『追放令嬢は薬草(ハーブ)に夢中 ~前世の知識でポーションを作っていたら、聖女様より崇められ、私を捨てた王太子が泣きついてきました~』

とびぃ

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第12章 招かれざる来訪者、帝国の使者

12-2:未知の汚泥の分析

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アトリエの空気は、張り詰めていた。
私たちが聖樹の根本から持ち帰った「敵」は、今や、ギルバートが展開した『中和結界(ニュートラル・フィールド)』が施された分厚いガラスケースの中で、静かに鎮座している。
それは、ただの黒い土塊だった。だが、その存在感は、このアトリエLv.3の、完璧に構築された合理性と秩序を、根底から嘲笑うかのように、異質で、重苦しいものだった。
暖炉の火は静かに燃え、アルコールランプの青い炎が立てるかすかな音だけが、室内の絶対的な静寂を支配している。窓の外では、秋の穏やかな日差しがハーブ園を照らし、マルクたちの楽しげな声すら遠くに聞こえる。
その平穏な日常と、今、私たちが対峙している「世界の終わり」のサンプルとのギャップが、私の神経を、剃刀のように研ぎ澄ませていった。
「まず、化学的アプローチから」
私は、ガラスケースに設置した、わずかな隙間(魔術的な隔離フィールドを傷つけないよう設計された、アイソレーターのグローブボックスに似た機構)から、白金(プラチナ)の薬さじを差し込んだ。
サンプルに触れる。
その感触は、粘土のように柔らかく、しかし、油のように、水を弾く質感を持っていた。見た目通りの、不快な感触だ。
私は、その汚泥を、ほんの数ミリグラム、慎重に削り取った。
それを、石英ガラスの、頑丈な試験管に入れる。
「第一段階。溶解特性の確認。まずは、最強の『酸』、王水(アクア・レジア)よ」
これもロイドに無理を言って調達させた、金すら溶かす、塩酸と硝酸の混合液だ。私がスポイトでそれを一滴、試験管に垂らすと、ギルバートが「おい、本気か」と、わずかに後ずさった。
だが。
(……反応、なし)
試験管の中では、黄金色の王水が、黒い汚泥の上を、まるで、水が油の上を滑るかのように、弾かれるだけだった。溶ける気配も、ガスが発生する気配も、一切ない。
「次。最強の『アルカリ』。水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)飽和溶液」
反応、なし。
「エタノール(脂溶性)、蒸留水(水溶性)、エーテル(有機溶媒)、ヘキサン……」
私が、このアトリエに持ちうる、ありとあらゆる「溶媒」を試した。
だが、結果は、すべて同じ。
この『Unknown』は、あらゆる化学的な『接触』を、その黒い表面で、完全に『拒絶』していた。
「……物理的に、燃焼させてみるわ」
私は、焦燥感を押し殺し、次のステップに移った。
削り取ったサンプルを、白磁のるつぼに移し、実験台の上の、最も火力の強いバーナー(これもロイド製だ)の上に、セットした。
「ギルバート。念のため、防御結界を張っておいて。何が気化するか、分からないわ」
「承知した」
ギルバートが杖を構え、るつぼの周囲に、薄い『風の障壁(エア・シールド)』を展開する。
私は、バーナーのコックを捻り、アルコールランプの、千度を超える青い炎で、黒い汚泥を、直接、炙った。
ゴオオ、と炎が、るつぼを白く焼く。
だが。
(……燃えない)
黒い汚泥は、赤熱することすらない。
炎の中で、その体積を減らすでもなく、変色するでもなく、ただ、不気味なまでに黒々としたまま、その形状を、保ち続けていた。
「……ソフィア薬師。それは、物質(マテリアル)ではないのかもしれん」
ギルバートが、青白い顔で、その信じがたい光景を見ていた。
「これほどの熱量(エネルギー)を受けて、何の化学変化も起こさない。……これは、我々が知る『物理法則(かがく)』の外にある、『概念』そのものだ。オーギュストの『実験日誌』にあった、あの『紫死病』の花粉ですら、これの『劣化コピー』に過ぎなかったのだとしたら」
「いいえ」
私は、彼の弱音を、きっぱりと遮った。
アルコールランプの火を、止める。
「物理法則の外にあるなら、私のインターフェイスが『Unknown』などと、中途半端な警告を出すはずがないわ。……あれは、私の『データベース(前世の科学)』に、該当するデータがない、と言っているだけ」
私は、るつぼの中で、熱を帯びることもなく、ただ黒々と鎮座するサンプルを睨みつけた。
「これは、私の知らない『理(ルール)』で動いている、未知の『物質(マテリアル)』よ。必ず、法則がある。……化学的な『反応』がダメなら、別の『作用』を、試すまでよ」
私は、視点を変えた。
「ギルバート。あなたの『目(アナライズ)』で、もう一度、これをスキャンして。ただし、物質としてではなく、『現象』として」
「現象?」
「ええ。結界の外側に、これを置いてみて」
私は、ハーブ園から摘んできたばかりの、瑞々しいミントの葉を、ガラスケースの「外側」に、そっと置いた。
「結界越しに、この『黒い汚泥』が、あの『ミントの葉』に、どのような『影響』を与えるか。その『作用』だけを、観測して」
「!……なるほど。検体(サンプル)を、使うのか」
ギルバートは、私の意図を即座に理解した。
「対象(サンプル)そのものではなく、対象が、周囲に与える『影響(フィールド)』を、観測する。……合理的だ。さすがは、化学者(きみ)だ」
彼は、杖を構え、その魔力を、ミントの葉に集中させる。
彼の『目』には、ミントの葉が放つ、か細い、緑色の「生命力(マナ)」のオーラが、見えているはずだ。
「……観測を、開始する」
ギルバートの魔力が、ミントの葉を包み込む。
数分が経過した。
暖炉の薪が、パチリ、と爆ぜる音だけが響く。
ミントの葉は、見た目には、何の変哲もない。青々としたままだ。
だが、観測しているギルバートの額から、冷や汗が、一筋、流れ落ちた。
「……ソフィア薬師。……これは、まずい」
「何が見えるの」
「……ミントの葉の『生命力(マナ)』が、揺らいでいる。……いや、違う。……『吸われて』いる」
「吸われている?」
「ああ。この『黒い汚泥』が、私の張った『中和結界(ニュートラル・フィールド)』を、まるで、存在しないかのように、無視して、あの葉の魔力を、まるで、スポンジが水を吸うように、一方的に、吸い取っている」
ギルバートの声が、戦慄に、震えた。
「そして、吸い取った魔力(聖属性)を……」
彼は、言葉を失った。
「……『変換』している。……聖属性(プラス)を、魔属性(マイナス)ですらない、まったく別の、未知のエネルギー(ゼロ)に……『分解』、『消滅』させているんだ」
『高レベル魔力汚染(古代呪術兵器)』
インターフェイスの警告が、私の脳裏で、現実の脅威として、再定義された。
(魔力を『食べる』呪い)
(だから、聖樹(魔力の源泉)が、あれほど過剰に『樹液(エリクシル)』を流し続けていた。……食べられている分を、補うために)
(そして、オーギュストの『紫死病』は、この『呪い』の、劣化コピー。聖女の光(聖属性)を『食べる』ように、設計されていた)
すべてが、繋がった。
この呪いは、この世界の「生命」そのものの、エネルギー源である「魔力」を、根源から、消滅させる。
「……これは、この森だけの問題ではないわね」
私が、その恐るべき結論を口にした、まさに、その時だった。
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