『追放令嬢は薬草(ハーブ)に夢中 ~前世の知識でポーションを作っていたら、聖女様より崇められ、私を捨てた王太子が泣きついてきました~』

とびぃ

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第14章 聖女の「調律」と、科学の「薬液」

14-3:科学の薬液、キレート剤

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ドン! ドン! ドン!
アトリエの、あの重いオーク材の扉が、今にも壊れんばかりの勢いで、激しく叩かれた。マルクだ。
「薬師様! 大変だ! 村の畑が、昨日より、もっとひどいことに……! それに、父ちゃんたちの熱が、また上がってきた!」
マルクの、恐怖に引きつった叫び声が、アトリエの、束の間の分析の時間を、無慈悲に打ち破った。
猶予は、なかった。
アトリエの空気は、再び戦場へと変わった。暖炉の熱気が、寝不足の私たちの肌を焦がす。消毒用に焚いたタイムの匂いと、ハンスさんたちの苦しげな息遣いが混じり合い、室内はまるで野戦病院のようだ。
「……時間がないわね」
私は、ベッドの上でか細く呼吸を繰り返すリリアに視線を走らせた。彼女の消耗も激しい。聖樹の苦痛をダイレクトに受信し続けているせいで、顔色は紙のように白い。
「あなたは、まだ休んでいて。今、あなたに倒れられたら、私たちの『目』と『耳』がなくなるわ」
私は、彼女にそう言い聞かせると、実験台の前に立った。このアトリエ(研究室)の主として、この絶望的な状況(サンプル)と向き合うために。
ギルバートが、心配そうに私の隣に立つ。彼の顔にも、王宮魔術師としての自信はなく、ただ、対処不能な天災を前にした人間の、深い疲労と焦燥が浮かんでいた。
「ソフィア薬師、どうする。私の回復魔法も、君のポーションも、あの『ブライト』には分解されてしまう。 アトロピンは、対症療法に過ぎない。ハンスさんたちの命も、長くは……」
彼の言う通りだった。魔術も、この世界の薬学(ポーション)も、あの『ブライト』の前には無力だった。魔力を『餌』にし、『分解』し、『消滅』させる。それが、あの古代呪術兵器の本質。
(……詰んでいる)
そう認めたくはなかったが、事実は事実だ。魔力という「理」で動くこの世界において、魔力を否定する存在は、まさに天敵。
(魔力に頼るから、ダメなのよ)
私は、実験ノートに書き殴ったリリアの証言――『黒い泥』『力が吸われる』『消えていく』――を、指でなぞった。
(魔力を『食べる』なら)
(魔力を『餌』にするなら)
(ならば……)
私の脳裏に、前世(カオリ)の記憶が、閃光のようにフラッシュバックした。製薬会社での記憶ではない。もっと基礎的な、大学で学んだ「毒物学」と「無機化学」の知識。
(――魔力に頼らない『薬』を作ればいい)
「ギルバート」
「何だ」
「アプローチを根本から変えるのよ。 あの『ブライト』は、魔力を『食べる』呪い。 ならば、『餌』を与えなければいいのよ」
「魔力に頼らない薬、だと?」
ギルバートが、信じられないという顔で私を見た。彼の常識では、薬草の効能とは、すなわち、その薬草が宿す「魔力(マナ)」の作用そのもの。魔力に頼らない薬など、それは、もはや薬ではなく、ただの「雑草の煮汁」でしかなかった。
「前世の知識よ」
私は、目を閉じ、思考を加速させた。
(前世での、重金属中毒の治療法。カドミウムや水銀、鉛が体内に蓄積した患者に、何を投与した? ……答えは、『キレート剤』よ)
「きれーと……ざい?」
ギルバートが、オウム返しに呟いた。彼の知識(データベース)には、当然、存在しない単語だ。
「ええ。この世界の言葉で言うなら、『吸着剤』かしら。もっと正確に言えば、『カニのハサミ』よ」
「カニの、ハサミ?」
「化学物質が、カニのハサミのように、特定の物質(この場合は毒物)を、がっちりと掴み込むこと。掴んだまま、体内で無害化し、そのまま体外へ排出させるための化学物質。それが、キレート剤」
私は、目を開いた。私の赤い瞳に、アルコールランプの青い炎が、冷たく映り込む。
「この場合、ブライトを『有害な重金属』、聖樹(あるいは村人)の体を『患者』と見立てる。魔力で『中和』するんじゃない。魔力と一切関係のない『物理化学的』な力で、毒素そのものを『捕獲』し、『排出』させるのよ」
私の脳内では、EDTA(エチレンジアミン四酢酸)などの、前世では当たり前だったキレート剤の化学構造式が明滅していた。だが、この世界に、そんな都合の良い純粋な化学薬品はない。
(……いや、あるわ。自然界(このもり)にあるもので、代用するのよ!)
この世界の物質(マテリアル)を、前世の化学(ルール)で再定義する。それこそが、私のインターフェイスが沈黙した今、唯一残された武器だった。
必要なのは、複数の「配位座」を持つ、つまり、毒素と結合する「手」をたくさん持つ、有機化合物。
私は、アトリエの薬草棚――もはや薬草だけでなく、森で採取したあらゆるサンプルが並ぶ混沌とした棚――を睨みつけた。
「ギルバート! 私の薬棚から、三つの素材を持ってきて!」
「素材? 薬草ではなくか?」
「ええ! 一つは、棚の隅にある『粘菌(スライム)の粘液』が入った瓶! 二つ目は、湿地帯のサンプル『鉄錆苔(てつさびごけ)』! そして、三つ目は……麓の村のハンスさんの鍛冶場から、できるだけ純度の高い『木炭の粉』を! 大至急よ!」
「……正気か、ソフィア薬師!?」
ギルバートが、ついに、素っ頓狂な声を上げた。
「スライムに、苔に、炭だと!? それは薬というより、鍋の焦げ付きを落とすための道具だぞ! そんなものを聖樹に飲ませる気か!」
「だからいいのよ!」
私は、彼の常識的な(そして、魔術師としては、至極真っ当な)反論を、一蹴した。
「粘菌の粘液は、多糖類の一種。そのネバネバが、金属イオンを『吸着』する性質があるわ。鉄錆苔は、その名の通り、土壌の鉄分(ミネラル)を体内に取り込む性質を持つ。そして、木炭は、言わずと知れた最強の物理的な『吸着剤』。表面の無数の穴が、毒素を捕らえて離さない」
私は、ギルバートが呆然としながらも持ってきた三つの「ガラクタ」を、精密天秤で正確に計測し始めた。指先が、震える。アトロピンを調合した時とは違う、未知の理論を実践する、研究者としての武者震いだ。
「これは、魔術的な『中和』ではないわ。純粋な『物理化学』による、汚染除去(デトックス)よ」
私は、それらの素材を、石の乳鉢で丁寧(ていねい)にすり潰していく。ゴリゴリと、重く、鈍い音が、アトリエの緊迫した空気に響いた。
(魔力(ポーション)がダメなら、科学(これ)で殴るまでよ)
すり潰した粉末を、ロイドさんが置いていった、汚染されていない『清水』で濾(こ)していく。
出来上がったのは、どす黒く、重い泥のように沈殿し、お世辞にも「薬」とは言えない、ただの「泥水」のような液体だった。聖樹のエリクシルのような神々しい光も、ポーションのような清冽な香りも、一切ない。ただ、湿った土と、炭の匂いがするだけだ。
「これを……?」
ギルバートは、目の前の「特製栄養剤(抗呪いポーションLv.1)」と名付けられた、泥水にしか見えない液体を、絶句した顔で見つめていた。彼の魔術師としての美意識が、この液体を「薬」と認めることを、全力で拒否していた。
「ええ。聖樹(あるいは村人)の体内で、この薬液の粒子が『ブライト』を物理的に吸着し、その毒性を中和するはずよ。魔力的な作用ではないから、分解されることもない。……理論上は、ね」
私は、フラスコに満たされた黒い液体を、静かに見つめた。私の科学が生み出した、この世界の「理」に抗うための、初めての武器。
その時だった。
ベッドの上で、衰弱しながらも私たちのやり取りを、高熱に浮かされた瞳でじっと見ていたリリアが、か細い声で言った。
「……あの、樹が……」
「!」
「……何か、新しいものを、とても、警戒しています……」
私の背筋を、冷たい予感が走った。
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