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第2話 再会、そして
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6年という時は、少年の輪郭を確かに塗り替える。
16歳のリオネル・エルディアンは、王族としての務めが日常になりつつあった。朝は書記官と書簡を捌き、昼は来賓と挨拶を交わし、夕刻には教育係と政務の予習をする。衣は軽やかに見えて、その下で背負うものは着実に重くなっている。
今日の謁見の間は、さらに凛とした緊張に満ちていた。高窓から差す光が金糸の装飾を鈍く照らし、赤い絨毯の毛足に視線を吸い込ませる。両脇には黒の近衛服が整然と並び、磨かれた剣金具が呼吸するたびに微かに鳴った。
式次第を告げる書記官の声が、ゆっくりと空間を縫っていく。
「――次、近衛より拝命の儀。新任専属護衛、前へ」
その言葉に合わせて、列の一角がわずかに動いた。
リオネルの視線が、その動きに自然と吸い寄せられる。
(……あの背の線。あの立ち方――)
黒靴が一歩、赤い絨毯の中心へ。磨き抜かれた革が石床に触れる音は、静謐の中でやけに鮮明だった。青年は人々の視線に微塵も揺らがず、すっと片膝をつく。深く頭を垂れ、完璧な礼を形にする。
呼びかけたくなる衝動が喉までせり上がった――いや、今は公務の最中だ。
リオネルは唇を結ぶ。呼べない。今は王子である自分を優先しなければならない。
「――専属護衛隊、カイン・ラドクリフ。本日より、殿下の護衛を務めさせていただきます」
低く張りのある声が、謁見の間を等しく満たした。その名の響きが、胸の奥の古い扉を無造作に開けてしまう。
6年前の庭。支えられた腕の感触。
名を尋ね、初めて呼んだ――カインという名。
鼓動がひとつ、跳ねる。
「……顔を上げてくれ、カイン」
促すと、琥珀色の瞳が真っ直ぐにこちらを映した。
幼い日の柔らかさの名残は、鋼に研がれて奥へ沈み、騎士としての冷静が表に出ている。同じはずの瞳が、違う温度で胸を射抜く。
「久しいな。覚えているか?」
問うた瞬間、我ながら幼いと感じる。それでも、問わずにいられなかった。
「……もちろんです、殿下」
形式の内に置かれた答え。
リオネルにはわかった。
あの日、自分が彼の名を呼んだ瞬間――その記憶は、彼の中でも確かに色を失っていない。
式は滞りなく進み、終わりの合図とともに重い扉が開く。
公務の列が静かに流れ出し、リオネルも歩を進めた。背後に寄り添う気配が、ごく自然に歩調を合わせてくる。
回廊に出ると、光と影が床に細長い縞をつくっていた。人目が一段薄くなる曲がり角で、リオネルはほんの少しだけ速度を落とす。
「……本当に、覚えてる?」
横顔を向けずに落とした問い。
カインの視線が一瞬だけこちらへ流れ、すぐに前へ戻る。口元が、ごく僅かに――ほんの息ひとつ分だけ、緩んだ気がした。
「忘れるはずがありません。殿下から、名を尋ねられた日のことを」
名を尋ねた日――。
胸の中の古い光景が、色を増して蘇る。
言葉を重ねたくなるのを堪えて、リオネルはこくりと小さく頷いた。
カインは半歩ぶん前へ出る。視線で廊下の先を掃き、柱の陰や扉の継ぎ目に意識を走らせる。右手は自然に剣の柄へ――触れてはいない。ただ、そこにあるという事実を確かめるように。
「これよりは、常にお側に控えます。どの場でも、先に危険を見つけます。殿下の歩幅に、私が合わせます」
淡々とした言い方なのに、なぜだろう。
「歩幅に合わせる」という一言が、胸のやわらかなところに静かに届いた。
「……頼りにしてるね」
素直に落ちた声は、16歳の今の自分のものだ。
そのとき、曲がり角の向こうから書類を抱えた侍従が慌ただしく現れた。視線が散っていて危ない――そう判断したのだろう。カインは一瞬で位置を取り、無言のまま右手を挙げて制し、左手でリオネルの肘を触れない程度に導いた。ほんの数寸の距離感。
「失礼!」
侍従が気づいて身を引く。何事もなかったかのように空気が戻る。
わずかにずれた袖口が、風で触れ合った。
リオネルはその微かな触感だけで、胸の奥の温度が上がるのを自覚する。
「殿下は中央をお進みください。影の多い箇所は足元が見えづらい」
「うん」
10歳の頃、藤棚の下で引き寄せられた記憶が、ふと重なる――抱き寄せられた胸板の硬さ、熱。あのときとは違って、今は肩が触れない距離がきちんと保たれている。
(守ってくれるのは嬉しい。でも……)
続く言葉は喉でほどけ、形にならない。
立場と礼節が、簡単には許さないのだ。
王族用の回廊に入る手前で、カインが視線を落として言った。
「本務においては、私は殿下の前に出ます。非常の際には――許しなくとも、触れます」
その「触れる」は、ただの職務上の接触を示す言葉だ。
それでもリオネルの心は、ほんのわずかに沈み、そしてまた浮いた。
非常の際には。
あの庭の午後も、きっと「非常」だったのだと、今さらのように理解する。
「……うん、任せる。僕は、君を信じる」
まっすぐに告げると、カインの睫毛が微かに震えた。
すぐに整った無表情へ戻るが、その一瞬で充分だった。
「拝命の名にかけて――殿下は、私が守ります」
誓いの言葉に、わずかに独占の音色が混じった気がしたのは、きっと気のせいではない。
胸の奥で、目に見えない糸が静かに結び直される感覚がした。
16歳のリオネル・エルディアンは、王族としての務めが日常になりつつあった。朝は書記官と書簡を捌き、昼は来賓と挨拶を交わし、夕刻には教育係と政務の予習をする。衣は軽やかに見えて、その下で背負うものは着実に重くなっている。
今日の謁見の間は、さらに凛とした緊張に満ちていた。高窓から差す光が金糸の装飾を鈍く照らし、赤い絨毯の毛足に視線を吸い込ませる。両脇には黒の近衛服が整然と並び、磨かれた剣金具が呼吸するたびに微かに鳴った。
式次第を告げる書記官の声が、ゆっくりと空間を縫っていく。
「――次、近衛より拝命の儀。新任専属護衛、前へ」
その言葉に合わせて、列の一角がわずかに動いた。
リオネルの視線が、その動きに自然と吸い寄せられる。
(……あの背の線。あの立ち方――)
黒靴が一歩、赤い絨毯の中心へ。磨き抜かれた革が石床に触れる音は、静謐の中でやけに鮮明だった。青年は人々の視線に微塵も揺らがず、すっと片膝をつく。深く頭を垂れ、完璧な礼を形にする。
呼びかけたくなる衝動が喉までせり上がった――いや、今は公務の最中だ。
リオネルは唇を結ぶ。呼べない。今は王子である自分を優先しなければならない。
「――専属護衛隊、カイン・ラドクリフ。本日より、殿下の護衛を務めさせていただきます」
低く張りのある声が、謁見の間を等しく満たした。その名の響きが、胸の奥の古い扉を無造作に開けてしまう。
6年前の庭。支えられた腕の感触。
名を尋ね、初めて呼んだ――カインという名。
鼓動がひとつ、跳ねる。
「……顔を上げてくれ、カイン」
促すと、琥珀色の瞳が真っ直ぐにこちらを映した。
幼い日の柔らかさの名残は、鋼に研がれて奥へ沈み、騎士としての冷静が表に出ている。同じはずの瞳が、違う温度で胸を射抜く。
「久しいな。覚えているか?」
問うた瞬間、我ながら幼いと感じる。それでも、問わずにいられなかった。
「……もちろんです、殿下」
形式の内に置かれた答え。
リオネルにはわかった。
あの日、自分が彼の名を呼んだ瞬間――その記憶は、彼の中でも確かに色を失っていない。
式は滞りなく進み、終わりの合図とともに重い扉が開く。
公務の列が静かに流れ出し、リオネルも歩を進めた。背後に寄り添う気配が、ごく自然に歩調を合わせてくる。
回廊に出ると、光と影が床に細長い縞をつくっていた。人目が一段薄くなる曲がり角で、リオネルはほんの少しだけ速度を落とす。
「……本当に、覚えてる?」
横顔を向けずに落とした問い。
カインの視線が一瞬だけこちらへ流れ、すぐに前へ戻る。口元が、ごく僅かに――ほんの息ひとつ分だけ、緩んだ気がした。
「忘れるはずがありません。殿下から、名を尋ねられた日のことを」
名を尋ねた日――。
胸の中の古い光景が、色を増して蘇る。
言葉を重ねたくなるのを堪えて、リオネルはこくりと小さく頷いた。
カインは半歩ぶん前へ出る。視線で廊下の先を掃き、柱の陰や扉の継ぎ目に意識を走らせる。右手は自然に剣の柄へ――触れてはいない。ただ、そこにあるという事実を確かめるように。
「これよりは、常にお側に控えます。どの場でも、先に危険を見つけます。殿下の歩幅に、私が合わせます」
淡々とした言い方なのに、なぜだろう。
「歩幅に合わせる」という一言が、胸のやわらかなところに静かに届いた。
「……頼りにしてるね」
素直に落ちた声は、16歳の今の自分のものだ。
そのとき、曲がり角の向こうから書類を抱えた侍従が慌ただしく現れた。視線が散っていて危ない――そう判断したのだろう。カインは一瞬で位置を取り、無言のまま右手を挙げて制し、左手でリオネルの肘を触れない程度に導いた。ほんの数寸の距離感。
「失礼!」
侍従が気づいて身を引く。何事もなかったかのように空気が戻る。
わずかにずれた袖口が、風で触れ合った。
リオネルはその微かな触感だけで、胸の奥の温度が上がるのを自覚する。
「殿下は中央をお進みください。影の多い箇所は足元が見えづらい」
「うん」
10歳の頃、藤棚の下で引き寄せられた記憶が、ふと重なる――抱き寄せられた胸板の硬さ、熱。あのときとは違って、今は肩が触れない距離がきちんと保たれている。
(守ってくれるのは嬉しい。でも……)
続く言葉は喉でほどけ、形にならない。
立場と礼節が、簡単には許さないのだ。
王族用の回廊に入る手前で、カインが視線を落として言った。
「本務においては、私は殿下の前に出ます。非常の際には――許しなくとも、触れます」
その「触れる」は、ただの職務上の接触を示す言葉だ。
それでもリオネルの心は、ほんのわずかに沈み、そしてまた浮いた。
非常の際には。
あの庭の午後も、きっと「非常」だったのだと、今さらのように理解する。
「……うん、任せる。僕は、君を信じる」
まっすぐに告げると、カインの睫毛が微かに震えた。
すぐに整った無表情へ戻るが、その一瞬で充分だった。
「拝命の名にかけて――殿下は、私が守ります」
誓いの言葉に、わずかに独占の音色が混じった気がしたのは、きっと気のせいではない。
胸の奥で、目に見えない糸が静かに結び直される感覚がした。
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