『元悪役令嬢、追放先で奇跡の果樹園（フルーツパーラー）を開店する ～前世パティシエールの技術でスローライフのはずが、王室御用達になってしまい

第七章：来訪者（天才シェフの衝撃）

7-3：丘の上のアトリエ（冷徹な光景）

魔導馬車が、ついにクライフェルトの館の丘の麓に到着した。
リュカは、石畳の荒れた坂道を歩いて登りながら、辺境の館を見上げた。遠目からは荒涼とした古い館に見えたが、近づくにつれて、その外観の印象は一変した。
館の周囲は、ゲオルグ代官が手配した騎士たちによって厳重に警備されており、彼らはリュカの王都の身分証（『アトリエ・リュカ』のシェフ）を見ても、一切の妥協なく、厳しいチェックを行った。
「申し訳ありません、シェフ・ヴァランティン。エリアーナ様は、現在、『研究中』でございます。ご面会は、午後三時以降にお願いいたします」
冷たい声で門前払いを受けたリュカは、その厳格な対応に、かえって興奮を覚えた。王都の貴族の館なら、彼の名を聞けばすぐに通すだろう。しかし、ここは「王都の常識が通用しない、エリアーナの領域」だった。館の敷地には、王都のどの貴族邸よりも強い「侵入を拒む意志」が満ちていた。
リュカは、その待ち時間を利用し、館の周囲を観察した。彼が最も衝撃を受けたのは、館に隣接して建っている真新しい木造の温室と、その周囲に広がる土壌の異変だった。
「これは……桃の木の改変種か」
リュカは、遠目に、エリアーナが改変した『白夜の桃』の木が並ぶ一角を見つけた。その木々は、荒れた土壌にもかかわらず、健康的な濃い緑色の葉を茂らせ、純白の果実を輝かせている。その純白の桃は、まるで夜明けの雪の結晶がそのまま固形になったかのようだった。
彼は、その桃の木の枝に、そっと触れようとした。
その瞬間、彼の脳裏で、エリアーナの『食材図鑑』と同じような、分析のコードが走り抜けた。リュカには、エリアーナのような「情報表示」の能力はないが、長年の経験と天才的な味覚を持つ彼には、その植物が「規格外の力」を持っていることが、魔力的な波動として感じられたのだ。
（この桃の木は……『生き残るため』に糖度を凝縮しているのではない。まるで、『最高の作品を生み出すため』に、このテロワールを『支配』しているようだ！ これが、彼女の『植物改変』の真の力……王都の錬金術師が夢見る、「素材の純粋な昇華」そのものだ！）
彼の直感は、エリアーナの『植物改変能力』の核心に触れていた。王都の錬金術は、既存の素材を混ぜて「より高価なもの」を作ろうとするが、エリアーナの技術は、「素材の原点」から「究極の純粋性」を引き出していた。
午後三時。老執事セバスの静かな案内に導かれ、ようやくアトリエへの入室を許されたリュカは、その「研究室」の光景に、二度目の、そして最大の衝撃を受けた。
「……まるで、王立錬金術師の工房だ。いや、それ以上に無機質で、冷徹だ……」
煤けた石壁の中に、最新鋭のステンレス製調理台が冷たく輝いている。石窯は丹念に磨き上げられ、銅鍋は緑青の欠片一つなく、蒸気滅菌器（スチーマー）がフル稼働している。そして、最も驚いたのは、空気が持つ『清潔さ』だった。
王都のどのパティスリーも、バターや砂糖の濃厚な香りが充満しているが、このアトリエには、桃の清涼な香りと、石壁の冷たい空気しか存在しない。それは、雑菌や不純物といった、「ノイズ」が徹底的に排除されている空間、まさに「科学の実験室」だった。
（王都の厨房は、常に『匂いの濁流』の中にいる。だが、ここは違う。この清潔な冷気が、素材の微細な香りを正確に嗅ぎ分けるための『絶対的な静寂』を創り出している！ 彼女は、自分の五感を最大限に活かすために、環境そのものを支配しているのだ！）
アトリエの中心には、エリアーナが立っていた。彼女は、白い清潔な作業着を身に纏い、手には0.1グラム単位まで測れる魔導天秤で、粉を計量している。その横には、真剣な眼差しで、同じく作業服を着た村の少女、アンナが、師匠の指示を完璧に再現しようと、真剣に生地を捏ねていた。
「お待ちしておりましたわ、シェフ・ヴァランティン」
エリアーナは、リュカに目線を合わせることなく、作業を続けたまま、冷たい声で挨拶をした。彼女の視線は、目の前の生地の、微細なグルテンの形成に集中していた。彼女の瞳には、リュカという「王都の天才」は、今、「計算中の数式」よりも価値が低い、「観測者」としてしか映っていない。
「貴方が、私の『作品』に興味を持たれた、王都の天才シェフね。どうぞ、ご随意に。ただし、私の研究を妨げる行為は、一切許しません」
その言葉は、王都で彼が浴びてきた、貴族からの甘い称賛や、同業者からの媚びとは全く異なる、「対等な研究者」への、冷徹な警告だった。リュカは、その警告に、背筋が伸びるのを感じた。