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第二章:起動
2-5:アトリエ設計図
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セバスの困惑をよそに、エリアーナの頭は、前世の記憶が蘇って以来、最も高速で回転していた。
彼女はもう、埃っぽい厨房には立っていなかった。彼女の精神は、数週間後、数ヶ月後に稼働するであろう、完璧なアトリエ(研究所)に飛んでいた。
(この力があれば、失敗はありえない)
前世では、勘と経験、そして僅かな測定器械(糖度計や温度計)だけが頼りだった。だが、それでも天候や素材の個体差に悩まされ、完璧な再現は困難を極めた。
だが、これからは違う。
糖度も、酸味も、香りも、すべてが「可視化」される。前世で彼女を縛った「素材の個体差」という最大の敵が、今や『インターフェイス』によって「可視化されたデータ」に過ぎないのだ。
(ジャムのペクチン濃度も、スポンジのグルテン形成も、チョコレートのテンパリング温度も、全てが分かる! 『ジャム(Lv.1)』ということは、素材と技術次第で、このレベルは上がっていくはず……!)
エリアーナは、その場で埃まみれのドレスの裾をまくり上げ、懐から(王都を去る前に、公爵邸の書斎から拝借してきた)上質な羊皮紙の巻物と、携帯用のインクペンを取り出した。
そして、蜘蛛の巣を払いもせず、埃まみれの調理台の上に、バサリと叩きつけるようにそれを広げた。
「セバス。今から私が言うものを、大至急、手配してちょうだい」
「て、手配、と申されますと? お嬢様、何を……」
セバスは、主の常軌を逸した行動に、まだついていけていない。
「王都のクライフェルト本邸、あるいは懇意の商会に、最速の魔導便で。費用は、国王陛下から頂いた『研究費』から、惜しみなく使うように、と」
「お、お嬢様、何をお考えで……。このような、ネズミの巣窟のような場所に、これ以上何を手配なさるというのです?」
「いいから、書き留めて! 時間が惜しいわ!」
エリアーナの気迫に押され、セバスは慌ててペンを構えた。
「第一に、最新式の魔導コンロ! 火力調整が0.1単位で可能なもの! それを三台!」
「ま、魔導コンロを三台!? お嬢様、一台で騎士団の馬が十頭買えるのですよ!」
「だからよ、セバス!」
エリアーナは、設計図を睨んだまま鋭く言い返した。
「薪(まき)の火では、この地の湿気と風で火力が安定しないわ。でも魔導コンロなら、外気温が氷点下だろうと、完璧な151度(アメ色)を維持できる! キャラメリゼの温度管理は、コンマ秒で決まる。150度と151度では、香りが全く違うのよ。王宮の『薪』任せの厨房では、これができなかった。これで完璧よ!」
「ひゃ、百五十一……」
セバスには、もはやその数字の意味すら分からない。
「第二に、ステンレス製の調理台! 継ぎ目のない、一枚板のものを五台!」
「す、ステンレス!? 王宮の料理長ですら、贅沢すぎると陛下に却下されたという、あの……」
「王宮の料理長(シェフ)が、本当の『清潔』を知らないだけよ。木の台は、どれだけ磨いても傷に雑菌が入り込む。味の探求とは、まず雑菌との戦いなの。分かって、セバス?」
(木製の台でショコラを扱おうなんて、王宮の連中は、まだ『清潔さ』が『味』に直結することを理解していない)
「第三に、魔導冷却室(マジック・フリーザー)のユニット! 庫内の温度をマイナス30度から、プラス15度まで自在に設定できるもの!」
(これで、完璧なショコラも、アイスクリームも、王都の連中が夢にも見ない『芸術品』が作れる。もう、氷室(ひむろ)に頼る時代は終わりよ)
「第四に、魔道具の泡立て器(ウィスク)を大小十個! それから、最高品質の銅鍋、サイズ違いで二十個! それから、最高級の小麦粉、砂糖、バターを、それぞれ運べるだけ!」
エリアーナの要求は、留まるところを知らなかった。
それは、「辺境での静養」を望んだ令嬢の買い物リストとは到底思えない、最新鋭の「研究所」を設立するための、完璧な機材リストだった。
セバスは、最初は目を白黒させ、その要求の金額の大きさに眩暈(めまい)を起こしていたが、羊皮紙にリストを書き連ねていくうちに、その表情は次第に、諦めと、そしてどこか懐かしい「安堵」の色に変わっていった。
(そうだ、このお方は、昔からこうだった)
彼の脳裏に、王都の厨房で教師たちに隠れてこっそりと、しかし生き生きと実験を繰り返していた幼い日のエリアーナの姿が重なる。
(王妃教育の教師が「淑女の嗜み」を説いている間も、厨房の隅で、小麦粉と卵の配合比率を変えたスポンジ生地の膨らみ方の違いを、真剣な目で記録されていた)
(王太子殿下も、王妃教育の教師どもも、皆、お嬢様の『この部分』だけを見て、恐れ、遠ざけた。……だが、この老いぼれには分かる。これこそが、クライフェルト公爵家の血……。いや、お嬢様ご自身の『魂』なのだ)
セバスは、ペンを走らせる手を止め、主の横顔を盗み見た。
ランプの揺れる光が、羊皮紙に走るインクの文字と、エリアーナの頬に付いた煤(すす)を、同じように照らしている。埃まみれの厨房で、髪を振り乱し、羊皮紙に「完璧なアトリエ」の設計図を書きなぐるエリアーナの顔は、心の底から楽しそうに輝いていた。
(……ああ。お嬢様は、ようやく『ご自分』の場所に、お戻りになられたのだ)
「……かしこまりました。お嬢様」
書き終えたセバスが、埃っぽい厨房で、完璧な執事の礼(おじぎ)をした。その声から、先程までの「狼狽」は消え、クライフェルト公爵家老執事としての「覚悟」に満ちたものに変わっていた。
「このセバス、お嬢様の『研究』が完成するまで、この命に代えても、お支えいたします」
「大袈裟ね、セバス」
エリアーナは、設計図(リスト)を満足げに眺めると、埃まみれの窓の外、沈みゆく夕日に照らされた「約束のテロワール」を眩しそうに見つめた。
「これは、命を懸けるような戦いではないわ」
(王宮での生活こそが、私の『パティシエール』としての命を削る戦いだった)
「これは、私が、この世界で最高の『作品』を作るための、楽しい、楽しい、スローライフの始まりなのよ!」
『食材図鑑』という最強の武器を手に、元悪役令嬢は、不毛の地と呼ばれた「約束のテロワール」で、高らかに笑うのだった。
彼女の『インターフェイス』が、窓の外の暗闇の中に、まだ見ぬ『野生の桃の木』の気配を、微かに感知していたが、今の彼女にはまだ気づくよしもなかった。
彼女はもう、埃っぽい厨房には立っていなかった。彼女の精神は、数週間後、数ヶ月後に稼働するであろう、完璧なアトリエ(研究所)に飛んでいた。
(この力があれば、失敗はありえない)
前世では、勘と経験、そして僅かな測定器械(糖度計や温度計)だけが頼りだった。だが、それでも天候や素材の個体差に悩まされ、完璧な再現は困難を極めた。
だが、これからは違う。
糖度も、酸味も、香りも、すべてが「可視化」される。前世で彼女を縛った「素材の個体差」という最大の敵が、今や『インターフェイス』によって「可視化されたデータ」に過ぎないのだ。
(ジャムのペクチン濃度も、スポンジのグルテン形成も、チョコレートのテンパリング温度も、全てが分かる! 『ジャム(Lv.1)』ということは、素材と技術次第で、このレベルは上がっていくはず……!)
エリアーナは、その場で埃まみれのドレスの裾をまくり上げ、懐から(王都を去る前に、公爵邸の書斎から拝借してきた)上質な羊皮紙の巻物と、携帯用のインクペンを取り出した。
そして、蜘蛛の巣を払いもせず、埃まみれの調理台の上に、バサリと叩きつけるようにそれを広げた。
「セバス。今から私が言うものを、大至急、手配してちょうだい」
「て、手配、と申されますと? お嬢様、何を……」
セバスは、主の常軌を逸した行動に、まだついていけていない。
「王都のクライフェルト本邸、あるいは懇意の商会に、最速の魔導便で。費用は、国王陛下から頂いた『研究費』から、惜しみなく使うように、と」
「お、お嬢様、何をお考えで……。このような、ネズミの巣窟のような場所に、これ以上何を手配なさるというのです?」
「いいから、書き留めて! 時間が惜しいわ!」
エリアーナの気迫に押され、セバスは慌ててペンを構えた。
「第一に、最新式の魔導コンロ! 火力調整が0.1単位で可能なもの! それを三台!」
「ま、魔導コンロを三台!? お嬢様、一台で騎士団の馬が十頭買えるのですよ!」
「だからよ、セバス!」
エリアーナは、設計図を睨んだまま鋭く言い返した。
「薪(まき)の火では、この地の湿気と風で火力が安定しないわ。でも魔導コンロなら、外気温が氷点下だろうと、完璧な151度(アメ色)を維持できる! キャラメリゼの温度管理は、コンマ秒で決まる。150度と151度では、香りが全く違うのよ。王宮の『薪』任せの厨房では、これができなかった。これで完璧よ!」
「ひゃ、百五十一……」
セバスには、もはやその数字の意味すら分からない。
「第二に、ステンレス製の調理台! 継ぎ目のない、一枚板のものを五台!」
「す、ステンレス!? 王宮の料理長ですら、贅沢すぎると陛下に却下されたという、あの……」
「王宮の料理長(シェフ)が、本当の『清潔』を知らないだけよ。木の台は、どれだけ磨いても傷に雑菌が入り込む。味の探求とは、まず雑菌との戦いなの。分かって、セバス?」
(木製の台でショコラを扱おうなんて、王宮の連中は、まだ『清潔さ』が『味』に直結することを理解していない)
「第三に、魔導冷却室(マジック・フリーザー)のユニット! 庫内の温度をマイナス30度から、プラス15度まで自在に設定できるもの!」
(これで、完璧なショコラも、アイスクリームも、王都の連中が夢にも見ない『芸術品』が作れる。もう、氷室(ひむろ)に頼る時代は終わりよ)
「第四に、魔道具の泡立て器(ウィスク)を大小十個! それから、最高品質の銅鍋、サイズ違いで二十個! それから、最高級の小麦粉、砂糖、バターを、それぞれ運べるだけ!」
エリアーナの要求は、留まるところを知らなかった。
それは、「辺境での静養」を望んだ令嬢の買い物リストとは到底思えない、最新鋭の「研究所」を設立するための、完璧な機材リストだった。
セバスは、最初は目を白黒させ、その要求の金額の大きさに眩暈(めまい)を起こしていたが、羊皮紙にリストを書き連ねていくうちに、その表情は次第に、諦めと、そしてどこか懐かしい「安堵」の色に変わっていった。
(そうだ、このお方は、昔からこうだった)
彼の脳裏に、王都の厨房で教師たちに隠れてこっそりと、しかし生き生きと実験を繰り返していた幼い日のエリアーナの姿が重なる。
(王妃教育の教師が「淑女の嗜み」を説いている間も、厨房の隅で、小麦粉と卵の配合比率を変えたスポンジ生地の膨らみ方の違いを、真剣な目で記録されていた)
(王太子殿下も、王妃教育の教師どもも、皆、お嬢様の『この部分』だけを見て、恐れ、遠ざけた。……だが、この老いぼれには分かる。これこそが、クライフェルト公爵家の血……。いや、お嬢様ご自身の『魂』なのだ)
セバスは、ペンを走らせる手を止め、主の横顔を盗み見た。
ランプの揺れる光が、羊皮紙に走るインクの文字と、エリアーナの頬に付いた煤(すす)を、同じように照らしている。埃まみれの厨房で、髪を振り乱し、羊皮紙に「完璧なアトリエ」の設計図を書きなぐるエリアーナの顔は、心の底から楽しそうに輝いていた。
(……ああ。お嬢様は、ようやく『ご自分』の場所に、お戻りになられたのだ)
「……かしこまりました。お嬢様」
書き終えたセバスが、埃っぽい厨房で、完璧な執事の礼(おじぎ)をした。その声から、先程までの「狼狽」は消え、クライフェルト公爵家老執事としての「覚悟」に満ちたものに変わっていた。
「このセバス、お嬢様の『研究』が完成するまで、この命に代えても、お支えいたします」
「大袈裟ね、セバス」
エリアーナは、設計図(リスト)を満足げに眺めると、埃まみれの窓の外、沈みゆく夕日に照らされた「約束のテロワール」を眩しそうに見つめた。
「これは、命を懸けるような戦いではないわ」
(王宮での生活こそが、私の『パティシエール』としての命を削る戦いだった)
「これは、私が、この世界で最高の『作品』を作るための、楽しい、楽しい、スローライフの始まりなのよ!」
『食材図鑑』という最強の武器を手に、元悪役令嬢は、不毛の地と呼ばれた「約束のテロワール」で、高らかに笑うのだった。
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