泥』のサンプルを移した。
息を、止めていたことに、気づいた。
「ギルバート。『聖属性』でも『魔属性』でもない、あらゆる魔力を遮断する『結界』を、このケースに張れる?」
「『中和結界(ニュートラル・フィールド)』か。私の魔力で、どこまで押さえ込めるか。やってみよう」
ギルバートが杖を構え、呪文を詠唱する。
彼の声も、いつもより、低く、硬い。
ガラスケースの周囲の空間が、陽炎のように歪み、アトリエの空気から、その『サンプル』が、魔術的に切り離された。
ふう、と。
アトリエに満ちていた、あの甘く重い「腐敗臭」が、わずかに薄れた気がした。
私たちは、二人して、実験台の中央、ガラスケースの中に鎮座する、その『黒い汚泥』を、睨みつけた。
それは、ただの、黒い土塊だった。
だが、私たちの目には、この世界の「終わり」を告げる、時限爆弾のスイッチそのものに見えた。
(『Unknown』。活性化(Active)フェーズへ移行中)
(『名もなき、呪い』)
(こいつが、オーギュストの『紫死病』の、本当の『本体』)
私のスローライフを脅かす、真の「敵」が、今、目の前に、あった。
「さて」
私は、深く息を吐き出し、研究者(カオリ)の顔に戻った。
「敵の正体が、目の前にあるのなら。やることは、一つでしょう?」
私は、白衣(これもロイドに作らせた)の袖をまくり上げ、新しいガラス器具のセットを、実験台に並べ始めた。
「解剖(・・)して、分析して、その『理(ルール)』を、丸裸にしてやるわ」
ギルバートも、私のその「戦闘宣言」に、青ざめていた顔に、ようやく、いつもの、好戦的な研究者の笑みを、浮かべた。
「ああ。『科学(きみ)』と『魔法(おれ)』で、な」
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