10 / 10
第十章 王都での「勘違い」新生活
しおりを挟む
一 目覚めれば「いつもの」場所
深い眠りの底から意識がゆっくりと浮上したとき、私の鼻腔を優しくくすぐったのは、聞き慣れた清冽なハーブの香りと、天日に干したばかりのリネンの清潔な匂いだった。
まぶたの裏側に感じる光は、柔らかく、それでいてどこか黄金色に澄んでいる。私は心地よい重みを湛えた羽毛布団の中で、一度だけ大きく寝返りを打った。
「(……んんっ、よく寝たわ。昨日は確か、長時間の馬車移動で少し疲れていたはずなのに、朝の目覚めが驚くほどスッキリしている……)」
私はゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、アルカディアの別荘で毎朝見上げていたのと同じ、温かみのある淡いクリーム色の天井だった。使い込まれた風合いを再現した天井の梁、その角に施された控えめな細工。それらすべてが、昨日まで過ごしていた「あの部屋」と寸分違わずそこに存在していた。
私は不思議に思いながら、シーツの海から這い出した。
足の指先を包むのは、毛足の長い柔らかな絨毯。その触感さえも、私の足が完璧に記憶している感触だ。ベッドの横に置かれたサイドテーブル、その上に置かれた魔導ランプの形、さらにはカーテンの裾に施された繊細な刺繍のパターンに至るまで、一ミリの狂いもなくそこにあった。
「(……あら? 私、昨日は馬車に揺られて、確か王都に向かっていたはずよね? まさか、あの長旅はすべて夢で、私はまだアルカディアにいるのかしら?)」
一瞬、時空の歪みに迷い込んだのではないかという、非現実的な不安が脳裏をよぎる。
だが、窓の外から聞こえてくる音が違った。
アルカディアでは絶えず聞こえていた、原生林の奥深くから響く猛獣の遠吠えや、湖を渡る荒々しい風の音ではない。聞こえてくるのは、よく訓練された小鳥たちの計算されたような歌声と、遠くの方で微かに響く、王都特有の活気を含んだ地響きのような喧騒だ。
私は戸惑いながらも、窓辺に歩み寄り、重厚なカーテンを左右に引き開けた。
「(……えっ!?)」
窓の外に広がっていたのは、鏡のように静かな湖……を模した、美しく整えられた広大な人工池と、アルカディアの原生林からそのまま切り取ってきたかのような巨木たちが、整然と、それでいて自然な風を装って立ち並ぶ箱庭のような庭園だった。
そしてその原生林のレプリカの向こう側、空の境界線には、ソルヴェリア王国の権威の象徴である巨大な時計塔の尖塔が、朝日を浴びて誇らしげに輝いているのが見えた。
間違いなく、ここは王都だ。
以前、私が絶望と共になけなしの貯金を抱えて逃げ出した、あの冷たい石造りの大都会。
それなのに、私の背後に広がる室内は、どこまでもアルカディアの「ホワイトな職場」そのものだった。
「(……ああ、なるほど! そういうことだったのね! さすがは王宮、福利厚生の概念が日本の一流企業並みに進んでいるんだわ!)」
私は窓に手をついたまま、一人で納得して、ポンと手を打った。
前世の社畜時代、私は聞いたことがある。大手企業の社員寮や、世界展開しているビジネスホテルチェーンは、従業員や宿泊客がどの拠点に行っても混乱せず、同じパフォーマンスを発揮できるように、内装や備品の配置を全世界共通で統一しているという話を。
「(きっとソルヴェリア王宮の福利厚生も、管理人が場所の変化でストレスを感じないように、各地の公用宿舎や離宮のデザインを標準規格として統一しているに違いないわ。……すごい、王宮の標準化。場所が変わっても、一歩部屋に入ればそこは自分のホームだなんて、なんて有能な組織なのかしら!)」
私は感動に震えた。
昨日の馬車が、一見して豪華でありながら「公用車」としての実用性を備えていた理由もこれで説明がつく。組織の歯車として使い潰される騎士様たちへの、せめてもの償いとしての「住環境の統一」。ブラックな組織の中にも、こうした現場への配慮が残っていることに、私は妙な安心感を抱いた。
「(あ、でも、感心している場合じゃないわ! 管理人としての初仕事が待っているんだもの!)」
私は鏡の前へと駆け寄った。
蜂蜜色の髪を、丁寧に、それでいて素早くブラッシングして整える。
以前、ロッテ伯爵家で「壁の花」として扱われていた頃は、髪に艶を出す余裕もなかったけれど、今の私は違う。レオンハルト様が贈ってくれた最高級の香油と、アルカディアの清らかな水によって、私の髪は今や陽光を反射して輝くシルクのようになっている。
私は、母の形見である真っ白なエプロンの紐を、背中でぎゅっと締めた。
管理人としての戦闘服。これを身につけると、私の心の中に「今日もお仕事を完璧にこなすわよ!」という強い意志が芽生えるのだ。
仕上げに、レオンハルト様が「管理人の給料の前払い」として贈ってくれた、サファイアをあしらった白銀の髪飾りを丁寧に着ける。
鏡の中に映るのは、もはや怯えるだけの令嬢ではない。
愛する騎士様を、生活という面から全力で支え、養い抜くための覚悟を固めた、有能な「管理人」の姿だった。
「よし、準備完了! 騎士様、今朝もお腹を空かせて待っていらっしゃるかしら」
私は部屋を出て、長い廊下へと足を踏み入れた。
廊下の床の軋み具合までが、アルカディアの別荘と同じ場所で鳴ることに驚きながらも、私は階段を下りた。
一階のダイニングへと向かう途中、ふと、この屋敷の広さに違和感を覚える。アルカディアの別荘よりも、明らかに天井が高く、空間に余裕があるような気がしたけれど、それは私の気のせいだとすぐに結論づけた。
きっと、王都の建物は耐震構造がしっかりしているから、柱の配置が少し違うだけだわ!
ダイニングへ入ると、そこには既にギルバートさんが完璧な姿勢で控えていた。
彼は私に気づくと、一分の隙もない見事な所作で深く一礼した。
「おはようございます、エリーゼ様。王都での最初の朝、目覚めはいかがでしょうか。寝床の具合に不備はございませんでしたか?」
「おはようございます、ギルバートさん。……驚きましたわ! ここ、アルカディアの別荘とそっくりなんですもの。まるで魔法で家ごと移動してきたみたい。これならホームシックになる暇もありませんね」
私が無邪気に答えると、ギルバートさんの怜悧な瞳が、一瞬だけ複雑な色を帯びたように見えた。
「……左様でございますか。殿下……いえ、レオンハルト様が、エリーゼ様が不安を感じぬよう、細部まで『お掃除』と『配置の徹底』を厳命されましたから。……お気に召したようで、私共も安堵いたしました」
ギルバートさんの言葉を聞いて、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「(……やっぱり! レオンハルト様、私のために上層部へ無理を言って掛け合ってくださったのね! 貧乏騎士様なのに、自分の数少ない特権をフル活用して、私のメンタルケアまで気にかけてくださるなんて。……ああ、なんて推せる上司、そして尊い騎士様なのかしら!)」
私は、その「配置の徹底」の正体が、数千人の魔導師と工匠が不眠不休で王宮の離宮を丸ごと作り替えるという、国家予算を湯水のように使った狂気的なリフォーム工事であったことなど露ほども知らず、ただ愛する騎士様の細やかな心遣いに感謝していた。
「ギルバートさん。騎士様はもう、朝食の準備を待っていらっしゃいますか?」
「はい、テラスにて魔導書の確認をされております。エリーゼ様のお顔を見るのを、今か今かとお待ちのご様子です」
「分かりましたわ! すぐに準備に取り掛かります。今日の王都での初仕事、気合を入れて頑張りますわ!」
私は元気よくキッチンへと駆け込んでいった。
背後で、ギルバートさんが「……やれやれ、殿下の嘘が、これほどまでに完璧に受理されるとは」と、誰にも聞こえない声で呟き、天を仰いでいたことにも気づかずに。
これから始まる王都での新生活。
私は、自分が救い出した「騎士A」という名の虚像を守り抜くため、そして彼がブラックな騎士団でこれ以上すり減らないように、この「王都別館」を世界で一番ホワイトな聖域にしてみせると、心に強く誓うのであった。
二 王宮の福利厚生は過剰ぎみ?
キッチンへ足を踏み入れた私は、思わずその場に立ち尽くし、パチパチと瞬きを繰り返してしまった。
視界に飛び込んできた光景は、配置こそアルカディアの別荘と全く同じだったが、細部を見れば見るほど、そこにある「質」の違いが私の理解を超えていたのである。
「(……えっ? ちょっと待って。これ、私の見間違いじゃないわよね?)」
私は恐る恐る、いつも使っていたはずの木製のまな板に指先で触れてみた。
アルカディアのものは上質なオーク材だったはずだが、今私の目の前にあるそれは、伝説の聖樹として名高い『世界樹の枝分け』から削り出されたような、神々しいまでの銀色の光沢を放っている。包丁を当てれば、食材の鮮度を落とすどころか、切るだけで魔力を付与してしまいそうなほどの威圧感だ。
さらに、スパイスラックに並ぶ小瓶を一つ手に取ってみれば、中に入っているのはただの岩塩ではない。遥か東方の秘境でしか採取できないとされる『龍の涙の結晶塩』だ。一粒で平民の一ヶ月分の生活費が飛ぶような代物が、まるで百円ショップの調味料のような気軽さで、ずらりと並んでいる。
「(……王宮の『標準規格』って、一体どうなっているの? 末端の騎士様が使う宿舎の備品が、どうしてこんなに高性能(オーバースペック)なのよ。……ああ、そうか。きっと王宮本庁に近い場所だから、流通コストがかからない分、備品のグレードが上がっているのね。地方支社よりも本社の方がオフィス環境が良いのと同じ理屈だわ!)」
私は自分の中で最もらしい社畜的解釈を導き出し、納得の溜息をついた。
たとえまな板が聖樹でできていようと、塩が龍の涙であろうと、管理人としての私のやるべきことは変わらない。私は手際よく、アルカディアから持参した特製の『万能スープの素』を鍋に入れ、用意されていた最高級の根菜を切り始めた。トントン、トントンと、聖樹のまな板が奏でる小気味よい音が、静かなキッチンに心地よく響き渡る。
ふと視線を感じて顔を上げると、キッチンの入り口付近には、数人の男女が音もなく直立不動でこちらを見つめていた。
ある者はメイド服を着こなし、ある者は下働きの男性としての装いをしているが、その立ち姿はあまりにも隙がなく、どこか鋼の剣を思わせるような鋭利な気配を漂わせている。
彼らこそ、レオンハルト様が率いる王弟直属の極秘諜報・殲滅部隊『黒の牙』の精鋭たちだ。普段は影の中で国家の敵を音もなく排除する冷酷な工作員たちが、今は主君の厳命により、エプロンを締めてジャガイモの皮を剥くための「福利厚生スタッフ」という、人生最大の難解な任務に挑んでいるのである。
「あ、皆さん。おはようございます! 改めて自己紹介させていただきますね。私は管理人のエリーゼです。今日からここで騎士様の生活全般のサポートをさせていただきますので、至らない点もあるかと思いますが、どうぞよろしくお願いしますね」
私が満面の笑みで挨拶をすると、最前線で数々の修羅場を潜り抜けてきたはずの「下働き」の男性たちが、一斉にビクッと肩を揺らし、まるで雷に打たれたような顔をして硬直した。
彼らの視点からすれば、自分たちが絶対的な忠誠を誓う「影の王」が、この世の何よりも重く愛し、そして過剰なまでの守護魔法で包み込んでいる『最重要守護対象』から、直接微笑みかけられたのだ。その衝撃は、敵国の暗殺部隊に囲まれるよりも遥かに彼らの心臓に悪かった。
「はっ! よ、よろしくお願いします、エリーゼ様! 我ら一同、エリーゼ様のお掃除や調理の邪魔は、万が一にも……いえ、億が一にもいたしません! 何かご入用の際は、瞬き一つで駆けつけますゆえ!」
「まあ、皆さんなんて意識が高いのかしら。王都のスタッフさんは、規律が本当に素晴らしいですね。アルカディアの皆さんも優秀でしたけれど、本庁直轄となると、やはり心構えが違うんだわ」
私は彼らの極度に緊張した様子を「都会のプロフェッショナルな接客態度」だと解釈し、感心しながらオーブンから焼きたてのクッキーを取り出した。
香ばしいバターと蜂蜜の香りが、ピンと張り詰めていたキッチンの空気をふわりと解かしていく。
「そうだわ。お近づきの印に、皆さんでどうぞ。レオンハルト様のために焼いたものの余りですけれど、味には自信がありますのよ」
私がクッキーの載った皿を差し出すと、工作員たちは、まるで伝説の聖遺物を授かったかのような震える手で、そのお菓子を捧げ持った。
「殿下がお召し上がりになる聖なる供物の……余り……!?」「これを口にするなど、我らのような影の住人には贅沢すぎるのでは……」という困惑と、エリーゼから放たれる圧倒的な慈愛のオーラに、彼らの冷え切った心は瞬く間に浄化されていく。
「……う、美味い……。なんだ、この温かさは……」
「……これまで血の匂いしか知らなかった我らの魂が、洗われていくようだ……」
クッキーを一口かじった工作員たちが、感涙に咽びながら揃ってその場に膝を突いた。彼らにとって、それは単なるお菓子ではなかった。殺戮と任務に明け暮れる日々の中で初めて触れた、無償の優しさと「平和」そのものの味だったのだ。
そこへ、軽い足音と共に、レオンハルト様が姿を現した。
いつものように眼鏡をかけ、どこか影のある知的な雰囲気を漂わせているが、その足取りは心なしか浮き立っているように見える。彼はキッチンに入るなり、跪いているスタッフたちを一瞥して僅かに眉を寄せたが、私と目が合った瞬間に、その深紅の瞳は春の陽だまりのように和らいだ。
「……おはよう、エリーゼ。朝からスタッフたちを『教育』してくれていたのか?」
「レオンハルト様! おはようございます。教育だなんてとんでもない。皆さんがあまりにも立派なご挨拶をしてくださるので、少しおやつをお分けしていただけですよ。……でも、騎士様。王都の騎士団って、本当に規律が厳しいのね。皆さん、なんだか命懸けで働いているような気迫を感じますわ」
私は彼の手を取り、自然な動作でダイニングの椅子へと促した。
レオンハルト様は私の掌の温もりを噛み締めるように、そっと指先を絡めてくる。その左手の薬指には、私が贈った手作りのリングが誇らしげに光っていた。
「……そうか。彼らが君の役に立っているのならいい。……だがエリーゼ、あまり他の男に優しくしすぎるな。……いや、これは独り言だ」
「もう、レオンハルト様ったら。焼きもちですか? 可愛いんだから! 私は管理人のリーダーとして、チームの士気を高めるのも仕事のうちなんです。……それより、騎士様。王都での最初のお仕事、緊張していらっしゃいませんか? 今日は体力勝負になると思って、特製の肉厚ベーコンをたっぷり添えておきましたわ」
私は彼の前に、出来立ての朝食プレートを並べた。
レオンハルト様は、まるで子供のように純粋な喜びを瞳に浮かべ、フォークを手に取った。
(……やっぱり。この人は、王都に戻ればまた理不尽な上司や山のような残業にさらされるのが分かっているから、少し元気がないのかもしれない。私がここで、最高の『ホワイト環境』を維持してあげなければ、騎士様が壊れてしまうわ!)
私は彼の食事風景を、献身的な母性と少しばかりの「推しへの熱量」が入り混じった瞳で見守った。
背後では、クッキーを食べ終えた工作員たちが、「我らの命に代えても、この聖域を死守するぞ……」「ああ、殿下が羨ましい、これほどまでの慈愛を独占されているとは……」と、無言のまま決死の形相で頷き合っていた。
私の無自覚な浄化の魔力は、キッチンを満たす美味しい匂いと共に屋敷全体に広がり、王都のど真ん中にあるはずの離宮を、物理的にも精神的にも完全に外部の悪意から隔絶された「究極のホワイト職場」へと変貌させていた。
「美味しいか、騎士様?」
「……ああ。……この味が、この場所がある限り、俺はどんな偽りの世界であっても、真実として守り抜くことができる」
レオンハルト様の言葉に、私は「まあ、大袈裟なことおっしゃって!」とはにかみながら、彼のコーヒーを淹れ直した。
王宮の「福利厚生」が、実は彼の一途で重すぎる愛そのものであること。
そして、目の前のスタッフたちが、実は一国を滅ぼせるほどの武力を持った死神の集団であること。
そんな真実など、この温かな湯気の向こう側にある必要はない。
能天気な管理人の私は、今日という一日が騎士様にとって少しでも楽なものになるよう、ただそれだけを願いながら、朝の光が差し込むキッチンを幸せそうに眺めるのであった。
三 騎士様の「残業」と管理人の決意
朝食を終えた後、レオンハルト様は「少しばかり、本庁へ顔を出してくる」と言い残し、名残惜しそうに私の元を離れていった。
彼の背中を見送りながら、私は重い溜息をつく。
漆黒の外套を翻し、凛とした歩みで去っていくその姿は、一見すれば完璧な騎士そのものだ。けれど、私の目には、その広い肩に王国の理不尽な期待と、山のような未処理の書類が重くのしかかっているように見えて仕方がない。
「(……ああ。やっぱり、王都に戻った瞬間にこれだわ。朝食後すぐに本庁へ呼び出しなんて、どれだけブラックな勤務体制なのかしら。騎士様、きっと今頃、窓一つない殺風景な詰所で、山のような書類や嫌味な上官に囲まれて苦労しているに違いないわ)」
私は、彼が実際には「国王を黙らせるため」に、絶対的な権威を振るいながら王宮の中央通路を闊歩し、並み居る近衛兵たちが道を開けて平伏していることなど微塵も想像していなかった。私の脳内では、常に「過労死寸前の推し」が、無慈悲な組織に立ち向かっているという悲劇的な物語が絶賛上映中なのだ。
私はキッチンに残されたカップを片付けながら、エプロンの紐をもう一度強く締め直した。
「よし、管理人として、騎士様がいつ戻ってきてもいいように、この『別館』を完璧なホワイト空間に保たなきゃ!」
私が掃除道具を手に取り、まずはエントランスホールから取り掛かろうとしたとき、影の中から音もなくギルバートさんが姿を現した。
「エリーゼ様。清掃でしたら、私共スタッフにお任せください。貴女様は、どうかテラスで茶でも飲みながら、午後の陽光を楽しまれてはいかがでしょうか」
「いいえ、ギルバートさん。管理人のお仕事は、単に『綺麗にする』だけじゃないんです。騎士様が戻ってきたときに、心からホッとできる『空気』を作ること。それが管理人のプライドなんですもの」
私は掃除用のモップをまるで伝説の槍のように掲げ、意気揚々と作業を開始した。
屋敷内は既にギルバートさんたちの手によって、塵一つ落ちていないほど完璧に磨き上げられていた。けれど、私の「お掃除」は単なる物理的な清掃ではないのだ。
「(まずは、この廊下から。騎士様が疲れて戻ってきたときに、足取りが軽くなるように……)」
私が鼻歌を歌いながら床を滑らせると、無意識に放たれる高純度の浄化魔法が、屋敷全体の空気から淀みや悪意を根こそぎ消し去っていく。
私が通った後の空間には、目に見えない黄金色の粒子の輝きが満ち、まるで冬の朝のような凛とした清涼感と、春の陽だまりのような温もりが同時に訪れる。
それは、王都のど真ん中にありながら、森の奥深くの聖域をも凌ぐほどに清浄な「ホワイト環境」の構築だった。
「わんっ!」
足元では、真っ白な毛玉のようなポチが、私の動きに合わせて楽しそうに跳ね回っている。
かつてアルカディアの森で、傭兵たちを一瞬で塵に変えた伝説の魔獣フェンリルとしての牙は完全に隠され、今の彼はただの元気な「管理人の助手」だった。ポチもまた、この「浄化された空間」を心から気に入っているようで、私の足元に擦り寄っては、満足げに喉を鳴らしている。
「ポチ、お利口ね。騎士様が戻られたら、二人で盛大にお出迎えしましょうね。お疲れの心を、私たちの全力の『おかえりなさい』で溶かしてあげるのよ」
私はポチの頭を優しく撫でながら、ふと、窓の外に視線を向けた。
改装された庭園の向こう側に、王宮の中央部と思われる豪華な尖塔がそびえ立っているのが見える。
あそこが、レオンハルト様の「職場」なのだ。
(……あんなに大きくて、権威主義の塊のような冷たそうな場所で、たった一人で戦っている騎士様。きっと、心ない貴族たちから『背景』のように扱われて、名前さえ覚えられず、理不尽な残業や無理難題を押し付けられているのね。……ああ、許せないわ!)
私の脳内では、かつて前世のブラック企業で、無能な上司の代わりに深夜まで独り残って仕事をしていた自分と、レオンハルト様の姿が完全に重なっていた。
だからこそ、今の私にできることは明白だ。
彼がどれだけ外で傷つき、汚れて戻ってきたとしても、この場所だけは、彼を絶対に否定しない、世界で一番甘くてホワイトな楽園でなければならない。
私は掃除の手を休めず、次にキッチンのパントリーへと向かった。
「よし、お掃除の次は、栄養満点のランチとおやつの準備ね! 騎士様が職場のストレスで胃を痛めていたとしても、スルスルと食べられるような、優しくて美味しいものを作らなきゃ!」
パントリーの棚には、王宮の「過剰な福利厚生」によって揃えられた、一国を買い取れるほどの価値がある最高級の食材が整然と並んでいる。
だが、今の私の目には、それらは単なる「新鮮で使い勝手の良い、本社から直送された備品」にしか見えていない。
私は、自分が管理しているこの場所が、実は王国の権力の象徴である離宮の一部であり、スタッフ全員が「レオンハルト様がいつ敵を抹殺するよう命じてもいいように」待機している死神の軍団であることにも気づかないまま、意気揚々とエプロンの袖を捲り上げた。
「(見ていなさい、王都のブラック上司たち! 私の大切な推しをこれ以上いじめるなら、私が美味しいご飯の魔力で、騎士様をここから一歩も出さないようにしてあげるんだから!)」
能天気な管理人の決意は、今日も斜め上の方向へと加速していく。
キッチンの窓から差し込む午後の光が、私のサファイアの髪飾りを青く輝かせていた。
私は、レオンハルト様のために、世界で一番ホワイトなランチの献立を考えながら、鼻歌と共に木べらを手に取るのであった。
四 聖域はどこまでもホワイトに
王都の空が、燃えるような茜色から深い群青へと溶け落ちようとしていたその頃。
華やかな大通りの賑わいから隔絶された王宮の中央部、権威と権謀術数が渦巻く玉座の間では、張り詰めた静寂が重苦しく部屋を支配していた。
高い天井には歴代の王たちの武勲を描いた壮大なフレスコ画が広がり、磨き上げられた黒大理石の床には、夕刻の光を反射して不気味な影が伸びている。
玉座に深く腰掛け、王冠の重みに耐えかねたような表情で溜息をついたのは、ソルヴェリア王国の現国王、ジークフリートであった。彼は目の前に立つ弟、レオンハルトの峻烈な覇気に気圧され、僅かに眉を寄せた。
「……レオンよ。貴公の『徹底ぶり』には、兄として、いや一国の主として恐怖を禁じ得ん。自分の離宮を勝手に地方の別荘のデザインに丸ごと作り替えるとは。しかも、数千人の魔法師と工匠を不眠不休で働かせ、一週間で完成させただと? 予算の無駄遣いにも程があるぞ」
国王の苦言に対し、レオンハルトは氷のような冷徹な瞳を微塵も動かさなかった。
眼鏡の奥で不気味に輝く深紅の瞳は、まるで路傍の石ころでも見るかのように兄を見つめている。彼の周囲に渦巻く魔力は、触れるものすべてを物理的に押し潰さんとするほどの威圧感を放っていた。
「兄上。これは無駄遣いではありません。……正当な『聖域の保護』です。エリーゼという至高の光を、この王宮という名のドブ川に沈めぬための。……彼女が、あの別荘での日々をどれほど愛し、管理人としての誇りを持っていたか、貴方には理解できまい」
「理解したくもないわ。……貴公、あのような令嬢を離宮に囲い込み、自分を『貧乏な騎士A』だと思い込ませたまま、一体いつまでその滑稽なごっこ遊びを続けるつもりだ? 王都の社交界では、ロッテ伯爵家を一晩で消し飛ばした英雄騎士の正体について、すでに噂が広まり始めているぞ」
ジークフリートの言葉に、レオンハルトの口角が僅かに上がった。それは微笑みというにはあまりにも残酷で、獲物を追い詰めた捕食者のような嘲笑であった。
「噂など、いくらでも塗り替えればいい。真実を知る者がいれば、その喉元を沈黙という名の鎖で縛り上げるだけのこと。……彼女が、俺を『養ってあげなければならない不器用な騎士様』だと思って、あの温かな慈愛で俺を見守ってくれている……。その一点のために、俺はこの国そのものを欺き、必要とあれば王宮を丸ごとハリボテにすることさえ厭わない」
その言葉に含まれた異常なまでの独占欲と、狂気的な執着。
レオンハルトにとって、エリーゼが自分に向けてくれる「勘違い」こそが、自分の魂を「人間」として繋ぎ止めている唯一の絆なのだ。もし彼女が自分の正体を知り、その慈愛の瞳を畏怖のそれに変えてしまったら……その瞬間、彼はこの国を丸ごと破壊することさえ躊躇わないだろう。
「……勝手にするがいい。だが、彼女に真実を告げるとき、その反動で心底嫌われないよう祈っておくことだな。女の怒りは、魔王の呪いよりも恐ろしいぞ」
国王の忠告を背中で聞き流し、レオンハルトは一言も返さずに玉座の間を後にした。
彼にとって、王都での政務や王族としての義務など、エリーゼの待つ「ホワイトな我が家」へ帰るための些末な障害に過ぎない。重厚な扉を抜ける際、彼は指先にはめられた粗末な紐編みのリングをそっと愛おしげになぞった。
王宮の中央通路を抜ける彼の姿は、畏怖される「氷の王弟」そのものであった。
立ち並ぶ近衛兵たちは、彼が通り過ぎるたびに、見えない巨人に押し潰されたかのように直立不動で深い敬礼を捧げる。その誰もが、彼の冷徹な気配に魂を震わせ、視線を合わせることさえできなかった。
だが、離宮へと続く専用の渡り廊下を進むにつれ、レオンハルトの身体を包んでいた凍てつくような殺気が、少しずつ霧散していった。
彼は立ち止まり、一度深く呼吸をする。
そして、自分の顔に、穏やかで少しばかり頼りなげな「背景の騎士」としての微笑みを、完璧な演技力で張り付けた。
離宮の「別館」――すなわち、アルカディアの別荘を寸分の狂いもなく再現したその邸宅に辿り着いた瞬間、彼を包んだのは、王宮のどこにも存在しない「本物の温もり」だった。
扉が開くと同時に、蜂蜜色の髪を揺らしたエリーゼが、エプロンの裾を翻しながら、満面の笑みで玄関ホールへと駆け寄ってくるのが見えた。
「レオンハルト様! おかえりなさい! 随分と遅かったですね、やっぱり初日から『残業』ですか? 本当に、王宮の騎士団という組織は、救いようのないブラック組織ですわ!」
エリーゼはそう言って、プンプンと頬を膨らませながらレオンハルトの手を取った。
その小さな手の温もりが、彼の冷え切った指先に伝わった瞬間、レオンハルトの胸の奥に溜まっていた毒素のような澱みが、春の雪解けのように一瞬で溶け去った。
「……エリーゼ。ただいま。……ああ、少しばかり、本庁の上役たちが頑固でな。……報告書の不備や、些末な『害虫』の処理に手間取ってしまったよ」
レオンハルトは、国王との対峙や貴族たちの粛清という凄惨な出来事を、「些末な仕事」と言い換えて微笑んだ。
エリーゼは彼の言葉をそのまま受け取り、深く、深く同情したように彼の大きな手を両手で包み込んだ。
「もう、可哀想に……。騎士様、手が少し冷たいわ。きっと、あの広いだけで暖房も満足にない冷え切った詰所で、独りぼっちで書類と戦っていらしたのね。……見ていなさい、いつか私がその無能な上官たちに、労働環境の改善を直接訴えてやりますからね!」
彼女の突き抜けた勘違いと、一点の曇りもない慈愛。
レオンハルトは、その彼女の熱量に打たれ、至福に満ちた表情で彼女を優しく抱きしめた。
「……ああ、エリーゼ。君がそう言って、ここで待っていてくれるだけで、俺はどんな過酷な任務でもこなせるよ。……この場所は、本当に素晴らしい。王都にいることを忘れさせてくれるほどに」
「ふふっ、でしょう? 私、騎士様がお仕事に行っていらっしゃる間、屋敷中をくまなくお掃除しておきましたの。スタッフの皆さんも本当に優秀で、私が指示を出す前に何でもこなしてくださるんです。……あ、ポチも、パトロールの真似事をして頑張っていたんですよ」
「わんっ!」
足元では、伝説の魔獣としての殺気を完全に隠し、ただの「白い毛玉」になりきったポチが、満足げに尻尾を振っていた。
レオンハルトはポチを見下ろし、「よくやった、エキストラの役割を完璧に果たしているな」という無言の称賛を瞳の端に込めた。
「さあ、レオンハルト様! 今日は騎士様のために、とっておきのお肉料理を用意しましたわ。アルカディアから持ってきたハーブをたっぷり使って、じっくり煮込んだシチューです。……温かいうちに召し上がってくださいね」
エリーゼに手を引かれ、ダイニングルームへと向かう「最強の騎士様」。
そこには、王宮の権威を誇示するような金銀の装飾も、虚飾に満ちた豪華な調度品もない。あるのは、エリーゼが心を込めて磨き上げた温かな木のテーブルと、彼女の手作り料理から立ち上る、幸せな湯気だけだ。
レオンハルトは、自分のために用意された席に腰掛け、差し出されたスプーンを手に取った。
一口運べば、野菜の甘みと肉の旨みが口いっぱいに広がり、冷え切っていた彼の身体を芯から温めていく。
それは、どんな宮廷料理よりも贅沢で、どんな魔導薬よりも即効性のある、彼にとっての唯一の救い。
「(……ああ。……これだ。この瞬間がある限り、俺はこの嘘を、この『アルカディアの箱庭』を、何があっても守り抜いてみせる)」
レオンハルトは眼鏡を外し、湯気の向こうで幸せそうに笑うエリーゼの顔を見つめた。
彼女が自分のために働き、自分のために心を痛め、自分のために笑ってくれる日常。
その光を守るためなら、彼は世界そのものを欺き、王都を丸ごと彼女の好みに染め上げ、永遠にその聖域を維持し続けるだろう。
物語の舞台が王都に移っても、二人の間に流れる「勘違い」と「溺愛」の調べは、より一層深く、甘美に響き合っていた。
能天気な管理人は、今日も愛する騎士様の不遇を嘆きながら、最高にホワイトな献身を捧げ。
影の支配者は、その彼女の純粋な愛を独占するために、神をも欺く壮大な舞台劇を演じ続ける。
王都の夜空には、美しい銀色の月が昇っていた。
王宮の離宮――その一部を完全に隔離して造られた「王都のアルカディア」だけは、外部の悪意や喧騒を一滴も通さず、どこまでも白く、暖かな光に包まれて時を刻んでいた。
「レオンハルト様、デザートにはとっておきの、昨日焼いた蜂蜜のクッキーもありますわよ」
「……ありがとう、エリーゼ。……俺は、本当に世界で一番幸せな騎士だよ」
二人の穏やかな笑い声が、夜の静寂の中に溶けていく。
こうして、王都での「勘違い新生活」の第一夜は、誰にも邪魔されることのない完璧な平穏の中で、静かに更けていくのであった。
深い眠りの底から意識がゆっくりと浮上したとき、私の鼻腔を優しくくすぐったのは、聞き慣れた清冽なハーブの香りと、天日に干したばかりのリネンの清潔な匂いだった。
まぶたの裏側に感じる光は、柔らかく、それでいてどこか黄金色に澄んでいる。私は心地よい重みを湛えた羽毛布団の中で、一度だけ大きく寝返りを打った。
「(……んんっ、よく寝たわ。昨日は確か、長時間の馬車移動で少し疲れていたはずなのに、朝の目覚めが驚くほどスッキリしている……)」
私はゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、アルカディアの別荘で毎朝見上げていたのと同じ、温かみのある淡いクリーム色の天井だった。使い込まれた風合いを再現した天井の梁、その角に施された控えめな細工。それらすべてが、昨日まで過ごしていた「あの部屋」と寸分違わずそこに存在していた。
私は不思議に思いながら、シーツの海から這い出した。
足の指先を包むのは、毛足の長い柔らかな絨毯。その触感さえも、私の足が完璧に記憶している感触だ。ベッドの横に置かれたサイドテーブル、その上に置かれた魔導ランプの形、さらにはカーテンの裾に施された繊細な刺繍のパターンに至るまで、一ミリの狂いもなくそこにあった。
「(……あら? 私、昨日は馬車に揺られて、確か王都に向かっていたはずよね? まさか、あの長旅はすべて夢で、私はまだアルカディアにいるのかしら?)」
一瞬、時空の歪みに迷い込んだのではないかという、非現実的な不安が脳裏をよぎる。
だが、窓の外から聞こえてくる音が違った。
アルカディアでは絶えず聞こえていた、原生林の奥深くから響く猛獣の遠吠えや、湖を渡る荒々しい風の音ではない。聞こえてくるのは、よく訓練された小鳥たちの計算されたような歌声と、遠くの方で微かに響く、王都特有の活気を含んだ地響きのような喧騒だ。
私は戸惑いながらも、窓辺に歩み寄り、重厚なカーテンを左右に引き開けた。
「(……えっ!?)」
窓の外に広がっていたのは、鏡のように静かな湖……を模した、美しく整えられた広大な人工池と、アルカディアの原生林からそのまま切り取ってきたかのような巨木たちが、整然と、それでいて自然な風を装って立ち並ぶ箱庭のような庭園だった。
そしてその原生林のレプリカの向こう側、空の境界線には、ソルヴェリア王国の権威の象徴である巨大な時計塔の尖塔が、朝日を浴びて誇らしげに輝いているのが見えた。
間違いなく、ここは王都だ。
以前、私が絶望と共になけなしの貯金を抱えて逃げ出した、あの冷たい石造りの大都会。
それなのに、私の背後に広がる室内は、どこまでもアルカディアの「ホワイトな職場」そのものだった。
「(……ああ、なるほど! そういうことだったのね! さすがは王宮、福利厚生の概念が日本の一流企業並みに進んでいるんだわ!)」
私は窓に手をついたまま、一人で納得して、ポンと手を打った。
前世の社畜時代、私は聞いたことがある。大手企業の社員寮や、世界展開しているビジネスホテルチェーンは、従業員や宿泊客がどの拠点に行っても混乱せず、同じパフォーマンスを発揮できるように、内装や備品の配置を全世界共通で統一しているという話を。
「(きっとソルヴェリア王宮の福利厚生も、管理人が場所の変化でストレスを感じないように、各地の公用宿舎や離宮のデザインを標準規格として統一しているに違いないわ。……すごい、王宮の標準化。場所が変わっても、一歩部屋に入ればそこは自分のホームだなんて、なんて有能な組織なのかしら!)」
私は感動に震えた。
昨日の馬車が、一見して豪華でありながら「公用車」としての実用性を備えていた理由もこれで説明がつく。組織の歯車として使い潰される騎士様たちへの、せめてもの償いとしての「住環境の統一」。ブラックな組織の中にも、こうした現場への配慮が残っていることに、私は妙な安心感を抱いた。
「(あ、でも、感心している場合じゃないわ! 管理人としての初仕事が待っているんだもの!)」
私は鏡の前へと駆け寄った。
蜂蜜色の髪を、丁寧に、それでいて素早くブラッシングして整える。
以前、ロッテ伯爵家で「壁の花」として扱われていた頃は、髪に艶を出す余裕もなかったけれど、今の私は違う。レオンハルト様が贈ってくれた最高級の香油と、アルカディアの清らかな水によって、私の髪は今や陽光を反射して輝くシルクのようになっている。
私は、母の形見である真っ白なエプロンの紐を、背中でぎゅっと締めた。
管理人としての戦闘服。これを身につけると、私の心の中に「今日もお仕事を完璧にこなすわよ!」という強い意志が芽生えるのだ。
仕上げに、レオンハルト様が「管理人の給料の前払い」として贈ってくれた、サファイアをあしらった白銀の髪飾りを丁寧に着ける。
鏡の中に映るのは、もはや怯えるだけの令嬢ではない。
愛する騎士様を、生活という面から全力で支え、養い抜くための覚悟を固めた、有能な「管理人」の姿だった。
「よし、準備完了! 騎士様、今朝もお腹を空かせて待っていらっしゃるかしら」
私は部屋を出て、長い廊下へと足を踏み入れた。
廊下の床の軋み具合までが、アルカディアの別荘と同じ場所で鳴ることに驚きながらも、私は階段を下りた。
一階のダイニングへと向かう途中、ふと、この屋敷の広さに違和感を覚える。アルカディアの別荘よりも、明らかに天井が高く、空間に余裕があるような気がしたけれど、それは私の気のせいだとすぐに結論づけた。
きっと、王都の建物は耐震構造がしっかりしているから、柱の配置が少し違うだけだわ!
ダイニングへ入ると、そこには既にギルバートさんが完璧な姿勢で控えていた。
彼は私に気づくと、一分の隙もない見事な所作で深く一礼した。
「おはようございます、エリーゼ様。王都での最初の朝、目覚めはいかがでしょうか。寝床の具合に不備はございませんでしたか?」
「おはようございます、ギルバートさん。……驚きましたわ! ここ、アルカディアの別荘とそっくりなんですもの。まるで魔法で家ごと移動してきたみたい。これならホームシックになる暇もありませんね」
私が無邪気に答えると、ギルバートさんの怜悧な瞳が、一瞬だけ複雑な色を帯びたように見えた。
「……左様でございますか。殿下……いえ、レオンハルト様が、エリーゼ様が不安を感じぬよう、細部まで『お掃除』と『配置の徹底』を厳命されましたから。……お気に召したようで、私共も安堵いたしました」
ギルバートさんの言葉を聞いて、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「(……やっぱり! レオンハルト様、私のために上層部へ無理を言って掛け合ってくださったのね! 貧乏騎士様なのに、自分の数少ない特権をフル活用して、私のメンタルケアまで気にかけてくださるなんて。……ああ、なんて推せる上司、そして尊い騎士様なのかしら!)」
私は、その「配置の徹底」の正体が、数千人の魔導師と工匠が不眠不休で王宮の離宮を丸ごと作り替えるという、国家予算を湯水のように使った狂気的なリフォーム工事であったことなど露ほども知らず、ただ愛する騎士様の細やかな心遣いに感謝していた。
「ギルバートさん。騎士様はもう、朝食の準備を待っていらっしゃいますか?」
「はい、テラスにて魔導書の確認をされております。エリーゼ様のお顔を見るのを、今か今かとお待ちのご様子です」
「分かりましたわ! すぐに準備に取り掛かります。今日の王都での初仕事、気合を入れて頑張りますわ!」
私は元気よくキッチンへと駆け込んでいった。
背後で、ギルバートさんが「……やれやれ、殿下の嘘が、これほどまでに完璧に受理されるとは」と、誰にも聞こえない声で呟き、天を仰いでいたことにも気づかずに。
これから始まる王都での新生活。
私は、自分が救い出した「騎士A」という名の虚像を守り抜くため、そして彼がブラックな騎士団でこれ以上すり減らないように、この「王都別館」を世界で一番ホワイトな聖域にしてみせると、心に強く誓うのであった。
二 王宮の福利厚生は過剰ぎみ?
キッチンへ足を踏み入れた私は、思わずその場に立ち尽くし、パチパチと瞬きを繰り返してしまった。
視界に飛び込んできた光景は、配置こそアルカディアの別荘と全く同じだったが、細部を見れば見るほど、そこにある「質」の違いが私の理解を超えていたのである。
「(……えっ? ちょっと待って。これ、私の見間違いじゃないわよね?)」
私は恐る恐る、いつも使っていたはずの木製のまな板に指先で触れてみた。
アルカディアのものは上質なオーク材だったはずだが、今私の目の前にあるそれは、伝説の聖樹として名高い『世界樹の枝分け』から削り出されたような、神々しいまでの銀色の光沢を放っている。包丁を当てれば、食材の鮮度を落とすどころか、切るだけで魔力を付与してしまいそうなほどの威圧感だ。
さらに、スパイスラックに並ぶ小瓶を一つ手に取ってみれば、中に入っているのはただの岩塩ではない。遥か東方の秘境でしか採取できないとされる『龍の涙の結晶塩』だ。一粒で平民の一ヶ月分の生活費が飛ぶような代物が、まるで百円ショップの調味料のような気軽さで、ずらりと並んでいる。
「(……王宮の『標準規格』って、一体どうなっているの? 末端の騎士様が使う宿舎の備品が、どうしてこんなに高性能(オーバースペック)なのよ。……ああ、そうか。きっと王宮本庁に近い場所だから、流通コストがかからない分、備品のグレードが上がっているのね。地方支社よりも本社の方がオフィス環境が良いのと同じ理屈だわ!)」
私は自分の中で最もらしい社畜的解釈を導き出し、納得の溜息をついた。
たとえまな板が聖樹でできていようと、塩が龍の涙であろうと、管理人としての私のやるべきことは変わらない。私は手際よく、アルカディアから持参した特製の『万能スープの素』を鍋に入れ、用意されていた最高級の根菜を切り始めた。トントン、トントンと、聖樹のまな板が奏でる小気味よい音が、静かなキッチンに心地よく響き渡る。
ふと視線を感じて顔を上げると、キッチンの入り口付近には、数人の男女が音もなく直立不動でこちらを見つめていた。
ある者はメイド服を着こなし、ある者は下働きの男性としての装いをしているが、その立ち姿はあまりにも隙がなく、どこか鋼の剣を思わせるような鋭利な気配を漂わせている。
彼らこそ、レオンハルト様が率いる王弟直属の極秘諜報・殲滅部隊『黒の牙』の精鋭たちだ。普段は影の中で国家の敵を音もなく排除する冷酷な工作員たちが、今は主君の厳命により、エプロンを締めてジャガイモの皮を剥くための「福利厚生スタッフ」という、人生最大の難解な任務に挑んでいるのである。
「あ、皆さん。おはようございます! 改めて自己紹介させていただきますね。私は管理人のエリーゼです。今日からここで騎士様の生活全般のサポートをさせていただきますので、至らない点もあるかと思いますが、どうぞよろしくお願いしますね」
私が満面の笑みで挨拶をすると、最前線で数々の修羅場を潜り抜けてきたはずの「下働き」の男性たちが、一斉にビクッと肩を揺らし、まるで雷に打たれたような顔をして硬直した。
彼らの視点からすれば、自分たちが絶対的な忠誠を誓う「影の王」が、この世の何よりも重く愛し、そして過剰なまでの守護魔法で包み込んでいる『最重要守護対象』から、直接微笑みかけられたのだ。その衝撃は、敵国の暗殺部隊に囲まれるよりも遥かに彼らの心臓に悪かった。
「はっ! よ、よろしくお願いします、エリーゼ様! 我ら一同、エリーゼ様のお掃除や調理の邪魔は、万が一にも……いえ、億が一にもいたしません! 何かご入用の際は、瞬き一つで駆けつけますゆえ!」
「まあ、皆さんなんて意識が高いのかしら。王都のスタッフさんは、規律が本当に素晴らしいですね。アルカディアの皆さんも優秀でしたけれど、本庁直轄となると、やはり心構えが違うんだわ」
私は彼らの極度に緊張した様子を「都会のプロフェッショナルな接客態度」だと解釈し、感心しながらオーブンから焼きたてのクッキーを取り出した。
香ばしいバターと蜂蜜の香りが、ピンと張り詰めていたキッチンの空気をふわりと解かしていく。
「そうだわ。お近づきの印に、皆さんでどうぞ。レオンハルト様のために焼いたものの余りですけれど、味には自信がありますのよ」
私がクッキーの載った皿を差し出すと、工作員たちは、まるで伝説の聖遺物を授かったかのような震える手で、そのお菓子を捧げ持った。
「殿下がお召し上がりになる聖なる供物の……余り……!?」「これを口にするなど、我らのような影の住人には贅沢すぎるのでは……」という困惑と、エリーゼから放たれる圧倒的な慈愛のオーラに、彼らの冷え切った心は瞬く間に浄化されていく。
「……う、美味い……。なんだ、この温かさは……」
「……これまで血の匂いしか知らなかった我らの魂が、洗われていくようだ……」
クッキーを一口かじった工作員たちが、感涙に咽びながら揃ってその場に膝を突いた。彼らにとって、それは単なるお菓子ではなかった。殺戮と任務に明け暮れる日々の中で初めて触れた、無償の優しさと「平和」そのものの味だったのだ。
そこへ、軽い足音と共に、レオンハルト様が姿を現した。
いつものように眼鏡をかけ、どこか影のある知的な雰囲気を漂わせているが、その足取りは心なしか浮き立っているように見える。彼はキッチンに入るなり、跪いているスタッフたちを一瞥して僅かに眉を寄せたが、私と目が合った瞬間に、その深紅の瞳は春の陽だまりのように和らいだ。
「……おはよう、エリーゼ。朝からスタッフたちを『教育』してくれていたのか?」
「レオンハルト様! おはようございます。教育だなんてとんでもない。皆さんがあまりにも立派なご挨拶をしてくださるので、少しおやつをお分けしていただけですよ。……でも、騎士様。王都の騎士団って、本当に規律が厳しいのね。皆さん、なんだか命懸けで働いているような気迫を感じますわ」
私は彼の手を取り、自然な動作でダイニングの椅子へと促した。
レオンハルト様は私の掌の温もりを噛み締めるように、そっと指先を絡めてくる。その左手の薬指には、私が贈った手作りのリングが誇らしげに光っていた。
「……そうか。彼らが君の役に立っているのならいい。……だがエリーゼ、あまり他の男に優しくしすぎるな。……いや、これは独り言だ」
「もう、レオンハルト様ったら。焼きもちですか? 可愛いんだから! 私は管理人のリーダーとして、チームの士気を高めるのも仕事のうちなんです。……それより、騎士様。王都での最初のお仕事、緊張していらっしゃいませんか? 今日は体力勝負になると思って、特製の肉厚ベーコンをたっぷり添えておきましたわ」
私は彼の前に、出来立ての朝食プレートを並べた。
レオンハルト様は、まるで子供のように純粋な喜びを瞳に浮かべ、フォークを手に取った。
(……やっぱり。この人は、王都に戻ればまた理不尽な上司や山のような残業にさらされるのが分かっているから、少し元気がないのかもしれない。私がここで、最高の『ホワイト環境』を維持してあげなければ、騎士様が壊れてしまうわ!)
私は彼の食事風景を、献身的な母性と少しばかりの「推しへの熱量」が入り混じった瞳で見守った。
背後では、クッキーを食べ終えた工作員たちが、「我らの命に代えても、この聖域を死守するぞ……」「ああ、殿下が羨ましい、これほどまでの慈愛を独占されているとは……」と、無言のまま決死の形相で頷き合っていた。
私の無自覚な浄化の魔力は、キッチンを満たす美味しい匂いと共に屋敷全体に広がり、王都のど真ん中にあるはずの離宮を、物理的にも精神的にも完全に外部の悪意から隔絶された「究極のホワイト職場」へと変貌させていた。
「美味しいか、騎士様?」
「……ああ。……この味が、この場所がある限り、俺はどんな偽りの世界であっても、真実として守り抜くことができる」
レオンハルト様の言葉に、私は「まあ、大袈裟なことおっしゃって!」とはにかみながら、彼のコーヒーを淹れ直した。
王宮の「福利厚生」が、実は彼の一途で重すぎる愛そのものであること。
そして、目の前のスタッフたちが、実は一国を滅ぼせるほどの武力を持った死神の集団であること。
そんな真実など、この温かな湯気の向こう側にある必要はない。
能天気な管理人の私は、今日という一日が騎士様にとって少しでも楽なものになるよう、ただそれだけを願いながら、朝の光が差し込むキッチンを幸せそうに眺めるのであった。
三 騎士様の「残業」と管理人の決意
朝食を終えた後、レオンハルト様は「少しばかり、本庁へ顔を出してくる」と言い残し、名残惜しそうに私の元を離れていった。
彼の背中を見送りながら、私は重い溜息をつく。
漆黒の外套を翻し、凛とした歩みで去っていくその姿は、一見すれば完璧な騎士そのものだ。けれど、私の目には、その広い肩に王国の理不尽な期待と、山のような未処理の書類が重くのしかかっているように見えて仕方がない。
「(……ああ。やっぱり、王都に戻った瞬間にこれだわ。朝食後すぐに本庁へ呼び出しなんて、どれだけブラックな勤務体制なのかしら。騎士様、きっと今頃、窓一つない殺風景な詰所で、山のような書類や嫌味な上官に囲まれて苦労しているに違いないわ)」
私は、彼が実際には「国王を黙らせるため」に、絶対的な権威を振るいながら王宮の中央通路を闊歩し、並み居る近衛兵たちが道を開けて平伏していることなど微塵も想像していなかった。私の脳内では、常に「過労死寸前の推し」が、無慈悲な組織に立ち向かっているという悲劇的な物語が絶賛上映中なのだ。
私はキッチンに残されたカップを片付けながら、エプロンの紐をもう一度強く締め直した。
「よし、管理人として、騎士様がいつ戻ってきてもいいように、この『別館』を完璧なホワイト空間に保たなきゃ!」
私が掃除道具を手に取り、まずはエントランスホールから取り掛かろうとしたとき、影の中から音もなくギルバートさんが姿を現した。
「エリーゼ様。清掃でしたら、私共スタッフにお任せください。貴女様は、どうかテラスで茶でも飲みながら、午後の陽光を楽しまれてはいかがでしょうか」
「いいえ、ギルバートさん。管理人のお仕事は、単に『綺麗にする』だけじゃないんです。騎士様が戻ってきたときに、心からホッとできる『空気』を作ること。それが管理人のプライドなんですもの」
私は掃除用のモップをまるで伝説の槍のように掲げ、意気揚々と作業を開始した。
屋敷内は既にギルバートさんたちの手によって、塵一つ落ちていないほど完璧に磨き上げられていた。けれど、私の「お掃除」は単なる物理的な清掃ではないのだ。
「(まずは、この廊下から。騎士様が疲れて戻ってきたときに、足取りが軽くなるように……)」
私が鼻歌を歌いながら床を滑らせると、無意識に放たれる高純度の浄化魔法が、屋敷全体の空気から淀みや悪意を根こそぎ消し去っていく。
私が通った後の空間には、目に見えない黄金色の粒子の輝きが満ち、まるで冬の朝のような凛とした清涼感と、春の陽だまりのような温もりが同時に訪れる。
それは、王都のど真ん中にありながら、森の奥深くの聖域をも凌ぐほどに清浄な「ホワイト環境」の構築だった。
「わんっ!」
足元では、真っ白な毛玉のようなポチが、私の動きに合わせて楽しそうに跳ね回っている。
かつてアルカディアの森で、傭兵たちを一瞬で塵に変えた伝説の魔獣フェンリルとしての牙は完全に隠され、今の彼はただの元気な「管理人の助手」だった。ポチもまた、この「浄化された空間」を心から気に入っているようで、私の足元に擦り寄っては、満足げに喉を鳴らしている。
「ポチ、お利口ね。騎士様が戻られたら、二人で盛大にお出迎えしましょうね。お疲れの心を、私たちの全力の『おかえりなさい』で溶かしてあげるのよ」
私はポチの頭を優しく撫でながら、ふと、窓の外に視線を向けた。
改装された庭園の向こう側に、王宮の中央部と思われる豪華な尖塔がそびえ立っているのが見える。
あそこが、レオンハルト様の「職場」なのだ。
(……あんなに大きくて、権威主義の塊のような冷たそうな場所で、たった一人で戦っている騎士様。きっと、心ない貴族たちから『背景』のように扱われて、名前さえ覚えられず、理不尽な残業や無理難題を押し付けられているのね。……ああ、許せないわ!)
私の脳内では、かつて前世のブラック企業で、無能な上司の代わりに深夜まで独り残って仕事をしていた自分と、レオンハルト様の姿が完全に重なっていた。
だからこそ、今の私にできることは明白だ。
彼がどれだけ外で傷つき、汚れて戻ってきたとしても、この場所だけは、彼を絶対に否定しない、世界で一番甘くてホワイトな楽園でなければならない。
私は掃除の手を休めず、次にキッチンのパントリーへと向かった。
「よし、お掃除の次は、栄養満点のランチとおやつの準備ね! 騎士様が職場のストレスで胃を痛めていたとしても、スルスルと食べられるような、優しくて美味しいものを作らなきゃ!」
パントリーの棚には、王宮の「過剰な福利厚生」によって揃えられた、一国を買い取れるほどの価値がある最高級の食材が整然と並んでいる。
だが、今の私の目には、それらは単なる「新鮮で使い勝手の良い、本社から直送された備品」にしか見えていない。
私は、自分が管理しているこの場所が、実は王国の権力の象徴である離宮の一部であり、スタッフ全員が「レオンハルト様がいつ敵を抹殺するよう命じてもいいように」待機している死神の軍団であることにも気づかないまま、意気揚々とエプロンの袖を捲り上げた。
「(見ていなさい、王都のブラック上司たち! 私の大切な推しをこれ以上いじめるなら、私が美味しいご飯の魔力で、騎士様をここから一歩も出さないようにしてあげるんだから!)」
能天気な管理人の決意は、今日も斜め上の方向へと加速していく。
キッチンの窓から差し込む午後の光が、私のサファイアの髪飾りを青く輝かせていた。
私は、レオンハルト様のために、世界で一番ホワイトなランチの献立を考えながら、鼻歌と共に木べらを手に取るのであった。
四 聖域はどこまでもホワイトに
王都の空が、燃えるような茜色から深い群青へと溶け落ちようとしていたその頃。
華やかな大通りの賑わいから隔絶された王宮の中央部、権威と権謀術数が渦巻く玉座の間では、張り詰めた静寂が重苦しく部屋を支配していた。
高い天井には歴代の王たちの武勲を描いた壮大なフレスコ画が広がり、磨き上げられた黒大理石の床には、夕刻の光を反射して不気味な影が伸びている。
玉座に深く腰掛け、王冠の重みに耐えかねたような表情で溜息をついたのは、ソルヴェリア王国の現国王、ジークフリートであった。彼は目の前に立つ弟、レオンハルトの峻烈な覇気に気圧され、僅かに眉を寄せた。
「……レオンよ。貴公の『徹底ぶり』には、兄として、いや一国の主として恐怖を禁じ得ん。自分の離宮を勝手に地方の別荘のデザインに丸ごと作り替えるとは。しかも、数千人の魔法師と工匠を不眠不休で働かせ、一週間で完成させただと? 予算の無駄遣いにも程があるぞ」
国王の苦言に対し、レオンハルトは氷のような冷徹な瞳を微塵も動かさなかった。
眼鏡の奥で不気味に輝く深紅の瞳は、まるで路傍の石ころでも見るかのように兄を見つめている。彼の周囲に渦巻く魔力は、触れるものすべてを物理的に押し潰さんとするほどの威圧感を放っていた。
「兄上。これは無駄遣いではありません。……正当な『聖域の保護』です。エリーゼという至高の光を、この王宮という名のドブ川に沈めぬための。……彼女が、あの別荘での日々をどれほど愛し、管理人としての誇りを持っていたか、貴方には理解できまい」
「理解したくもないわ。……貴公、あのような令嬢を離宮に囲い込み、自分を『貧乏な騎士A』だと思い込ませたまま、一体いつまでその滑稽なごっこ遊びを続けるつもりだ? 王都の社交界では、ロッテ伯爵家を一晩で消し飛ばした英雄騎士の正体について、すでに噂が広まり始めているぞ」
ジークフリートの言葉に、レオンハルトの口角が僅かに上がった。それは微笑みというにはあまりにも残酷で、獲物を追い詰めた捕食者のような嘲笑であった。
「噂など、いくらでも塗り替えればいい。真実を知る者がいれば、その喉元を沈黙という名の鎖で縛り上げるだけのこと。……彼女が、俺を『養ってあげなければならない不器用な騎士様』だと思って、あの温かな慈愛で俺を見守ってくれている……。その一点のために、俺はこの国そのものを欺き、必要とあれば王宮を丸ごとハリボテにすることさえ厭わない」
その言葉に含まれた異常なまでの独占欲と、狂気的な執着。
レオンハルトにとって、エリーゼが自分に向けてくれる「勘違い」こそが、自分の魂を「人間」として繋ぎ止めている唯一の絆なのだ。もし彼女が自分の正体を知り、その慈愛の瞳を畏怖のそれに変えてしまったら……その瞬間、彼はこの国を丸ごと破壊することさえ躊躇わないだろう。
「……勝手にするがいい。だが、彼女に真実を告げるとき、その反動で心底嫌われないよう祈っておくことだな。女の怒りは、魔王の呪いよりも恐ろしいぞ」
国王の忠告を背中で聞き流し、レオンハルトは一言も返さずに玉座の間を後にした。
彼にとって、王都での政務や王族としての義務など、エリーゼの待つ「ホワイトな我が家」へ帰るための些末な障害に過ぎない。重厚な扉を抜ける際、彼は指先にはめられた粗末な紐編みのリングをそっと愛おしげになぞった。
王宮の中央通路を抜ける彼の姿は、畏怖される「氷の王弟」そのものであった。
立ち並ぶ近衛兵たちは、彼が通り過ぎるたびに、見えない巨人に押し潰されたかのように直立不動で深い敬礼を捧げる。その誰もが、彼の冷徹な気配に魂を震わせ、視線を合わせることさえできなかった。
だが、離宮へと続く専用の渡り廊下を進むにつれ、レオンハルトの身体を包んでいた凍てつくような殺気が、少しずつ霧散していった。
彼は立ち止まり、一度深く呼吸をする。
そして、自分の顔に、穏やかで少しばかり頼りなげな「背景の騎士」としての微笑みを、完璧な演技力で張り付けた。
離宮の「別館」――すなわち、アルカディアの別荘を寸分の狂いもなく再現したその邸宅に辿り着いた瞬間、彼を包んだのは、王宮のどこにも存在しない「本物の温もり」だった。
扉が開くと同時に、蜂蜜色の髪を揺らしたエリーゼが、エプロンの裾を翻しながら、満面の笑みで玄関ホールへと駆け寄ってくるのが見えた。
「レオンハルト様! おかえりなさい! 随分と遅かったですね、やっぱり初日から『残業』ですか? 本当に、王宮の騎士団という組織は、救いようのないブラック組織ですわ!」
エリーゼはそう言って、プンプンと頬を膨らませながらレオンハルトの手を取った。
その小さな手の温もりが、彼の冷え切った指先に伝わった瞬間、レオンハルトの胸の奥に溜まっていた毒素のような澱みが、春の雪解けのように一瞬で溶け去った。
「……エリーゼ。ただいま。……ああ、少しばかり、本庁の上役たちが頑固でな。……報告書の不備や、些末な『害虫』の処理に手間取ってしまったよ」
レオンハルトは、国王との対峙や貴族たちの粛清という凄惨な出来事を、「些末な仕事」と言い換えて微笑んだ。
エリーゼは彼の言葉をそのまま受け取り、深く、深く同情したように彼の大きな手を両手で包み込んだ。
「もう、可哀想に……。騎士様、手が少し冷たいわ。きっと、あの広いだけで暖房も満足にない冷え切った詰所で、独りぼっちで書類と戦っていらしたのね。……見ていなさい、いつか私がその無能な上官たちに、労働環境の改善を直接訴えてやりますからね!」
彼女の突き抜けた勘違いと、一点の曇りもない慈愛。
レオンハルトは、その彼女の熱量に打たれ、至福に満ちた表情で彼女を優しく抱きしめた。
「……ああ、エリーゼ。君がそう言って、ここで待っていてくれるだけで、俺はどんな過酷な任務でもこなせるよ。……この場所は、本当に素晴らしい。王都にいることを忘れさせてくれるほどに」
「ふふっ、でしょう? 私、騎士様がお仕事に行っていらっしゃる間、屋敷中をくまなくお掃除しておきましたの。スタッフの皆さんも本当に優秀で、私が指示を出す前に何でもこなしてくださるんです。……あ、ポチも、パトロールの真似事をして頑張っていたんですよ」
「わんっ!」
足元では、伝説の魔獣としての殺気を完全に隠し、ただの「白い毛玉」になりきったポチが、満足げに尻尾を振っていた。
レオンハルトはポチを見下ろし、「よくやった、エキストラの役割を完璧に果たしているな」という無言の称賛を瞳の端に込めた。
「さあ、レオンハルト様! 今日は騎士様のために、とっておきのお肉料理を用意しましたわ。アルカディアから持ってきたハーブをたっぷり使って、じっくり煮込んだシチューです。……温かいうちに召し上がってくださいね」
エリーゼに手を引かれ、ダイニングルームへと向かう「最強の騎士様」。
そこには、王宮の権威を誇示するような金銀の装飾も、虚飾に満ちた豪華な調度品もない。あるのは、エリーゼが心を込めて磨き上げた温かな木のテーブルと、彼女の手作り料理から立ち上る、幸せな湯気だけだ。
レオンハルトは、自分のために用意された席に腰掛け、差し出されたスプーンを手に取った。
一口運べば、野菜の甘みと肉の旨みが口いっぱいに広がり、冷え切っていた彼の身体を芯から温めていく。
それは、どんな宮廷料理よりも贅沢で、どんな魔導薬よりも即効性のある、彼にとっての唯一の救い。
「(……ああ。……これだ。この瞬間がある限り、俺はこの嘘を、この『アルカディアの箱庭』を、何があっても守り抜いてみせる)」
レオンハルトは眼鏡を外し、湯気の向こうで幸せそうに笑うエリーゼの顔を見つめた。
彼女が自分のために働き、自分のために心を痛め、自分のために笑ってくれる日常。
その光を守るためなら、彼は世界そのものを欺き、王都を丸ごと彼女の好みに染め上げ、永遠にその聖域を維持し続けるだろう。
物語の舞台が王都に移っても、二人の間に流れる「勘違い」と「溺愛」の調べは、より一層深く、甘美に響き合っていた。
能天気な管理人は、今日も愛する騎士様の不遇を嘆きながら、最高にホワイトな献身を捧げ。
影の支配者は、その彼女の純粋な愛を独占するために、神をも欺く壮大な舞台劇を演じ続ける。
王都の夜空には、美しい銀色の月が昇っていた。
王宮の離宮――その一部を完全に隔離して造られた「王都のアルカディア」だけは、外部の悪意や喧騒を一滴も通さず、どこまでも白く、暖かな光に包まれて時を刻んでいた。
「レオンハルト様、デザートにはとっておきの、昨日焼いた蜂蜜のクッキーもありますわよ」
「……ありがとう、エリーゼ。……俺は、本当に世界で一番幸せな騎士だよ」
二人の穏やかな笑い声が、夜の静寂の中に溶けていく。
こうして、王都での「勘違い新生活」の第一夜は、誰にも邪魔されることのない完璧な平穏の中で、静かに更けていくのであった。
45
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
婚約破棄して泥を投げつけた元婚約者が「無能」と笑う中、光り輝く幼なじみの王子に掠め取られました。
ムラサメ
恋愛
「お前のような無能、我が家には不要だ。今すぐ消えろ!」
婚約者・エドワードのために身を粉にして尽くしてきたフィオナは、卒業パーティーの夜、雨の中に放り出される。
泥にまみれ、絶望に沈む彼女の前に現れたのは、かつての幼なじみであり、今や国中から愛される「黄金の王子」シリルだった。
「やっと見つけた。……ねえ、フィオナ。あんなゴミに君を傷つけさせるなんて、僕の落ち度だね」
汚れを厭わずフィオナを抱き上げたシリルは、彼女を自分の屋敷へと連れ帰る。
「自分には価値がない」と思い込むフィオナを、シリルは異常なまでの執着と甘い言葉で、とろけるように溺愛し始めて――。
一方で、フィオナを捨てたエドワードは気づいていなかった。
自分の手柄だと思っていた仕事も、領地の繁栄も、すべてはフィオナの才能によるものだったということに。
ボロボロになっていく元婚約者。美しく着飾られ、シリルの腕の中で幸せに微笑むフィオナ。
「僕の星を捨てた報い、たっぷりと受けてもらうよ?」
圧倒的な光を放つ幼なじみによる、最高に華やかな逆転劇がいま始まる!
【完結】番としか子供が産まれない世界で
さくらもち
恋愛
番との間にしか子供が産まれない世界に産まれたニーナ。
何故か親から要らない子扱いされる不遇な子供時代に番と言う概念すら知らないまま育った。
そんなニーナが番に出会うまで
4話完結
出会えたところで話は終わってます。
分厚いメガネを外した令嬢は美人?
しゃーりん
恋愛
極度の近視で分厚いメガネをかけている子爵令嬢のミーシャは家族から嫌われている。
学園にも行かせてもらえず、居場所がないミーシャは教会と孤児院に通うようになる。
そこで知り合ったおじいさんと仲良くなって、話をするのが楽しみになっていた。
しかし、おじいさんが急に来なくなって心配していたところにミーシャの縁談話がきた。
会えないまま嫁いだ先にいたのは病に倒れたおじいさんで…介護要員としての縁談だった?
この結婚をきっかけに、将来やりたいことを考え始める。
一人で寂しかったミーシャに、いつの間にか大切な人ができていくお話です。
【完結】ジュリアはバツイチ人生を謳歌する
ariya
恋愛
エレン王国の名門貴族・アグリア伯爵家に嫁いだジュリア・アグリア(旧姓ベルティー)。
夫のアベル・アグリア伯爵は、騎士として王妃の護衛任務に没頭し、結婚翌日からほぼ別居状態。
社交界のパーティーでは妻のエスコートを代理人に任せ、父の葬儀にも顔を出さず、事務的な会話と手紙のやり取りだけの日々が続く。
ジュリアは8年間の冷遇に耐え抜いたが、ある朝の食事中、静かに切り出す。
「私たち、離婚しましょう」
アベルは絶句するが、ジュリアは淡々と不満を告げる。
どれも自分のしでかしたことにアベルは頭を抱える。
彼女はすでに離婚届と慰謝料の用意を済ませ、夫の仕事に理解を示さなかった「有責妻」として後腐れなく別れるつもりだった。
アベルは内心で反発しつつも、ジュリアの決意の固さに渋々サイン。
こうしてジュリア・アグリアは、伯爵夫人としての全てを置き去りにし、バツイチ人生を開始する。
置き去りにされた転生シンママはご落胤を秘かに育てるも、モトサヤはご容赦のほどを
青の雀
恋愛
シンママから玉の輿婚へ
学生時代から付き合っていた王太子のレオンハルト・バルセロナ殿下に、ある日突然、旅先で置き去りにされてしまう。
お忍び旅行で来ていたので、誰も二人の居場所を知らなく、両親のどちらかが亡くなった時にしか発動しないはずの「血の呪縛」魔法を使われた。
お腹には、殿下との子供を宿しているというのに、政略結婚をするため、バレンシア・セレナーデ公爵令嬢が邪魔になったという理由だけで、あっけなく捨てられてしまったのだ。
レオンハルトは当初、バレンシアを置き去りにする意図はなく、すぐに戻ってくるつもりでいた。
でも、王都に戻ったレオンハルトは、そのまま結婚式を挙げさせられることになる。
お相手は隣国の王女アレキサンドラ。
アレキサンドラとレオンハルトは、形式の上だけの夫婦となるが、レオンハルトには心の妻であるバレンシアがいるので、指1本アレキサンドラに触れることはない。
バレンシアガ置き去りにされて、2年が経った頃、白い結婚に不満をあらわにしたアレキサンドラは、ついに、バレンシアとその王子の存在に気付き、ご落胤である王子を手に入れようと画策するが、どれも失敗に終わってしまう。
バレンシアは、前世、京都の餅菓子屋の一人娘として、シンママをしながら子供を育てた経験があり、今世もパティシエとしての腕を生かし、パンに製菓を売り歩く行商になり、王子を育てていく。
せっかくなので、家庭でできる餅菓子レシピを載せることにしました
一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました
しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、
「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。
――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。
試験会場を間違え、隣の建物で行われていた
特級厨師試験に合格してしまったのだ。
気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの
“超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。
一方、学院首席で一級魔法使いとなった
ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに――
「なんで料理で一番になってるのよ!?
あの女、魔法より料理の方が強くない!?」
すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、
天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。
そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、
少しずつ距離を縮めていく。
魔法で国を守る最強魔術師。
料理で国を救う特級厨師。
――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、
ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。
すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚!
笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。
【完】出来損ない令嬢は、双子の娘を持つ公爵様と契約結婚する~いつの間にか公爵様と7歳のかわいい双子たちに、めいっぱい溺愛されていました~
夏芽空
恋愛
子爵令嬢のエレナは、常に優秀な妹と比較され家族からひどい扱いを受けてきた。
しかし彼女は7歳の双子の娘を持つ公爵――ジオルトと契約結婚したことで、最低な家族の元を離れることができた。
しかも、条件は最高。公の場で妻を演じる以外は自由に過ごしていい上に、さらには給料までも出してくてれるという。
夢のような生活を手に入れた――と、思ったのもつかの間。
いきなり事件が発生してしまう。
結婚したその翌日に、双子の姉が令嬢教育の教育係をやめさせてしまった。
しかもジオルトは仕事で出かけていて、帰ってくるのはなんと一週間後だ。
(こうなったら、私がなんとかするしかないわ!)
腹をくくったエレナは、おもいきった行動を起こす。
それがきっかけとなり、ちょっと癖のある美少女双子義娘と、彼女たちよりもさらに癖の強いジオルトとの距離が縮まっていくのだった――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる