『元悪役令嬢、追放先で奇跡の果樹園（フルーツパーラー）を開店する ～前世パティシエールの技術でスローライフのはずが、王室御用達になってしまい

第八章：開店（パーラー『秘密の庭園』）

8-6：開店初日（狂乱の始まり）

パーラー『秘密の庭園』の開店初日。それは、辺境の丘に設けられた「美食の聖域」と、王都の貴族たちが持つ「満たされない渇望」が激突する、運命の日となった。
王都からの熱狂的な貴族たちが、辺境の地のこの小さな店に、まるで津波のように押し寄せていた。ゲオルグ代官が手配した騎士団が、門前で必死に貴族たちを列に並ばせているが、彼らの「奇跡のパフェ」への渇望は、騎士たちの威圧を遥かに凌駕していた。貴族たちの列は、丘の麓まで伸び、辺境の荒涼とした風景の中に、王都の贅沢な馬車とドレスという、異様な光景を創り出している。
「見て！ あの建物が、エリアーナ嬢の『アトリエ』だ！ 門番ども！ 私を入れろ！ 私はマルキ侯爵夫人だぞ！ なぜこんな辺境の娘に、待たされねばならん！」
「侯爵夫人、卑しい真似はお止めください！ 私こそ、昨日から徹夜でこの列に並んでいるのです！ 生の『白夜の桃』を食べる権利は、私にある！」
貴族たちは、もはや品位を捨て、純粋な『食欲』という獣の表情を露わにしていた。彼らの目には、辺境の館が「奇跡の金脈」にしか見えていなかった。彼らは、自らの体面をかなぐり捨て、「聖地巡礼」という名目で、優越的な味覚体験を求めていた。
パーラーの入口では、老執事セバスが、まるで「聖域の門番」のように、毅然とした態度で貴族たちの狂乱に立ち向かっていた。彼の背後には、リュカが設計した『結界』が、冷たい光を放っている。
「お待ちください、侯爵夫人！ このパーラーは、『完全予約制』。そして、『作品』を鑑賞するにふさわしい、『静寂』が求められます。お騒ぎになる方は、『退場』とさせていただきます！」
セバスの老いた声は、しかし、公爵家老執事としての威厳と覚悟に満ちており、貴族たちの喧騒を一時的に押し留めていた。彼は、このパーラーの「ルール」こそが、エリアーナの「スローライフ防衛線」であることを理解していた。
アトリエの窓から、エリアーナは騒ぎを感知していた。彼女の『食材図鑑』は、門前の騒ぎを『多忙（ノイズ）Lv.9』と表示している。彼女は、タルト生地の配合比率の記録に没頭しながら、冷静に状況を分析した。
「リュカ殿、貴方の『収容兵舎』の設計は完璧だったわ。客の動線は、私の研究室（アトリエ）から完璧に隔離されている」
エリアーナの顔には、「面倒だが、仕方ない」という研究者特有の諦めが浮かんでいた。彼女は、アンナという『最強の盾』が、今、厨房で作品を生み出していることを確信していた。
その時、パーラーの厨房（アンナの領域）から、石窯の焼ける香ばしい匂いと、桃の清涼な香りが、アトリエにまで静かに届いてきた。その香りは、王都の貴族が嗅いだことのない「純粋な香りの光」だった。
アンナが作った『奇跡のパフェ』が、『聖域と俗界の境界線』であるパススルー・カウンター越しに、一人目の客、侯爵夫人の前に差し出された。
侯爵夫人は、その純白に輝くムースと、宝石のようなピスタチオに、思わず息を飲んだ。パフェグラスからは、極限の冷気が放たれており、彼女の顔に触れるとその冷たさが、桃の清涼な香りを、彼女の嗅覚へと叩きつけた。
一口、そのパフェを口に入れた瞬間、辺境の丘の冷涼な空気が、彼女の五感を貫いた。彼女の脳裏に広がったのは、王都の虚飾とは無縁の、雪解けの朝の景色だった。
「――っ！ これは、光の味だ……！ 王都のどのスイーツも、この清涼な純粋さの前では、泥水だわ！」
侯爵夫人は、泣き崩れた。彼女の涙は、コンフィチュールの時とは違う。出来立ての『奇跡のパフェ』の、生の感動だった。その味は、彼女の下品な好奇心を、一瞬で崇高な畏敬の念へと変えた。
その場にいた貴族たち全員が、その『作品』の前に、言葉を失い、静かに、そして熱狂的に『食べる喜び』に耽り始めた。彼らの狂乱は、一瞬にして、崇拝の静寂へと変わった。彼らは、パフェを味わいながら、ガラスケースの中の『白夜の桃の木』を、まるで奇跡の源泉のように、静かに見つめていた。
アトリエに戻ったセバスが、エリアーナに報告した。彼の顔は、興奮と疲労で紅潮している。
「お嬢様！ 驚くべき静寂でございます！ あの貴族たちが、まるで教会にいる巡礼者のように、静かに作品を鑑賞しております！ アンナの作品は、王都の野蛮な好奇心を、完全に沈黙させました！」
エリアーナは、満足げに頷き、顔を上げた。彼女の目の前の羊皮紙には、ナッツのローストの最適な温度のデータが、完璧に記録されていた。
「私のスローライフは、『多忙』ではないわ。『研究の新しいステージ』へと入ったのよ。アンナという『最高の門番』が、私のために静寂を創り出した。さあ、リュカ殿。ナッツのローストの最適な温度について、再検証しましょう。次は、この『静寂』の中で、『ショートケーキLv.3』のレシピを完成させるわ」
エリアーナは、リュカとアンナという最高の仲間を得て、王都の熱狂を「研究テーマ」として受け入れ始めた。彼女の静かなスローライフは、彼女の意図とは裏腹に、「辺境の地で、世界を変える」という、新たなステージへと、不可避の転換を迎えたのだった。