もう一度、その腕に

結衣可

文字の大きさ
2 / 10

第2話 再会、そして

しおりを挟む
 6年という時は、少年の輪郭を確かに塗り替える。
 16歳のリオネル・エルディアンは、王族としての務めが日常になりつつあった。朝は書記官と書簡を捌き、昼は来賓と挨拶を交わし、夕刻には教育係と政務の予習をする。衣は軽やかに見えて、その下で背負うものは着実に重くなっている。

 今日の謁見の間は、さらに凛とした緊張に満ちていた。高窓から差す光が金糸の装飾を鈍く照らし、赤い絨毯の毛足に視線を吸い込ませる。両脇には黒の近衛服が整然と並び、磨かれた剣金具が呼吸するたびに微かに鳴った。

 式次第を告げる書記官の声が、ゆっくりと空間を縫っていく。
「――次、近衛より拝命の儀。新任専属護衛、前へ」

 その言葉に合わせて、列の一角がわずかに動いた。
 リオネルの視線が、その動きに自然と吸い寄せられる。

(……あの背の線。あの立ち方――)

 黒靴が一歩、赤い絨毯の中心へ。磨き抜かれた革が石床に触れる音は、静謐の中でやけに鮮明だった。青年は人々の視線に微塵も揺らがず、すっと片膝をつく。深く頭を垂れ、完璧な礼を形にする。

 呼びかけたくなる衝動が喉までせり上がった――いや、今は公務の最中だ。
 リオネルは唇を結ぶ。呼べない。今は王子である自分を優先しなければならない。

「――専属護衛隊、カイン・ラドクリフ。本日より、殿下の護衛を務めさせていただきます」

 低く張りのある声が、謁見の間を等しく満たした。その名の響きが、胸の奥の古い扉を無造作に開けてしまう。

 6年前の庭。支えられた腕の感触。
 名を尋ね、初めて呼んだ――カインという名。

 鼓動がひとつ、跳ねる。

「……顔を上げてくれ、カイン」

 促すと、琥珀色の瞳が真っ直ぐにこちらを映した。
 幼い日の柔らかさの名残は、鋼に研がれて奥へ沈み、騎士としての冷静が表に出ている。同じはずの瞳が、違う温度で胸を射抜く。

「久しいな。覚えているか?」

 問うた瞬間、我ながら幼いと感じる。それでも、問わずにいられなかった。

「……もちろんです、殿下」

 形式の内に置かれた答え。
 リオネルにはわかった。
 あの日、自分が彼の名を呼んだ瞬間――その記憶は、彼の中でも確かに色を失っていない。

 式は滞りなく進み、終わりの合図とともに重い扉が開く。
 公務の列が静かに流れ出し、リオネルも歩を進めた。背後に寄り添う気配が、ごく自然に歩調を合わせてくる。

 回廊に出ると、光と影が床に細長い縞をつくっていた。人目が一段薄くなる曲がり角で、リオネルはほんの少しだけ速度を落とす。

「……本当に、覚えてる?」

 横顔を向けずに落とした問い。
 カインの視線が一瞬だけこちらへ流れ、すぐに前へ戻る。口元が、ごく僅かに――ほんの息ひとつ分だけ、緩んだ気がした。

「忘れるはずがありません。殿下から、名を尋ねられた日のことを」

 名を尋ねた日――。
 胸の中の古い光景が、色を増して蘇る。
 言葉を重ねたくなるのを堪えて、リオネルはこくりと小さく頷いた。

 カインは半歩ぶん前へ出る。視線で廊下の先を掃き、柱の陰や扉の継ぎ目に意識を走らせる。右手は自然に剣の柄へ――触れてはいない。ただ、そこにあるという事実を確かめるように。

「これよりは、常にお側に控えます。どの場でも、先に危険を見つけます。殿下の歩幅に、私が合わせます」

 淡々とした言い方なのに、なぜだろう。
 「歩幅に合わせる」という一言が、胸のやわらかなところに静かに届いた。

「……頼りにしてるね」

 素直に落ちた声は、16歳の今の自分のものだ。
 そのとき、曲がり角の向こうから書類を抱えた侍従が慌ただしく現れた。視線が散っていて危ない――そう判断したのだろう。カインは一瞬で位置を取り、無言のまま右手を挙げて制し、左手でリオネルの肘を触れない程度に導いた。ほんの数寸の距離感。

「失礼!」

 侍従が気づいて身を引く。何事もなかったかのように空気が戻る。
 わずかにずれた袖口が、風で触れ合った。
 リオネルはその微かな触感だけで、胸の奥の温度が上がるのを自覚する。

「殿下は中央をお進みください。影の多い箇所は足元が見えづらい」

「うん」

 10歳の頃、藤棚の下で引き寄せられた記憶が、ふと重なる――抱き寄せられた胸板の硬さ、熱。あのときとは違って、今は肩が触れない距離がきちんと保たれている。

(守ってくれるのは嬉しい。でも……)

 続く言葉は喉でほどけ、形にならない。
 立場と礼節が、簡単には許さないのだ。

 王族用の回廊に入る手前で、カインが視線を落として言った。

「本務においては、私は殿下の前に出ます。非常の際には――許しなくとも、触れます」

 その「触れる」は、ただの職務上の接触を示す言葉だ。
 それでもリオネルの心は、ほんのわずかに沈み、そしてまた浮いた。
 非常の際には。
 あの庭の午後も、きっと「非常」だったのだと、今さらのように理解する。

「……うん、任せる。僕は、君を信じる」

 まっすぐに告げると、カインの睫毛が微かに震えた。
 すぐに整った無表情へ戻るが、その一瞬で充分だった。

「拝命の名にかけて――殿下は、私が守ります」

 誓いの言葉に、わずかに独占の音色が混じった気がしたのは、きっと気のせいではない。
 胸の奥で、目に見えない糸が静かに結び直される感覚がした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【BL】無償の愛と愛を知らない僕。

ありま氷炎
BL
何かしないと、人は僕を愛してくれない。 それが嫌で、僕は家を飛び出した。 僕を拾ってくれた人は、何も言わず家に置いてくれた。 両親が迎えにきて、仕方なく家に帰った。 それから十数年後、僕は彼と再会した。

美澄の顔には抗えない。

米奏よぞら
BL
スパダリ美形攻め×流され面食い受け 高校時代に一目惚れした相手と勢いで付き合ったはいいものの、徐々に相手の熱が冷めていっていることに限界を感じた主人公のお話です。 ※なろう、カクヨムでも掲載中です。

末っ子王子は婚約者の愛を信じられない。

めちゅう
BL
 末っ子王子のフランは兄であるカイゼンとその伴侶であるトーマの結婚式で涙を流すトーマ付きの騎士アズランを目にする。密かに慕っていたアズランがトーマに失恋したと思いー。 お読みくださりありがとうございます。

片思いの練習台にされていると思っていたら、自分が本命でした

みゅー
BL
オニキスは幼馴染みに思いを寄せていたが、相手には好きな人がいると知り、更に告白の練習台をお願いされ……と言うお話。 今後ハリーsideを書く予定 気がついたら自分は悪役令嬢だったのにヒロインざまぁしちゃいましたのスピンオフです。 サイデュームの宝石シリーズ番外編なので、今後そのキャラクターが少し関与してきます。 ハリーsideの最後の賭けの部分が変だったので少し改稿しました。

契約結婚だけど大好きです!

泉あけの
BL
子爵令息のイヴ・ランヌは伯爵ベルナール・オルレイアンに恋をしている。 そんな中、子爵である父からオルレイアン伯爵から求婚書が届いていると言われた。 片思いをしていたイヴは憧れのベルナール様が求婚をしてくれたと大喜び。 しかしこの結婚は両家の利害が一致した契約結婚だった。 イヴは恋心が暴走してベルナール様に迷惑がかからないようにと距離を取ることに決めた。 ...... 「俺と一緒に散歩に行かないか、綺麗な花が庭園に咲いているんだ」  彼はそう言って僕に手を差し伸べてくれた。 「すみません。僕はこれから用事があるので」  本当はベルナール様の手を取ってしまいたい。でも我慢しなくちゃ。この想いに蓋をしなくては。  この結婚は契約だ。僕がどんなに彼を好きでも僕達が通じ合うことはないのだから。 ※小説家になろうにも掲載しております ※直接的な表現ではありませんが、「初夜」という単語がたびたび登場します

追放されたおまけの聖女♂は冷徹王太子の腕の中から離してもらえない〜今さら戻れと言われても、もうこの人の魔力しか受け付けません!〜

たら昆布
BL
聖女のおまけで召喚されたと思われて追放された不憫受けが拾われて愛される話

聖獣召喚に巻き込まれた俺、モフモフの通訳をしてたら冷徹騎士団長に外堀を埋められました

たら昆布
BL
完璧っぽいエリート騎士×無自覚な愛され系

処理中です...