前世が教師だった少年は辺境で愛される

結衣可

文字の大きさ
3 / 16

第3話 記憶のない名と告白

しおりを挟む
 雪の谷に、ようやく穏やかな日差しが戻っていた。
 吹雪が収まって3日。
 館の空気は、どこか柔らかくなっている。

 その日の午後、体調が完全に回復したミカは執事に呼ばれて客間を出た。
 扉を開けると、広間には館の使用人たちが並んでいた。
 皆、暖炉の火を背にして、穏やかな笑みを浮かべている。
 その中央に、黒い外套をまとったダリウスが立っていた。

「ミカ」

「……はい」

「改めて、紹介しておこう。彼らはこの館で働く者たちだ。
 お前を家族の一員として迎える以上、互いに顔を知っておくべきだと思ってな」

 その言葉に、ミカの胸が熱くなった。
 “家族の一員”――
 この世界で、そんなふうに言われたのは初めてだった。

 使用人たちは順に名乗り、軽く会釈をしてくれた。
 誰もがあたたかい目で彼を見ていた。
 リアムがその列の端から駆け寄り、「ミカ、ぼくの部屋にも今度来てね!」と笑う。
 笑い声が広間に小さく響いた。
 ほんの一瞬、夢のように穏やかな時間だった。

 だが、ダリウスの瞳が静かに彼を見つめる。

「ミカ」

「……はい」

「君のことを、少し教えてくれないか。」

 その声は責めるものではなく、
 ただ“知ろうとする”優しい響きだった。
 ミカは両手を膝の上で握りしめた。

「皆さんに、本当に良くしていただいて……感謝しています。
 でも……」

 そこまで言って、言葉が途切れる。

 静寂が落ちた。
 暖炉の薪がぱちりと音を立てた。
 ダリウスは少し歩み寄り、柔らかな声で言う。

「安心しろ。ここにはお前を傷つけるような者はいない」

 その言葉に、ミカの喉の奥が熱くなった。
 恐怖ではなく、あたたかさに押し流されそうになる。
 ゆっくりと息を吸い、勇気を出して口を開く。

「……僕は、ミカとしての記憶がありません。」

 その瞬間、広間の空気がわずかに揺れた。

「この世界とは、別の世界での記憶しかないのです。
 信じられないかもしれないですが……僕自身、どうしていいのか分からないんです」

 ミカの瞳から、一粒の涙がこぼれた。
 頬を伝って、静かに落ちる。

「気がついたら知らない場所にいて、知らない人たちに囲まれて……
 でも、前の世界のことだけは鮮明に覚えていて。
 村の人たちはそれを恐れました。
 僕を“気味が悪い”と言って、家を追い出しました」

 声が震える。
 言葉を紡ぐたびに、過去の痛みが溢れ出す。

「歩くしかなくて……
 誰にも見つからずに、消えてしまいたいと思って……
 でも、あなたが、助けてくれた」

 ミカは顔を上げた。
 涙に濡れた瞳が、まっすぐダリウスを映す。

「どうして僕なんかを、助けてくれたんですか……?」

 ダリウスは少しのあいだ黙っていた。
 やがて静かに息を吐き、椅子を引いた。
 そのままミカの隣に腰を下ろす。

「……理由を言葉にするのは、難しいな」

 低い声が、暖炉の音に溶ける。

「ただ、あの夜、お前を見たとき――助けなければいけないと思った。
 それだけだ」

 それは冷静な説明ではなく、人としての、まっすぐな想いだった。
 ダリウスはそっと肩に手を置いた。
 驚くほど大きく、温かい手だった。

「大丈夫だ。分かっていることだけでいい。
 今の自分を、ゆっくり話してくれ。」

 その優しい声に、今まで抑えてきた感情が一気に溢れた。
 ミカの身体が震え、涙が止まらなくなる。

「ごめんなさい……本当にごめんなさい……」

 言葉にならない嗚咽が、静かな部屋に響く。
 ダリウスは何も言わず、彼の肩を抱いた。
 まるで壊れものを包むように。
 リアムが心配そうに駆け寄り、ミカの手を握った。

「泣かないで……ミカ」

 その小さな手の温かさが、痛いほどにやさしい。
 ダリウスはリアムの頭を撫でながら、ゆっくりと告げた。

「――ゆっくりでいい。ちゃんと教えてくれ。」

 ミカは涙の中でうなずいた。
 そして、途切れ途切れの言葉で、少しずつ語り始めた。

 自分が覚えている“前の世界”のこと。
 教壇に立っていたこと。子どもたちの笑い声。
 帰り道に降っていた大雨のこと。
 気がつけば雪の世界にいて、別の名前を名乗っていたこと。

 聞いている者たちは誰ひとりとして嘲らなかった。
 皆、ただ静かに耳を傾けていた。
 やがて語り終えると、ミカの肩の力が抜け、長い吐息が零れた。

「……それが、僕のすべてです。」

 沈黙ののち、ダリウスは言った。

「分かった。お前がどこの誰であろうと、ここでは“ミカ”だ」

 その言葉が胸に沁みた。
 名を与えられたような感覚だった。

 ダリウスは立ち上がり、暖炉にくべた薪の火を見つめながら続けた。

「この館では、過去は問わない。
 今ここにいる者が、互いに支え合えばそれでいい。」

 ミカは涙の跡を袖で拭い、かすかに笑った。

「……ありがとうございます。
 僕、ここで……もう一度やり直したいです。」

 リアムがぱっと笑顔を見せた。

「じゃあ、今日からミカはぼくの先生だね!」

「せ、先生?」

「うん!ミカ、先生だったんでしょう? 文字、教えて!」

 笑い声が弾けた。
 重かった空気がふっと軽くなる。
 ダリウスも口元を緩め、「悪くない役目だな」と静かに呟いた。

 暖炉の火がまたひときわ明るく揺れた。
 雪の国の館に、ようやく新しい春の音が、ほんの少しだけ届いたようだった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

【完結】婚約破棄された僕はギルドのドSリーダー様に溺愛されています

八神紫音
BL
 魔道士はひ弱そうだからいらない。  そういう理由で国の姫から婚約破棄されて追放された僕は、隣国のギルドの町へとたどり着く。  そこでドSなギルドリーダー様に拾われて、  ギルドのみんなに可愛いとちやほやされることに……。

【完結】この契約に愛なんてないはずだった

なの
BL
劣勢オメガの翔太は、入院中の母を支えるため、昼夜問わず働き詰めの生活を送っていた。 そんなある日、母親の入院費用が払えず、困っていた翔太を救ったのは、冷静沈着で感情を見せない、大企業副社長・鷹城怜司……優勢アルファだった。 数日後、怜司は翔太に「1年間、仮の番になってほしい」と持ちかける。 身体の関係はなし、報酬あり。感情も、未来もいらない。ただの契約。 生活のために翔太はその条件を受け入れるが、理性的で無表情なはずの怜司が、ふとした瞬間に見せる優しさに、次第に心が揺らいでいく。 これはただの契約のはずだった。 愛なんて、最初からあるわけがなかった。 けれど……二人の距離が近づくたびに、仮であるはずの関係は、静かに熱を帯びていく。 ツンデレなオメガと、理性を装うアルファ。 これは、仮のはずだった番契約から始まる、運命以上の恋の物語。

【完結】僕の異世界転生先は卵で生まれて捨てられた竜でした

エウラ
BL
どうしてこうなったのか。 僕は今、卵の中。ここに生まれる前の記憶がある。 なんとなく異世界転生したんだと思うけど、捨てられたっぽい? 孵る前に死んじゃうよ!と思ったら誰かに助けられたみたい。 僕、頑張って大きくなって恩返しするからね! 天然記念物的な竜に転生した僕が、助けて育ててくれたエルフなお兄さんと旅をしながらのんびり過ごす話になる予定。 突発的に書き出したので先は分かりませんが短い予定です。 不定期投稿です。 本編完結で、番外編を更新予定です。不定期です。

ビジネス婚は甘い、甘い、甘い!

ユーリ
BL
幼馴染のモデル兼俳優にビジネス婚を申し込まれた湊は承諾するけれど、結婚生活は思ったより甘くて…しかもなぜか同僚にも迫られて!? 「お前はいい加減俺に興味を持て」イケメン芸能人×ただの一般人「だって興味ないもん」ーー自分の旦那に全く興味のない湊に嫁としての自覚は芽生えるか??

婚約破棄で追放された悪役令息の俺、実はオメガだと隠していたら辺境で出会った無骨な傭兵が隣国の皇太子で運命の番でした

水凪しおん
BL
「今この時をもって、貴様との婚約を破棄する!」 公爵令息レオンは、王子アルベルトとその寵愛する聖女リリアによって、身に覚えのない罪で断罪され、全てを奪われた。 婚約、地位、家族からの愛――そして、痩せ衰えた最果ての辺境地へと追放される。 しかし、それは新たな人生の始まりだった。 前世の知識というチート能力を秘めたレオンは、絶望の地を希望の楽園へと変えていく。 そんな彼の前に現れたのは、ミステリアスな傭兵カイ。 共に困難を乗り越えるうち、二人の間には強い絆が芽生え始める。 だがレオンには、誰にも言えない秘密があった。 彼は、この世界で蔑まれる存在――「オメガ」なのだ。 一方、レオンを追放した王国は、彼の不在によって崩壊の一途を辿っていた。 これは、どん底から這い上がる悪役令息が、運命の番と出会い、真実の愛と幸福を手に入れるまでの物語。 痛快な逆転劇と、とろけるほど甘い溺愛が織りなす、異世界やり直しロマンス!

アプリで都合のいい男になろうとした結果、彼氏がバグりました

あと
BL
「目指せ!都合のいい男!」 穏やか完璧モテ男(理性で執着を押さえつけてる)×親しみやすい人たらし可愛い系イケメン 攻めの両親からの別れろと圧力をかけられた受け。関係は秘密なので、友達に相談もできない。悩んでいる中、どうしても別れたくないため、愛人として、「都合のいい男」になることを決意。人生相談アプリを手に入れ、努力することにする。しかし、攻めに約束を破ったと言われ……?   攻め:深海霧矢 受け:清水奏 前にアンケート取ったら、すれ違い・勘違いものが1位だったのでそれ系です。 ハピエンです。 ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。 自己判断で消しますので、悪しからず。

婚約破棄された悪役令息は従者に溺愛される

田中
BL
BLゲームの悪役令息であるリアン・ヒスコックに転生してしまった俺は、婚約者である第二王子から断罪されるのを待っていた! なぜなら断罪が領地で療養という軽い処置だから。 婚約破棄をされたリアンは従者のテオと共に領地の屋敷で暮らすことになるが何気ないリアンの一言で、テオがリアンにぐいぐい迫ってきてーー?! 従者×悪役令息

異世界にやってきたら氷の宰相様が毎日お手製の弁当を持たせてくれる

七瀬京
BL
異世界に召喚された大学生ルイは、この世界を救う「巫覡」として、力を失った宝珠を癒やす役目を与えられる。 だが、異界の食べ物を受けつけない身体に苦しみ、倒れてしまう。 そんな彼を救ったのは、“氷の宰相”と呼ばれる美貌の男・ルースア。 唯一ルイが食べられるのは、彼の手で作られた料理だけ――。 優しさに触れるたび、ルイの胸に芽生える感情は“感謝”か、それとも“恋”か。 穏やかな日々の中で、ふたりの距離は静かに溶け合っていく。 ――心と身体を癒やす、年の差主従ファンタジーBL。

処理中です...