もう一度、その腕に

結衣可

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第1話 庭の片隅で

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《登場人物》

リオネル・エルディアン(愛称:リオ)
 年齢:16歳(カインとの出会いは10歳)。
 外見:金髪で淡いブルーの瞳。
   柔らかい雰囲気を持つ。
 性格:素直で人を疑わない。
   天然で少し抜けているが、言葉は
   まっすぐ。

カイン・ラドクリフ
 年齢:22歳(リオとの出会いは16歳)。
   外見:黒髪+琥珀色の瞳、精悍な顔立ち。
   背が高くがっしりした体格。
 性格:寡黙で実務的。必要なこと以外は
   あまり話さないが、内面は情が深い。



 城の南庭は、昼下がりになると特有の匂いに包まれる。熟れきらない果実の青い香りと、陽に焼けた白い石畳の匂い。それらが風に混じり合って漂う空気が、幼いリオネルにとっては不思議と落ち着くものだった。

 その日ばかりは、胸の中が妙にざわついていた。

 侍従の姿を見失ってしまったのだ。儀礼の時間にも遅れてしまいそうで、回廊はどこも似たような造りに見え、幼い足音だけが石畳に響いてやけに大きい。

(戻らなきゃ。父上に叱られる……!)

 焦るあまり、角を曲がった瞬間、靴の踵が石の段差に引っかかった。小さな体が前に傾き、視界がぐらりと揺れる。息が詰まる。

 ――そのとき。

「危ない」

 低く、はっきりとした声とともに、腕をぐっと支える硬い感触があった。

 驚いて瞬きを繰り返すリオネルの前に立っていたのは、見慣れない青年だった。粗末ながら清潔な作業着、革の手袋。腰には工具袋。城の整備を担う者の姿。

「…あ…ありがとう」

 反射的に礼を言うと、青年は一瞬だけ目を見開き、すぐに視線を落とした。

「いえ。お怪我は?」

「大丈夫。ええと、君は――」

 青年は軽く頭を垂れる。仕える者としての礼。

「城の整備をしています。……ここは段差が多いので、お気を付けください」

 淡々としたその声は妙に落ち着かせる響きだった。目元には小さな傷跡があり、その存在が彼の精悍な顔立ちに強さを与えている。真っ直ぐ見られると、リオネルの胸の鼓動が、さっきまでの焦りとは違うもので高鳴っていった。

「君は、この辺りに詳しいの?」

「それなりには」

「じゃあ……礼拝堂へ行く道を教えてほしい。迷ってしまって」

 青年は日差しの角度を一度だけ確認し、回廊の影を指で示した。

「この先の藤棚を抜け、右へ。白い塔が見えたら左の階段です。……お連れしましょうか」

 ただの実務的な申し出なのに、その声音には奇妙な安心感があった。
 リオネルは素直に頷き、二人は並んで歩き出す。青年は決して近づきすぎず、段差があると必ず一歩先に足を運び、視線だけで危険を示す。その無言の気配りが、幼いリオネルにはひどく大人びて見えた。

「ねえ、君の名前を教えてくれない?」

 問いかけに、青年の足が一瞬止まる。

「……わ、私の名など」

「身分なんて関係ないよ。迷子を助けてくれた人の名前くらい、知りたい」

 自分でもわがままを言っているとわかっていた。けれど、幼い王子の言葉は戻せない。
 青年は小さく息を吐き、ほんのわずかに口角を和らげた。

「……カインと」

「カイン」

 名前を口にすると、その音が胸の奥で柔らかく響いた。カインはわずかに視線を逸らし、また歩き出す。長い影の中で、二人の足音が静かに重なる。

 藤棚を抜けると、花の香りが濃くなった。リオネルは思わず手を伸ばし、垂れた花房を指で掬う。淡い紫の影が掌に落ちる。
 その瞬間、上の方で不穏な軋み音。古い支柱が風に鳴ったのだろうと油断した途端、乾いた枝がぱきりと折れて落ちてきた。

「殿――!」

 呼びかける声と同時に、強い腕が肩を引き寄せる。リオネルの小さな体は青年の胸に包まれ、落ちてきた枝は片腕で払われて石畳に転がった。

 抱き寄せられた胸板は驚くほど硬く、熱い。間近で見た横顔は冷静さを保ちながらも、喉仏がかすかに上下している。すぐに距離が戻される。

「……大変失礼致しました。支柱が老朽化しているようです。すぐに直させます」

「今の……ありがとう、カイン」

 震える声でそう告げると、自分でも驚くほど頬が熱くなる。青年は深く頷くだけだったが、手袋を掴む拳が小さく握られて、また緩む――その仕草に、リオネルの視線はなぜか引き寄せられた。

「礼拝堂はもうすぐです。ここからは影が多いので足元にお気を付けて」

「うん。ねえ、また……」

 言いかけて、唇を噛む。
 ――また会える?
 そんな言葉は王子として軽々しく口にできない。

 だから、幼い逃げ道を選ぶ。

「また……道を教えてくれる?」

 カインはほんの一瞬、目を細めた。笑ったのかどうか、判別できないほど微かな変化。

「必要であれば、いつでも」

 礼拝堂の白い塔が視界に映る。鐘が二度、風に揺れた。
 階段の手前で立ち止まり、リオネルはもう一度だけ振り返る。カインは深く礼をした。所作は完璧で、距離は正しい。それでも――幼い胸には、先ほど抱き寄せられた感触だけが鮮明に刻まれていた。

(カイン。名前、覚えたよ)

 礼拝堂の扉は重く、冷たい。閉まる直前、小さく呟く。

「助けてくれて、ありがとう」

 外に残った光の匂いと、青年の名。そのすべてが、リオネルの耳の奥に長く残り続けた。
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