前世が教師だった少年は辺境で愛される

結衣可

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第10話 春の宴、帰りを待つ灯

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 春は本当に来たのだ、とミカは思った。
 雪解けの川がきらめき、風が柔らかく頬を撫でていく。
 年に一度の「春の宴」の日。
 村の広場には屋台が並び、人々の笑い声が響いていた。

 領主として公務に出るダリウスの代わりに、ミカはジェスを護衛に、リアムを連れて祭りへ向かった。

「ミカ先生! 見て、風船だよ!」

「ほんとだ。……あっちからはパンのいい香りがするよ。」

 屋台が並ぶ。蜂蜜を染み込ませた揚げ菓子、香草のソーセージ、煮込みのスープ、焼きたてのパン。
 音楽隊の笛が軽やかに鳴り、子どもたちが輪になって跳ねる。
 花売りの籠には色とりどりの花が詰められている。
 冬を越えた人々の笑顔が、春の光の中でまぶしかった。
 
 ジェスは2人の後ろを歩きながら、ときおり周囲を警戒していたが、その表情もどこかやわらいでいた。

「はしゃぎすぎて迷子にならぬように、坊ちゃま、ミカ様としっかり手を繋いでください」

「はーい!」

 リアムがミカの手をぎゅっと握る。
 ミカも笑ってその小さな手を握り返した。
 花冠の屋台で、リアムは真剣な顔になった。

「ミカ先生、これ、似合う?」

「うん。とても」

 店主の少女が笑って、もう一つの花冠をそっとミカの頭に載せる。花の影が揺れ、リアムが「きれいだね!」と拍手をし、ミカも思わず笑った。
 香ばしい湯気の向こうで、ふと胸がきゅっとなる。

(……ダリウス様も、一緒に見られたらよかったのに。)

 彼は領民の代表と会い、収穫や道路の相談に応じているはずだ。
 胸の奥の寂しさを、ミカは笑みに紛らせた。

「ねえ、ミカ先生。パパにおみやげ、買おうよ!」

「いいね。どれが似合うと思う?」

 並んだ品々を見て回る。革細工の栞、銀のタイピン、香りのよい茶葉、温かいウールの手袋。

「パパ、本を読むから……」

「じゃあ、革の栞と――この、ベルフラワーの押し花が入ってるやつはどうかな」

「それ! それにする!」

 ジェスが支払いを済ませる間、ミカは押し花の青を透かして見た。温室の色と同じだ。

 腹ごしらえをして、笛の音に合わせて小さく踊り、甘い菓子で口を汚し、笑い疲れるまで笑った。
 祭りの明るさは、前の世界の夏祭りの眩しさにどこか似ていた。
 夕暮れが近づくころ、ミカはリアムの肩をとんとんと叩いた。

「そろそろ帰ろうか」

「うん……ねむい……」

 ジェスが微笑む。

「よく遊ばれてましたね」

 館へ戻ると、リアムは風呂上がりの湯気でさらに眠気に拍車がかかり、布団に入るなり落ちてしまった。

「おみやげ、明日、パパにわたす……」

「うん。ちゃんと枕元に置いておこうね」

 ミカは革の栞を小さな包みに戻し、リアムの枕元へ置いた。押し花の青が灯りに揺れる。

 部屋を出て、ミカは少し迷ってから、玄関ホールへ向かった。
 扉は固く閉ざされ、夜気が石床を冷たくしている。大きな時計の針が静かに進み、暖炉の火が低く燃えていた。

(少しだけ、ダリウス様の顔を見られたら……)

 壁際の長椅子に腰掛ける。外套の袖を抱え、息を吐く。
 あの人が帰ってきたら、「おかえりなさい」って言いたい。
 今日は領地の人々がどれだけ嬉しそうだったかを話したい。リアムがどれほど笑ったかを伝えたい。

 針はまた一つ、音を刻む。
 まぶたが重くなっていく。
 目を閉じかけたまま、思う。

(……ダリウス様の声、聞きたいな。)

 静かな寝息が、暖炉の赤に溶けた。

 やがて、ジェスが足音を忍ばせて現れた。

「……やはりここでお待ちでしたか」

 ミカは身じろぎもせず、丸くなって眠っている。
 祭りの余韻が頬に残り、花冠を外した髪には微かに花の香りがある。
 ジェスはそっと毛布を取りに行き、肩から膝へと掛けた。

「旦那様が遅くなるからと……無理をなさって」

 そのとき、重い扉の向こうで車輪の音が止まった。
 冷たい夜気とともに、扉が開く。
 灰色の瞳がまずジェスを、次に長椅子の上の小さな寝息を捉えた。

「……ミカはどうした?」

「旦那様のお帰りを玄関で待たれていたようです。しかし、お祭りではしゃぎ疲れて、そのまま……」

 ダリウスはしばし言葉を失い、ふっと目を細めた。

「そうか。……あとは俺が代わろう」

 彼は毛布を整え、身を屈めた。腕を差し入れると、ミカの体は驚くほど軽かった。
 胸元へ抱き上げる。花の香りと祭りの甘い匂いがかすかに混じる。
 長椅子の影が揺れ、ジェスが一歩下がった。

「鍵を頼む。あとは休め」

「はっ」

 廊下は静かだった。
 ダリウスは足音を殺し、館の奥――いつもは人を入れない私室へと向かう。
 扉を開けると、暖炉に残した火がまだ赤く、寝台には新しいシーツが張られていた。
 ミカをそっと横たえ、ブーツを脱がせ、毛布をかける。
 頬には祭りの名残の紅がうっすら残り、唇は静かな寝息に合わせてわずかに動く。
 ダリウスは椅子を引き、呼吸を整えた。胸の何かが熱くなっていく、同時に冷静な声が理性を促す。

(身勝手な衝動で、この子の安眠を乱すな。)

(だが――)

 ダリウスはミカから目を離させないでいると、唇がかすかに動いた。

「……ダリウス、さま?……おかえりなさい……」

 その寝言に、心臓が鳴った。
 そっと髪を払う。頬を撫でる指先に、熱が宿る。

「……おかえり、と言うために待っていたのか」

(……どうして、これほどまでに。)

 妻を亡くしてから、誰かに触れたいと思ったのは初めてだった。
 彼を目の前にして抱く感情はただの庇護欲ではなく、確かに愛おしいと感じる。

 抑えきれない衝動に、ダリウスはゆっくりと身をかがめた。
 ほんの,このひと時だけ、理性を捨てて。
 唇が、ミカの髪をかすめ、額へ、そして頬へ。
 その柔らかさに、胸が震える。
 最後に、ためらいながら唇を寄せた。
 触れるか、触れないかの浅い口づけ。
 熱を残すだけの、静かな祈りのようなキスだった。

「……すまない」

 呟く声は苦しげで、それでも優しい。

「もっと早く帰ってやれば良かった」

 ミカは目を覚まさない。
 けれどその唇が、ほんのわずかに笑みに緩んだ。

「……おやすみ、ゆう。良い夢を」 

 寝息は安らかだ。
 ダリウスは毛布の端をきちんと折り返し、掌で軽く押さえた。衣擦れの音さえ起こさぬように、椅子を戻す。

 扉に手をかけてから、もう一度だけ振り返る。
 灯に照らされた寝顔は、春の夜よりも静かで、暖かい。胸の奥の熱が、ゆっくりと形を持った言葉に変わっていく。

(――俺はゆうを愛している。この日々を守らなければ。)

 廊下の灯りが消え、館は眠りについた。
 暖炉の赤が細く瞬き、春の夜風がガラスを撫でる。
 寝台の上でミカは、ダリウスの香りに包まれ、夢の中で「おかえりなさい」と伝えた。
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