『元悪役令嬢、追放先で奇跡の果樹園（フルーツパーラー）を開店する ～前世パティシエールの技術でスローライフのはずが、王室御用達になってしまい

第八章：開店（パーラー『秘密の庭園』）

8-5：アンナ、シェフ・パティシエとなる

『奇跡のパフェ』の完成を以て、エリアーナは、パーラーの運営に関する最終決定を下した。アトリエのステンレス調理台の上には、試食用に供されたパフェグラスが、辺境の冷たい光を浴びて静かに輝いている。
「リュカ殿。貴方は、私の『技術顧問』であり、アトリエでの『共同研究者』よ。貴方には、私のレシピを外に持ち出させないという、最も重要な責務があるわ。そのため、貴方にパーラーの『運営』に携わらせるわけにはいかない」
エリアーナは、自分のスローライフ（研究）の静寂を守るため、「天才シェフ」であるリュカを、「門番」としてアトリエに留まらせるという、冷徹な判断を下した。彼女の瞳は、一切の私情を挟まず、ただ「効率」だけを追求していた。
「承知いたしました、クライフェルト様。私の知識は、貴方様の『レシピ』の護衛に使わせていただきます。私にとって、これほど純粋な研究環境は、王都のどの場所よりも価値がある。私は、貴方様のアトリエの『壁』として、ここに留まりましょう」
リュカは、エリアーナの合理的かつ冷酷な論理に、心から納得していた。彼にとって、王都の名声よりも、エリアーナの技術の核心に触れられるこの場所こそが、最高の「学舎」だった。
エリアーナは、次に、アンナに向き直った。その瞳には、彼女への全幅の信頼と、未来への期待が込められていた。リュカへの冷徹な口調とは打って変わって、その声には、深い優しさが滲んでいた。
「アンナ。貴女は、明日からこの『秘密の庭園』のシェフ・パティシエよ。厨房の全てを、貴女に任せるわ。貴女には、王都の貴族たちから、私の研究室を守り抜くという、最も重要な任務がある」
アンナは、驚きと感激で、思わず言葉を失った。彼女は、まだ十六歳の、辺境の村の娘だ。王都の貴族が殺到する店の『シェフ・パティシエ』という、途方もない大役を任されるとは、夢にも思わなかった。
「し、師匠……！ わ、私が、シェフ・パティシエに……！？」
彼女の小さな手が、興奮で震えている。その手は、王都のドレスを縫う手ではなく、パティスリーの銅鍋を磨き上げ、繊細な生地を捏ねる手へと変わっていた。
「ええ。貴女の舌は、ノイズを許さない『最高のセンサー』。貴女の再現力は、私のレシピを寸分の狂いなく具現化する『精密機械』。王都のどんなベテランシェフよりも、この重責を担う資格があるわ。貴女が持つ、この地の素材への敬意と、純粋な味覚こそが、私のレシピを『生きた作品』として完成させるの」
エリアーナは、アンナの小さな手を握りしめた。その手は、かつては怯えに震えていたが、今は確かな技術への自信と師匠への忠誠心に満ちている。その師弟の絆は、辺境の冷たい光の中で、強い結びつきとなっていた。
「貴女の任務は、私の『作品』を、完璧な清潔さと正確さで客に届けること。客の『美味しい』という感情は、貴女の『正確さ』によって初めて生まれるものよ。そして、貴女が厨房に立つことで、私の研究室（アトリエ）は、完全に『聖域』となる。貴女は、私の『スローライフ（研究）を守る壁』よ。貴女の純粋な作品（スイーツ）が、彼らの好奇心という野蛮さを、畏敬の念へと変えるのよ」
アンナは、師匠の言葉に、感涙を禁じ得なかった。彼女の涙は、単なる喜びではない。辺境の村の娘が、世界を変える師匠の片腕として認められたことへの、強い誇りと、使命感だった。彼女は、このパーラーという「前線」に立つことで、師匠の「静寂」を、何よりも守り抜くという覚悟を決めた。
「はい、師匠！ このアンナ、師匠のレシピを、命懸けで守り、最高に『純粋な作品』を、一人でも多くのお客様に提供してみせます！ 私のこの舌が、師匠の作品の『門番』となります！ そして、このパーラーを、師匠の『静かなる研究』の、最高の舞台にしてみせます！」
アンナは、自らの手で、師匠に抱きついた。その時、彼女の『食材図鑑』は、アンナの成長を静かに表示していた。
『アンナ（シェフ・パティシエ）：パート・シュクレ（Lv.Max）、ムース（Lv.Max）、再現力（S）、支配力（テロワール・マネージメント）解放』
エリアーナは、最高の弟子が育ったことに満足し、リュカに向き直った。
「リュカ殿。貴方は、アンナの教育が完了したと判断し、アトリエに戻りましょう。明日から、私のスローライフが、ようやく『平穏な研究』の段階に入るわ。アンナという『完璧な門番』が、客のノイズを完全にシャットアウトしてくれる。私の計算通りよ」
彼女の言葉は、自信に満ちていた。しかし、彼女の視線は、パーラーの窓の外、丘の麓からこちらへ向かっている、無数の馬車の影を捉えていた。王都からの熱狂は、既に彼女たちの予想を超え、辺境の丘を埋め尽くそうとしていたのだ。エリアーナは、アンナという「最強の盾」を得たとはいえ、その「盾」がどれほどの重圧に耐えなければならないのかを、一瞬、冷たい恐怖と共に感じていた。