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第九章 王宮からの招待状
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一 幸せな朝の違和感
アルカディアの別荘に、また新しく、そしてどこまでも清らかな朝が訪れた。
窓の外に広がる湖は、朝露をたっぷりと含んだ冷涼な空気の中で、鏡のように静まり返っている。その鏡面のような水面を、時折、早起きの水鳥が静かに滑り、銀色の波紋を幾重にも広げていく。原生林の奥からは、名前も知らない小鳥たちが、水晶の鈴を転がしたような澄んだ歌声を競い合っていた。
私は、まだ微かに眠りの余韻を残したまま、ふかふかの羽毛布団から這い出した。
足の指先を包むのは、毛足の長い柔らかな絨毯。窓から差し込む陽光は、微細な塵さえも宝石の欠片のように輝かせ、寝室全体を柔らかな乳白色の光で満たしている。
「(ふふっ、今日も最高の目覚めだわ。前世の社畜時代、朝の四時にけたたましいアラームで叩き起こされ、目の下にクマを作りながら、胃を痛めるような濃い栄養ドリンクを流し込んでいた日々が、今ではまるで遠い銀河の出来事のようね)」
私は鏡の前で、朝の光に蜂蜜色に輝く自分の髪を丁寧にブラッシングした。
以前は手入れをする余裕もなく、ただ纏めていただけの髪も、アルカディアの清冽な水と、レオンハルト様が用意してくれた最高級の香油のおかげで、指通りが驚くほど滑らかになっている。
仕上げに、母の形見である純白のエプロンの紐を背中でぎゅっと締めた。管理人としての戦闘服に身を包むと、背筋がしゃんと伸び、心に一つのスイッチが入る。
現在の私の最重要任務は、別荘の完璧な維持……もとい、最愛の推しであるレオンハルト様の心身のトータルサポートだ。
最近の彼は、私が心を込めて作った手料理を「魂の救いだ」と言って、一口ごとに大切に、噛みしめるように食べてくださる。その姿を見るだけで、管理人としてのやりがいは限界を突破し、私のモチベーションは成層圏まで跳ね上がってしまうのだ。
「よし、今日も一日、最強の管理人として騎士様を支え抜いてみせるわ!」
私は力強く拳を握り、意気揚々と一階のダイニングへと向かった。
階段を下りると、そこには既にギルバートさんたちが、一分の隙もない所作で朝食の準備を進めていた。
大理石の床は顔が映るほどに磨き上げられ、花瓶には朝摘みのバラが芳醇な香りを放っている。その完璧すぎる空間の中央で、白い毛玉――もとい、ポチが暖炉の前で「わん!」と短く鳴き、私に朝の挨拶をしてくれた。
「おはよう、ポチ。貴方も朝から元気ね。……あら、レオンハルト様」
テーブルに座っているレオンハルト様に声をかけようとして、私はふと足を止めた。
軽装の騎士服を纏い、いつものように超然とした美しさを湛えている彼だが、その手元には見慣れない漆黒の封筒が置かれていた。
漆黒の紙に、金糸で縁取られた豪華な意匠。そして何より、重厚な赤の封蝋には、ソルヴェリア王家の紋章である「双頭の龍」が鮮明に刻印されている。
それは、一介の近衛騎士が日常的に受け取るには、あまりにも格式が高すぎ、そして不吉なまでの威圧感を放っている代物だった。
「おはようございます、レオンハルト様。……あの、よく眠れましたか?」
「……おはよう、エリーゼ。君の顔を見ると、胸の奥に溜まっていた澱みが、朝霧のように消えていくようだ」
レオンハルト様はそう言って微笑んだが、その深紅の瞳には、いつもの穏やかな熱とは違う、鋭く冷たい影が僅かに混じっているのを私は見逃さなかった。
自称・有能な管理人の観察眼は、今日も絶好調に冴え渡っている。
「レオンハルト様、そのお手紙……。もしかして、また何か無理なパトロールの依頼かしら? 騎士団も本当に、人使いが荒いわね」
私の問いに、レオンハルト様は一瞬だけ言葉を濁し、漆黒の封筒を隠すように指先で触れた。
「……いや、これは……。兄から……いえ、上層部からの直接の呼び出しだ。少し、王都に戻らなければならない事態になってな」
「王都に!? ……ああ、やっぱり!」
私の脳内で、レオンハルト様の「上司」に対する激しい憤りが爆発した。
(せっかくこのアルカディアで、騎士様がパトロールという名の過酷な激務から少しだけ解放されて、のんびり過ごせていたというのに! 実家の伯爵家が消滅したとかいう不穏な噂を聞きつけて、さらに厄介な『お掃除』の仕事を押し付けようというのね。王宮という組織は、前世のブラック企業なんて可愛く見えるほどの、超弩級の暗黒組織なんだから!)
私はテーブルの上のカトラリーがカタカタと震えるほど、無意識に力んでしまった。
レオンハルト様のような真面目で不器用な騎士様が、これ以上王都のど真ん中で使い潰されるなんて、管理人として、そして彼のファンとして、断じて許せることではない。
「レオンハルト様、無理はなさらないでくださいね。もし、これ以上貴方に不当な重労働を強いるようなら、私が王宮に直接乗り込んで抗議してあげますわ! 『労働基準法を読み直してください!』って、門番の方にまくしたててやりますから!」
私の鼻息の荒い宣言に、レオンハルト様は一瞬だけ呆然と私を見つめたが、すぐに吹き出すようにして、愛おしげに目を細めた。
「……ふふ、ありがとう、エリーゼ。君がそう言ってくれるだけで、俺はこの世界を丸ごと作り替える勇気が湧いてくるよ。……だが、心配はいらない。今回は戦いではなく、一種の『出張』のようなものだ。王都の屋敷の管理状況を確認する必要があってな」
「出張……ですか。管理状況の確認、というのなら、確かに大切なお仕事ですね」
私は少しだけ冷静さを取り戻した。
(そうね。騎士様も組織の一員。上からの命令を完全に無視するわけにはいかないわ。それならせめて、その出張が少しでも快適なものになるように私がサポートしなきゃ。……あ、でも、騎士様が王都に戻られる間、私はこの別荘で一人でお留守番なのかしら。それはそれで、少しだけ……いえ、かなり寂しい気がするけれど)
私が少しだけ肩を落とそうとした、その時。
レオンハルト様が椅子から立ち上がり、私の手をごく自然に、けれど逃さないという意志を込めてそっと包み込んだ。
「エリーゼ。……君も、一緒に来てくれないか? 君のいない王都など、俺にとっては灰色の牢獄に等しい」
「私まで!? ……まあ、それはつまり、出張先での生活管理も任せてくださるということですね。承知いたしました! 管理人として、騎士様の健康と平穏を、敵地である王都のど真ん中でも全力で守り抜いてみせますわ!」
私は、自分がこれから向かう場所が「出張先」などではなく、レオンハルト様が王弟殿下として君臨する「本拠地」であることなど、微塵も疑っていなかった。
私の目には、王都への旅が「騎士様の労働環境を改善するための、決死の同行」として映っていたのだ。
「(よーし、そうと決まれば準備よ! 王都の空気はここより悪いだろうから、浄化作用のあるお茶をたっぷり用意して、あ、それから騎士様の寝床がブラック環境で冷え切っていないか、私のこの目でチェックしてあげなきゃ!)」
私は、レオンハルト様の大きな掌を握り返しながら、新たな「出張業務」への意気込みに胸を膨らませていた。
レオンハルト様は、私のそんな決意に満ちた、けれど方向性の激しくズレた瞳を、至福に満ちた表情で見つめていた。
「エリーゼ。君が隣にいてくれるなら、俺はどんな偽りの世界でも真実へと変えてみせる。……準備を始めようか。ギルバートたちには、既に最高の……『出張環境』を整えさせてある」
「はい! 管理人にお任せください! 騎士様を、一秒たりともストレスに晒させはしませんわ!」
朝陽に照らされたダイニングルームで、私は元気よく返事をした。
こうして、平穏なアルカディアでの生活に、王都への帰還という新たな旋律が加わった。
それはレオンハルト様にとっては「エリーゼを正式に自分の世界へ迎えるための、壮大な舞台装置」の幕開けであり。
私にとっては「ホワイトな職場を守るための、ブラック企業への殴り込み」の始まりだったのである。
足元で、ポチが「わん!」と、すべてを見通したような賢明な声で、私たちの門出を祝福してくれた。
私はポチを抱き上げ、新天地への期待に瞳をキラキラと輝かせながら、キッチンへと駆け戻っていった。これから数日分の、最高に栄養のある「出張用おやつ」を焼くために。
二 騎士様の憂鬱と壮大な箱庭計画
エリーゼの軽やかな足音がキッチンの奥へと消え、バタバタという忙しなくも愛らしい生活音が遠ざかっていく。
その瞬間、陽光が降り注いでいたダイニングの空気は一変した。
窓から差し込む光は変わらないはずなのに、そこに座る男が放つ冷徹な覇気によって、室内の温度は氷点下まで叩き落とされたかのような錯覚を呼び起こす。
レオンハルトは、テーブルに置かれた漆黒の封筒を、忌々しそうに細長い指先で弾いた。
王家の象徴である双頭の龍が刻印された赤色の封蝋が、朝の光を反射してどす黒く光っている。それは、ソルヴェリア王国の頂点に立つ現国王からの、逃れられぬ召喚状であった。
「……兄上も、余計な真似を。ようやくエリーゼがこの場所を自分の家として馴染み、心からの笑顔を見せるようになったというのに。それをわざわざ、悪意の吹き溜まりのような王都へ引きずり出そうというのか」
レオンハルトの呟きは、地響きのような重圧を伴って室内に響いた。
壁に飾られたアンティークの絵皿が、彼の無意識に漏れ出た魔力に当てられて微かに震え、ピキリ、と目に見えぬ亀裂が走る。
背後に控えていたギルバートは、その圧倒的な威圧感に一分の動揺も見せず、完璧な角度で深く一礼した。
「殿下、恐れながら申し上げます。陛下は、エリーゼ様が放つ無自覚な聖なる力を高く評価しておいでです。……ロッテ伯爵家の消滅という大粛清を経て、王都の社交界は今、殿下の強権に震え上がっております。そこでエリーゼ様を『王都の社交界を浄化する聖女』として正式に伴侶に迎え、秩序を再構築すべきだというのが陛下の思惑でございます」
「浄化、か。……ふん。エリーゼが王宮を歩けば、あの薄汚れた貴族どもの腹黒い欲望など、一瞬で消し飛ばされるだろうな。あいつの放つ光は、それほどまでに清らかで、尊い。……だが、俺はそれを『利用』させるつもりはない」
レオンハルトの深紅の瞳に、昏く、そして深い独占欲の炎が宿る。
彼にとって、エリーゼは国を安定させるための道具ではない。
自分の冷え切った魂を、あの日、王宮の壁際で拾い上げてくれた、唯一無二の救い主。
彼女が自分に向けてくれる「守ってあげたい不器用な騎士様」という、とんでもなく斜め上で、けれどこの上なく愛おしい勘違い。
それこそが、レオンハルトがこの世で最も守り抜きたいと願っている「聖域」そのものだった。
「エリーゼは今、俺を『貧乏でブラック組織に使い潰されている騎士A』だと信じ込んでいる。……あいつは、そんな俺を養うために、管理人として懸命に働き、俺のために美味しいスープを作り、俺が笑うだけで幸せそうにするんだ。……ギルバート、お前に分かるか? あの純粋な献身が、どれほど俺の飢えを癒やしてくれるか」
「……左様でございますな。殿下がエリーゼ様の前で見せる、あの少しばかり頼りなげな微笑み。……王宮の者が見れば、腰を抜かして卒倒することでしょう」
ギルバートの皮肉混じりの返答に、レオンハルトは否定することなく、自嘲気味に口角を上げた。
もし、自分の正体が王弟殿下であり、王国の裏側を支配する冷酷な実力者だと知られたらどうなるか。
エリーゼはきっと、自分を「養う」ことをやめてしまうだろう。
彼女の慈愛に満ちた瞳は、敬意と距離を孕んだ「臣下」のものへと変わってしまうかもしれない。
それはレオンハルトにとって、万軍に囲まれるよりも、心臓を直接握り潰されるよりも、耐え難い恐怖であった。
「だからこそ、俺はこの勘違いを守り通さねばならない。……王都へ戻るのは、兄上への義理を果たすためではない。エリーゼの安全を、物理的に、そして永遠に確定させるためだ。……そのためには、王都そのものを『作り替える』必要がある」
レオンハルトは立ち上がり、書斎の机の上に広げられた巨大な設計図を、鋭い視線で射抜いた。
そこには、王都の離宮の一部を大規模に改装するための、緻密な計画が記されている。
「改装状況はどうなっている」
「はっ。殿下の指示通り、離宮の東翼を、このアルカディア別荘と『一ミリの誤差もなく』再現させる工事を、魔法師団と選りすぐりの工匠たちに不眠不休で進めさせております。壁の傷、床の軋む場所、扉の重さ……そして、窓から見える景色のホログラムに至るまで、エリーゼ様が違和感を抱かぬよう、完璧な施工を徹底させております」
それは、王族の権力と財力を、たった一人の女性を欺くためだけに注ぎ込んだ、狂気とも呼べる壮大な箱庭計画だった。
「庭園には、アルカディアの原生林から数本の巨木を根こそぎ移植しろ。土壌の魔力密度も調整し、ここと同じ空気を維持させるんだ。湖の代わりとなる巨大な魔導池を造り、湖面を渡る風の温度と湿気も魔導具で再現させろ。……エリーゼが目覚めたとき、『少し広めの別荘の別館に引っ越した』と信じ込ませるほど、完璧にな」
「……御意。王都の離宮を、一地方の別荘のレプリカに仕立て上げるとは。陛下も呆れておいででしたが、殿下の執念には敵わぬと、予算の無制限投入を認められました」
ギルバートの言葉に、レオンハルトは冷たく鼻で笑った。
国家予算がどれほどつぎ込まれようと、エリーゼが朝、笑顔で自分を迎えてくれる日常に比べれば、端金に等しい。
「……それから。離宮に配置する衛兵とメイドは、すべて『黒の牙』の精鋭で固めろ。エリーゼの前では絶対に『殿下』と呼ぶな。……彼女に見せるのは、以前と変わらぬ『福利厚生のスタッフさん』としての顔だけだ。もし一言でも口を滑らせ、彼女に余計な真実を悟らせた者がいれば……」
レオンハルトの瞳が、血のような赤色を深めた。
言葉にする必要はなかった。その冷徹な殺気だけで、失敗の代償が何であるかは明白だった。
「承知しております。スタッフ一同、エリーゼ様の『ホワイトな勘違い生活』を守るため、命を懸けてエキストラを演じ切る所存です」
「……ふん、ポチ。お前も、そのつもりだろう?」
レオンハルトが足元を見下ろすと、そこにはいつの間にか、白い毛玉のような姿をしたポチが座っていた。
ポチは金色の瞳を細め、不敵な笑みを浮かべるように口元を歪めた。
「わん」と短く鳴いたその声には、伝説の魔獣としての威厳と、主人の狂気的な愛への完全なる肯定が込められている。
ポチにとっても、エリーゼに美味しいお肉を貰い、温かい暖炉の前でお腹を出して寝転ぶ日々は、何物にも代えがたい「神域」であった。それを邪魔する現実など、主と一緒に噛み殺してしまえばいい。ただそれだけのことだ。
レオンハルトは再び、漆黒の封筒を手に取った。
その指先には、先日、街へ出た際にエリーゼが「お揃いですね」とはにかみながら贈ってくれた、手作りの粗末な紐のリングがはめられている。
王家に伝わる国宝の宝石よりも、一国の領地よりも、彼にとっては重い重い宝物。
「(エリーゼ。……君を、あのドブ川のような王都へ連れて行くのは、俺の本意ではない。だが、君をいつまでもこの森に隠し続けておくこともできない。……ならば、俺が王都を、君に相応しい楽園へと作り替えてやろう)」
レオンハルトの胸の内に渦巻くのは、愛という言葉だけでは到底説明しきれない、歪で、けれどどこまでも一途な独占欲。
彼女を自分だけの世界に閉じ込め、彼女の視界に映るすべての不純物を「掃除」し、彼女の笑い声だけが響く箱庭。
「(君は何も知らなくていい。君を捨てた実家の末路も、君を狙う汚らわしい欲望も。……君はただ、この俺を『支えてあげなければならない不憫な騎士様』だと思って、その温かな慈愛で俺を養い続けてくれればいい。……それこそが、俺がこの世界に存在する唯一の価値なのだから)」
彼は深く息を吐き、魔導書を再び手に取った。
キッチンの向こうから、香ばしいパンが焼ける匂いと、エリーゼが野菜を切る軽快な音が再び聞こえてくる。
その日常の音色を聞きながら、レオンハルトは自らの顔に、穏やかで少しばかり頼りなげな「背景の騎士」としての微笑みを、完璧に張り付けた。
まもなく、王都へと向かう旅が始まる。
それはエリーゼにとっては「騎士様の仕事環境を改善するための、決死の出張同行」であり。
レオンハルトにとっては「自分の支配する全世界を、一人の愛する女性の好みに合わせてリフォームし、彼女を永遠に囲い込むための儀式」への旅立ちであった。
「……ギルバート。馬車の用意は、一見して公用の、しかし中身は最高級の安楽を約束するものにしろ。エリーゼが移動の疲れを感じるようなことがあれば、施工した魔術師全員の首が飛ぶと思え」
「はっ。既に衝撃吸収と室温調整、さらには精神安定の術式を幾重にも重ねた特注品が、玄関前に待機しております」
「……よし」
レオンハルトは満足げに頷いた。
窓の外、アルカディアの原生林を吹き抜ける風が、まもなく訪れるであろう「王都の激震」を予感させるように、一際強く木々を揺らした。
しかし、その風さえも、このダイニングに漂う甘い朝食の香りと、二人の間に流れる奇妙で幸福な静寂を乱すことはできなかった。
能天気な管理人のエリーゼが、満面の笑みで「焼き立てのクロワッサンができましたわよ!」と、再び姿を現すまでの、ほんの短い間の、影の支配者たちの密談。
それはソルヴェリア王国の歴史上、最も贅沢で、最も一方的で、そして最も「幸せな勘違い」に満ちた新生活の、第二幕への合図だったのである。
三 王都への「出張」準備
王都への「出張」が決まってからというもの、静かなアルカディアの別荘は、まるでお祭りの前日のような、あるいは大規模なプロジェクトのキックオフ当日のような、独特の活気に包まれていた。
もっとも、バタバタと忙しそうに、けれどどこか楽しげに走り回っているのは、管理人である私一人だけだ。ギルバートさんをはじめとする「福利厚生スタッフ」の皆さんは、相変わらず一分の隙もない動作で、まるで行軍の準備でもするかのような神速かつ静謐な手際で荷造りを進めていた。
「(さあ、管理人として、そして元社畜としての腕の見せ所よ! 出張先でのパフォーマンス維持は、何よりもまず徹底した健康管理から始まるんだから!)」
私はキッチンの巨大なオーク材のテーブルの上に、溢れんばかりの食材と保存容器を並べていた。
前世のブラック企業時代、無能な上司の急な出張に同行させられたときは、現地の不衛生な安宿や、深夜まで続く会議、そして合間に胃に流し込むだけの伸びきったカップ麺や不味い出前料理に、心身ともにボロボロにされたものだ。
だが、今の私はレオンハルト様の「管理人」だ。あんな悲惨な思いを、私の大切な推しにさせるわけにはいかない。
「よし。まずは、騎士団の詰所でもお湯を注ぐだけで再現できる『万能スープの素』を三種類。アルカディア産の完熟トマトと、先日じっくり乾燥させた特選キノコ、それから疲労回復に効く薬草ハーブをたっぷり練り込んで……」
私は魔導コンロの火力を微調整しながら、ソースパンの中のペーストを練り上げていく。香ばしく、それでいて滋味深い香りがキッチン全体に広がり、幸せな湯気が私の頬を温める。
これさえあれば、どれほど王都の騎士団詰所が寒々しく、食生活が荒んでいたとしても、レオンハルト様の胃袋だけはアルカディアのホワイトな温もりで守ることができるはずだ。
「……あ、それから、ストレス過多な会議の合間にさっと口にできる『高濃度蜂蜜漬けのクッキー』も焼いておかなくちゃ。脳の栄養補給は大事だものね」
私が鼻歌を歌いながら生地をこねていると、背後から聞き慣れた、心地よい低音が響いた。
「エリーゼ。……また、そうやって無理をしている。荷造りはギルバートたちに任せればいいと言っただろう」
振り返ると、そこには少しだけ困ったような、けれど目尻を下げて私を見つめるレオンハルト様が立っていた。
彼は上着を脱いだ軽装の騎士服姿で、その逞しい胸板や肩のラインが生地越しにもはっきりと分かる。王都に戻ればまた、この立派な身体がブラックな組織に使い潰されるのかと思うと、私の胸に熱い保護欲がこみ上げてきた。
「いけませんわ、レオンハルト様! 出張先での荷造りは、管理人の聖域です。王都に戻れば、スタッフの皆さんも別業務で忙しくなるでしょう? 騎士様が困らないように、私がしっかり生活基盤をパッキングしておかなければ、誰が貴方を支えるというのですか!」
「……エリーゼ。君は、本当に……」
レオンハルト様は深い溜息をついたが、それは呆れているというより、あまりの幸福に当てられて言葉を失っているようだった。
彼はゆっくりと歩み寄ると、小麦粉で少しだけ白くなった私の手を取り、自分の大きな掌でそっと包み込んだ。
彼の掌には、厳しい剣の訓練で刻まれた「剣ダコ」が硬く残っている。
指先の節々は太く、国を守るために数多の修羅場を潜り抜けてきた男の手。
私はその無骨な感触に触れるたび、胸の奥がキュッと締め付けられるような、愛おしさでいっぱいになる。
(……ああ、やっぱり。この人は、現場の最前線で泥を啜りながら戦ってきた、生粋の苦労人なのだわ。王都に戻れば、また嫌な上司や、手柄だけを横取りする無能な同僚たちが待ち構えているに違いない。私が、彼のたった一つの癒やし、唯一の『ホワイトな避難所』になってあげなきゃ!)
「レオンハルト様、お荷物はこのカバン一つでよろしいですか? 私が騎士様のシャツを一枚一枚、魂を込めてアイロンがけしておきましたから。襟元には、汚れがつきにくくなる魔法の粉……じゃなくて、特製の香油を少しだけ馴染ませてありますの」
「……ありがとう、エリーゼ。君が用意してくれたものなら、たとえ石ころであっても俺にとっては国宝以上の価値がある。……だが、王都の屋敷でもギルバートたちが控えている。あまり自分を追い詰めるな。君が疲れ果ててしまうことこそ、俺にとって最大の損失なんだ」
「損失だなんて! 私は、騎士様が王都で少しでも『アルカディアの風』を感じてくだされば、それで満足なんです。……あ、レオンハルト様、指。指を見せてください」
私が促すと、彼は不思議そうな顔をしながら右手を差し出した。
その指には、先日、私が「安物ですが、仕事の安全を願って」とはにかみながら贈った、手作りの紐編みのリングが、誇らしげに光っていた。
「……ふふっ、ちゃんと着けてくださっている。嬉しいです。王都で嫌なことがあったら、そのリングを見てくださいね。私が、ここで……いえ、貴方のすぐ側で応援していることを思い出していただくために」
「忘れるはずがない。……俺は、このリングを失うくらいなら、己の右腕を差し出す方がマシだと思っているよ」
「もう、極端なんだから! 右腕は大事にしてください。剣を振るうための大切な腕なんですからね」
私は笑って彼の言葉を受け流したが、レオンハルト様の瞳の奥に宿った、地響きのような、重厚で暗い執着の熱には気づかないままだった。
庭の方へ目を向けると、そこではポチが「王都遠征用」の特製カゴに入れられ、なんだか不満げに鼻を鳴らしていた。
「ポチ、そんな顔をしないで。お利口にしていなきゃだめよ。王都はここよりもずっと空気が悪くて、排気ガス……じゃなくて、馬の糞の匂いや人の悪意が渦巻いているんだから。王都に着いたら、私がしっかり部屋を浄化してあげるからね」
「わんっ!」
ポチが私の声に応えるように短く鳴くと、私の指先から、無意識に溢れ出した高純度の浄化魔法が、ポチの白い毛並みを一瞬だけ黄金色に輝かせた。
ポチは満足げに尻尾を振り、レオンハルト様を「どうだ、我の方が先に撫でられたぞ」というような、伝説の魔獣らしからぬマウントを取るような視線で見つめていた。
やがて、別荘の重厚な玄関前に、一台の馬車が静かに滑り込んできた。
それは、漆黒の塗装に繊細な金色の装飾が施された、重厚かつ気品に満ちた馬車だった。引いているのは、見事な毛並みを持つ四頭立ての白馬。一見して、王族や大貴族が使うような最高級の特注品だ。
だが、今の私の目には、それが「王宮の福利厚生で、出張者用に手配された、少し年季の入った公用車」にしか見えていなかった。
「(……まあ! 王宮も、たまには粋なことをするわね。いくら末端の騎士様とはいえ、わざわざアルカディアまで迎えの馬車を出すなんて。……きっと、レオンハルト様がこれまでのパトロールで、それだけ素晴らしい功績を上げてきたからに違いないわ!)」
私は、その豪華な馬車を「お役所仕事にしては頑張った方の備品」と解釈し、感心しながら荷物を運び入れた。
ギルバートさんが完璧な所作で馬車の扉を開き、私をエスコートしてくれる。
「エリーゼ様。長旅になりますが、車内は殿下……いえ、騎士様の指示により、最大限の快適さを保つよう調整されております。どうぞ、安心してお乗りください」
「ありがとうございます、ギルバートさん。皆さんも、今回の出張、よろしくお願いしますね」
私が元気よく挨拶をすると、並んでいたスタッフの皆さんが、一斉に、騎士団の敬礼よりも深く、忠誠心に満ちた礼を返してくれた。その気迫に少しだけ圧倒されたが、「ホワイトな職場は、挨拶も徹底されているのね!」とポジティブに変換しておく。
「……さあ、行こうか、エリーゼ。俺たちの、新たな戦場へ」
レオンハルト様が手を差し伸べてくれる。
私はその手を取り、豪華な馬車へと足を踏み入れた。
車内は、外見以上に驚くべき空間だった。
座席のクッションは、雲の上に座っているかのような柔らかさで、足元には魔導具による温度調整が完璧に施されている。揺れを一切感じさせない特殊な緩衝魔法が幾重にも重ねられており、テーブルの上には、冷たい果実水が一点の波紋も立てずに置かれていた。
「(……すごい。王宮の公用車、ハイテクすぎるわ……。前世の新幹線のグランクラスだって、ここまでの安定感はなかったはず。……レオンハルト様、やっぱり組織の中で、相当大事にこき使われているのね……)」
馬車がゆっくりと動き出す。
車窓の向こう、数日間過ごしたアルカディアの美しい原生林と、輝く湖面がゆっくりと後方へ流れ去っていく。
私は、自分がこれから向かう場所が「出張先」などではなく、自分を捨てた実家さえも平伏する、王国の権力の心臓部であることを知らない。
そして、隣に座る優しき騎士様が、自分のために王宮の離宮を丸ごと「アルカディアのレプリカ」に作り替え、世界を欺く壮大な舞台を用意していることにも。
「レオンハルト様。見てください、森が遠ざかっていきますわ。……でも、寂しくありません。貴方と一緒に、新しいお仕事を頑張れるんですもの」
私が窓の外を見つめながら微笑むと、レオンハルト様は私の肩を優しく抱き寄せ、その深く昏い瞳を、私の首筋に埋めるようにして囁いた。
「……ああ。君がいる場所こそが、俺の帰る場所だ。王都がどんなに泥濘んでいようとも、俺が君の足元を汚させることは決してない。……約束するよ、エリーゼ。君の平和な日常は、何者にも、そして王族という名の呪縛にさえも、奪わせはしない」
その言葉に含まれた、地響きのような執着の熱。
私はそれを「部下を守ろうとする、頼もしい上司の熱意」と、今日も今日とて全力で勘違いしながら、心地よい馬車の揺れに身を委ねるのであった。
馬車は、アルカディアの聖域を抜け、王都へと続く街道を滑るように進んでいく。
私は、鞄の中に忍ばせた「万能スープの素」の感触を確かめ、新たな「業務」への期待に胸を膨らませながら、王宮の深奥へと、意気揚々と足を踏み入れるのであった。
四 旅立ち、そして新たな舞台へ
漆黒の塗装に金色の繊細な装飾が施された馬車は、アルカディアの深い原生林を抜け、王都へと続く平坦な街道を滑るように進んでいた。
車内は驚くほど揺れが少なく、座り心地の良い革張りのクッションに身を委ねていると、ここが移動中の馬車の中であることを忘れてしまいそうになる。
窓の外に広がる景色は、時折、魔法的な陽炎のように揺らめいて見えることがあったが、それはレオンハルト様が私のために最高級の衝撃吸収魔法と、視覚的な安らぎを与える幻惑魔法を幾重にも重ねて施させた結果なのだ。
もっとも、そんな国家機密レベルの魔導技術の結晶に包まれているとは露ほども知らない私は、「さすが王宮の公用車、サスペンションのメンテナンスが完璧だわ!」と、前世の高級車の乗り心地と比較して感心するばかりだった。
「エリーゼ。……本当に疲れてはいないか? 少しでも気分が悪くなったらすぐに言ってくれ。この馬車を止めて、数日間の休憩を挟むことも厭わない」
隣に座るレオンハルト様が、心配そうに私の顔を覗き込んできた。
彼の深紅の瞳には、かつて王宮の片隅で凍てついていた時とは対照的な、焼けるような熱を帯びた過保護な慈愛が宿っている。
私は彼を安心させるように、にっこりと微笑んで首を振った。
「ありがとうございます、レオンハルト様。全然、これっぽっちも疲れていませんわ。むしろ、こうして騎士様と一緒に旅ができるなんて、なんだか特別な遠足みたいでワクワクしてしまいます」
私が無邪気に答えると、レオンハルト様は一瞬だけ呆然としたように私を見つめたが、すぐに目尻を下げて私の肩を優しく抱き寄せた。
彼の大きな掌の熱が、上質なリネンの衣服越しに私の肩から全身へと伝わってくる。その体温の温かさに、私の胸はどきりと大きく跳ねた。
王都へ戻るという不安よりも、彼との距離が物理的にも心理的にも縮まっていることへの幸福感が、今の私の心を満たしていた。
「(……ああ。やっぱり、レオンハルト様は私の最高の推しだわ。こんなに格好良くて、優しくて。……でも、そんな素敵な騎士様を、王都の騎士団はこれまでどれだけ冷遇してきたのかしら。王都に戻れば、またあの殺風景な詰所や、不味い食事が待っているかもしれない。そう考えると、管理人としての闘志が燃えてくるわね!)」
私は、テーブルの上に一点の波紋も立てずに置かれた、クリスタルグラスの冷たい果実水を手に取った。
中には、アルカディアで採れたばかりのハーブとベリーが浮かんでいる。その清涼感あふれる味わいは、移動中の喉の渇きを優しく癒やしてくれた。
「レオンハルト様。王都に戻れば、騎士様はお忙しくなるのでしょう? でも、安心してください。私が付いているんですもの。出張先の宿舎がどんなに古くてブラックな環境でも、私がお掃除とお料理で、そこを世界で一番ホワイトな聖域に変えてみせますわ。……あ、ポチも一緒に頑張るわよね?」
私の足元で、特製のふかふかクッションの上で丸まっていた白い毛玉――もとい、ポチが「わん!」と誇らしげに短く鳴いた。
その金色の瞳は、主であるエリーゼに見せる愛くるしさと、主人の野望を完全に理解した伝説の魔獣としての狡知さを交互に覗かせている。
ポチにとっても、王都は以前の「不浄な場所」ではなく、大好きな主と一緒に、より美味しいお肉を独占するための新たな猟場へと変わりつつあった。
「……ああ。君がそう言ってくれるなら、王都という名の泥沼でさえ、俺にとっては楽園に等しい。……エリーゼ。君を煩わせるような雑音や、君の視界を汚すような不純物は、俺がすべてこの手で排除する。約束しよう。君の穏やかな日々を乱すものは、この世界に一人として残しはしない」
レオンハルト様の声音が、僅かに低く、地響きのような重厚な熱を帯びた。
私はそれを「部下を守ろうとする、頼もしい上司の熱血な決意」と解釈し、力強く頷いた。
まさか、その「不純物の排除」という言葉が、実家の物理的な消滅や、王都の汚職貴族たちの一掃を指しているとは、私の斜め上の勘違い脳は一ミリも察知していなかった。
馬車が速度を落とし、車輪の立てる音が街道の砂利の音から、整備された石畳の硬い音へと変わっていった。
私は、そっとカーテンの隙間から外を覗き見た。
視界の先に現れたのは、かつての私が絶望と共に逃げ出した場所――ソルヴェリア王国の王都の巨大な外壁だった。
夕日に照らされた王都の尖塔や時計塔は、以前と変わらぬ傲慢なまでの黄金色の輝きを放っている。けれど、今の私の隣には、最強の騎士様がいる。
「(……見ていなさい、王都。私はもう、隅っこで震えながら実家の言いなりになっていた壁の花じゃないわ。この最強の騎士様を全力で養い、守り抜くための、有能な管理人として帰ってきたんだから!)」
馬車は、一般の門ではなく、近衛騎士や貴族専用の「獅子の門」へと向かっていった。
門番の騎士たちが、私たちの馬車の漆黒の塗装に刻まれた紋章(といっても、レオンハルト様が私には内緒でカモフラージュさせたものだが)を見た瞬間、まるで見えない巨人に押し潰されたかのように、直立不動で深い敬礼を捧げた。
「まあ、レオンハルト様! 見てください、門番の方たちの姿勢の良さを! さすが、騎士様が所属する騎士団の同僚の方たちですね。規律が隅々まで行き届いていて、素晴らしいホワイトな職場環境ですわ!」
私は窓の外を見ながら感動の声を上げた。
まさか、門番たちが恐怖に顔を引き攣らせ、王都の影の支配者であるレオンハルト様の帰還に、魂を震わせて平伏しているなどとは夢にも思わなかった。
「……ふん。……そうだな。俺がいない間も、掃除の教育だけは徹底させておいたからな」
レオンハルト様は、眼鏡の奥の瞳を僅かに細め、門番たちに向けて「余計なことを口にするな」という、無言かつ絶対的な圧力を放った。
その瞬間、門番たちの背筋がさらに数センチ伸び、石像のように固まったのは言うまでもない。
馬車は王都の喧騒を通り抜け、緑豊かな離宮エリアへと進んでいった。
人通りの少ない、けれど美しく整えられた並木道をしばらく進むと、そこに現れたのは、見覚えのある……けれど、どこか違和感のある巨大な門だった。
「……レオンハルト様。あそこは、もしかして私たちの『出張先』ですか?」
「ああ。……少しばかり広いが、アルカディアの別荘の別館という扱いで用意させた。……エリーゼ、君が馴染みやすいように、できる限りの配慮はしたつもりだ」
馬車がその邸宅の車寄せに止まった。
扉が開かれ、私はレオンハルト様のエスコートを受けて外へと一歩踏み出した。
その瞬間、私は自分の目を疑った。
目の前に広がっているのは、数日前まで私たちが過ごしていたアルカディアの別荘と、瓜二つの外観を持つ建物だった。
真っ白な石造りの壁、青い瓦根、そしてテラスから見える庭園の配置に至るまで、驚くほど記憶の中の風景と一致している。
「(えええっ!? そ、そっくりだわ! 王宮の公用宿舎って、こんなに個人の好みを完璧に再現してくれるものなの!? もしかして、私のために騎士様が一生懸命、上層部に掛け合ってくださったのかしら。……ああ、なんて健気で不器用な推しなの!)」
私の目には、それが国家予算を湯水のように使い、数千人の魔法師と工匠を不眠不休で動かして一週間で造り上げられた「王宮の離宮・東翼の完全改造版」であるとは見えなかった。
ただ、愛する騎士様が、不慣れな王都での生活を心配して、福利厚生の特権をフル活用して用意してくれた「心のこもった宿舎」にしか見えていなかったのだ。
「レオンハルト様! ありがとうございます! 私、びっくりしてしまいました。ここなら、まるでアルカディアの別荘の続きを運営しているみたいで、ちっとも寂しくありませんわ!」
私が弾むような声で叫ぶと、玄関の奥から、見覚えのある顔ぶれが並んで姿を現した。
執事長のギルバートさんを先頭に、あの優秀すぎるスタッフの皆さんが、まるで移動などしていなかったかのような完璧な所作で整列している。
「エリーゼ様、ようこそお帰りなさいませ。王都別館の準備は、すべて整っております」
ギルバートさんの、いつもと変わらぬ落ち着いた声。
私は、自分が救い出した「貧乏騎士」様が、実は自分のために一国の歴史さえも書き換え、世界を影から作り替えている絶対的なラスボスであるという真実に、今日も今日とて微塵も気づかないまま。
「はい! ギルバートさん、皆さん、よろしくお願いしますね! さあ、騎士様、まずは荷物を解いて、温かいハーブティーで移動の疲れを癒やしましょう。……あ、お庭にアルカディアから持ってきた種を植える場所も探さなきゃ!」
私はサファイアの髪飾りを夕日に輝かせ、新たな「出張先」という名の、あまりにも甘美で巨大な鳥籠の中へと、意気揚々と駆け込んでいった。
背後で、馬車の扉が静かに閉まる。
レオンハルト様は、その彼女の後ろ姿を、獲物を永遠に自分の支配下に置いた捕食者のような、昏い満足感を湛えた瞳で見つめていた。
「……ギルバート。彼女の視界に映るものが、永久に『アルカディアの平和』であり続けるよう、周辺の掃除を強化しろ。……たとえ陛下であっても、彼女の管理人としての執務を邪魔させるな」
「御意、殿下。……すべては、エリーゼ様の幸せな勘違いのために」
夕闇が迫る王都の離宮に、不気味で、けれどどこまでも一途な誓いの言葉が静かに溶けていった。
王都の街並みが夜の帳に包まれていく中、その邸宅だけは、エリーゼが放つ無自覚な浄化の魔力によって、昼間のような清々しい光に満たされていた。
物語の舞台は、再び王都へ。
けれど、そこはもはやエリーゼを苦しめる場所ではなく、レオンハルトが彼女を永遠に甘やかし、守り抜くための、壮大な「勘違いの聖域」として再編されていたのである。
「(ふふっ、王都のお掃除も、なんだか楽しくなりそうだわ!)」
能天気な管理人の明るい声が、王宮の奥深くに、これからの波乱と溺愛の幕開けを告げるかのように、高らかに響き渡った。
アルカディアの別荘に、また新しく、そしてどこまでも清らかな朝が訪れた。
窓の外に広がる湖は、朝露をたっぷりと含んだ冷涼な空気の中で、鏡のように静まり返っている。その鏡面のような水面を、時折、早起きの水鳥が静かに滑り、銀色の波紋を幾重にも広げていく。原生林の奥からは、名前も知らない小鳥たちが、水晶の鈴を転がしたような澄んだ歌声を競い合っていた。
私は、まだ微かに眠りの余韻を残したまま、ふかふかの羽毛布団から這い出した。
足の指先を包むのは、毛足の長い柔らかな絨毯。窓から差し込む陽光は、微細な塵さえも宝石の欠片のように輝かせ、寝室全体を柔らかな乳白色の光で満たしている。
「(ふふっ、今日も最高の目覚めだわ。前世の社畜時代、朝の四時にけたたましいアラームで叩き起こされ、目の下にクマを作りながら、胃を痛めるような濃い栄養ドリンクを流し込んでいた日々が、今ではまるで遠い銀河の出来事のようね)」
私は鏡の前で、朝の光に蜂蜜色に輝く自分の髪を丁寧にブラッシングした。
以前は手入れをする余裕もなく、ただ纏めていただけの髪も、アルカディアの清冽な水と、レオンハルト様が用意してくれた最高級の香油のおかげで、指通りが驚くほど滑らかになっている。
仕上げに、母の形見である純白のエプロンの紐を背中でぎゅっと締めた。管理人としての戦闘服に身を包むと、背筋がしゃんと伸び、心に一つのスイッチが入る。
現在の私の最重要任務は、別荘の完璧な維持……もとい、最愛の推しであるレオンハルト様の心身のトータルサポートだ。
最近の彼は、私が心を込めて作った手料理を「魂の救いだ」と言って、一口ごとに大切に、噛みしめるように食べてくださる。その姿を見るだけで、管理人としてのやりがいは限界を突破し、私のモチベーションは成層圏まで跳ね上がってしまうのだ。
「よし、今日も一日、最強の管理人として騎士様を支え抜いてみせるわ!」
私は力強く拳を握り、意気揚々と一階のダイニングへと向かった。
階段を下りると、そこには既にギルバートさんたちが、一分の隙もない所作で朝食の準備を進めていた。
大理石の床は顔が映るほどに磨き上げられ、花瓶には朝摘みのバラが芳醇な香りを放っている。その完璧すぎる空間の中央で、白い毛玉――もとい、ポチが暖炉の前で「わん!」と短く鳴き、私に朝の挨拶をしてくれた。
「おはよう、ポチ。貴方も朝から元気ね。……あら、レオンハルト様」
テーブルに座っているレオンハルト様に声をかけようとして、私はふと足を止めた。
軽装の騎士服を纏い、いつものように超然とした美しさを湛えている彼だが、その手元には見慣れない漆黒の封筒が置かれていた。
漆黒の紙に、金糸で縁取られた豪華な意匠。そして何より、重厚な赤の封蝋には、ソルヴェリア王家の紋章である「双頭の龍」が鮮明に刻印されている。
それは、一介の近衛騎士が日常的に受け取るには、あまりにも格式が高すぎ、そして不吉なまでの威圧感を放っている代物だった。
「おはようございます、レオンハルト様。……あの、よく眠れましたか?」
「……おはよう、エリーゼ。君の顔を見ると、胸の奥に溜まっていた澱みが、朝霧のように消えていくようだ」
レオンハルト様はそう言って微笑んだが、その深紅の瞳には、いつもの穏やかな熱とは違う、鋭く冷たい影が僅かに混じっているのを私は見逃さなかった。
自称・有能な管理人の観察眼は、今日も絶好調に冴え渡っている。
「レオンハルト様、そのお手紙……。もしかして、また何か無理なパトロールの依頼かしら? 騎士団も本当に、人使いが荒いわね」
私の問いに、レオンハルト様は一瞬だけ言葉を濁し、漆黒の封筒を隠すように指先で触れた。
「……いや、これは……。兄から……いえ、上層部からの直接の呼び出しだ。少し、王都に戻らなければならない事態になってな」
「王都に!? ……ああ、やっぱり!」
私の脳内で、レオンハルト様の「上司」に対する激しい憤りが爆発した。
(せっかくこのアルカディアで、騎士様がパトロールという名の過酷な激務から少しだけ解放されて、のんびり過ごせていたというのに! 実家の伯爵家が消滅したとかいう不穏な噂を聞きつけて、さらに厄介な『お掃除』の仕事を押し付けようというのね。王宮という組織は、前世のブラック企業なんて可愛く見えるほどの、超弩級の暗黒組織なんだから!)
私はテーブルの上のカトラリーがカタカタと震えるほど、無意識に力んでしまった。
レオンハルト様のような真面目で不器用な騎士様が、これ以上王都のど真ん中で使い潰されるなんて、管理人として、そして彼のファンとして、断じて許せることではない。
「レオンハルト様、無理はなさらないでくださいね。もし、これ以上貴方に不当な重労働を強いるようなら、私が王宮に直接乗り込んで抗議してあげますわ! 『労働基準法を読み直してください!』って、門番の方にまくしたててやりますから!」
私の鼻息の荒い宣言に、レオンハルト様は一瞬だけ呆然と私を見つめたが、すぐに吹き出すようにして、愛おしげに目を細めた。
「……ふふ、ありがとう、エリーゼ。君がそう言ってくれるだけで、俺はこの世界を丸ごと作り替える勇気が湧いてくるよ。……だが、心配はいらない。今回は戦いではなく、一種の『出張』のようなものだ。王都の屋敷の管理状況を確認する必要があってな」
「出張……ですか。管理状況の確認、というのなら、確かに大切なお仕事ですね」
私は少しだけ冷静さを取り戻した。
(そうね。騎士様も組織の一員。上からの命令を完全に無視するわけにはいかないわ。それならせめて、その出張が少しでも快適なものになるように私がサポートしなきゃ。……あ、でも、騎士様が王都に戻られる間、私はこの別荘で一人でお留守番なのかしら。それはそれで、少しだけ……いえ、かなり寂しい気がするけれど)
私が少しだけ肩を落とそうとした、その時。
レオンハルト様が椅子から立ち上がり、私の手をごく自然に、けれど逃さないという意志を込めてそっと包み込んだ。
「エリーゼ。……君も、一緒に来てくれないか? 君のいない王都など、俺にとっては灰色の牢獄に等しい」
「私まで!? ……まあ、それはつまり、出張先での生活管理も任せてくださるということですね。承知いたしました! 管理人として、騎士様の健康と平穏を、敵地である王都のど真ん中でも全力で守り抜いてみせますわ!」
私は、自分がこれから向かう場所が「出張先」などではなく、レオンハルト様が王弟殿下として君臨する「本拠地」であることなど、微塵も疑っていなかった。
私の目には、王都への旅が「騎士様の労働環境を改善するための、決死の同行」として映っていたのだ。
「(よーし、そうと決まれば準備よ! 王都の空気はここより悪いだろうから、浄化作用のあるお茶をたっぷり用意して、あ、それから騎士様の寝床がブラック環境で冷え切っていないか、私のこの目でチェックしてあげなきゃ!)」
私は、レオンハルト様の大きな掌を握り返しながら、新たな「出張業務」への意気込みに胸を膨らませていた。
レオンハルト様は、私のそんな決意に満ちた、けれど方向性の激しくズレた瞳を、至福に満ちた表情で見つめていた。
「エリーゼ。君が隣にいてくれるなら、俺はどんな偽りの世界でも真実へと変えてみせる。……準備を始めようか。ギルバートたちには、既に最高の……『出張環境』を整えさせてある」
「はい! 管理人にお任せください! 騎士様を、一秒たりともストレスに晒させはしませんわ!」
朝陽に照らされたダイニングルームで、私は元気よく返事をした。
こうして、平穏なアルカディアでの生活に、王都への帰還という新たな旋律が加わった。
それはレオンハルト様にとっては「エリーゼを正式に自分の世界へ迎えるための、壮大な舞台装置」の幕開けであり。
私にとっては「ホワイトな職場を守るための、ブラック企業への殴り込み」の始まりだったのである。
足元で、ポチが「わん!」と、すべてを見通したような賢明な声で、私たちの門出を祝福してくれた。
私はポチを抱き上げ、新天地への期待に瞳をキラキラと輝かせながら、キッチンへと駆け戻っていった。これから数日分の、最高に栄養のある「出張用おやつ」を焼くために。
二 騎士様の憂鬱と壮大な箱庭計画
エリーゼの軽やかな足音がキッチンの奥へと消え、バタバタという忙しなくも愛らしい生活音が遠ざかっていく。
その瞬間、陽光が降り注いでいたダイニングの空気は一変した。
窓から差し込む光は変わらないはずなのに、そこに座る男が放つ冷徹な覇気によって、室内の温度は氷点下まで叩き落とされたかのような錯覚を呼び起こす。
レオンハルトは、テーブルに置かれた漆黒の封筒を、忌々しそうに細長い指先で弾いた。
王家の象徴である双頭の龍が刻印された赤色の封蝋が、朝の光を反射してどす黒く光っている。それは、ソルヴェリア王国の頂点に立つ現国王からの、逃れられぬ召喚状であった。
「……兄上も、余計な真似を。ようやくエリーゼがこの場所を自分の家として馴染み、心からの笑顔を見せるようになったというのに。それをわざわざ、悪意の吹き溜まりのような王都へ引きずり出そうというのか」
レオンハルトの呟きは、地響きのような重圧を伴って室内に響いた。
壁に飾られたアンティークの絵皿が、彼の無意識に漏れ出た魔力に当てられて微かに震え、ピキリ、と目に見えぬ亀裂が走る。
背後に控えていたギルバートは、その圧倒的な威圧感に一分の動揺も見せず、完璧な角度で深く一礼した。
「殿下、恐れながら申し上げます。陛下は、エリーゼ様が放つ無自覚な聖なる力を高く評価しておいでです。……ロッテ伯爵家の消滅という大粛清を経て、王都の社交界は今、殿下の強権に震え上がっております。そこでエリーゼ様を『王都の社交界を浄化する聖女』として正式に伴侶に迎え、秩序を再構築すべきだというのが陛下の思惑でございます」
「浄化、か。……ふん。エリーゼが王宮を歩けば、あの薄汚れた貴族どもの腹黒い欲望など、一瞬で消し飛ばされるだろうな。あいつの放つ光は、それほどまでに清らかで、尊い。……だが、俺はそれを『利用』させるつもりはない」
レオンハルトの深紅の瞳に、昏く、そして深い独占欲の炎が宿る。
彼にとって、エリーゼは国を安定させるための道具ではない。
自分の冷え切った魂を、あの日、王宮の壁際で拾い上げてくれた、唯一無二の救い主。
彼女が自分に向けてくれる「守ってあげたい不器用な騎士様」という、とんでもなく斜め上で、けれどこの上なく愛おしい勘違い。
それこそが、レオンハルトがこの世で最も守り抜きたいと願っている「聖域」そのものだった。
「エリーゼは今、俺を『貧乏でブラック組織に使い潰されている騎士A』だと信じ込んでいる。……あいつは、そんな俺を養うために、管理人として懸命に働き、俺のために美味しいスープを作り、俺が笑うだけで幸せそうにするんだ。……ギルバート、お前に分かるか? あの純粋な献身が、どれほど俺の飢えを癒やしてくれるか」
「……左様でございますな。殿下がエリーゼ様の前で見せる、あの少しばかり頼りなげな微笑み。……王宮の者が見れば、腰を抜かして卒倒することでしょう」
ギルバートの皮肉混じりの返答に、レオンハルトは否定することなく、自嘲気味に口角を上げた。
もし、自分の正体が王弟殿下であり、王国の裏側を支配する冷酷な実力者だと知られたらどうなるか。
エリーゼはきっと、自分を「養う」ことをやめてしまうだろう。
彼女の慈愛に満ちた瞳は、敬意と距離を孕んだ「臣下」のものへと変わってしまうかもしれない。
それはレオンハルトにとって、万軍に囲まれるよりも、心臓を直接握り潰されるよりも、耐え難い恐怖であった。
「だからこそ、俺はこの勘違いを守り通さねばならない。……王都へ戻るのは、兄上への義理を果たすためではない。エリーゼの安全を、物理的に、そして永遠に確定させるためだ。……そのためには、王都そのものを『作り替える』必要がある」
レオンハルトは立ち上がり、書斎の机の上に広げられた巨大な設計図を、鋭い視線で射抜いた。
そこには、王都の離宮の一部を大規模に改装するための、緻密な計画が記されている。
「改装状況はどうなっている」
「はっ。殿下の指示通り、離宮の東翼を、このアルカディア別荘と『一ミリの誤差もなく』再現させる工事を、魔法師団と選りすぐりの工匠たちに不眠不休で進めさせております。壁の傷、床の軋む場所、扉の重さ……そして、窓から見える景色のホログラムに至るまで、エリーゼ様が違和感を抱かぬよう、完璧な施工を徹底させております」
それは、王族の権力と財力を、たった一人の女性を欺くためだけに注ぎ込んだ、狂気とも呼べる壮大な箱庭計画だった。
「庭園には、アルカディアの原生林から数本の巨木を根こそぎ移植しろ。土壌の魔力密度も調整し、ここと同じ空気を維持させるんだ。湖の代わりとなる巨大な魔導池を造り、湖面を渡る風の温度と湿気も魔導具で再現させろ。……エリーゼが目覚めたとき、『少し広めの別荘の別館に引っ越した』と信じ込ませるほど、完璧にな」
「……御意。王都の離宮を、一地方の別荘のレプリカに仕立て上げるとは。陛下も呆れておいででしたが、殿下の執念には敵わぬと、予算の無制限投入を認められました」
ギルバートの言葉に、レオンハルトは冷たく鼻で笑った。
国家予算がどれほどつぎ込まれようと、エリーゼが朝、笑顔で自分を迎えてくれる日常に比べれば、端金に等しい。
「……それから。離宮に配置する衛兵とメイドは、すべて『黒の牙』の精鋭で固めろ。エリーゼの前では絶対に『殿下』と呼ぶな。……彼女に見せるのは、以前と変わらぬ『福利厚生のスタッフさん』としての顔だけだ。もし一言でも口を滑らせ、彼女に余計な真実を悟らせた者がいれば……」
レオンハルトの瞳が、血のような赤色を深めた。
言葉にする必要はなかった。その冷徹な殺気だけで、失敗の代償が何であるかは明白だった。
「承知しております。スタッフ一同、エリーゼ様の『ホワイトな勘違い生活』を守るため、命を懸けてエキストラを演じ切る所存です」
「……ふん、ポチ。お前も、そのつもりだろう?」
レオンハルトが足元を見下ろすと、そこにはいつの間にか、白い毛玉のような姿をしたポチが座っていた。
ポチは金色の瞳を細め、不敵な笑みを浮かべるように口元を歪めた。
「わん」と短く鳴いたその声には、伝説の魔獣としての威厳と、主人の狂気的な愛への完全なる肯定が込められている。
ポチにとっても、エリーゼに美味しいお肉を貰い、温かい暖炉の前でお腹を出して寝転ぶ日々は、何物にも代えがたい「神域」であった。それを邪魔する現実など、主と一緒に噛み殺してしまえばいい。ただそれだけのことだ。
レオンハルトは再び、漆黒の封筒を手に取った。
その指先には、先日、街へ出た際にエリーゼが「お揃いですね」とはにかみながら贈ってくれた、手作りの粗末な紐のリングがはめられている。
王家に伝わる国宝の宝石よりも、一国の領地よりも、彼にとっては重い重い宝物。
「(エリーゼ。……君を、あのドブ川のような王都へ連れて行くのは、俺の本意ではない。だが、君をいつまでもこの森に隠し続けておくこともできない。……ならば、俺が王都を、君に相応しい楽園へと作り替えてやろう)」
レオンハルトの胸の内に渦巻くのは、愛という言葉だけでは到底説明しきれない、歪で、けれどどこまでも一途な独占欲。
彼女を自分だけの世界に閉じ込め、彼女の視界に映るすべての不純物を「掃除」し、彼女の笑い声だけが響く箱庭。
「(君は何も知らなくていい。君を捨てた実家の末路も、君を狙う汚らわしい欲望も。……君はただ、この俺を『支えてあげなければならない不憫な騎士様』だと思って、その温かな慈愛で俺を養い続けてくれればいい。……それこそが、俺がこの世界に存在する唯一の価値なのだから)」
彼は深く息を吐き、魔導書を再び手に取った。
キッチンの向こうから、香ばしいパンが焼ける匂いと、エリーゼが野菜を切る軽快な音が再び聞こえてくる。
その日常の音色を聞きながら、レオンハルトは自らの顔に、穏やかで少しばかり頼りなげな「背景の騎士」としての微笑みを、完璧に張り付けた。
まもなく、王都へと向かう旅が始まる。
それはエリーゼにとっては「騎士様の仕事環境を改善するための、決死の出張同行」であり。
レオンハルトにとっては「自分の支配する全世界を、一人の愛する女性の好みに合わせてリフォームし、彼女を永遠に囲い込むための儀式」への旅立ちであった。
「……ギルバート。馬車の用意は、一見して公用の、しかし中身は最高級の安楽を約束するものにしろ。エリーゼが移動の疲れを感じるようなことがあれば、施工した魔術師全員の首が飛ぶと思え」
「はっ。既に衝撃吸収と室温調整、さらには精神安定の術式を幾重にも重ねた特注品が、玄関前に待機しております」
「……よし」
レオンハルトは満足げに頷いた。
窓の外、アルカディアの原生林を吹き抜ける風が、まもなく訪れるであろう「王都の激震」を予感させるように、一際強く木々を揺らした。
しかし、その風さえも、このダイニングに漂う甘い朝食の香りと、二人の間に流れる奇妙で幸福な静寂を乱すことはできなかった。
能天気な管理人のエリーゼが、満面の笑みで「焼き立てのクロワッサンができましたわよ!」と、再び姿を現すまでの、ほんの短い間の、影の支配者たちの密談。
それはソルヴェリア王国の歴史上、最も贅沢で、最も一方的で、そして最も「幸せな勘違い」に満ちた新生活の、第二幕への合図だったのである。
三 王都への「出張」準備
王都への「出張」が決まってからというもの、静かなアルカディアの別荘は、まるでお祭りの前日のような、あるいは大規模なプロジェクトのキックオフ当日のような、独特の活気に包まれていた。
もっとも、バタバタと忙しそうに、けれどどこか楽しげに走り回っているのは、管理人である私一人だけだ。ギルバートさんをはじめとする「福利厚生スタッフ」の皆さんは、相変わらず一分の隙もない動作で、まるで行軍の準備でもするかのような神速かつ静謐な手際で荷造りを進めていた。
「(さあ、管理人として、そして元社畜としての腕の見せ所よ! 出張先でのパフォーマンス維持は、何よりもまず徹底した健康管理から始まるんだから!)」
私はキッチンの巨大なオーク材のテーブルの上に、溢れんばかりの食材と保存容器を並べていた。
前世のブラック企業時代、無能な上司の急な出張に同行させられたときは、現地の不衛生な安宿や、深夜まで続く会議、そして合間に胃に流し込むだけの伸びきったカップ麺や不味い出前料理に、心身ともにボロボロにされたものだ。
だが、今の私はレオンハルト様の「管理人」だ。あんな悲惨な思いを、私の大切な推しにさせるわけにはいかない。
「よし。まずは、騎士団の詰所でもお湯を注ぐだけで再現できる『万能スープの素』を三種類。アルカディア産の完熟トマトと、先日じっくり乾燥させた特選キノコ、それから疲労回復に効く薬草ハーブをたっぷり練り込んで……」
私は魔導コンロの火力を微調整しながら、ソースパンの中のペーストを練り上げていく。香ばしく、それでいて滋味深い香りがキッチン全体に広がり、幸せな湯気が私の頬を温める。
これさえあれば、どれほど王都の騎士団詰所が寒々しく、食生活が荒んでいたとしても、レオンハルト様の胃袋だけはアルカディアのホワイトな温もりで守ることができるはずだ。
「……あ、それから、ストレス過多な会議の合間にさっと口にできる『高濃度蜂蜜漬けのクッキー』も焼いておかなくちゃ。脳の栄養補給は大事だものね」
私が鼻歌を歌いながら生地をこねていると、背後から聞き慣れた、心地よい低音が響いた。
「エリーゼ。……また、そうやって無理をしている。荷造りはギルバートたちに任せればいいと言っただろう」
振り返ると、そこには少しだけ困ったような、けれど目尻を下げて私を見つめるレオンハルト様が立っていた。
彼は上着を脱いだ軽装の騎士服姿で、その逞しい胸板や肩のラインが生地越しにもはっきりと分かる。王都に戻ればまた、この立派な身体がブラックな組織に使い潰されるのかと思うと、私の胸に熱い保護欲がこみ上げてきた。
「いけませんわ、レオンハルト様! 出張先での荷造りは、管理人の聖域です。王都に戻れば、スタッフの皆さんも別業務で忙しくなるでしょう? 騎士様が困らないように、私がしっかり生活基盤をパッキングしておかなければ、誰が貴方を支えるというのですか!」
「……エリーゼ。君は、本当に……」
レオンハルト様は深い溜息をついたが、それは呆れているというより、あまりの幸福に当てられて言葉を失っているようだった。
彼はゆっくりと歩み寄ると、小麦粉で少しだけ白くなった私の手を取り、自分の大きな掌でそっと包み込んだ。
彼の掌には、厳しい剣の訓練で刻まれた「剣ダコ」が硬く残っている。
指先の節々は太く、国を守るために数多の修羅場を潜り抜けてきた男の手。
私はその無骨な感触に触れるたび、胸の奥がキュッと締め付けられるような、愛おしさでいっぱいになる。
(……ああ、やっぱり。この人は、現場の最前線で泥を啜りながら戦ってきた、生粋の苦労人なのだわ。王都に戻れば、また嫌な上司や、手柄だけを横取りする無能な同僚たちが待ち構えているに違いない。私が、彼のたった一つの癒やし、唯一の『ホワイトな避難所』になってあげなきゃ!)
「レオンハルト様、お荷物はこのカバン一つでよろしいですか? 私が騎士様のシャツを一枚一枚、魂を込めてアイロンがけしておきましたから。襟元には、汚れがつきにくくなる魔法の粉……じゃなくて、特製の香油を少しだけ馴染ませてありますの」
「……ありがとう、エリーゼ。君が用意してくれたものなら、たとえ石ころであっても俺にとっては国宝以上の価値がある。……だが、王都の屋敷でもギルバートたちが控えている。あまり自分を追い詰めるな。君が疲れ果ててしまうことこそ、俺にとって最大の損失なんだ」
「損失だなんて! 私は、騎士様が王都で少しでも『アルカディアの風』を感じてくだされば、それで満足なんです。……あ、レオンハルト様、指。指を見せてください」
私が促すと、彼は不思議そうな顔をしながら右手を差し出した。
その指には、先日、私が「安物ですが、仕事の安全を願って」とはにかみながら贈った、手作りの紐編みのリングが、誇らしげに光っていた。
「……ふふっ、ちゃんと着けてくださっている。嬉しいです。王都で嫌なことがあったら、そのリングを見てくださいね。私が、ここで……いえ、貴方のすぐ側で応援していることを思い出していただくために」
「忘れるはずがない。……俺は、このリングを失うくらいなら、己の右腕を差し出す方がマシだと思っているよ」
「もう、極端なんだから! 右腕は大事にしてください。剣を振るうための大切な腕なんですからね」
私は笑って彼の言葉を受け流したが、レオンハルト様の瞳の奥に宿った、地響きのような、重厚で暗い執着の熱には気づかないままだった。
庭の方へ目を向けると、そこではポチが「王都遠征用」の特製カゴに入れられ、なんだか不満げに鼻を鳴らしていた。
「ポチ、そんな顔をしないで。お利口にしていなきゃだめよ。王都はここよりもずっと空気が悪くて、排気ガス……じゃなくて、馬の糞の匂いや人の悪意が渦巻いているんだから。王都に着いたら、私がしっかり部屋を浄化してあげるからね」
「わんっ!」
ポチが私の声に応えるように短く鳴くと、私の指先から、無意識に溢れ出した高純度の浄化魔法が、ポチの白い毛並みを一瞬だけ黄金色に輝かせた。
ポチは満足げに尻尾を振り、レオンハルト様を「どうだ、我の方が先に撫でられたぞ」というような、伝説の魔獣らしからぬマウントを取るような視線で見つめていた。
やがて、別荘の重厚な玄関前に、一台の馬車が静かに滑り込んできた。
それは、漆黒の塗装に繊細な金色の装飾が施された、重厚かつ気品に満ちた馬車だった。引いているのは、見事な毛並みを持つ四頭立ての白馬。一見して、王族や大貴族が使うような最高級の特注品だ。
だが、今の私の目には、それが「王宮の福利厚生で、出張者用に手配された、少し年季の入った公用車」にしか見えていなかった。
「(……まあ! 王宮も、たまには粋なことをするわね。いくら末端の騎士様とはいえ、わざわざアルカディアまで迎えの馬車を出すなんて。……きっと、レオンハルト様がこれまでのパトロールで、それだけ素晴らしい功績を上げてきたからに違いないわ!)」
私は、その豪華な馬車を「お役所仕事にしては頑張った方の備品」と解釈し、感心しながら荷物を運び入れた。
ギルバートさんが完璧な所作で馬車の扉を開き、私をエスコートしてくれる。
「エリーゼ様。長旅になりますが、車内は殿下……いえ、騎士様の指示により、最大限の快適さを保つよう調整されております。どうぞ、安心してお乗りください」
「ありがとうございます、ギルバートさん。皆さんも、今回の出張、よろしくお願いしますね」
私が元気よく挨拶をすると、並んでいたスタッフの皆さんが、一斉に、騎士団の敬礼よりも深く、忠誠心に満ちた礼を返してくれた。その気迫に少しだけ圧倒されたが、「ホワイトな職場は、挨拶も徹底されているのね!」とポジティブに変換しておく。
「……さあ、行こうか、エリーゼ。俺たちの、新たな戦場へ」
レオンハルト様が手を差し伸べてくれる。
私はその手を取り、豪華な馬車へと足を踏み入れた。
車内は、外見以上に驚くべき空間だった。
座席のクッションは、雲の上に座っているかのような柔らかさで、足元には魔導具による温度調整が完璧に施されている。揺れを一切感じさせない特殊な緩衝魔法が幾重にも重ねられており、テーブルの上には、冷たい果実水が一点の波紋も立てずに置かれていた。
「(……すごい。王宮の公用車、ハイテクすぎるわ……。前世の新幹線のグランクラスだって、ここまでの安定感はなかったはず。……レオンハルト様、やっぱり組織の中で、相当大事にこき使われているのね……)」
馬車がゆっくりと動き出す。
車窓の向こう、数日間過ごしたアルカディアの美しい原生林と、輝く湖面がゆっくりと後方へ流れ去っていく。
私は、自分がこれから向かう場所が「出張先」などではなく、自分を捨てた実家さえも平伏する、王国の権力の心臓部であることを知らない。
そして、隣に座る優しき騎士様が、自分のために王宮の離宮を丸ごと「アルカディアのレプリカ」に作り替え、世界を欺く壮大な舞台を用意していることにも。
「レオンハルト様。見てください、森が遠ざかっていきますわ。……でも、寂しくありません。貴方と一緒に、新しいお仕事を頑張れるんですもの」
私が窓の外を見つめながら微笑むと、レオンハルト様は私の肩を優しく抱き寄せ、その深く昏い瞳を、私の首筋に埋めるようにして囁いた。
「……ああ。君がいる場所こそが、俺の帰る場所だ。王都がどんなに泥濘んでいようとも、俺が君の足元を汚させることは決してない。……約束するよ、エリーゼ。君の平和な日常は、何者にも、そして王族という名の呪縛にさえも、奪わせはしない」
その言葉に含まれた、地響きのような執着の熱。
私はそれを「部下を守ろうとする、頼もしい上司の熱意」と、今日も今日とて全力で勘違いしながら、心地よい馬車の揺れに身を委ねるのであった。
馬車は、アルカディアの聖域を抜け、王都へと続く街道を滑るように進んでいく。
私は、鞄の中に忍ばせた「万能スープの素」の感触を確かめ、新たな「業務」への期待に胸を膨らませながら、王宮の深奥へと、意気揚々と足を踏み入れるのであった。
四 旅立ち、そして新たな舞台へ
漆黒の塗装に金色の繊細な装飾が施された馬車は、アルカディアの深い原生林を抜け、王都へと続く平坦な街道を滑るように進んでいた。
車内は驚くほど揺れが少なく、座り心地の良い革張りのクッションに身を委ねていると、ここが移動中の馬車の中であることを忘れてしまいそうになる。
窓の外に広がる景色は、時折、魔法的な陽炎のように揺らめいて見えることがあったが、それはレオンハルト様が私のために最高級の衝撃吸収魔法と、視覚的な安らぎを与える幻惑魔法を幾重にも重ねて施させた結果なのだ。
もっとも、そんな国家機密レベルの魔導技術の結晶に包まれているとは露ほども知らない私は、「さすが王宮の公用車、サスペンションのメンテナンスが完璧だわ!」と、前世の高級車の乗り心地と比較して感心するばかりだった。
「エリーゼ。……本当に疲れてはいないか? 少しでも気分が悪くなったらすぐに言ってくれ。この馬車を止めて、数日間の休憩を挟むことも厭わない」
隣に座るレオンハルト様が、心配そうに私の顔を覗き込んできた。
彼の深紅の瞳には、かつて王宮の片隅で凍てついていた時とは対照的な、焼けるような熱を帯びた過保護な慈愛が宿っている。
私は彼を安心させるように、にっこりと微笑んで首を振った。
「ありがとうございます、レオンハルト様。全然、これっぽっちも疲れていませんわ。むしろ、こうして騎士様と一緒に旅ができるなんて、なんだか特別な遠足みたいでワクワクしてしまいます」
私が無邪気に答えると、レオンハルト様は一瞬だけ呆然としたように私を見つめたが、すぐに目尻を下げて私の肩を優しく抱き寄せた。
彼の大きな掌の熱が、上質なリネンの衣服越しに私の肩から全身へと伝わってくる。その体温の温かさに、私の胸はどきりと大きく跳ねた。
王都へ戻るという不安よりも、彼との距離が物理的にも心理的にも縮まっていることへの幸福感が、今の私の心を満たしていた。
「(……ああ。やっぱり、レオンハルト様は私の最高の推しだわ。こんなに格好良くて、優しくて。……でも、そんな素敵な騎士様を、王都の騎士団はこれまでどれだけ冷遇してきたのかしら。王都に戻れば、またあの殺風景な詰所や、不味い食事が待っているかもしれない。そう考えると、管理人としての闘志が燃えてくるわね!)」
私は、テーブルの上に一点の波紋も立てずに置かれた、クリスタルグラスの冷たい果実水を手に取った。
中には、アルカディアで採れたばかりのハーブとベリーが浮かんでいる。その清涼感あふれる味わいは、移動中の喉の渇きを優しく癒やしてくれた。
「レオンハルト様。王都に戻れば、騎士様はお忙しくなるのでしょう? でも、安心してください。私が付いているんですもの。出張先の宿舎がどんなに古くてブラックな環境でも、私がお掃除とお料理で、そこを世界で一番ホワイトな聖域に変えてみせますわ。……あ、ポチも一緒に頑張るわよね?」
私の足元で、特製のふかふかクッションの上で丸まっていた白い毛玉――もとい、ポチが「わん!」と誇らしげに短く鳴いた。
その金色の瞳は、主であるエリーゼに見せる愛くるしさと、主人の野望を完全に理解した伝説の魔獣としての狡知さを交互に覗かせている。
ポチにとっても、王都は以前の「不浄な場所」ではなく、大好きな主と一緒に、より美味しいお肉を独占するための新たな猟場へと変わりつつあった。
「……ああ。君がそう言ってくれるなら、王都という名の泥沼でさえ、俺にとっては楽園に等しい。……エリーゼ。君を煩わせるような雑音や、君の視界を汚すような不純物は、俺がすべてこの手で排除する。約束しよう。君の穏やかな日々を乱すものは、この世界に一人として残しはしない」
レオンハルト様の声音が、僅かに低く、地響きのような重厚な熱を帯びた。
私はそれを「部下を守ろうとする、頼もしい上司の熱血な決意」と解釈し、力強く頷いた。
まさか、その「不純物の排除」という言葉が、実家の物理的な消滅や、王都の汚職貴族たちの一掃を指しているとは、私の斜め上の勘違い脳は一ミリも察知していなかった。
馬車が速度を落とし、車輪の立てる音が街道の砂利の音から、整備された石畳の硬い音へと変わっていった。
私は、そっとカーテンの隙間から外を覗き見た。
視界の先に現れたのは、かつての私が絶望と共に逃げ出した場所――ソルヴェリア王国の王都の巨大な外壁だった。
夕日に照らされた王都の尖塔や時計塔は、以前と変わらぬ傲慢なまでの黄金色の輝きを放っている。けれど、今の私の隣には、最強の騎士様がいる。
「(……見ていなさい、王都。私はもう、隅っこで震えながら実家の言いなりになっていた壁の花じゃないわ。この最強の騎士様を全力で養い、守り抜くための、有能な管理人として帰ってきたんだから!)」
馬車は、一般の門ではなく、近衛騎士や貴族専用の「獅子の門」へと向かっていった。
門番の騎士たちが、私たちの馬車の漆黒の塗装に刻まれた紋章(といっても、レオンハルト様が私には内緒でカモフラージュさせたものだが)を見た瞬間、まるで見えない巨人に押し潰されたかのように、直立不動で深い敬礼を捧げた。
「まあ、レオンハルト様! 見てください、門番の方たちの姿勢の良さを! さすが、騎士様が所属する騎士団の同僚の方たちですね。規律が隅々まで行き届いていて、素晴らしいホワイトな職場環境ですわ!」
私は窓の外を見ながら感動の声を上げた。
まさか、門番たちが恐怖に顔を引き攣らせ、王都の影の支配者であるレオンハルト様の帰還に、魂を震わせて平伏しているなどとは夢にも思わなかった。
「……ふん。……そうだな。俺がいない間も、掃除の教育だけは徹底させておいたからな」
レオンハルト様は、眼鏡の奥の瞳を僅かに細め、門番たちに向けて「余計なことを口にするな」という、無言かつ絶対的な圧力を放った。
その瞬間、門番たちの背筋がさらに数センチ伸び、石像のように固まったのは言うまでもない。
馬車は王都の喧騒を通り抜け、緑豊かな離宮エリアへと進んでいった。
人通りの少ない、けれど美しく整えられた並木道をしばらく進むと、そこに現れたのは、見覚えのある……けれど、どこか違和感のある巨大な門だった。
「……レオンハルト様。あそこは、もしかして私たちの『出張先』ですか?」
「ああ。……少しばかり広いが、アルカディアの別荘の別館という扱いで用意させた。……エリーゼ、君が馴染みやすいように、できる限りの配慮はしたつもりだ」
馬車がその邸宅の車寄せに止まった。
扉が開かれ、私はレオンハルト様のエスコートを受けて外へと一歩踏み出した。
その瞬間、私は自分の目を疑った。
目の前に広がっているのは、数日前まで私たちが過ごしていたアルカディアの別荘と、瓜二つの外観を持つ建物だった。
真っ白な石造りの壁、青い瓦根、そしてテラスから見える庭園の配置に至るまで、驚くほど記憶の中の風景と一致している。
「(えええっ!? そ、そっくりだわ! 王宮の公用宿舎って、こんなに個人の好みを完璧に再現してくれるものなの!? もしかして、私のために騎士様が一生懸命、上層部に掛け合ってくださったのかしら。……ああ、なんて健気で不器用な推しなの!)」
私の目には、それが国家予算を湯水のように使い、数千人の魔法師と工匠を不眠不休で動かして一週間で造り上げられた「王宮の離宮・東翼の完全改造版」であるとは見えなかった。
ただ、愛する騎士様が、不慣れな王都での生活を心配して、福利厚生の特権をフル活用して用意してくれた「心のこもった宿舎」にしか見えていなかったのだ。
「レオンハルト様! ありがとうございます! 私、びっくりしてしまいました。ここなら、まるでアルカディアの別荘の続きを運営しているみたいで、ちっとも寂しくありませんわ!」
私が弾むような声で叫ぶと、玄関の奥から、見覚えのある顔ぶれが並んで姿を現した。
執事長のギルバートさんを先頭に、あの優秀すぎるスタッフの皆さんが、まるで移動などしていなかったかのような完璧な所作で整列している。
「エリーゼ様、ようこそお帰りなさいませ。王都別館の準備は、すべて整っております」
ギルバートさんの、いつもと変わらぬ落ち着いた声。
私は、自分が救い出した「貧乏騎士」様が、実は自分のために一国の歴史さえも書き換え、世界を影から作り替えている絶対的なラスボスであるという真実に、今日も今日とて微塵も気づかないまま。
「はい! ギルバートさん、皆さん、よろしくお願いしますね! さあ、騎士様、まずは荷物を解いて、温かいハーブティーで移動の疲れを癒やしましょう。……あ、お庭にアルカディアから持ってきた種を植える場所も探さなきゃ!」
私はサファイアの髪飾りを夕日に輝かせ、新たな「出張先」という名の、あまりにも甘美で巨大な鳥籠の中へと、意気揚々と駆け込んでいった。
背後で、馬車の扉が静かに閉まる。
レオンハルト様は、その彼女の後ろ姿を、獲物を永遠に自分の支配下に置いた捕食者のような、昏い満足感を湛えた瞳で見つめていた。
「……ギルバート。彼女の視界に映るものが、永久に『アルカディアの平和』であり続けるよう、周辺の掃除を強化しろ。……たとえ陛下であっても、彼女の管理人としての執務を邪魔させるな」
「御意、殿下。……すべては、エリーゼ様の幸せな勘違いのために」
夕闇が迫る王都の離宮に、不気味で、けれどどこまでも一途な誓いの言葉が静かに溶けていった。
王都の街並みが夜の帳に包まれていく中、その邸宅だけは、エリーゼが放つ無自覚な浄化の魔力によって、昼間のような清々しい光に満たされていた。
物語の舞台は、再び王都へ。
けれど、そこはもはやエリーゼを苦しめる場所ではなく、レオンハルトが彼女を永遠に甘やかし、守り抜くための、壮大な「勘違いの聖域」として再編されていたのである。
「(ふふっ、王都のお掃除も、なんだか楽しくなりそうだわ!)」
能天気な管理人の明るい声が、王宮の奥深くに、これからの波乱と溺愛の幕開けを告げるかのように、高らかに響き渡った。
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