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第九章:殺到(スローライフの崩壊)
9-5:多忙化の加速と次の戦略
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国王陛下からの勅命が届いたその夜、クライフェルト館のアトリエ隣のサロンに、エリアーナ、老執事セバス、技術顧問リュカ、そして辺境代官ゲオルグの四人が集まった。彼らの間には、王室からの『栄誉』という名の『難題』に対する、重い緊張感が漂っていた。
サロンの窓の外は、辺境の地の静かで、凍てつくような闇に包まれている。ランプの油の燃える音と、魔導コンロの冷却装置が微かに唸る音だけが、室内の静寂を破る。テーブルの上には、無造作に置かれた王室の勅命書が、その権威を主張するように鈍く光っていた。四人の顔は、ランプの温かい光と、窓外の冷たい闇のコントラストによって、決意と緊張の表情を交互に照らされていた。
「皆様、陛下からの勅命は、私の『スローライフ(研究)』を完全に侵害する、重大な『ノイズ』です」
エリアーナは、テーブルに広げられた勅命の羊皮紙を、冷徹な目で見下ろした。彼女の顔には、栄誉への喜びではなく、「いかにこの研究環境を守るか」という、一点に集中した探求者の覚悟が浮かんでいた。
「私の目的は、この地のテロワールを活かした『作品』を、静かに研究し、その『純粋性』を極めること。王都の貴族の群れに作品を提供し、社交界の義務を果たすことではないわ」
ゲオルグ代官は、その言葉に、武人らしい率直さで頭を下げた。彼の顔には、辺境領地への莫大な利益をもたらす『王室御用達』という栄誉を前に、主人の研究を優先させようとする、強い忠誠心が宿っていた。
「お嬢様。お言葉ですが、この勅命をお断りすることは、王家への明確な『反逆』と見なされかねません。王太子殿下が辺境で屈辱を受けられた今、この勅命は、陛下からお嬢様への、最大の『和解』の提案です。しかし、お嬢様のご研究を守るという点につきましては、このゲオルグ、全身全霊をもって賛同いたします」
「反逆、結構よ」と、エリアーナは冷たく言い放った。彼女は、目の前の勅命を、チェス盤の厄介な駒のように見ている。
「私が反逆する相手は、王家ではなく、私の『作品』の純粋性を損なう、全ての『妥協』よ。ですが、陛下からの『研究費』という名の『リソース』は、私の研究を大幅に加速させられる。この勅命を逆手に取り、私のスローライフを守り抜く『防波堤』を構築するわ」
エリアーナは、テーブルの中央に、最新作である『奇跡のパフェ』の設計図(レシピ)を広げた。その詳細な配合比率、温度、食感の構造は、リュカとアンナの共同研究の結晶だった。
「陛下が求められる『奇跡のパフェ』は、生の『白夜の桃』と、マイナス0.8度を厳守したムース、そして焼きたてのパート・シュクレが必要です。ムースの冷気は、辺境のこの冷涼な空気の中で、初めて『純粋性』を保てる。このパフェは、この辺境の地、そしてこのアトリエの『冷気』というテロワールでしか成立しない、極めて繊細な『構造体』よ」
リュカは、エリアーナの言葉に、神聖な儀式を執り行う司祭のように、静かに頷いた。彼の指先が、設計図に記されたムースの乳脂肪分(82%)と、冷却温度(-0.8℃)の数値を追う。
「おっしゃる通りです、クライフェルト様。このムースの構造は、『冷気の膜』によって保たれています。王都の湿度の高い空気は、この膜を即座に破り、ムースの内部の空気(エアレーション)を潰してしまうでしょう。辺境から王都まで魔導馬車で運んだ場合、長時間の微細な振動と、王都の温暖で湿った空気の二つの敵に晒されます。ムースは乳化が崩壊し、食感は『濁った水』と化します。生の桃も鮮度を失い、ムースの冷気が失われれば、パフェ全体が『野蛮な砂糖の塊』となるでしょう。辺境から王都への『生菓子』の輸送は、科学的・物理的に不可能です。これは、王家の権威をもってしても、覆せない『真理』です」
ゲオルグは、リュカの理路整然とした説明に、戦慄した。彼にとって、王家の勅命が「物理的に不可能」という理由で拒否されるなど、騎士としての常識を根底から揺るがす事態だった。
「な、なるほど……。王家の権威も、ムースの『乳化』には勝てない、と……。お嬢様の『作品』は、もはや王国の法律よりも厳密な『科学の壁』に守られているのですね!」
エリアーナは、リュカとゲオルグの反応に満足げな笑みを浮かべた。これこそが、彼女が求めていた、王室からの『義務』を合法的に拒否するための、最大の『盾』だった。
「そうよ、リュカ殿。王家からの勅命は、この辺境の地の『テロワール』を、王都へ持ち帰ることを求めている。だが、この『テロワール』は、動かせない。この『不可能』を、王家への『最大の敬意』として突きつけるのよ」
セバスは、主の戦略の深さに、思わず息を飲んだ。王室からの勅命を、技術的な『不可能』という名の『真理』で跳ね返す。それは、公爵令嬢としての品位を保ちつつ、王家の権威を否定しない、完璧な『防衛戦略』だった。
「では、お嬢様。どのように陛下へお返事を……」
エリアーナは、鋭い視線をセバスに向けた。その瞳は、彼女がこの勅命を、いかに自分の研究に転換するかという、次なる『戦略』を完璧に組み立てていることを示していた。
「セバス。貴方は陛下にこう伝えなさい。『奇跡のパフェは、その純粋性を保つため、辺境の地の冷気から一歩たりとも外へ持ち出すことはできません』と」
彼女は、そこで一度言葉を切り、テーブルの上で、リュカとアンナの最高の才能が融合した『ショートケーキLv.3』の設計図を、愛おしそうになぞった。その設計図には、グルテンの形成を極限まで抑えた『空気のスポンジ』の構造が、微細な数式で記されている。
「ただし。私の研究を、王都に広めるための『代理人』は、存在します。私のレシピを、私の求める『純粋性』で、王都の厨房で完璧に再現できる、唯一の弟子がね」
エリアーナの視線は、パーラーの厨房で奮闘している、一番弟子のアンナへと向けられた。リュカもまた、その瞬間、エリアーナの天才的な『戦略』の核心を悟り、興奮に目を輝かせた。
「アンナ嬢を……! 王都支店のシェフ・パティシエに任命されるのですね!」
リュカは、アンナの再現力の高さを知っている。彼女こそが、エリアーナのパティシエールとしての『魂』を、王都で最も完璧に具現化できる『精密機械(レプリカ)』だ。
「ええ。リュカ殿。そして、貴方には、その『王都支店』の立ち上げと、アンナへの『技術監督』を、期間限定でお願いしたいわ。貴方が王都に戻る『口実』と、私の『研究の静寂』を守るための、最後の防波堤よ。そして、最も重要な任務よ、バルト殿」
エリアーナは、会議には出席していないが、王都で待機しているバルト商会への指令を、セバスに託した。
「国庫からの無制限の研究費。その大半を、王都の食材調達ではなく、前世(あかね)の私が夢見た『新素材』の探求に投じるわ。バルト殿に、大陸の果てまで商隊を派遣させなさい。彼の商魂のすべてを懸けて、『カカオ豆』を探させなさい。あの、苦く、しかし究極の甘さを持つ、最高の『作品の骨格』をね」
彼女の瞳は、王都の貴族の群れではなく、遥か遠く、未知の新素材が眠る、大陸の未開の地を見つめていた。その表情は、王室御用達という地位ですら、単なる『研究の通過点』に過ぎないことを示していた。
「貴方が王都に戻る『口実』と、私の『研究の静寂』を守るための、最後の防波堤よ」
エリアーナは、王室からの『多忙化』というノイズを、最高の弟子を王都のシェフ・パティシエとして送り出し、最高の研究者を王都での雑務から解放する、という『二重の防御壁』の構築へと転換した。彼女の『スローライフ』は、意図とは裏腹に、王国の食文化を根底から変える、新たなステージへと加速していくのだった。
サロンの窓の外は、辺境の地の静かで、凍てつくような闇に包まれている。ランプの油の燃える音と、魔導コンロの冷却装置が微かに唸る音だけが、室内の静寂を破る。テーブルの上には、無造作に置かれた王室の勅命書が、その権威を主張するように鈍く光っていた。四人の顔は、ランプの温かい光と、窓外の冷たい闇のコントラストによって、決意と緊張の表情を交互に照らされていた。
「皆様、陛下からの勅命は、私の『スローライフ(研究)』を完全に侵害する、重大な『ノイズ』です」
エリアーナは、テーブルに広げられた勅命の羊皮紙を、冷徹な目で見下ろした。彼女の顔には、栄誉への喜びではなく、「いかにこの研究環境を守るか」という、一点に集中した探求者の覚悟が浮かんでいた。
「私の目的は、この地のテロワールを活かした『作品』を、静かに研究し、その『純粋性』を極めること。王都の貴族の群れに作品を提供し、社交界の義務を果たすことではないわ」
ゲオルグ代官は、その言葉に、武人らしい率直さで頭を下げた。彼の顔には、辺境領地への莫大な利益をもたらす『王室御用達』という栄誉を前に、主人の研究を優先させようとする、強い忠誠心が宿っていた。
「お嬢様。お言葉ですが、この勅命をお断りすることは、王家への明確な『反逆』と見なされかねません。王太子殿下が辺境で屈辱を受けられた今、この勅命は、陛下からお嬢様への、最大の『和解』の提案です。しかし、お嬢様のご研究を守るという点につきましては、このゲオルグ、全身全霊をもって賛同いたします」
「反逆、結構よ」と、エリアーナは冷たく言い放った。彼女は、目の前の勅命を、チェス盤の厄介な駒のように見ている。
「私が反逆する相手は、王家ではなく、私の『作品』の純粋性を損なう、全ての『妥協』よ。ですが、陛下からの『研究費』という名の『リソース』は、私の研究を大幅に加速させられる。この勅命を逆手に取り、私のスローライフを守り抜く『防波堤』を構築するわ」
エリアーナは、テーブルの中央に、最新作である『奇跡のパフェ』の設計図(レシピ)を広げた。その詳細な配合比率、温度、食感の構造は、リュカとアンナの共同研究の結晶だった。
「陛下が求められる『奇跡のパフェ』は、生の『白夜の桃』と、マイナス0.8度を厳守したムース、そして焼きたてのパート・シュクレが必要です。ムースの冷気は、辺境のこの冷涼な空気の中で、初めて『純粋性』を保てる。このパフェは、この辺境の地、そしてこのアトリエの『冷気』というテロワールでしか成立しない、極めて繊細な『構造体』よ」
リュカは、エリアーナの言葉に、神聖な儀式を執り行う司祭のように、静かに頷いた。彼の指先が、設計図に記されたムースの乳脂肪分(82%)と、冷却温度(-0.8℃)の数値を追う。
「おっしゃる通りです、クライフェルト様。このムースの構造は、『冷気の膜』によって保たれています。王都の湿度の高い空気は、この膜を即座に破り、ムースの内部の空気(エアレーション)を潰してしまうでしょう。辺境から王都まで魔導馬車で運んだ場合、長時間の微細な振動と、王都の温暖で湿った空気の二つの敵に晒されます。ムースは乳化が崩壊し、食感は『濁った水』と化します。生の桃も鮮度を失い、ムースの冷気が失われれば、パフェ全体が『野蛮な砂糖の塊』となるでしょう。辺境から王都への『生菓子』の輸送は、科学的・物理的に不可能です。これは、王家の権威をもってしても、覆せない『真理』です」
ゲオルグは、リュカの理路整然とした説明に、戦慄した。彼にとって、王家の勅命が「物理的に不可能」という理由で拒否されるなど、騎士としての常識を根底から揺るがす事態だった。
「な、なるほど……。王家の権威も、ムースの『乳化』には勝てない、と……。お嬢様の『作品』は、もはや王国の法律よりも厳密な『科学の壁』に守られているのですね!」
エリアーナは、リュカとゲオルグの反応に満足げな笑みを浮かべた。これこそが、彼女が求めていた、王室からの『義務』を合法的に拒否するための、最大の『盾』だった。
「そうよ、リュカ殿。王家からの勅命は、この辺境の地の『テロワール』を、王都へ持ち帰ることを求めている。だが、この『テロワール』は、動かせない。この『不可能』を、王家への『最大の敬意』として突きつけるのよ」
セバスは、主の戦略の深さに、思わず息を飲んだ。王室からの勅命を、技術的な『不可能』という名の『真理』で跳ね返す。それは、公爵令嬢としての品位を保ちつつ、王家の権威を否定しない、完璧な『防衛戦略』だった。
「では、お嬢様。どのように陛下へお返事を……」
エリアーナは、鋭い視線をセバスに向けた。その瞳は、彼女がこの勅命を、いかに自分の研究に転換するかという、次なる『戦略』を完璧に組み立てていることを示していた。
「セバス。貴方は陛下にこう伝えなさい。『奇跡のパフェは、その純粋性を保つため、辺境の地の冷気から一歩たりとも外へ持ち出すことはできません』と」
彼女は、そこで一度言葉を切り、テーブルの上で、リュカとアンナの最高の才能が融合した『ショートケーキLv.3』の設計図を、愛おしそうになぞった。その設計図には、グルテンの形成を極限まで抑えた『空気のスポンジ』の構造が、微細な数式で記されている。
「ただし。私の研究を、王都に広めるための『代理人』は、存在します。私のレシピを、私の求める『純粋性』で、王都の厨房で完璧に再現できる、唯一の弟子がね」
エリアーナの視線は、パーラーの厨房で奮闘している、一番弟子のアンナへと向けられた。リュカもまた、その瞬間、エリアーナの天才的な『戦略』の核心を悟り、興奮に目を輝かせた。
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リュカは、アンナの再現力の高さを知っている。彼女こそが、エリアーナのパティシエールとしての『魂』を、王都で最も完璧に具現化できる『精密機械(レプリカ)』だ。
「ええ。リュカ殿。そして、貴方には、その『王都支店』の立ち上げと、アンナへの『技術監督』を、期間限定でお願いしたいわ。貴方が王都に戻る『口実』と、私の『研究の静寂』を守るための、最後の防波堤よ。そして、最も重要な任務よ、バルト殿」
エリアーナは、会議には出席していないが、王都で待機しているバルト商会への指令を、セバスに託した。
「国庫からの無制限の研究費。その大半を、王都の食材調達ではなく、前世(あかね)の私が夢見た『新素材』の探求に投じるわ。バルト殿に、大陸の果てまで商隊を派遣させなさい。彼の商魂のすべてを懸けて、『カカオ豆』を探させなさい。あの、苦く、しかし究極の甘さを持つ、最高の『作品の骨格』をね」
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「貴方が王都に戻る『口実』と、私の『研究の静寂』を守るための、最後の防波堤よ」
エリアーナは、王室からの『多忙化』というノイズを、最高の弟子を王都のシェフ・パティシエとして送り出し、最高の研究者を王都での雑務から解放する、という『二重の防御壁』の構築へと転換した。彼女の『スローライフ』は、意図とは裏腹に、王国の食文化を根底から変える、新たなステージへと加速していくのだった。
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