『追放令嬢は薬草(ハーブ)に夢中 ~前世の知識でポーションを作っていたら、聖女様より崇められ、私を捨てた王太子が泣きついてきました~』

とびぃ

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第15章 帝国の目的とギルバートの決断

15-1:束の間の平穏と、地下の時限爆弾

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聖樹の根本での、あの死闘とも言える「治療」から、丸一日が経過した。
アトリエの空気は、嘘のように穏やかだった。
数日前まで、この空間を支配していた、どうしようもない閉塞感――『ブライト』の分析不能という「知的な絶望」と、村の惨状という「現実的な焦燥」――。その二重の圧力が、聖樹の免疫暴走が止まったことで、薄皮が剥がれるように消え去っていた。
暖炉の火は、穏やかに、パチパチと薪を爆ぜさせる。私が実験台で、薬湯を温め直すために灯したアルコールランプの青い炎が、静かに揺らめいている。
窓の外は、完璧な、秋晴れだった。
冷たく澄み切った空気が、アトリエのガラス窓を磨き上げ、そこから差し込む日差しが、床に埃の粒子をきらきらと映し出している。
すべてが、元に戻ったかのように、見えた。
「……ん……」
その、穏やかな静寂の中で。
アトリエの隅、マルクたちのために用意してあった簡易ベッドの上で、リリアが、ゆっくりと身じろぎした。
聖樹との「調律」という大役を果たし、高熱と極度の疲労で、彼女は丸一日、文字通り泥のように眠り続けていた。
「……ここ、は……」
掠れた声。
「……ソフィア、様……? ギルバート様……?」
彼女は、ぼんやりとした瞳で、アトリエの天井を見上げた。木の梁、吊るされた乾燥ハーブの束。そして、ベッドの傍らで実験ノートをめくっていた私と、その向かいで、腕を組んで、実験台の中央を睨みつけていたギルバートの姿を、ゆっくりと認識した。
「気がついたのね。気分はどう?」
私は、実験台から顔を上げ、声をかけた。暖炉の火で温めておいた薬湯(滋養強壮用)を、木製のカップに注ぎ、彼女に手渡す。
高熱は引き、顔色も、まだ青白さは残るものの、血の気が戻っている。彼女を蝕んでいた敗血症の兆候も、私が調合した『抗菌軟膏』と、彼女自身の(聖樹の呪縛から解放されたことによる)回復力によって、薄れつつあった。
リリアは、ゆっくりと、震える手でカップを受け取った。その瞳には、もう、王都から逃げてきた時の、あの怯えきった光はなかった。
「樹は……。あの、樹は……」
彼女が、今、最も恐れていたことを、か細い声で尋ねる。
「安心して。あなたの『翻訳』のおかげで、私の『薬液(キレート剤)』は、聖樹に届いたわ。樹の暴走は、一時的に、止まった」
「……よかった……」
リリアは、心の底から安堵したように、再び目を閉じた。その目尻から、涙が、一筋、こぼれ落ちた。
昨日までの、絶望の涙ではない。
彼女の魂に、脳に、直接響き続けていた、あの断末魔の「悲鳴」が、ついに、止んだのだ。
アトリエの外からも、その「平穏」を裏付けるように、音が戻ってきていた。
「カコン、カコン」という、乾いた斧の音。
「おお、水が、水が飲めるぞ! 薬師様のおかげだ!」という、村人たちの歓喜の声。
「マルク! あまり、はしゃぎ過ぎるな! 井戸の周りは、まだ、ぬかるんでるんだぞ!」
ハンスさんの、まだ少し掠れてはいるが、村の鍛冶屋としての威厳を取り戻した、力強い怒鳴り声。
聖樹の「免疫暴走(サイトカインストーム)」が止まったことで、森全体の生命力(マナ)を無差別に吸い上げる、あの異常な「枯渇」が、止まったのだ。
そして何より、地下水脈を通じた『ブライト』の汚染が、聖樹(フィルター)によって一時的に中和されたことで、麓の村の井戸水が、再び「飲める水」に戻っていた。
私が施したアトロピン(解毒剤)による荒療治と、汚染源の(一時的な)停止。
その二つが噛み合い、ハンスさんたち重症患者も、奇跡的に、危険な状態を脱していた。
窓から見える私のハーブ園も、これ以上、枯死が広がる様子はない。
すべてが、解決したかのように、見えた。
完璧な、私のスローライフが、戻ってきたかのように。
だが、私とギルバートの表情は、晴れなかった。
二人の視線は、アトリエの穏やかな空気とは裏腹に、実験台の中央に、重々しく鎮座する、一つの「物体」に、縫い付けられていた。
ギルバートの『中和結界』によって厳重に封印された、ガラスケース。
その中で、あの『ブライト』のサンプルが、まるで、すべてを嘲笑うかのように、黒々と、不気味な沈黙を守っていた。
「……ソフィア薬師。ハンスさんたちの容態は、安定した。マルクの話では、畑のジャガイモの『枯死』も、止まったそうだ」
ギルバートが、その黒い呪いから目を離さずに、言った。
「だが、これは、リリア様の『翻訳』という、奇跡的な『偶然』が、一時的にもたらした『時間稼ぎ』に過ぎない」
(時間稼ぎ。ええ、まさに、その通りよ)
私は、自分の実験ノートに書き殴った、昨日の観測結果(データ)の、最後の行を、指でなぞった。
『警告:汚染源(コード:Unknown)の、微量な外部からの流入(Inflow)を、継続して検知』
「ええ、分かっているわ」
私の声は、窓の外の歓声とは裏腹に、冬の泉のように、冷たく、静かだった。
「聖樹の『症状』は抑えた。だが、病原体(ブライト)そのものは、今も、この森の地下水脈に、外部から、注ぎ込まれ続けている。……私たちが、あの樹に投与した『薬液(キレート剤)』も、聖樹の『浄化能力』も、いずれ、その流入量に、負けるわ」
「聖樹(フィルター)が、いつまで、持ちこたえられるか……」
ギルバートが、苦々しげに呟く。
彼は魔術師だ。この森の魔力の「源泉」が、今、外部からの毒によって、ゆっくりと、しかし確実に「汚染」され続けているという事実を、肌で感じ取っている。それは、彼自身の魔術の「根源」が、脅かされていることと同義だった。
「そして、ヴォルフラム・フォン・シュタイン伯爵。あの鉄血の錬金術師が、この森を『実験場』として、観測している」
私は、付け加えた。
(あの男は、すべてを知っていた。私たちが、こうして、一時的に、症状を抑え込むことすら、計算の内だったのかもしれない)
私たちが手に入れたのは、「平穏」ではない。
ただ、時限爆弾のタイマーが、少しだけ、ゆっくりと進むようになった、というだけの、束の間の「猶予」だった。
この、暖炉の火が燃える、温かく、安全なアトリエそのものが、巨大な爆弾の上に建てられているのだ。
その、私たちの重い空気を察したのか、ベッドの上で、体を起こしたリリアが、不安げに私たちを見上げていた。
「あの……。私、何か、お手伝いできることは……」
彼女は、もう、王都で泣いていた「お飾り」ではなかった。
自らの意志で、ここまでたどり着き、自らの力で、聖樹の「翻訳」という大役を果たした。
彼女の瞳には、初めて、誰かに「依存」するのではなく、自ら「役割」を求める、意志の光が宿っていた。
「いいえ」と私は首を振った。
「あなたは、まだ休んでいて。その傷と、体力を、万全に回復させなさい。……あなたには、まだ、やってもらわなければならない『仕事』があるのだから」
(そう。私の『科学(キレート剤)』が、聖樹に届くためには、あなたの『聖性(翻訳機)』が、不可欠なのよ)
私の冷徹な分析(アセスメント)が、彼女を、瀕死の患者から、このアトリエの、かけがえのない「戦略的リソース」へと、再定義していた。
私の言葉に、リリアは、驚いたように目を見開いた。
彼女が、誰かから「仕事(役割)」を期待されるのは、聖女の力を失って以来、初めてのことだったのかもしれない。彼女は、何かを言いたそうにしたが、やがて、こくり、と小さく頷き、再び、薬湯へと口をつけた。
私は、ギルバートに向き直った。
「ギルバート。アトリエでの分析(これ)だけでは、埒が明かないわ。敵(ヴォルフラム)は、私たちの『外』にいる。……情報が、必要よ」
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