前世が教師だった少年は辺境で愛される

結衣可

文字の大きさ
10 / 16

第10話 春の宴、帰りを待つ灯

しおりを挟む
 春は本当に来たのだ、とミカは思った。
 雪解けの川がきらめき、風が柔らかく頬を撫でていく。
 年に一度の「春の宴」の日。
 村の広場には屋台が並び、人々の笑い声が響いていた。

 領主として公務に出るダリウスの代わりに、ミカはジェスを護衛に、リアムを連れて祭りへ向かった。

「ミカ先生! 見て、風船だよ!」

「ほんとだ。……あっちからはパンのいい香りがするよ。」

 屋台が並ぶ。蜂蜜を染み込ませた揚げ菓子、香草のソーセージ、煮込みのスープ、焼きたてのパン。
 音楽隊の笛が軽やかに鳴り、子どもたちが輪になって跳ねる。
 花売りの籠には色とりどりの花が詰められている。
 冬を越えた人々の笑顔が、春の光の中でまぶしかった。
 
 ジェスは2人の後ろを歩きながら、ときおり周囲を警戒していたが、その表情もどこかやわらいでいた。

「はしゃぎすぎて迷子にならぬように、坊ちゃま、ミカ様としっかり手を繋いでください」

「はーい!」

 リアムがミカの手をぎゅっと握る。
 ミカも笑ってその小さな手を握り返した。
 花冠の屋台で、リアムは真剣な顔になった。

「ミカ先生、これ、似合う?」

「うん。とても」

 店主の少女が笑って、もう一つの花冠をそっとミカの頭に載せる。花の影が揺れ、リアムが「きれいだね!」と拍手をし、ミカも思わず笑った。
 香ばしい湯気の向こうで、ふと胸がきゅっとなる。

(……ダリウス様も、一緒に見られたらよかったのに。)

 彼は領民の代表と会い、収穫や道路の相談に応じているはずだ。
 胸の奥の寂しさを、ミカは笑みに紛らせた。

「ねえ、ミカ先生。パパにおみやげ、買おうよ!」

「いいね。どれが似合うと思う?」

 並んだ品々を見て回る。革細工の栞、銀のタイピン、香りのよい茶葉、温かいウールの手袋。

「パパ、本を読むから……」

「じゃあ、革の栞と――この、ベルフラワーの押し花が入ってるやつはどうかな」

「それ! それにする!」

 ジェスが支払いを済ませる間、ミカは押し花の青を透かして見た。温室の色と同じだ。

 腹ごしらえをして、笛の音に合わせて小さく踊り、甘い菓子で口を汚し、笑い疲れるまで笑った。
 祭りの明るさは、前の世界の夏祭りの眩しさにどこか似ていた。
 夕暮れが近づくころ、ミカはリアムの肩をとんとんと叩いた。

「そろそろ帰ろうか」

「うん……ねむい……」

 ジェスが微笑む。

「よく遊ばれてましたね」

 館へ戻ると、リアムは風呂上がりの湯気でさらに眠気に拍車がかかり、布団に入るなり落ちてしまった。

「おみやげ、明日、パパにわたす……」

「うん。ちゃんと枕元に置いておこうね」

 ミカは革の栞を小さな包みに戻し、リアムの枕元へ置いた。押し花の青が灯りに揺れる。

 部屋を出て、ミカは少し迷ってから、玄関ホールへ向かった。
 扉は固く閉ざされ、夜気が石床を冷たくしている。大きな時計の針が静かに進み、暖炉の火が低く燃えていた。

(少しだけ、ダリウス様の顔を見られたら……)

 壁際の長椅子に腰掛ける。外套の袖を抱え、息を吐く。
 あの人が帰ってきたら、「おかえりなさい」って言いたい。
 今日は領地の人々がどれだけ嬉しそうだったかを話したい。リアムがどれほど笑ったかを伝えたい。

 針はまた一つ、音を刻む。
 まぶたが重くなっていく。
 目を閉じかけたまま、思う。

(……ダリウス様の声、聞きたいな。)

 静かな寝息が、暖炉の赤に溶けた。

 やがて、ジェスが足音を忍ばせて現れた。

「……やはりここでお待ちでしたか」

 ミカは身じろぎもせず、丸くなって眠っている。
 祭りの余韻が頬に残り、花冠を外した髪には微かに花の香りがある。
 ジェスはそっと毛布を取りに行き、肩から膝へと掛けた。

「旦那様が遅くなるからと……無理をなさって」

 そのとき、重い扉の向こうで車輪の音が止まった。
 冷たい夜気とともに、扉が開く。
 灰色の瞳がまずジェスを、次に長椅子の上の小さな寝息を捉えた。

「……ミカはどうした?」

「旦那様のお帰りを玄関で待たれていたようです。しかし、お祭りではしゃぎ疲れて、そのまま……」

 ダリウスはしばし言葉を失い、ふっと目を細めた。

「そうか。……あとは俺が代わろう」

 彼は毛布を整え、身を屈めた。腕を差し入れると、ミカの体は驚くほど軽かった。
 胸元へ抱き上げる。花の香りと祭りの甘い匂いがかすかに混じる。
 長椅子の影が揺れ、ジェスが一歩下がった。

「鍵を頼む。あとは休め」

「はっ」

 廊下は静かだった。
 ダリウスは足音を殺し、館の奥――いつもは人を入れない私室へと向かう。
 扉を開けると、暖炉に残した火がまだ赤く、寝台には新しいシーツが張られていた。
 ミカをそっと横たえ、ブーツを脱がせ、毛布をかける。
 頬には祭りの名残の紅がうっすら残り、唇は静かな寝息に合わせてわずかに動く。
 ダリウスは椅子を引き、呼吸を整えた。胸の何かが熱くなっていく、同時に冷静な声が理性を促す。

(身勝手な衝動で、この子の安眠を乱すな。)

(だが――)

 ダリウスはミカから目を離させないでいると、唇がかすかに動いた。

「……ダリウス、さま?……おかえりなさい……」

 その寝言に、心臓が鳴った。
 そっと髪を払う。頬を撫でる指先に、熱が宿る。

「……おかえり、と言うために待っていたのか」

(……どうして、これほどまでに。)

 妻を亡くしてから、誰かに触れたいと思ったのは初めてだった。
 彼を目の前にして抱く感情はただの庇護欲ではなく、確かに愛おしいと感じる。

 抑えきれない衝動に、ダリウスはゆっくりと身をかがめた。
 ほんの,このひと時だけ、理性を捨てて。
 唇が、ミカの髪をかすめ、額へ、そして頬へ。
 その柔らかさに、胸が震える。
 最後に、ためらいながら唇を寄せた。
 触れるか、触れないかの浅い口づけ。
 熱を残すだけの、静かな祈りのようなキスだった。

「……すまない」

 呟く声は苦しげで、それでも優しい。

「もっと早く帰ってやれば良かった」

 ミカは目を覚まさない。
 けれどその唇が、ほんのわずかに笑みに緩んだ。

「……おやすみ、ゆう。良い夢を」 

 寝息は安らかだ。
 ダリウスは毛布の端をきちんと折り返し、掌で軽く押さえた。衣擦れの音さえ起こさぬように、椅子を戻す。

 扉に手をかけてから、もう一度だけ振り返る。
 灯に照らされた寝顔は、春の夜よりも静かで、暖かい。胸の奥の熱が、ゆっくりと形を持った言葉に変わっていく。

(――俺はゆうを愛している。この日々を守らなければ。)

 廊下の灯りが消え、館は眠りについた。
 暖炉の赤が細く瞬き、春の夜風がガラスを撫でる。
 寝台の上でミカは、ダリウスの香りに包まれ、夢の中で「おかえりなさい」と伝えた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

【完結】婚約破棄された僕はギルドのドSリーダー様に溺愛されています

八神紫音
BL
 魔道士はひ弱そうだからいらない。  そういう理由で国の姫から婚約破棄されて追放された僕は、隣国のギルドの町へとたどり着く。  そこでドSなギルドリーダー様に拾われて、  ギルドのみんなに可愛いとちやほやされることに……。

【完結】この契約に愛なんてないはずだった

なの
BL
劣勢オメガの翔太は、入院中の母を支えるため、昼夜問わず働き詰めの生活を送っていた。 そんなある日、母親の入院費用が払えず、困っていた翔太を救ったのは、冷静沈着で感情を見せない、大企業副社長・鷹城怜司……優勢アルファだった。 数日後、怜司は翔太に「1年間、仮の番になってほしい」と持ちかける。 身体の関係はなし、報酬あり。感情も、未来もいらない。ただの契約。 生活のために翔太はその条件を受け入れるが、理性的で無表情なはずの怜司が、ふとした瞬間に見せる優しさに、次第に心が揺らいでいく。 これはただの契約のはずだった。 愛なんて、最初からあるわけがなかった。 けれど……二人の距離が近づくたびに、仮であるはずの関係は、静かに熱を帯びていく。 ツンデレなオメガと、理性を装うアルファ。 これは、仮のはずだった番契約から始まる、運命以上の恋の物語。

【完結】僕の異世界転生先は卵で生まれて捨てられた竜でした

エウラ
BL
どうしてこうなったのか。 僕は今、卵の中。ここに生まれる前の記憶がある。 なんとなく異世界転生したんだと思うけど、捨てられたっぽい? 孵る前に死んじゃうよ!と思ったら誰かに助けられたみたい。 僕、頑張って大きくなって恩返しするからね! 天然記念物的な竜に転生した僕が、助けて育ててくれたエルフなお兄さんと旅をしながらのんびり過ごす話になる予定。 突発的に書き出したので先は分かりませんが短い予定です。 不定期投稿です。 本編完結で、番外編を更新予定です。不定期です。

ビジネス婚は甘い、甘い、甘い!

ユーリ
BL
幼馴染のモデル兼俳優にビジネス婚を申し込まれた湊は承諾するけれど、結婚生活は思ったより甘くて…しかもなぜか同僚にも迫られて!? 「お前はいい加減俺に興味を持て」イケメン芸能人×ただの一般人「だって興味ないもん」ーー自分の旦那に全く興味のない湊に嫁としての自覚は芽生えるか??

婚約破棄で追放された悪役令息の俺、実はオメガだと隠していたら辺境で出会った無骨な傭兵が隣国の皇太子で運命の番でした

水凪しおん
BL
「今この時をもって、貴様との婚約を破棄する!」 公爵令息レオンは、王子アルベルトとその寵愛する聖女リリアによって、身に覚えのない罪で断罪され、全てを奪われた。 婚約、地位、家族からの愛――そして、痩せ衰えた最果ての辺境地へと追放される。 しかし、それは新たな人生の始まりだった。 前世の知識というチート能力を秘めたレオンは、絶望の地を希望の楽園へと変えていく。 そんな彼の前に現れたのは、ミステリアスな傭兵カイ。 共に困難を乗り越えるうち、二人の間には強い絆が芽生え始める。 だがレオンには、誰にも言えない秘密があった。 彼は、この世界で蔑まれる存在――「オメガ」なのだ。 一方、レオンを追放した王国は、彼の不在によって崩壊の一途を辿っていた。 これは、どん底から這い上がる悪役令息が、運命の番と出会い、真実の愛と幸福を手に入れるまでの物語。 痛快な逆転劇と、とろけるほど甘い溺愛が織りなす、異世界やり直しロマンス!

アプリで都合のいい男になろうとした結果、彼氏がバグりました

あと
BL
「目指せ!都合のいい男!」 穏やか完璧モテ男(理性で執着を押さえつけてる)×親しみやすい人たらし可愛い系イケメン 攻めの両親からの別れろと圧力をかけられた受け。関係は秘密なので、友達に相談もできない。悩んでいる中、どうしても別れたくないため、愛人として、「都合のいい男」になることを決意。人生相談アプリを手に入れ、努力することにする。しかし、攻めに約束を破ったと言われ……?   攻め:深海霧矢 受け:清水奏 前にアンケート取ったら、すれ違い・勘違いものが1位だったのでそれ系です。 ハピエンです。 ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。 自己判断で消しますので、悪しからず。

婚約破棄された悪役令息は従者に溺愛される

田中
BL
BLゲームの悪役令息であるリアン・ヒスコックに転生してしまった俺は、婚約者である第二王子から断罪されるのを待っていた! なぜなら断罪が領地で療養という軽い処置だから。 婚約破棄をされたリアンは従者のテオと共に領地の屋敷で暮らすことになるが何気ないリアンの一言で、テオがリアンにぐいぐい迫ってきてーー?! 従者×悪役令息

異世界にやってきたら氷の宰相様が毎日お手製の弁当を持たせてくれる

七瀬京
BL
異世界に召喚された大学生ルイは、この世界を救う「巫覡」として、力を失った宝珠を癒やす役目を与えられる。 だが、異界の食べ物を受けつけない身体に苦しみ、倒れてしまう。 そんな彼を救ったのは、“氷の宰相”と呼ばれる美貌の男・ルースア。 唯一ルイが食べられるのは、彼の手で作られた料理だけ――。 優しさに触れるたび、ルイの胸に芽生える感情は“感謝”か、それとも“恋”か。 穏やかな日々の中で、ふたりの距離は静かに溶け合っていく。 ――心と身体を癒やす、年の差主従ファンタジーBL。

処理中です...